アルトシュタット奇譚

静谷悠

一章

  たれぞ、この夜遅く

  風裂き馬を駆りゆくは?  ――ゲーテ





 闇が渦巻く天はくらく、小道は霧に取り巻かれ、明かりは半ば顔を隠した月独り。かような夜には地元の者すら迷いかねぬが、あいにく私は夜にこそこの道を辿たどるに慣れていた。数知れぬ夜更けの帰途、怪異に遭ったことも一度ではない。一歩大地を踏むごとに濡れ敷く落ち葉が絡みつき、霜の精の背骨が折れひしぐ。捻れたとねりこの木が張り出す角を曲がり、川辺へと続く砂利の坂道を下りきったとき、小鐘のごとき響きを立てて何物か、楕円に輝くものが我が足に当たり、小石の間に転がった。


 坂の上から転がり落ちて来たようだ。盗人の財布を逃れ出た一枚の金貨か。しかし否、皇帝たる男の尊大な鷲鼻が見えぬ。尾のごとく引きずったか細い鎖。心得てもう一瞥を投げれば、夜目にもまばゆい金細工のメダリオンであった。


 そこまで見て取ったとき、まさにその落とし主と見える小さい人影が、白き霧のうすぎぬを裂いて闇の狭間に走り来った。頬に縮れた淡黄の髪を、身には粗末な毛布を翻した少年、眼は恐怖に見開かれ、後ろを振り返りつつ一散に駆ける。追いはぎに追われているのか、もしくは悪魔にでも。避ける間もなく外套の上に子供はぶつかり、かろく転倒した。


 助け起こそうとした手を逃れ、子供は後退あとじさる。喘ぐ口。 吐かれるは息の音のみ。あるいは喉をつぶされているのか。


「何を怖がっている。追われているのか」


 毛布の下の手が白い。少年奴隷ならば寝室用か、それとも捕らわれたばかりなのか。しかし奴隷とは見えぬ。ただ恐怖に溢れている。鞭を知るものの恐怖ではない。

 子供の怯えたまなざしが、ひとたびまともにこちらに向けられ、見知ったものを見るごとくに瞬いた。月光の下にも柔らかな唇が動き、一言というか半言というか、くびられんとする小鳥のごとき不明瞭なつぶやきを発した。


 旦那様マイン・ヘア……と云ったようにも聞こえた。


「異なことを。お前の主人は別にあろう。お前を追ってくるものがそうではないのか」

 しかし、少年は怯えたように首を振るのみ、何の意味ある言葉ももはやもたらさぬ。

 遠く、天空に反響して、澄んだ振動が伝わってきた。 と、子供は私の手を振り払い、霧の中へと駆け出した。 軽い足音はまろびつつ遠ざかり、今やそれと明白になったひづめの響きが、風を圧して隘路あいろを駆け下って来ようとしていた。

 路上には、先ほどのメダリオンが硬く冷たく光っている。さながら凍てつきし月のひとしずく。金の鎖は小鬼の手になる狼の戒め、女の髭と猫の足音から出来たそれにも似てか細い。拾い上げようと腰をかがめると、人の肌を知るかのようななれなれしさで指にからみついた。

 身を起こしたとき、霧滴らせて一頭の、夜よりか黒き馬が姿を現し、地響き立てて砂利道に停止した。騎乗するは黒衣の男、襟から覗く横顔のみ象牙のごとき白。霜の巨人が持つと聞く氷の鞭の声で問う。


「見たか、子供を」


 おぼろな視界にもかかわらず、その眼だけが黒く切り抜かれて見える。さながら血の光沢を持つ硬玉。声は低くかつ深く、暗き色した葡萄酒のよう。喉の奥に燃えるような味の記憶を呼び覚ました。別の言葉で恐怖ともいう。私は笑んだ。


「子供か。見たとも、幽霊すだまでなければ。悪魔に追われているかと見たが、追っているのは死神だったか」

「無用なれ句を。どちらへ行った」


 川辺へと向かう道を指さす。どのみち他に逃げ場もないことは明白。かの者の落とししメダリオンを持つのと同じ方の手であったが、男は何の注意も払わず、 馬の腹にひと蹴りくれると、夜風のごとく走り去った。

 金の円盤を隠しに滑り込ませ、私は歩き出した。さして珍しくもないこと。古き都アルトシュタットの夜道には、あらゆることが起こり得る。特にこんな闇多く霧深き夜は。夢馬にまたがる死神がひとりの子供を狩ったとて、都の眠りが乱されようか。

 されどあの男に見覚えありと感じたのは思い込みの所業であったか。そしてこのメダリオンのきらめきに、 遠き思いのうごめくのを感じたは気の迷いであったか?

 滑らかな金属の表面を指でなぞっているうち、いつか縁の鋭さに皮膚を傷めた。血の味は塩と鉄錆、いかにも美味とは云いがたい。

 背後、もはやかの坂道は灰色の霧に沈み、蹄鉄の響きも夜の深みに吸い取られてしまっていたが、霜に打ちしおれた麦畑の小道を行くとき彼方に甲高き悲鳴を聞いた。空耳だったかも知れぬ、か弱き獲物が捕らえられ、鞍の後ろに生贄を据えた黒馬が再び通るのを期待したゆえ。再び夜をまとったかの騎手と面合わせ、水鏡のごとき平静な顔に悪罵の一つも投げつけてやりたいという誘惑は強かった。立ち止まり、耳を澄ませたが、しかし男は通らず夜が更けてゆくばかり。

 霧に濡れたためばかりとも云えぬ寒さに身を打ち震わせながら、私は僧院を目指した。

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