第8話 用具室の密室、あるいは高跳びマットの上の熱帯夜

重たい鉄の扉を押し開けると、そこには古びたゴムと埃の匂いが充満していた。

 体育館の裏にある用具室。

 跳び箱やライン引きの石灰袋が乱雑に積まれたその場所は、大人が二人入ればやっとという狭さだった。

 俺と九条は、逃げ込むように中に入った。

 背後で扉を閉め、内鍵をかける。

 カチャリ、という金属音が、世界と俺たちを隔てる最後の合図のように響いた。

「……暗いな」

「いいの。……見えないほうが、大胆になれるから」

 九条の声が、暗闇の中で甘く反響する。

 目はすぐに慣れた。

 高い位置にある明かり取りの窓から、月光が一条だけ差し込んでいる。

 その蒼白い光が照らし出したのは、部屋の隅に立てかけられた、分厚い高跳び用のマットだった。

 言葉は要らなかった。

 俺たちは引き寄せられるようにそこへ向かい、倒れ込むようにしてマットの上に滑り落ちた。

「……早く」

 九条が切羽詰まった声で囁く。

 ジジッ、というファスナーを下ろす音が、静寂の中でやけに大きく聞こえた。

 彼女は躊躇なくジャージの上着を脱ぎ捨てると、Tシャツ一枚の姿になった。

 白い肌が月光を弾いて、眩しいほどに浮き上がって見える。

「あなたも……邪魔なものは、いらない」

 彼女の氷のような指先が、俺の体操着の裾を掴んだ。

 俺も観念して上着を脱ぐ。

 上半身が互いに薄着になり、遮るものがなくなった瞬間、九条が俺に覆いかぶさってきた。

「……っ、冷た……!」

「……あったかい……っ」

 悲鳴のような俺の声と、安堵に満ちた彼女の声が重なる。

 彼女の柔らかな胸が、冷たい皮膚を介して俺の胸板に押し付けられた。

 広いマットの上で、俺たちは一本の紐が絡まるように密着する。

 彼女の手足が、俺の身体に巻き付いてきた。

 冷え切った太腿が俺の腰を挟み込み、凍えた足先が俺のふくらはぎを擦る。

 まるで、俺の生命力を直接吸い上げようとするかのような貪欲さだ。

「……もっと、強く抱いて。……隙間があったら、寒気が入ってくる」

 彼女が俺の首筋に顔を埋め、懇願する。

 俺は彼女の背中に腕を回し、肋骨がきしむほどの強さで抱き寄せた。

 素肌と素肌が擦れ合う感触。

 彼女の鼓動が、俺の胸を直接ノックしているかのように伝わってくる。

 次第に、彼女の身体から冷たさが引いていく。

 代わりに生まれるのは、二人分の体温が混じり合った、じっとりとした熱気だ。

 狭い用具室の空気が、俺たちの熱で飽和していく。

 彼女が顔を上げた。

 月明かりの下、至近距離で目が合う。

 瞳が潤み、頬は上気し、唇は半開きになっている。

 それはもう、ただ「温まりたい」だけの顔ではなかった。

「……ねえ」

 彼女の指先が、俺の胸の中央をゆっくりとなぞる。

「温まったら、今度は熱すぎて……おかしくなりそう」

 吐息交じりの声が、理性を揺さぶる。

 彼女の腰が、無意識なのか、それとも意図的なのか、俺の腰の上で小さく揺れた。

 衣服越しの摩擦。

 下腹部に走る電流のような刺激に、俺は思わず息を呑む。

「九条、それ以上動くと……」

「……どうなるの?」

 彼女は挑発するように、さらに身体を押し付けてくる。

 その瞳には、共犯者特有の昏い光が宿っていた。

 外では虫の声が響いている。

 数十メートル先には教師や生徒たちがいる。

 その背徳感が、この熱をさらに加速させていた。

「……心臓、すごい音」

 彼女が俺の胸に耳を当てて、くすりと笑う。

 そして、猫が獲物に噛み付くように、俺の鎖骨のあたりに唇を落とした。

 ちゅ、という水音が、密室に響く。

「……内緒よ? ここでしたこと、全部」

 彼女の唇が首筋を這い上がり、耳元へと到達する。

 俺たちは、どちらからともなく、再び深く抱き合った。

 朝が来るまで、この熱帯夜が終わらないことを願いながら。

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