第7話 男女別棟の結界と、星空の下の密会

夏休み前の恒例行事、二泊三日の林間学校。

 標高千メートルの高原は、下界の猛暑が嘘のように涼しく、夜になれば肌寒ささえ感じる別天地だ。

 バスから降り立った生徒たちが「涼しー!」とはしゃぐ中、俺の視線は自然と九条冬華を探していた。

 クラスの列の少し離れた場所。

 彼女はリュックを抱え、少し青ざめた顔で周囲を見渡している。

 その視線が俺と絡む。

 一瞬のアイコンタクト。けれど、そこに込められたメッセージは痛いほど伝わってきた。

 ――『夜、どうするの?』

 そう。今回の最大の敵は「男女別」という鉄の掟だ。

 宿舎は男子棟と女子棟に完全に分かれており、その間には教師という名の番人が立っている。

 いつものように、隣の部屋からふらりと訪ねてくることなど不可能なのだ。

 †

 夕食とキャンプファイヤーを終え、消灯時間の二十二時。

 男子部屋の広間では、枕投げこそ起きなかったものの、田中たちが恋バナで盛り上がっていた。

「でさ、九条さんだよ。あいつマジでガード固いよな」

「わかる。氷の令嬢だもんなぁ。見てるだけで凍りそう」

 友人たちの勝手な評価を聞きながら、俺は布団の中で溜息をつく。

 お前らは知らないだけだ。

 あの氷が溶けた時、どれほど熱くて、甘くて、とろとろになるのかを。

 その時、枕の下に隠していたスマートフォンが短く震えた。

 画面の光を最小にして確認する。

 通知は一件。九条からだ。

『……限界』

『死にそう』

 短いメッセージと共に送られてきたのは、真っ暗な背景に、震えている自分の指先だけが写った写真。

 高原の夜は、冷え性の彼女にとっては冬山遭難と同じなのだろう。

 俺は覚悟を決めて、寝袋から這い出した。

「……ちょっとトイレ行ってくる」

「おう、教師に見つかるなよー」

 田中の声を背に、俺は廊下へと出る。

 床板が軋む音に心臓を縮み上がらせながら、裏口の鍵を静かに開けた。

 外気は想像以上に冷たかった。

 半袖の体操着では腕に鳥肌が立つほどだ。

 虫の声だけが響く暗闇の中、指定された場所――体育館裏の資材置き場へと急ぐ。

 角を曲がった瞬間。

 暗がりの中に、小さくうずくまる影を見つけた。

 ジャージの上からブランケットを巻き付け、膝を抱えている九条冬華だ。

「……九条」

 小声で名を呼ぶと、彼女が弾かれたように顔を上げた。

 月明かりに照らされたその顔は、幽霊のように白く、唇は紫色に震えている。

「……遅い」

 文句を言う気力すらないのか、彼女はよろめきながら立ち上がると、倒れ込むように俺に突進してきた。

 ドサッ、と重みが掛かる。

 俺は慌てて彼女を抱き留め――そして絶句した。

「冷たっ……!」

 まるで氷柱を抱いたかのようだった。

 ジャージ越しでも、彼女の身体が芯まで冷え切っているのがわかる。

 これまでの夜とは比較にならない緊急事態だ。

「……もう、無理。感覚ない……」

 彼女が俺の背中に腕を回し、爪が食い込むほど強くしがみついてくる。

 俺の体温を、一滴残らず吸い尽くそうとするような必死さ。

 俺も彼女を強く抱き締め返し、背中を大きくさすって摩擦熱を送る。

「ごめん、見つからないように手間取って……」

「いいから……もっと。温めて」

 彼女の手が、俺の体操着の裾をまくり上げ、直接背中の素肌に触れてきた。

 氷のような指先が触れた瞬間、背筋が大きく跳ねる。

 だが、拒絶することはできなかった。

 彼女が生きるために、俺の熱を必要としていることが痛いほど伝わってくるからだ。

「……んぅ……」

 俺の首筋に顔を埋め、彼女が深い呼吸を繰り返す。

 俺の体温が彼女に移っていくにつれ、ガチガチと震えていた彼女の身体が、少しずつ弛緩していくのがわかった。

 星空の下、資材置き場の裏。

 誰かに見つかれば即停学の状況。

 けれど、互いの心臓の音が重なるこの瞬間、世界には俺たち二人しかいないように感じられた。

「……ねえ」

 十分ほど抱き合っていただろうか。

 ようやく人肌の温もりを取り戻した彼女が、俺の胸元で顔を上げずに呟いた。

「これじゃ、足りない」

「え?」

「ジャージ、邪魔。……肌と肌じゃないと、効率悪い」

 彼女は俺から少し身体を離すと、自分のジャージのファスナーに手を掛けた。

 ジジッ、と静寂を切り裂く音が響く。

「……ちょっと、ここで脱ぐ気か!?」

「だって、部屋に戻ったらまた冷えちゃう」

 彼女は潤んだ瞳で俺を見上げ、とんでもない提案を口にした。

「あっちに、体育館の用具室……鍵、開いてたわよ」

 それは、ただの暖を取る行為を超えた、もっと深い闇への誘いだった。

 林間学校の夜は、まだ始まったばかりだ。

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