第2話
知らない村で、知らない男の“妻”になるなんて――。
そんな未来を、王宮で誰ひとりとして教えてはくれなかった。
* * *
ユリウスの背に揺られながら、私は森を抜けた。
木々の切れ目から、ぽつりぽつりと家々の屋根が見えてくる。
石を積んだ低い塀、枯れ草色の屋根、煙突から昇る薄い煙。
王都の整えられた街並みとはまるで違う、素朴で小さな村だった。
「……着いた。降りるぞ」
ユリウスがそう言って膝を折る。
私はおそるおそる背中から降り、まだ少し痛む足首に体重をかけてみた。
「っ……」
「無茶はするなと言ったはずだ」
低く呆れた声が落ちてくる。
それでも、さっきよりは痛みがましになっている気がした。
「ここが……あなたの村、ですか?」
「そうだ。ハルト村。王都から見れば辺境も辺境だ」
村の入口には、簡素な木の柵があるだけで、門らしい門もない。
その代わり、畑仕事をしていたのであろう人たちが、物珍しそうにこちらを見ていた。
「ユリウス、どうしたんだい、その娘さん」
「怪我人か? 森の魔獣かと思ったぞ」
年配の女性や、日焼けした男たち。
その視線に、私は思わず身を縮めた。
王宮で浴びてきた、好奇と軽蔑の入り混じった視線が頭をよぎる。
「聖女のくせに」「王女なのに役に立たない」――
そんなささやきが、まだ耳の奥にこびりついて離れない。
「森で転んで足をひねった旅人だ。村長のところへ連れていく」
ユリウスは必要最低限の説明だけをして、私の前に立つように一歩進み出た。
その背中が、意図せず盾のように私を隠してくれている。
「旅人さんかい。寒かったろうに……」
「あとでスープでも持っていくよ」
村人たちの声は、思っていたより柔らかかった。
好奇心はあっても、そこに敵意は感じない。
(……王都とは、違うのね)
少しだけ、張りつめていた肩の力が抜けていく。
村の中心には、小さな広場と、なだらかな坂道の上に石造りの家がひとつ。
ユリウスはそこに迷いなく向かっていく。
「村長、いるか」
扉を叩くと、中から低い咳払いの音が聞こえ、やがて年配の男性が顔を出した。
白い髭をきれいに整えた、穏やかな瞳の老人だ。
「なんだユリウス、昼間から珍しい。……おや?」
村長の視線が、私の足元から顔までを一通りなぞる。
咄嗟に背筋を伸ばしてしまうのは、王宮で身についた癖だろう。
「森で倒れかけていた旅人だ。足をひねっている。このままにしておくわけにもいかない。
一晩は泊めてやるつもりだが……村としても、扱いを決めておいた方がいいだろう」
「ふむ」
村長は顎に手を当て、じっと私を見つめた。
じろじろと値踏みするような視線――ではなく、体調や様子を気遣うような眼差しだった。
「名は?」
「り、リーネと申します。……ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
自然と、王宮で習った淑女の礼をしてしまう。
膝を折り、スカートの端をつまみ上げる仕草に、村長の目がわずかに丸くなった。
「ずいぶん上品な旅人さんだこと……。
ふむ、どこぞのお屋敷で働いておったのかね?」
「ええと……はい。そのようなところ、です」
まさか「実は追放された王女です」とは言えない。
私の身元が知られれば、村にも迷惑が及ぶかもしれないのだから。
村長は、それ以上は深く追及しなかった。
「ユリウスの家に泊めるのは構わんが……」
そこで一度言葉を切り、ため息混じりに私たちを見比べる。
「最近、領主様のところからやたらとうるさい通達が来ておってな。
成人した男の家に、身元のはっきりしない娘を一人泊めるとなると、あれこれ言われかねんのだ」
「通達?」
ユリウスが眉をひそめる。
「なんだ、またくだらない決まりでも増えたのか」
「くだらないと言えばくだらないが……。
『未婚の男女が同居する場合は、親族か、婚姻契約を結んだ者のみと認める』とかなんとか。
貴族様は、田舎の事情なんぞご存じないからのう」
村長の苦笑に、ユリウスの機嫌がさらに悪くなったのが分かった。
「つまり、俺の家に泊めるには、『親族か妻』ということか」
「書類上、そういうことになる」
しばし、沈黙が落ちた。
親族――そんな人はこの村にはいない。
妻――当然、いない。
ユリウスはわざとらしく顔をそむける。
「……面倒な時代になったものだ」
「まったくだ」
村長も肩をすくめる。
「だが、追い返すのも忍びない。
森の中で倒れていた娘さんを見捨てたとなれば、それこそ村の名折れよ」
「……」
二人の会話を聞きながら、私は胸の奥がひやりと冷えるのを覚えた。
(また、居場所が……ない?)
王宮でも、同じような感覚を味わった。
どこにも置いておく場所がない人間を、どこへやればいいのか分からない、という空気。
「もし、ご迷惑であれば……私は、どこか別のところを探します」
思わず口を開く。
「少しくらいなら歩けますし、仕事も……何か、お手伝いできるかもしれませんから」
王宮の庭仕事や、簡単な治療、裁縫、文字書き……。
できることを必死に思い出しながら、私は自分を売り込む。
追放された身だ。
自分から動かなければ、本当に誰にも必要とされなくなる。
けれど、村長は困ったように首を振った。
「この辺りには、宿屋と呼べるものもない。
冬も抜けきらんこの時期に、ひとりで放り出すわけにはいかんよ」
「……」
行き場のない私を前に、村長はしばし考え込むように目を閉じ――
やがて、ひとつの提案を口にした。
「……ユリウス。
お前、そろそろ身を固めてもいい年頃じゃろう?」
「は?」
「村としても、鍛冶屋は大事な仕事じゃ。
お前がいなくなったら、農具も馬具も誰も作れん。
だからこそ、ちゃんと家を構えて、支え合える相手を見つけておいてほしいと、前から言っておったろう?」
「今その話を持ち出す必要はない」
ユリウスがあからさまに顔をしかめる。
村長はそんな彼の反応に小さく笑い、
「では、こういうのはどうじゃ。
リーネ嬢を、期間限定で“仮の妻”として迎えるというのは」
と言った。
「……え?」
耳を疑った。
「仮の……妻?」
「あくまで書類上じゃよ。
領主様への届け出では『鍛冶屋ユリウス、その妻リーネ』としておけば、余計な詮索もされまい。
その代わり、村としてはリーネ嬢の寝床と食事を保証する。
怪我が治るまで、いや、本人が望むならもう少し長くいてくれてもいい」
ぽかんとしている私の隣で、ユリウスが低く抗議の声を上げた。
「勝手に話を進めるな。俺は……」
「嫌なら断っていいんだよ、ユリウス」
村長は穏やかに言った。
その目は、本気でそう思っているように見えた。
「ただ、わしはこの娘さんを、森に放り出したくはない。それだけだ」
「……」
視線が、こちらに向く。
村長の目も、ユリウスの目も。
私に「どうするか」を尋ねていた。
王宮では、そんなふうに見つめられたことはほとんどなかった。
いつも決定権は父と、側近と、王太子にあった。
私の意志は、聞かれる前から決まっているようなものだった。
――でも、今。
「リーネ、お前はどうしたい」
ユリウスの低い声が、真正面から私にぶつかってくる。
「嫌なら断れ。
村長の提案だろうと、俺だろうと、お前が嫌ならやめる」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられた。
(嫌なら、断っていい……)
そんな当たり前のことが、こんなにも新しく聞こえるなんて。
私は自分の手をぎゅっと握りしめた。
仮の妻――書類上だけの関係。
それでも、それは「ここにいていい」と言ってもらえる理由になる。
王宮から放り出された私にとって、それは、喉から手が出るほど欲しかった言葉だった。
「……私」
声が震えないよう、深く息を吸い込む。
ユリウスも、村長も、黙って待っていてくれる。
誰も、急かさない。
少しだけ、勇気を出してみた。
「もし……もし、ご迷惑でなければ。
私を、その“仮の妻”として置いていただけないでしょうか」
自分でも驚くほど素直な言葉が、口からこぼれ落ちる。
「仕事もします。家事も覚えます。
私、今度こそ……居場所を、粗末にしたくありません」
最後の一文は、ほとんど自分に向けた宣言のようだった。
沈黙。
心臓の音が、妙に大きく聞こえる。
やがて――
「……分かった」
ユリウスが、短くそう言った。
「書類上だけだ。お互い、嫌になったらいつでもやめていい。
その代わり、うちにいる間は、きちんと飯を食って、きちんと眠れ」
ぶっきらぼうな言い方。
でも、その声音の奥に、ほんの少しだけ安堵の色が混じっているのを、私は聞き逃さなかった。
村長が、ほっとしたように笑う。
「決まりじゃな。
ようこそ、リーネ。ここが、今日からお前の家だよ」
「……はい」
気づけば、視界が滲んでいた。
王宮の誰からも言われなかった言葉。
「ここが、お前の家だ」と、まっすぐに。
涙を見られたくなくて、私は慌てて俯く。
足元の土は、王宮の大理石みたいに白くも硬くもない。
少し湿っていて、靴が沈み込む。
それでも――
踏みしめたこの地面から、確かな重みと温かさが伝わってくる。
(ここで、もう一度やり直してもいいのなら)
初めてそう思えた瞬間、
胸の奥のどこかが、ふわりと軽くなった気がした。
「ここが、私の居場所になりますように」
心の中でそっと願う。
そのささやかな祈りだけは、きっと誰にも取り上げられない。
そして私は、ユリウスと並んで、小さな村の一角――
これから“家”と呼ぶことになる場所へ、一歩を踏み出した。
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