『「妻とは別れる」と言った課長を、物理じゃなく社会的に殺すまでの5日間』

志乃原七海

第1話「愛してるのは、七海だけだ」



***


### 第一幕:甘い蜜と嘘

**場所:デパート裏の薄暗いバー**




課長の永井雄一郎(42歳)は、カクテルグラス越しに熱っぽい視線を送る。

デパートの派遣社員である志乃原七海(26歳)は、その言葉に陶酔していた。普段の売り場での厳しくも頼りがいのある上司の顔とは違う、自分だけに見せる弱さと情熱。


「でも、雄一郎さん……奥さんとは、まだ……」

「わかってる。妻とはもう冷めきってるんだ。家では会話もないし、離婚の話し合いも進めてる。ただ、子供の手前、もう少し時間がかかるんだ」


永井はテーブルの上の七海の手を強く握りしめる。


「俺を信じてくれ。必ず別れる。だから、待っててくれないか?」

「本当よね? 信じていいのね!」

「ああ、誓うよ」


七海は瞳を潤ませて頷く。この人が運命の人だ、そう信じて疑わなかった。


***


### 第二幕:友人の警告

**場所:社員食堂**


「七海? 不倫はよくないよ? ね、悪いこと言わないわ、やめよ?」


友人の由美は、箸を置いて呆れたように言った。七海が嬉々として雄一郎との関係を話した直後のことだ。


「そんな言い方しないでよ。雄一郎さんは本気なの。奥さんとはもうすぐ別れるって」

「はあ……」


由美は大きなため息をついた。


「あのね、それ、浮気する男の常套句じゃない! 『妻とはうまくいってない』『離婚するつもりだ』……みんなそう言うのよ」

「そんなことない!」


七海はムキになって反論する。


「雄一郎さんは違うの。本当に苦しんでるの。私が支えてあげなきゃいけないの!」

「七海、目を覚ましなよ。あの課長、社内でも評判は『愛妻家』で通ってるのよ? 騙されてるだけだって」

「由美にはわからないわよ!」


七海は席を立ち、耳を塞いだ。親友の言葉さえ、今の彼女には嫉妬や雑音にしか聞こえなかった。


***


### 第三幕:冷徹な算段

**場所:永井雄一郎の自宅**


「パパー! おかえりー!」

「あなた、お疲れ様。今日はお肉よ、ビール冷えてるわ」


玄関を開けると、明るいリビングの光と、幼い娘、そして笑顔の妻が出迎えた。

永井雄一郎は、満面の笑みで娘を抱き上げる。


「ただいま! おお、今日はご馳走だなあ」


温かい家庭、何一つ不満のない生活。

妻との仲が冷めきっている? 離婚の話し合い? すべて真っ赤な嘘だ。


食卓につき、ビールを飲みながら永井はぼんやりとスマホを眺める。通知欄には七海からの『信じて待ってる♡』というLINEが来ていた。


(……さて、どうするか)


永井は心の中で冷徹に計算を始めていた。

最初は職場の若くて可愛い派遣社員が懐いてきたから、ちょっと遊んだだけだ。だが最近、七海の「結婚」への圧力が重くなってきている。


(深入りされると厄介だな。仕事にも影響が出る)


「あなた? どうしたの、難しい顔して」

「ん? いや、ちょっと来月の催事の件を考えててね」


妻に微笑みかけながら、永井は頭の中で七海への「別れの切り出し方」をシミュレーションしていた。


「そろそろ契約期間も終わるし、ちょうどいいか……」


派遣契約の終了と共に、関係も清算する。

「妻にバレた」「君の将来のために身を引く」とでも言っておけば、彼女は泣くだろうが、最終的には諦めるだろう。


「やっぱり家が一番だなあ」


永井は妻の手料理を口に運びながら、七海からのメッセージを未読のまま非表示にした。




***


### 第1話 ブリッジ:漆黒の亀裂


**場所:都内 高級住宅街・永井邸前**


夜の帳が下りた閑静な住宅街。

街灯の光を弾くように、滑らかな曲線を描く白いBMWが、広々としたカーポートに滑り込んだ。


エンジン音が止むと、あたりには再び静寂が戻る。

運転席から降り立ったのは、永井雄一郎だ。


彼は満足げに愛車のアラームをセットし、ふう、と息をつく。

目の前にそびえ立つのは、モダンなデザインの二世帯住宅。彼が「仕事の成功」と「家庭の円満」を両立させている証そのものの城だ。


リビングの大きな窓からは、暖色系の明かりが漏れている。

カーテンの隙間から、妻と娘が笑い合っている影が見えた。

彼はネクタイを少し緩め、その「完璧な絵画」の中へ戻ろうと、玄関へのアプローチを歩き出した。


自身の背後、その闇の深さに、彼は気づいていない。


道路を挟んだ向かい側。

街路樹の影に同化するように、一人の女性が佇んでいた。


彼女の視線は、雄一郎に向けられているのではない。

彼が守ろうとしている、あの温かなリビングの「窓」に釘付けになっていた。


幸せそうな家族のシルエット。

自分には「冷え切っている」「会話もない」と語ったその場所にある、残酷なほどの団欒。


女性の輪郭が、怒りと絶望で震えている。

握りしめた拳には、爪が食い込み血が滲む。


夜風が彼女の髪を揺らした瞬間、漏れ聞こえたのは、愛の言葉ではなく、どす黒い呪詛だった。


「……殺してやる!」


雄一郎は何も気づかず、笑顔でドアノブに手をかけた。

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