【2章】あの丘の向こうへ 1


 ゆっくりと目を開ける。

 オレの目の前には青空が広がっていた。どこからか鳥の鳴き声も聞こえてきた。

 頭が痛……くない。がんがんと釘を打つような痛みはいつの間にか消えていた。えっとぉ〜……あれぇ、オレさっき港で溺れてなかったっけ?

 ひとまずオレは起き上がった。ゆっくりと上体を起こすと、見慣れない景色が視界に入り込んできた。

「……」

 オレの目の前には緑ゆたかな風景が広がっている。心なしか、空気も美味しい。息を吸うたびに肺が喜んでいる気がした。

 んっと、どこだここぉ……?

 見慣れない風景に聞き慣れない鳴き声。オレ、塾からの帰り道で……あのとき港に落っこちたんじゃなかった?

 オレは辺りをきょろきょろと見回した。周りには緑ゆたかな木々と色鮮やかな花々があるばかりだった。黄色い鳥がちょこちょこと芝生のうえを歩く姿は、先ほどまでのシリアスな状況とは全く違っていた。

「んしょっと……」

 ひとまずオレは立ち上がった。いまの状況は正直よく分からないけれど、いつまでも座っているわけにもいかない。

 オレは服についた土埃を手で払った。ぱっぱっと。

 なんか土の匂いがする。え、土ってこんな匂いなんだ。ひょっとして、オレが今まで嗅いだ土の匂いって実は土の匂いじゃなかったり?(混乱)

 なんだか鼻が敏感になってる気がする。

 オレの嗅覚がいつもよりよく働いてるような気がする。いまの気分は犬。わんわん、わおーん(※オレの鳴き声)。

 深呼吸を繰り返すたびに新鮮な空気が肺に入り込んできて、都会の空気に慣れたオレの脳が喜んでいるような気がした。たぶん気のせい。ぜんぶ『気』が悪い。懲役87年の刑に処す。

 や、さすがに禁錮ちょっと長すぎなぁい?

 え、ちょっと待って——。オレは土埃を払った拍子に、自分の今の服装に気付いた。


 ス、スカートぉ……?


 そういえば、なんか声も変な気がする。オレの声ってこんなに高かったっけ?

「あー、あぁ〜……」

 オレはわずかにトーンを変えながら発声した。まるで女の子みたいな高い声が出た。

 え、ぱにっく。待って待って、これオレの声?

 めっちゃ声高いんだけど。ひょっとして、オレ今ボイスチェンジャー的なもの使ってるぅ?(ぜったい違う)

 オレは混乱しながら視線を下に落とした。ふんわりとしたフリルが特徴的なロングスカートが目に飛び込んできた。まるで、どこかの国の貴婦人が着ていそうな品のある服装だった。

 いよいよオレの頭が混乱を極める中、向こうから女性らしき声が聞こえた。

「あれぇ、こんなところに〜?」

 オレはすぐさま声がしたほうに顔を向けた。視線の先にはひとりの女性がいて、こちらに向かって歩いてきていた。

「こんにちはぁ。あなたも山菜採りに?」

「え、いや……」オレは戸惑った。

「失礼かもだけど、この辺じゃ見かけない服だねぇ」彼女は言った。「あなたどこから来たの? あ、ひょっとして最近うちの村に引っ越してきたとか?」

「や、違くて……」

 オレはしどろもどろになりながら答えた。目の前にいる女性はきょとんとした顔を浮かべている。

「んー、違ったかぁ。そんな気はしてたけど〜」彼女は言った。「ね、もし山菜採りに来たなら一緒にやろっ。あたし、メンジキ引っこ抜くのすっごい上手いんだよぉ?」

「めん、じき……?」

「え、メンジキ知らなあい?」

「う、うん。それ食べ物?」

「あは。もっちろん、食べ物に決まってるじゃあん」

 なにがおかしかったのか、オレの目の前にいる女の子はからからと楽しそうに笑った。ひょっとしたら、笑いのツボが浅めの子なのかもしれない。笑い上戸。

「あ、でもでもぉ、その服じゃちょお〜っとダメかなぁ」彼女は言った。「せっかくのドレス汚しちゃうもんねぇ。ほら、この辺の土って結構どろどろしてるでしょお?」

「そ、そうなんだ……?」

 や、知りませんけども。たしかに、さっき土の匂いがよくするなぁとは思いましたけれどもね。えぇ、えぇ。

 オレの目の前にいる女の子は悩ましそうに腕組みをした。ふぅっと吐いた息に彼女の気持ちがよく表れているような気がした。この子の仕草は言葉よりも多くのものを語っていた。

「ねぇねぇ、あなた本当どこから来たのぉ?」彼女は言った。「うちの村じゃ全く見ない服装だし、山菜採りに来たわけでもないなら……あなたここで何してたの?」

「や、とくに何も……その、さっき目が覚めたらここにいて……」

「んん〜?」

「や、だから、目が覚めたらここに……」

 彼女の目が何か怪しいものを見るかのような目つきに変わった。や、そりゃそうでしょって感じだけども。

 だって、さっきからオレの言ってることおかしいし。

 まるで不審者の言い訳みたいなことばっかり言ってるし。じっさい、この子の目から見たら不審者そのものなんだろうけど。手錠がちゃんこ。

「んんー、あなたの事情はよく分かんないけどぉ……」彼女は言った。「こんなとこに女の子ひとりで来ちゃ危ないよ。うちの村は安全なほうだけど、たまに盗っ人なんかも出て——」

「えっ?」

 オレはすぐに彼女の言葉を遮って聞き返した。彼女が今おかしなことを口にしたような気がしたから。

 盗っ人の話はどうでもよかった。

 それよりも、それよりも……この子いま確かに『女の子』って——?

「だ・か・らぁ、盗っ人が出るから危ないよって」彼女は言った。「あたしだって今ひとりで来てるわけじゃないんだからぁ。ね、あなた他に一緒に来た人は?」

「や、いないけど……」

「えぇ? ちょっとぉ、あなた大丈夫ぅ?」

 オレの目の前にいる女の子が怪訝そうな顔を浮かべた。どうやら、こちらの言動を不思議に(不審に?)思ったらしい。

「とりあえず、うちの村においでよぉ」彼女は言った。「その服装だとおかしな人に狙われちゃうかもだし。もぉっ、危機感ないんだからぁ〜」

「ご、ごめんなさい……?」

 オレは見ず知らずの女の子に説教された。どうやら、オレは自分じゃ分からないくらいに危機感がないらしい。ふぅん、そうなのぉ?

 や、今それどころじゃない。

 おのれの危機感と貞操観念を憂いてる場合じゃない。そんなことよりもずっと気にしなきゃいけないことがある。

 オレは再び視線を下に落とした。視線の先にはやはり先ほどと同じロングスカートがあった。目線を徐々に左右に移して自分の両腕を見ると、両袖には小さな花柄の模様があしらわれていた。およそ男性の服とは思えない装飾だった。

 オレは慌てて自分が着ている服を確認した。

 胸の部分が少しだけこんもりしている。まるで自分の胸が小さな丘になっているかのようだった。

「どーしたの急にぃ?」

 正面にいる女の子がオレにたずねてきた。彼女の声はやっぱりどこか不思議がるかのようなトーンだった。

 オレは焦りを感じながら彼女にたずね返した。

「あ、あのっ。ここってどこっ?」

「えぇ?」

 彼女はやっぱりどこか怪訝そうな表情を浮かべた。そんな不思議な生き物を見るみたいな目で、オレのことあんま見ないでくださいますっ?

「どこって……ネフィリア村だけど」

「ねふぃ、りあ……」オレは戸惑った。

 知らない地名だった。少なくとも、いま彼女が口にしたのはオレが生まれ育った街ではないどこかだった。

「ここは村の郊外だよぉ。うちの村の敷地内ではあるけど」彼女は言った。「ねぇ、あなた他の村から来たんじゃないの? この近くの村だったら、アーリケスかリセンテュアか……」

 どれも知らない地名だった。ここはオレが住んでた場所じゃない。

 きっと、いまオレは自分が生まれ育った故郷じゃないところにいる。どうしてかは分からないけど。なんでなのか分からないけど。オレは、オレは今どこにいるんだろう……?

 とつぜん、ひときわ強い風が吹いた。

 風に吹かれた横髪がほっぺたを撫でた。オレは目にかかった髪の毛を手でよけた。

 おかしい。オレの髪の毛はこんなに長くない。こんなに長くないし金色がかった色もしてない。これまでの人生で一度も、目にかかるほど髪を伸ばしたことなんてなかったのに——。

 オレは混乱した頭のまま目の前の女の子にたずねた。

「ね、ねぇっ、鏡とか持ってないっ?」

「鏡ぃ?」

 正面にいる女の子がすぐに聞き返してきた。オレは心の中で彼女が鏡か何かを持っていることを強く願った。

「いちおう、手鏡ならあるけど……」

 女の子は小さめのショルダーバッグから手鏡を取り出した。金属でもプラスチックでもない、かわいらしい装飾があしらわれた木製の鏡だった。

「はい、どーぞぉ」

 オレの目の前にいる女の子は、持ち手をこちらに向けて手鏡を差し出してくれた。女子力たっかい。がーるずぱわー。

「あ、ありがと……」

 オレは彼女から手鏡を受け取った。きらきらと太陽光を反射する鏡を自分のほうに向けると、まあるい鏡の中には見たことのない女の子の顔があった。

 いま手元にある鏡には、オレの知らない顔が映り込んでいる。

 この手鏡の中にいる女の子は、まんまるに目を見開いて驚いた顔を浮かべていた。オレの感情と女の子の表情は寸分の狂いもなくリンクしていた。

「か、顔っ……何この顔……?」

 オレは空いたほうの手で自分の顔に触れた。しっとりとした肌の感触がやけにリアルだった。

 信じられない。

 いま自分の身に起きていることが信じられない。

 ここはどこなんだろう。オレは今どこにいるんだろう。なにより、この鏡に映る女の子は一体どこの誰なんだろう……?

「えぇっとぉ〜、自分の顔はじめて見たわけじゃないよね?」彼女が言った。「なんか、あなた今にも『ここはどこ、わたしは誰?』とか言いそうな感じじゃなあい?」

「こっ、ここはどこぉ? わたしはだぁれっ?」

「あはは。ほんとに言う人あたし初めて見たぁ」

 目の前にいる女の子はからからと楽しそうに笑った。

 や、こっちは本気も本気なんだけどっ。こちとら、最初っから最後までずっとずぅ〜っと本気モードなんですけどもっ?(ほんとに!)

「とりあえず、あたしんとこの村行こーよ」彼女が言った。「ほら、向こうに行けばあなたの知り合いにも会うかもだし。ここにいるよりは良くなぁい?」

「う、うぅ〜ん……」

「え、やだ?」

「や、そういうわけじゃないけど……」オレは言った。「とつぜん行って大丈夫なのかなって。その、こんな素性の知れない人が村に行って……」

 オレの脳みそは思ったより冷静だった。全く知らない女の子の顔が鏡の中にあって混乱している割には、自分の今の状況を客観的に見られるくらいには落ち着いていた。

「あはは。気にしなくても全然だいじょぶだよぉ」彼女は言った。「うちの村の人たち、よく旅の人とかも自宅に泊めてるし。外から人が来たらみんな喜ぶよぉ?」

「そ、そうなんだ。昔の中央アジアみたいな村だね……」

「ちゅーおー……ごめぇん、なんて〜?」

「や、なんでもない。気にしないで……」

「ふぅん?」

 どうやら、彼女の村には外部の人間を受け入れる文化があるらしい。あと中央アジアの例え話が通じないことも今よく分かった。

 中央アジアが知られてない。

 だけど、旅人を自宅に迎える文化はある。この子の言動から察するに、どうやらヨソ者に厳しい土地柄とかじゃないらしい。

 オレの頭を何より深く悩ませるのは、いま目の前にいる彼女の服装だった。西ヨーロッパと東アジアの服飾文化を足して2で割ったようなファッション。彼女の服装にはいくつもの文化が入り混じっていた。

「ねぇ、あなたお名前は?」

 彼女がオレに名前をたずねてきた。そういえばこんな長いこと話してるのに、オレたちはお互いの名前をまだ知らない。

「えと、名前……自分の名前……」

 オレは壊れた機械のように同じ言葉を繰り返した。どれだけ言葉を繰り返しても、この女の子の名前が頭に浮かぶことはなかった。

「え、あなたの名前だよぉ? 自分の名前わかんないの?」

「……」オレは黙り込んだ。

「うっそ、待って待って」彼女は言った。「ひょっとして、あなた記憶喪失とかぁ?」

「そ、そう……かも」

「えぇー、びっくりなんだけどぉ……」

 彼女は自分の言葉どおり驚いたような顔を浮かべていた。人間、ほんとうにびっくりしたときは意外と声のトーンが低くなるらしい。新発見。

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