第1部:悪夢の終わり

【1章】この港の向こうに


 オレは港の近くを歩いていた。

 この港公園は塾からの帰り道。港ちかくにもうけられたプロムナードは、いつもオレが塾帰りに通るところだった。

 いくつもの街灯が園内を明るく照らしている。この公園は夜中でも明るいせいか、ジョギングする人の姿もチラホラ。科学的な観点から見ても、ナイト・ランニングには一定の健康効果があるらしい。

 夜間ランニングの健康的なメリットを調べた研究データによれば、これによって①メンタルの状態と②睡眠の質が改善するとのこと。

 寝る直前の激しいエクササイズは逆に眠りの質を下げちゃうから、もしジョギングするなら寝床に入る2〜3時間前くらいがベスト。しっかり身体を動かしたあとは、ベッドでぐっすりお休みなさい。ぐっない。

 まぁ、オレは夜中に運動とかしないけど。

 だって、夜はほぼ毎日のように塾あるし。ゆったりまったりエクササイズする時間なんて取れませんし。ほら、ね?

 学校が終わったら夕方から夜にかけて塾で勉強。最近ちょっとテストの成績がよくないから、身体を動かす時間あったら勉強に充てたい。これ以上うちの親をガッカリさせないためにも。

「……」

 オレはプロムナードから港を眺めた。横目に見た港の向こうは、真昼のように明るかった。橋を照らすネオンが目に痛いほど煌々と輝いていた。

 根詰めるのがよくないってことぐらい分かってる。

 だけど、いま正直それどころじゃない。こうして焦んなきゃいけないくらい、いまはテストの点数を上げたいから。

 自分の出来なさ具合は自分でもよく分かってる。オレは父さんと同じ医学部に入らなきゃいけないから。両親どちらもオレが医学部に入ることを望んでる。

 母さんはオレに厳しい。父さんも厳しいっちゃ厳しいけど、母さんは特にオレに厳しいらしい。きっかけはオレが中学のころに性別について相談したことだった。あのときの母さんの失望したような表情は今でもよく覚えてる。

 もう、あんな顔は見たくない。これ以上、父さんと母さんをガッカリさせちゃいけない。

 オレは男なんだ。男だったら強くなくちゃいけない。アクション映画に出てくるヒーローみたいに強くなくちゃいけない。大切なものを守れるくらい強くならなくちゃ——。

 オレの、オレの大切なものって何だろう……?

 学校に行って勉強。学校が終わったら塾で勉強。休みの日は部屋にこもってずっと勉強。今より成績が下がったら部活もやめなくちゃいけない。

 部活は好き、だけど……大切って言えるほどじゃないかなぁ。べつにオレがいなくてもチームは回るし、欠員が出て困るような人数でもないしさ。代わりなんていくらでもいるのは部活も社会も一緒なのかな。わかんないけど。

 塾帰りで疲れているせいか、オレの心はいつもよりお喋りだった。

 いつもなら何も考えずに歩くこのプロムナードも、なぜか今日にかぎってはオレの心のひとりごとを誘った。ただの散歩道がこちらに語りかけているような気がした。たぶん気のせい。

 ちょっと、ちょっとだけ……今夜は寄り道してみよっかな。

 オレはいつもならまっすぐ行くはずの道を左に曲がった。普段ならスルーして通らない道だったせいか、見慣れた景色のはずなのにどこか新鮮だった。

 港の向こうでは相変わらずネオンがきらめいていた。こんな離れてるのにバイクの爆音が聞こえるんだから、音って俺たちが思ってるよりずっと遠くまで響くんだろーね。というか、改造マフラーが法的に取り締まられないのって何でだろう?(謎)

 オレは今あの橋を走っている(と思われる)バイクに注意を向けた。

 しぜんと、オレの意識は港の向こうに集中した。心なしか、オレ自身の耳もあの橋から聞こえてくる音に注意を向けているようだった。耳の気持ちが分かる少年の図。分かりません。

 オレは近くにある防護柵にもたれかかった。柵の根っこには少しだけ赤サビが付いていた。

「はぁ……」

 思わずため息がもれた。オレの口から憂いを帯びた息が外に逃げ出していった。まるで、外に出るのを長らく待ち侘びていたかのように。

 波の打ち寄せる音が聞こえた。

 眼下では小さな波が防波堤に打ち寄せていた。さざなみと呼ぶに相応しい小さな小さな波だった。

 打ち寄せては消えゆく波の姿。夜に染まった公園内に波の音が鳴りひびき、波はいつまでも終わりなく音を立てていた。まるで、終えるタイミングを見失ってしまったかのように。

 ぼぉーっ、と低い音が鳴った。

 汽笛だった。この港には船が常に停泊していて、一種の観光スポットになっていた。

 オレは誘われるように汽笛が聞こえた方角に顔を向けた。視線の先にある大型船からは灯りが漏れ出ていて、ときおり人らしきシルエットがチラついて見えた。たぶん観光客の人影か何かだと思う。

 あの真っ白な大型船は今夜も賑やかだった。

 遠くにある船に目を凝らしてよぉく見てみると、甲板らしきところに何人か人がいるのが見えた。

 となり合って立っているところを見るに、観光しに来たカップルなのかもしれない。あの船は夜のデートスポットとしても有名らしいから。オレは……まぁ、夜にあの船に入ったことはないけど。

 きっと今ごろ2人っきりで景色を楽しんでいるんだろう。

 毎晩が塾と勉強でいっぱいのオレとは大違い。いっしょに夜景を楽しめる人がいるのは素敵だと思う。や、ほんとうに。

 はるか遠くにある船を見つめていると、オレの近くを親子連れが通りかかった。両親の間に挟まれて歩く男の子は、ときおり父親と母親の手に引っ張られる形でジャンプしていた。きっと、今あの子は空を飛ぶ感覚を味わっているんだろう。

 オレは親子が通りの向こうに消えていくのを目で見送った。

 人で賑わう日中と違って、公園のベンチには誰も座っていなかった。先ほどの親子が通りかかったベンチはがらんどうで、あの横長のイスを公園の街灯が寂しく照らしていた。

 まるで、あのベンチだけ世界から取り残されてしまったかのよう。

 園内には他にも街灯に照らされたベンチはあるはずなのに、どうしてかあの横長の白いイスだけがやたらと目についた。あの寂しいベンチはこちらに何かを伝えようとしている……そんな風に思えた。

「あぁー、明日も塾かぁ……」

 オレの口から愚痴にも似たような言葉がもれ出た。今週は塾の休みが1日しかなかっただけに、心にも身体にも疲れが溜まっているのかもしれない。

 グチが増えてきたときは黄信号。

 誰かの悪口を言い始めたときは赤信号。人間のストレスは必ず言葉にあらわれるらしい。

 じっさい心理学の分野において、愚痴や悪口について調べた研究は少なくない。どのデータもだいたい「他人の悪口を言う人=メンタルに問題ありかも?」と結論している。

 まぁ、そりゃそうだよねって感じだけども。

 だって、ストレス溜まってるときって余裕ないし。他人の心を思いやる余裕がないくらい追い詰められてんだろーしさ。

 科学は正論を言うばかりだ。オレは科学のことは好きだけど、研究者を尊敬してるかどうかは少し怪しい。彼ら/彼女らは色んなデータを論拠に、正論パンチをぶつけてくるだけだから。

 海の恐ろしさは実際に溺れたことある人間にしか分かんないよ。

 科学者は溺れてる人に向かって安全地帯から救命ボートを放り投げるだけ。彼ら/彼女らまで一緒になって水に溺れて苦しむことはない。そう、ただの一度だって——。

 オレはポケットからスマホを取り出した。時計の針はもう9時過ぎを指していた。

 今から家に帰ったら9時半。ご飯とお風呂を済ませたらもう10時。自分の部屋で今日の予習と明日の復習をしたら11時を過ぎる。こんなルーティーンが毎日のように続く。

 今夜もベッドに入るのは12時くらいだろうか。ここ最近この就寝時間が常態化している。

 昨日もそうだった。一昨日もそうだった。その前も、その前も、その前も……最後に日付けが変わる前に眠りについたのはどれくらい前だっただろう。

 朝は学校があるから6時に起きなきゃなのに、時間の神さまはちっとも時計の針を遅めてくれない。1時間はやっぱりきっかり1時間で、1時間が2時間に伸びることはない。寝てるときだけ時間が0.5倍速になってもいいのに。そしたら8時間くらいは寝てられるのに。

 オレが時計の神さまにぶぅぶぅ文句を言っていると、自分と同じく塾帰りらしき女子学生たちが近くを通りかかかった。

 彼女たちはずいぶんと楽しそうに話をしている。波打ち際の防護柵にもたれかかりながら、ひとり黄昏ているオレとは正反対だった。彼女たちの明るい声が辺りに響きわたった。

 塾帰り、だよね。

 あの制服は……たしか、この近くの学校のだったと思う。前にも何度か見かけたことある。

 あの子たちが通う学校はオレの学校よりもレベルが高い。医学部に進学する子も多いから、この辺じゃ名の知れた学校として通ってる。進学校だからね。

 科学者はイマイチ好きになり切れないんだけど、父さんがやってる医者は子どものころから好き。オレは父さんのように立派な医者にならなきゃいけない。オレは父さんのように良い医学部に入らなきゃいけない。父さんのように、父さんのように——。

 じゃないと、オレは父さんと母さん両方から見限られるだろうから。

 もうすでに今でさえ見限られそうなのに、医学部に入れなかったらオレは終わりだ。今度こそ父さんと母さんから見向きもされなくなってしまう。今度こそ、ほんとうに。

 いつかの父さんの声が頭の中でリフレインした。


『なんだ、また90点台か。しっかりしろ、お前はウチの子なんだぞ』


 今度は母さんの声が聞こえてきた。先ほどの父さんの声よりもうんとガッカリしたようなトーンだった。


『いいかげん、お母さんたちを安心させてちょうだい。こんっな低い成績で将来どうするつもり?』


 記憶の中にいる父さんと母さんはオレに背を向けていた。

 オレは2人の背中を後ろから追いかけるばかり。いつまで経っても2人に近付けないのは、オレがトレッドミルの上で走っているからかもしれない。

 わかってるよ、今回はテスト問題が難しかっただけだ。

 わかってるよ、前回はテスト勉強の時間が足りなかっただけ。もっと勉強すれば100点だって取れるに決まってる。

 わかってるよ、こんな勉強法じゃ一番になれないってことくらい。当時もっと効率的な勉強の仕方を知ってたら、きっとオレだって今よりずっといい高校に入れてたに違いない。

 わかってる、わかってる……全部わかってるよ、オレがダメだってことくらいは。そんなこと分かってる。

「……」

 オレは楽しそうに話す女子生徒たちを目で見送った。彼女たちの背中は実際よりもずっと大きく見えた。どうしてだろう?

 オレは再び港のほうを向いた。

 港の向こうに見えるネオンは、なおも相変わらずギラギラと光り輝いていた。まるで、あの光たちは眠ることを忘れてしまったかのよう。

 なんか……なんか、ちょっと疲れちゃったな。こんな生活いつまで続くんだろう、こんな毎日いつまで続くんだろう。いつかどこかで終わりが来るのかな。どこかに人生のゴールテープがあって、オレがテープを切る日は来るのかなぁ?

 オレが感傷にひたっていると、また遠くのほうで野太い汽笛が鳴った。ぼぉーっ。

 ちょっと長めの汽笛が鳴り止むころには、オレはもう先ほど見た光景すら思い出せなくなっていた。さっきの女子学生たち、何人で歩いてたっけか。今オレの後ろにあるベンチって何色だっけ?

 後ろにあるベンチを見ようと柵に手をかけた瞬間、オレの身体はバランスを崩して横に倒れかかった。

「ぅえっ?」

 オレの口から間の抜けた声が出たのも束の間、バランスを崩した身体は一瞬だけ宙に浮いた。着水する直前に見た最後の光景は、先ほどオレがもたれかかっていた柵が壊れたことを示していた。

 どぼんっ、とオレは水に落ちた。

 あまりにも突然のことだったため、オレはパニックになって手足をバタバタと動かした。

 ぶくぶくと鼻と口から空気が漏れ出ていった。しばらくすると耳の中にまで水が入り込んできて、泡が弾けるような音がやたらハッキリと聞こえた。落ち着け、大丈夫だ。こういうときは身体のチカラを抜いて——。

 なんでだ、なんで沈む?!

 オレの予想と大きく反して、身体はどんどん水の底に沈んでいった。まるで、海に放り投げた石が海底に沈んでいくかのように。

 いつか本で読んだ知識が全く役に立たない。いつか動画で観た内容が全く役に立たない。『われわれ人間の身体には浮力が備わっているため、落ち着いてさえいればそう簡単に沈むことはなく——』。

 いつか読んだ教科書の言葉が脳裏をよぎった。オレの脳内に響きわたる声は全くの役立たずだった。

「誰かっ、たすけっ……ぅえっぷ」

 口の中に水が流れ込んできた。オレは反射的に飲み込んだ水を吐き出そうとするも、いちど飲み込んだ水はノドを通って胃に落ちていった。まるで、重力に負けてするりと滑り落ちるかのように。

「……たすっ、ぅおぇっ」

 オレは必死に水面から顔を出そうとしたものの、どういうわけなのか身体が鉛のように重かった。どれだけ水面に向かって浮上しようとも、自分の身体が言うことを聞いてくれない。

 まるで、水の底に引きずり込まれるかのような感覚だった。

 もうだいぶ水を飲んでしまった。胃のなかが気持ち悪い。目がチカチカする。頭がガンガンする。もう、声すらまともに出ない。

 オレは水の中でバタバタともがくだけだった。だんだんと身体からチカラが抜けてきた。浮力があるはずの身体は全く水面に浮かばず、ジタバタしたぶんだけオレの体力は奪われた。

 死ぬ。

 このままじゃ死ぬ。

 いやだ、死にたくない。まだ何もしてないのに。まだ何も成し遂げてないのに。

 父さんにも、母さんにも。まだ2人からまともにハグすらしてもらってない。まだ2人からまともに目を向けてもらってすらいないのに。こんな形で死ぬなんて耐えられない。まだオレは何も、何ひとつだって——。

 死にたくない。

 死にたくない、死にたくない。まだ死にたくないよ。

 いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。

 いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。

 いやだ、いやだ。


 いやだ、まだ死にたくない!


 オレは最後のチカラを振りしぼって水面を目指した。功を奏してか、水面からほんのわずかに顔と口を出せた。

「だれ、か……ぇ」

 助けて。

 助けて、助けて。誰でも……誰でも良いから。誰かオレを助けて——。

 最後の抵抗も虚しく、身体はあっけなく水の底に沈んでいった。オレの意識はもうすでに薄っすらと消えかかっていた。まるで、頭の中に霧がかかってしまったかのよう。

 もう身体のどこにもチカラが入らない。

 もがく気力すらなくなったオレの身体は、重力に負けて水の底にゆっくりと沈んだ。もう心も身体も疲れ果てていた。

 海上にある氷山に座礁した船が沈没するように、たっぷりと水を吸ったこの身体はもう底に落ちるだけだった。水面に反射する光がだんだんと小さくなっていくようすだけがやたらとリアルだった。

 オレの意識が途切れる直前、聞き慣れない声が脳内に流れ込んできた。


〈Order::start〉

 [INFO] Initializing consciousness stream...

 [CHECK] System integrity: VERIFIED

 [RUN] Executing main process...

 [RUN] Progress: 16%

 [RUN] Progress: 43%

 [RUN] Progress: 79%

 [OK] Main process complete.


 [OK] Algorithm: awakening protocol initialized.


〈/Order〉


 ——アルゴリズム起動。

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