王宮医療記 ─見習い医官リサの手帳─
米粉
1章 宮廷医官見習いリサと、風の庭の王子
第1話 声を聞く娘
「――リサを宮廷へ出すべきだ」
夕食の席に落とされたサクヤの一言で、食卓の空気がぴんと張りつめた。
湯気を立てるスープ、こんがり焼けた鶏肉。
台所からはパンが焼ける香ばしい匂いが漂っている。
いつもと変わらない夕食のはずだった。
それなのに、父は箸を止め、眉間に深い皺を刻んだ。
「……あの子はまだ十八だぞ」
声は静かだった。
だが、怒りを押し殺したとき特有の、低く硬い響きだった。
「医官としてなら、家で腕を磨けば十分だ。
王宮には、私とサクヤがいる。
この家から、さらに誰かを前線へ差し出す理由はない」
「前線なんて言い方しないでよ、お父様」
思わず口を挟むと、父の視線がこちらに向いた。
鋭い目。けれどその奥に、リサは見てしまった。
かすかな怯え。
胸の奥で、色が揺らぐ。
父の心は、濃い灰色に包まれ、その中心に薄く滲む赤がある。
怒りではない。
これは――恐れだ。
「王宮に渡せば最後だ」
父は続けた。
「殿下の目に留まれば……妃候補の一人として扱われかねん。
そうなれば、父である私が、もう自由に会うこともできなくなる」
その言葉に、リサの喉がきゅっと締まる。
「話が跳びすぎです、お父様」
サクヤがナイフを置き、真っ直ぐ父を見据えて告げた。
「ルナ王妃が、軽々しく妃候補を増やすとは思えません。
それに今、宮廷医官は本当に人手が足りない。
殿下の気管は弱く、発作が続いている。放置はできません」
「だからだ」
父の声はさらに低くなり、深い影を帯びた。
「気管が弱いということは、ほんの些細な判断の遅れが命取りだ。
男ならまだしも、娘を放り込むなど――」
そこで、父の言葉が止まる。
テーブルの向こう。
一脚、空いた椅子。
そこに座っていたはずの人の気配が、今も微かに残っている。
母。
宮廷で最も優れた医官と呼ばれた人。
誰より多くの命を救い、誰よりも患者に寄り添い、
そしてある日、そのまま帰らなかった。
あの時以来、父が宮廷医官最高位の地位を捨て、都を離れ、
この小さな診療所を開いた理由を、リサは知っている。
王命よりも、
名誉よりも、
失ってしまったものよりも――
残された家族を守ることを、選んだからだ。
リサは、静かに息を吸った。
昔から、父もサクヤも知っている。
リサが、動物や植物の声を聞けることを。
人の心の機微や、体のわずかな異変すら、
言葉ではなく――色と温度で感じ取ってしまうことを。
便利な力ではない。
知りたくないことまで、届いてしまう力だ。
「兄様は……どうして私を宮廷へ?」
問いかけると、サクヤは少しだけ目尻を下げた。
揺れたのは、落ち着いた青の色。
「……俺たちじゃ、どうしても届かない時がある」
静かな声だった。
「息の震えひとつ、心の温度ひとつで命が変わる時――
その声を拾えるのは、リサ。お前だけだ」
その言葉に応えようとして、リサは一瞬、息を詰めた。
胸の奥で、色が乱れる。
澄んだはずの青に、かすかな濁りが混じった。
その瞬間、卓上の香草が、そっと葉を揺らした。
――リサ、行きたいんじゃないの?
胸の奥に、微かな囁き。
リサは、答えなかった。
ただ、胸の内で感じていた。
小さな芽が、静かに、確かに伸びていくのを。
***
夜、部屋に戻ると、足元へ白い影が滑り込んだ。
「ミルク、ただいま」
呼びかけると、猫は小さく喉を鳴らす。
その音は、リサにははっきりとした言葉に聞こえていた。
――おかえり。
扉を閉めると、昼間の緊張がふっと抜け落ちる。
窓辺に置いた鉢植えのミントが、夜風に揺れ、淡い緑の光を放った。
――悩んでるね。
「……うん」
否定する理由はなかった。
ベッドに腰を下ろすと、ミルクは当然のように膝へ乗り、丸くなる。
その体温が伝わった瞬間、胸の奥に広がったのは、安心の青。
リサは、そっと猫の背を撫でた。
「兄様は……必要だって言ってくれた」
声に出すと、言葉が部屋に溶ける。
「私にしか拾えない声があるって」
「でも、お父様は……」
続きを言わなくても、分かっていた。
父の心に広がる、あの重たい灰色。
「……私まで失いたくないんだと思う」
ミルクが、小さく尻尾を揺らす。
ミントの葉が、さらりと音を立てた。
――それは、怖さだね。
責めるでも、否定するでもない声。
――でもね。
ミントは、夜の光を受けて、柔らかく揺れる。
――咲かなきゃ、わからない未来もあるよ。
けれど、その声は、いつもより少し遠かった。
リサは胸に手を当てた。
そこには、まだ母の温度が残っている気がした。
医官として。
女として。
そして、声を聞く者として。
母はいつも言っていた。
――怖いと感じるなら、ちゃんと見ている証拠よ。
思い出すたび、胸の奥が少し痛む。
けれど、その痛みは、確かに生きている証だった。
「……行きたい、だけじゃ足りない」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「……行く」
声は、思ったよりも小さかった。
胸の奥で、まだ何かが引っかかっている。
それが何なのか、言葉にはならない。
母の背中を思い出す。
あの人は、いつも迷わなかったわけじゃない。
それでも、立ち止まらなかった。
「……行かないままでは、きっと後悔する」
それだけは、確かだった。
その瞬間、胸に乗っていた重りが、すっと溶けた。
怖さは消えない。
不安も残っている。
ミントが、かすかに囁く。
――決まりだね。
ミルクが、膝の上で身じろぎし、安心したように眠りにつく。
その温もりを感じながら、リサはゆっくりと目を閉じた。
まだ夜は深い。
世界は静かで、何も変わっていない。
けれど、確かに朝へ向かっている。
エルド王城へ続く道が、
まだ何も語らず、ただ夜の向こうへ伸びていた。
それが、救いへ続く道なのかどうかは、
まだ、誰にも分からなかった。
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