六話

 ズズッという重い音で俺は目を覚ます。薄暗い洞窟の中に太い光が差し込んできたのを見て飛び起きた。入り口、塞いでる石がどかされて影になった巨体がのそりと現れた。作った隙間からくわえてる物を入れて鼻先で押し込んでくる。それを終えると一歩下がって、じっと俺の様子を眺め始める。その視線を受けながら、俺は警戒しつつ押し込まれた食べ物――木の実とキノコを奥まで運び、そこでかじった。獣はしばらく眺めると、ちゃんと食べてることに安心したのか、石を戻して立ち去って行く。気配が消えて、俺は警戒を解いて食事を続ける――最近の獣は、なぜかこんなふうにして俺の世話をしてくる。それも毎日だ。洞窟には食べ切れなかった分の食べ物が残ってるぐらいだ。こうして持って来てくれるのは助かるし、すごくありがたいことではある。おかげで体力は戻ってきたし、頭も働くようになった。だけど食料である俺に何でこんなことをするのか、その理由がわからない。だから獣の変わりようが少し怖くもある。だって俺の世話をしたって、こいつに何の得があるっていうのか。ただ時間と労力を使うだけの行為だ。動物は生きるための行動しかしない。世話はそれに当てはまらないだろう。


 獣の行動の変化は他にもある。食べ物を持って来る時以外でも、あいつは洞窟の中をのぞいてくる。俺の様子を確認するみたいに、ふと気配を感じて入り口を見ると、隙間からやつが光る目をのぞかせてる。それもしょっちゅうだ。初めは驚いて洞窟の隅で固まってたけど、それが毎日となると、だんだん見られるのが当たり前になって気にしなくなった。でもだからって不快に思わなくなったわけじゃない。あいつに四六時中監視されてるようで、気分としては囚人みたいなもんだ。言葉が通じるなら今すぐやめろって言ってやりたい。


 だけど、そうやってのぞかれてることで助かったこともあった。朝から冷たい雨が降ってた日だ。とにかくこの森の奥じゃ、雨が降ると急激に気温が下がって季節が冬に様変わりする。


短時間の雨ならどうにか耐えられるが、それが一日中だと身体の震えは止まらなくなる。狩り用の身軽な薄い服装じゃどうしたって限界なんだ。身体をさすろうと身を丸めようと、寒さからは逃れようがない。


 そこへ現れたのが獣だった。おもむろに洞窟に入って来た姿に俺は、まさか食べないよな? と思いつつも、でも食べられるかもしれないという疑念で動けなくなったが、なぜか獣のほうも動かなかった。俺をじっと見下ろすだけで、危害を加えてくる素振りがない。獣自身も来たはいいけど、何をすればいいのかわからないように見えた。俺をどうこうする気はなさそうだと察した俺は、とにかく温かいものが欲しかった。そしてそれは目の前にあった。銀色の毛むくじゃらの毛皮――それに触れれば温かいってことを俺はすでに体験して知ってた。そっと手を伸ばして前足に触れると、凍えた手のひらにじんわり熱が伝わってきた。あったかい――俺は全身もと、気付けば前足にしがみ付いてた。今思うとかなり大胆なことをしたなって思うけど、あの時は本当に寒さが辛すぎたんだ。きっと生きるための本能がそうさせたんだろう。


 足にしがみ付かれた獣は、邪魔だと振り払うこともできたはずだけど、そうはしなかった。そのまま動かず、じっと突っ立ってたけど、しばらくするとゆっくり動き出して、伏せる姿勢に変えた。そして俺にもう一方の前足を密着させて、足の間に囲い入れた。完全に捕まったと一瞬焦りはしたが、見上げた獣はこっちを見守るだけだった。まるで俺が温まりやすいように動いてくれたみたいで、その行動は今も不思議に思ってる。一体どういう理屈からの行動だったのか……。だけど、それがあったおかげで俺はあの日の寒さをしのげたんだ。それだけは確実にわかってることだ。


 そんなふうに、あいつの態度の変化で助かってることもありはするけど、そもそも俺は狩られた身だ。生かされてるだけでも奇跡みたいなことなのに、いい環境なんて望めるはずもない立場だ。


「……はぁ」


 俺は土の壁にもたれながら溜息を吐いた。薄暗い空間を睨みながら辟易した息が流れ出る。いい加減、この環境が辛かった。暗いし寒いしゴツゴツしてるしで、長時間過ごすには全然適さない場所だ。そんなところでどれぐらいの日数が経ってるのか。ただの穴蔵にベッドがあるわけもなく、小石をどけた硬い地面で毎日寝れば、身体の痛みで目が覚めてしまう。それとトイレ……これも辛い。食べれるようになってからは当然適度に出るようにもなるわけで、でもここにはトイレ用の壺や桶はない。だから洞窟の片隅に深めの穴を掘って、そこで仕方なく用を足してる。獣が持って来る実のなった枝を何本も重ねて蓋にしてるけど、風のある日なんかは悪臭が漂ってきて、自分が出したものながら気分が滅入ってくる。


 辛いことを挙げればいくつでもある。でも今、もっとも辛いことは、自分自身が臭くなり始めてることだ。俺は特に綺麗好きってわけじゃない。風呂も週に一、二回ぐらいしか入らないし、村の人間は大体そんなもんだと思う。そういう俺でもさすがにこの体臭は耐えられなくなり始めた。ふとした瞬間に鼻をかすめるツンとした臭い……それが日に日に洞窟内に充満してるようで嫌になってくる。そんな臭いと共に現れ始めたのが肌のかゆみだ。虫刺されじゃなさそうだけど、汗や汚れのせいなのか、身体のあちこちにかゆみを感じる。かきむしるほど強いもんじゃないが、環境が変わらなきゃそれも時間の問題かもしれない。不衛生が原因で死ぬなんてのはごめんだ。どうにかできないもんか……。


 俺は考える。が、こんな洞窟の中で取れる方法なんて限られてるし、解決方法は一つしか思い浮かんでない。暗い天井からカタツムリの歩みぐらいゆっくり、のろく滴ってくる水滴……その真下に置かれた小さい革袋……これ以外に解決できるものはないだろう。俺は重い腰を上げて、その革袋に歩み寄った。


 手に取って中を見ると、容量の半分ぐらいの水が溜まってる。雨が降ると、こうして天井から雨水が滴ってくるから、俺はこれを飲み水にしてるわけだが、そうなると雨の日にしか水が飲めないことになる。それを解消するために思い付いたのが、この革袋の利用だ。ちなみにこれは毒の小瓶を入れてたものだ。あれだけ使おうと考えてた毒だけど、状況が変わった今は洞窟の隅に埋めてある。まあ、埋める必要はないかもしれないけど、危ないものだし、何となく、獣に見つかりたくない気がしてそうしてる。あいつが毒を取り上げるとは思えないけど。


 そんな毒を入れてたのが布じゃなく、革袋だったのは運がよかった。これに水を溜めれば雨の日以外でも喉を潤すことができるようになった。ただ溜まる量は少ないから頻繁に飲むことはできない。だからチビチビと、大事な命綱として扱ってきたものだ。今の俺にとっては貴重品……それを、飲み水以外で使うなんてもってのほかかもしれない。体臭と命と、どっちが優先すべきことか、問われなくたって答えはわかり切ってる。でも、と俺はさらに考える。本当に辛くてたまらないんだ。もう我慢の限界に来てる。汚れやかゆみから早く解放されたい。生きるための水だけど、肌を湿らせて拭く程度の少量なら使っても大丈夫、だと思う。今は乾期でもないし、雨も数日置きに降ってて、今溜まってる分が最後の水ってわけでもない。何も全部使うわけじゃないんだ。飲む分はちゃんと残しておく。後で苦しくなるような使い方は絶対にしない。だからいいよな――と自分で自分に言い訳をした俺は、革袋の中の水を見つめて使うことを決めた。


 上着を脱いで上半身裸になって、まずはどこが特にかゆいかを探る。水はちょっとしか使えないんだ。拭きたい箇所の優先順位を決めておくべきだろう。一番かゆみを感じるのは断トツで頭だが、少ない水じゃ焼け石に水だと思うから、頭は除外して身体のほうを探る。まずは……首かな。汗もかきやすいし、常にチクチクしたかゆみを感じてる。足下に置いた革袋から水を少量すくい取って、それを首にかけて撫でるように拭いてみる。……ふむ、入浴の気持ちよさには程遠いけど、今の俺の感覚じゃ、それなりにさっぱりはできる。でも満足するのは無理そうだ。まあ当然か。


 指先ですくったわずかな水を胸や腹なんかにつけて順番に拭いていく。かゆみはまあまあ薄れただろうか。さすがに消すまでの効果はないけど、それでも十分助かる。背中にも水をかけて拭こうとしたが、両手とも全然届かない。一番かゆいのは真ん中辺りなのに、その手前で肩も肘も紐でくくられたかのように動いてくれない。俺ってこんなに身体が硬かったのか。初めて知ったかもしれない――両手を戻して諦めた俺は、濡れた指先で代わりに腕を拭いた。そして足りなさ過ぎる水の量に、自然と溜息が漏れる。こんな時間が、あとどれぐらい続くのか。命はあっても、ここから抜け出せる日なんて来るんだろうか……まったく見えない先を考えると、ただただ思いやられるばかりだった。


 ズズッと音がしたと思うと、洞窟内に強い光が差し込んだ。反射的に振り向けば、石がどかされた入り口に巨体の影が立ってた。でもその口や足下に俺への食べ物は見当たらない。そのために来たんじゃないのなら、これは――一瞬で湧き上がった恐怖で、俺は服も水もそのままに洞窟の一番奥の壁まで慌てて逃げて、壁に背中をくっつけてその場にしゃがんだ。逆光を受ける獣がのし、のしとこっちに近付いて来る。とうとうこの日が来てしまったのか。最近の獣の変化で最悪な結末を想像することが減ってたが、食べられる可能性は常に高くあり続けてたんだ。そして今日がその結末を迎える日だった……それだけのこと。俺がここにいる限り、俺はこいつに食われる運命にある。視線や爪を避けて逃げるのは困難だ。人生が、終わる。ひどい痛みに苦しみながら――俺は身体を丸め、両手で頭を隠す。どうしたって死ぬことは決まってる。それでも本能なのか、急所を守ろうとしてしまう自分に、覚悟のなさを感じる。やっぱり怖いものは怖い。食べろと両手を広げて仁王立ちするなんて度胸、俺には備わってない。


 獣が間近まで迫って来た。すぐ側で鼻息がする。目を閉じて息を止めた俺はガタガタ震えるしかない。頭の中は真っ白で何も考えられない。獣が動く気配を感じるだけだ。すると獣はフゴォと鼻息を吹きかけてきた。生温かい空気が腕に当たる。食べるならさっさとしてくれ。長い恐怖は耐えられない――その直後だった。硬く湿った何かが俺の左肩を横へ強く押した。その力で身体は簡単に地面に倒されて、俺はうつ伏せの姿勢になる。……な、何をしてるんだ? 俺をもてあそぶつもりか? 困惑しながら顔を上げると、目の前には口を開けた獣の顔があった。食べるのか! ――俺はすぐに伏せて頭を抱えた。


 ガブ、というよりは、カプ、という感触が、俺の腰辺りにあった。上着を着てないから牙の尖りを直に感じる。が、皮膚を貫かれた感覚はちっともないし、声を上げるほどの痛みもない。どうなってる? 俺は食べられたんじゃないのか? そう戸惑ってると、全身がフワリと浮き上がった。そして獣は俺をくわえて踵を返す――また、なのか。また俺を巣まで運んで何かする気なのか。そうだとして、じゃあ何をするんだ? 前は俺が飢え状態で、こいつは食べ物を採って来てくれた。でも今はもう飢えてない。身体もある程度は動くし、巣まで運んだとしても俺が逃げ出す危険を作るだけだと思うが……。


 手足をブラブラ揺らして俺は運ばれて行く。新鮮な空気を吸い込み、明るい森の景色を眺める。そこで俺は少しの違和感を覚えた。何か、見覚えのない景色のような……。別にこの森の景色を把握してるわけじゃないし、狩人だからって一度見た景色を全部憶えられてるわけでもない。ただ前見た巣までの景色とは違うような気がするんだけど……。


 そう感じたのは間違いじゃなかったようだ。獣は俺をくわえながら、やけに長く歩き続けてた。目的地が巣ならもうとっくに到着してるだろう。向かってるのはこいつの巣じゃない。じゃあどこへ……? そう考えると若干の怖さもある。何しろこいつの思考がまったく読めない。俺を狩りながら食べないし、食べ物まで与えて世話を焼くし、俺をどうしたいのか全然見えてこない。だけど、少なくとも今は俺を食べる気はなさそうだ。こんなに巣から離れて食事ってことはないだろう。俺はまだ最悪の結末にたどり着かなくていいらしい。


 そのうち、鳥の鳴き声に混じって水の流れるような音が聞こえてきた。サーっと穏やかな音から、流れの緩い川を想像させる。どこまで歩いて来たんだろうか。普段聞こえない水の音がするってことは、大分巣から離れたと思うけど……俺はどこで、何をされるのか。不安しかない。


 獣は水の音がするほうへ向かってるようだった。徐々にその音が大きく、近付いて来る。そしてその正体が目の前に現れた。想像した通り、あったのは川だった。太陽の光を反射して水面がキラキラ輝く、透き通った綺麗な川だ。ここを渡ってさらに先へ行くものと思ったが、獣はその手前で足を止めた。何だ? 何で止まる? と不安に感じてると、おもむろに俺を川べりに下ろした。……どういうことだ? こんなところが目的地なのか? 辺りを見ても川と木しかない場所だ。巣や食料庫みたいな変わったものは見当たらない。俺は獣を見上げた。獣はこっちをじっと見つめてくるけど、食べようとする素振りはない。……わからない。こいつの思考がまったく理解できない。川の側に俺を置いて、一体何がしたいんだ?


 獣がブフォっと鼻を鳴らしたかと思うと、頭を小刻みに揺らし始めた。いきなりのことに俺は思わず身を引いてしまった。怒ってる、わけじゃなさそうだけど……何かの主張か? 獲物の分際で馬鹿な真似はするなよとでも言ってるんだろうか。こいつの目的がまるでわからない。


 すると獣が歩き出した。俺は咄嗟に身構えたけど、こっちには構わずに横を素通りして行く。え? と驚いて見てると、獣は躊躇なく川に入って行く。毛むくじゃらの太い足がバシャバシャと飛沫を上げて川の中ほどまで行って止まる。そしてぐるりと頭だけを俺に向けてきた。その目はどこか、お前も来いと言ってるような気がする。俺を威嚇したり、逃げるなよと監視する眼差しには見えない。入って来いと誘われてる――少し疑いつつも、俺は立ち上がって、ゆっくり川に近付いた。靴を脱いで、爪先を流れる水に付けると、ひんやりした冷たさと同時にちょっとの気持ちよさを感じた。それで俺は意を決した。ズボンの裾を膝までたくし上げて、慎重に川に足を入れる。深さはそんなにない。川底のゴロゴロした小石を踏み締めて、怪我をしてる右足をかばいつつ、転ばないように前へ進んだ。水の流れも無理なく歩ける強さだ。これ以上だと今の俺じゃ足を取られてたかもしれない。


 その時、前にいる獣の巨体が横に倒れて、派手に飛沫をまき散らした。それを浴びながら俺は獣を凝視する。どうしたんだ? 心臓発作か? と驚きかけたが、別に獣は体調の異変で倒れたわけじゃなかった。足や身体を動かして、子供のように無邪気に水浴びをしてるだけだった。元気に動いてる様子に、ちょっとだけ残念な気がよぎるも、俺はハッと気付いた。……こいつは水浴びをしてる。そんな場にどうして俺をわざわざ連れて来た? しかも川に入れと誘うような眼差しも向けてきて。そこから考えられる理由は一つ……俺にも、水浴びをさせたかったんじゃないだろうか。食べ物を採って来て俺の世話を焼いてるこいつならあり得る話だ。でも、だとしたらどうしてそこまでのことをするのか。どうせ食べて腹に納まる相手だっていうのに……俺、こいつに臭がられたのか? まあ確かに、人間より嗅覚が優れてるだろうこいつには、今の俺の臭いはきつそうだけど……。きっかけは何にせよ、一緒に水浴びをさせようとしてることには違いなさそうだ。まったく、いいタイミングだ。俺自身も限界を感じてた時にこんなことをしてくれるなんて……いや、まさか、それを察して連れて来た、ってわけじゃないよな。そこまでこいつが気持ちを汲み取ってくれるわけないか。さすがにそれは考え過ぎだよな。


 水浸しになった獣が立ち上がったと見てたら、その身を大きく震わせた。銀色の体毛が外に広がって、そこから無数の水飛沫が矢のように飛び散る。川の中じゃ身を隠す場所なんてあるわけもなく、俺は手で顔をかばいながら、その水飛沫を全身で受け止めるしかなかった。水を弾いてすっきりした獣に代わって、今度は俺がびしょ濡れになってた。そんな俺を獣がじっと見てくる。そこに感情なんて読み取れないけど、何でか、見てると笑いが漏れた。自分でもよくわからない気持ちだ。でも今だけはこいつのことが怖くなくなってた。ちょっと可愛いとさえ思ってしまった。俺を食べようとしてるやつなのに……少し情緒不安定なのかもしれない。長いこと洞窟に閉じ込められりゃ、少しおかしくもなるか。


 何はともあれ、俺が欲してた水が今、大量に使える状況なんだ。こんな機会がまたあるとは限らない。今のうちに思う存分身体を綺麗にしておこう――俺は手ですくった水を惜しみなく首や腕にかけた。こすって汚れを落とし、またかける……まさに身も心も洗われていく。はあ、気持ちいい。身体のかゆみも消えていく。中でも特にかゆみがあった頭を洗おうと、俺は水面に顔を近付ける。そしてそのまま一気に頭を突っ込んだ。水中でガシガシと髪を洗って、勢いよく頭を上げる……ふぅ、最高だ! 生き返った心地だ。自分から漂う悪臭が消えて、すべてがさっぱりした。


 そんな俺を気にすることなく、水浴びを終えた獣は、すぐ横を通って川から上がって行く。そして川べりに座り込み、こっちを眺めながら休み始めた。……俺を待ってるんだろうか。獣にもそういう気遣いの心があるとは。それともこいつが異質なだけか? 待っててくれるっていうなら、こっちはありがたく水浴びを続けさせてもらおう――獣に監視されながらも、俺は身体を洗い続けた。


 しかし、本当に何でこんなに俺の世話を焼きたがるのか。狩っておきながら全然食べようとしないのも謎だ。洞窟に入れて食べ物を採って来て、水浴びまでさせる……獲物にそこまでやってやる理由なんてないと思うが――そこで俺はふと閃いた。この、まるで家畜のような世話の焼き方、獣は本当に俺を家畜として扱ってるんじゃないだろうか。こいつにそういう意識はないかもしれないけど、でも他の動物よりこいつは明らかに賢い。そんなやつが俺を家畜扱いしててもそこまで不思議じゃない気もする。そう考えると、世話焼きの行動にも筋が通る。水浴びをさせるのは衛生管理で、食べ物を与えるのは生かし、肥え太らせるため……そうか。すぐに食べないのは、俺を太らせるためなのか。食べ頃になるまでは洞窟内で生かしておくっていう魂胆なんだろう。いろいろな疑問があったけど、これで腑に落ちた。そして俺が食べられる結末が待ってることも改めて自覚できた。


 離れた川べりに座る獣を横目で見やる。のんびりしてるように見えるけど、その目はしっかり俺のことを見据えてる。あいつとの距離はそこそこ離れてるが、それは人間の俺の感覚であって、獣からすれば二、三歩で行ける距離だろう。今俺が走って逃げたとしても、あいつなら一瞬で捕らえられる距離だ。そもそも、俺は足を怪我してるし、今は動きづらい川の中だ。今すぐ走って逃げるのはあまりに無謀な考えだ。あいつの目もあるし。せめて、獣がウトウトし始めてくれればいいんだけど。そうすれば俺は走らず、忍び足で逃げることができるだろう。でもその期待は薄い。こっちを見てる獣の目はぱっちり開いてる。そこに眠そうな気配は微塵もない。うたた寝を待つのは時間の無駄だな。となると、他にはどんな逃げ方があるだろうか……この川を使って上手く逃げられないものか。獣も水の中じゃ動きが鈍くなるだろうし、それを利用して……いや、川を使うなら動きづらさじゃなく、この流れか。この辺りは緩い流れだけど、下って行けば急流の箇所もあるかもしれない。水深も浅めとは言え、膝下ほどはあるから、ギリギリ浮くこともできるだろう。浮いて流されれば怪我してる俺でも素早く獣から逃げられる……いい方法じゃないか? ただ、川の先に急流があるかはわからない。あっても俺が流されるだけの空間がなきゃ意味ない。岩の隙間に挟まるなんて洒落にもならない。実行するには確認しておきたいところだけど――俺はもう一度獣のほうを見やった。


 それと同時に、獣が突然立ち上がって、俺は思わず肩を跳ねさせた。いきなり何だ? さすがに俺を待ち疲れたのか? でも獣の視線は俺のほうを見てない。俺を通り越した、森の遠くのほうを見つめてた。つられるように俺もそっちへ目をやる。……何も、なさそうだけど。生い茂った雑草と木しか見当たらない。それとも獣の目には何かが見えてるんだろうか。随分と真剣な様子で、耳をピンと立てて見てる。明らかに何かを感じてるようだが……。


「――!」


 気のせいか? 今、かすかに、人の声みたいなものが聞こえたような――俺はいるわけないとわかりつつ、辺りを見回した。当然人影なんてない。声らしきものも、かなり遠くから聞こえてきた。川の下流のほう……獣が見つめてる方向か? また聞こえないだろうか――俺は視線を定めて、じっと耳を澄ました。


「――ヴィオ、どこ――んだ! 返事をしろ!」


 さっきより鮮明になった声と言葉に、俺は文字通り息を呑んだ。聞き取れない部分はあるけど、言ってることはわかった。『リヴィオ、どこにいるんだ! 返事をしろ!』――声はそう言ってる。リヴィオは俺の名前だ。つまりこれは、村の人間が捜しに来てくれてるってことだ。男の声だから、狩人仲間かもしれない。じゃないとこんな森の奥まで入って来られないだろう。獣に狩られて何週間か経ってるはずだが、それだけ時間が経っても、まさか捜してくれてるなんて。普通なら熊や狼にやられたとみなして諦めるもんだけど……そうか。俺の場合は死体も血の跡もない。残されたのは狩りで使う弓矢なんかの道具だけだ。それだと動物に襲われたってだけじゃなく、思いがけない事故に遭った可能性も考えるだろう。生存してる手掛かりを探しに、小さな希望も諦めずに、時間を割いて捜しに来てくれるなんて……早まらなくて本当によかった! 俺は、まだ生きてるんだ。ここにいるんだ……!


「おーい、俺はここだ!」


 大声を上げて俺は川の中を歩いた。何度も何度も叫んで、慌てて転びそうになったけど、それでも前に進んで声を上げ続けた。今叫ばなきゃもう見つけてもらえないかもしれない。食べられる前に見つけてもらうんだ。そして村に戻ってアリーンをこの手で抱き締めて――


 その時、バシャンと水の音がして俺は振り向いた。すぐ目の前に獣の顔が迫ってて思わず悲鳴が漏れた。く、食われる! 身を硬くした俺に獣は口を開けてその牙を身体に――突き刺しはせず、強引に腰部分をカプッとくわえると、川から上がって巣のある方向へ引き返し始めた。……え、帰るの? ちょ、ちょっと待って、靴が――俺はくわえられた姿勢のまま、どうにか川べりの靴に手を伸ばして回収すると、あとは運ばれるままでいた。遠ざかって行く川に後ろ髪を引かれるけど、この状態で暴れても胴体を真っ二つにされるだけだ。せっかく助けが近くまで来てるのに……でも焦りは禁物だ。村の人間が俺を捜してくれてることはわかったんだ。それなら一日でも長く生き伸びないと。こいつに食べられないよう、上手く動くんだ――降って湧いた大きな希望に、俺は久しぶりにやる気をみなぎらせた。

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