五話
鹿の肉を食べ終えて、ワタシは満腹で重くなった身体をよいしょと立ち上がらせて寝床から出た。いつもなら食後はここで一眠りするのがお決まりだったけど、今はそうもいかない。森を歩いて木の実のなった枝を折り、キノコをいくつか採って貯蔵庫に持って行く。入り口の石を少しどけて、その隙間から採って来た食料を鼻先で押し込んでやる。そうすると中の獲物は警戒しながらもそれに近付いて来て、ワタシがあげたものをつかんで食べ始めてくれる。そんな様子を見てると、気持ちが和むのはどうしてなのか、自分でもよくわからない……いや、わからないのは最近の自分自身だ。
ワタシはコレを食べるつもりで狩ったはずだ。お母さんに教えてもらったすごく美味しい肉。だから惜しんでここに隠してたはずなのに、どういうわけか最近、コレを見ても食べたいっていう気持ちがあんまり湧かなくなってた。あれだけ楽しみにしてたのが、今はそうでもなくなってる。そんな自分の変わりように正直、戸惑ってるところもある。自分の気持ちなのに、その理解がまだできてない。何でワタシはせっせと食料を運んでるのか。これはそもそも獲物を新鮮に保とうと生かしておきたかったからで、食べる気がないなら与える必要もないんだ。死んだって構わないのに……でもワタシはやめられずにいる。むしろやりたがってるのかもしれない。だって、コレには死んでほしくないって思ってるから……。
隙間から中をのぞいて、キノコをムシャムシャ食べる獲物を見つめながら考える。ワタシは何で死んでほしくないなんて思ってるんだろう。それもわからない。だけど自分がこう変わったきっかけみたいなことはわかってる。それは獲物がワタシに寄り添って眠ってたのを見つけた時だ。あの瞬間、不思議な感覚を覚えたんだ。心がギュッとなって、ホワァってなって……言葉じゃ表しにくいけど、本当にそんな感じで、初めての感覚だった。どかすこともできたけど、このままにしておこうって思った。起こしたら可哀想かなって……可哀想? 獲物なのに? ワタシ、本当にどうしちゃったんだろう。コレのことをやっぱり、可愛く思い始めてるのかな……。
というのも、何日か前、その日は朝から雨が降ってて、ワタシは獲物の様子を見ておこうと石をどかして中をのぞいてみた。獲物は暗い貯蔵庫の隅でうずくまって全身をガタガタ震えさせてた。顔は引きつって、かなり寒がってそうで、それもそうだなって思った。だってコレは頭にしか毛が生えてないんだもん。他はツルツルだから、ワタシよりもっと寒いんだろうなって。歯をカチカチ鳴らしてる様が痛々しくて、見てられなくて、何となく獲物に近付いてはみたけど、どうしたらいいのかわからなくて突っ立ってたら、獲物がおもむろに震える足を伸ばしてきて、ワタシの前足に触れてきた。何だ? って見てたら、獲物はワタシが何もしてこないとわかって、前足にしがみ付くようにくっついてきた。その時は意味がわからなかったけど、獲物から伝わる震えがだんだん治まってくるのを感じて、ああ、ワタシの体温で温まってたのかって気付いた。それならもっと温まれと思って、ワタシは両前足で獲物を囲ってやった。これに少し驚いてたみたいだけど、足にぴったりくっついて休んでる姿に、ワタシは得も言われぬ可愛さを感じてしまった。美味しい肉に、可愛いなんて思うとは……自分でも変だと感じたけど、実際そう思っちゃったんだからしょうがない。最近のワタシは、この獲物のことばっかり気にしてる。
そんな日を続けてて、今日も獲物の様子を見ておこうと思って、貯蔵庫の入り口の隙間から中をのぞいてみた。これがもう日課みたいになってたから、塞いでる石はあらかじめ、獲物が通れない程度にちょっとずらしてある。最初はこじ開けて逃げられる心配もしたけど、時間が経ってもそんな素振りがなかったから、今じゃそのままにしてある。
今日も元気にしてるかな――なんて思いながら見てみると、獲物は初めて見る行動をしてた。身体の上半分を覆ってたものを取って肌を出した状態で、何やら前足で身体をさすってる。……何をしてるんだ? かゆいのかな? でも時折、前足を地面付近に持って行き、そこで何かをしてるみたいだった。耳を立ててよく聞いてみれば、パチャ、と水みたいな音が聞こえてくる。それからまた身体をさすり始める……これは、もしかして水浴びか? ワタシもたまに川でやることがある。暑かったり、身体が泥でグチャグチャになって気持ち悪い時なんかにやるとすっきりするんだ。獲物も同じように水浴びをするとは知らなかった。でもこの中に水なんてあったかな。見た覚えはないけど……まあそんなことはいい。今の時期は暑くないから、きっと獲物は身体の状態が気持ち悪いんだろう。それで我慢できなくて水浴びなんかを……。
しばらくその様子を眺めてみる。水で濡らした前足で、首や胸、脇腹をさすってる。背中もさすろうとするけど、曲げた足はなかなか届かない。何度か試した後、結局諦めてしまった。何だか大変そうだ。背中にも水を浴びたかっただろうに、あれじゃ気持ち悪いままだ。川に飛び込めば全身をさっぱりできるのに。可哀想だな……。
ああ、とワタシは閃いた。それなら川へ連れて行ってあげればいいじゃないか。あんなちょっとの水の量じゃ満足な水浴びなんかできない。だけどたくさん水がある川なら、獲物も喜んでくれるはずだ。そして元気な状態が続く……うん、そうだ。そうしよう!
ワタシは石を押しどけて中へ入った。すると獲物はギョッとした顔で驚き、奥の壁にくっついてへたり込んだ。毎日食料をあげてても、ワタシにはまだ慣れてくれないか。ちょっと寂しい気分……。
獲物は両前足を重ねて自分の頭を守ってる。そんなにワタシのことが怖いの? 怒鳴ったりなんかしてないのに。そういう姿勢を取られると、上手くくわえづらいんだよね。ちょっと失礼――ワタシは鼻先で突いて、獲物をうつ伏せの姿勢に変えさせる。そうして丸まったところで、上から胴体をくわえて持ち上げた。
穴から出て、早速川へ向かう。今日は暑くも寒くもないし、日差しも十分あるから、水浴びをしても気持ちいいんじゃないだろうか。水に入れたら、コレが喜んでくれるといいんだけど――少しワクワクしながら、ワタシは川へ続く道を歩き進んだ。
しばらく行くと、視線の先に目的の川が見えてきた。ここはワタシも水浴びをする場所だ。ちなみに魚を捕ったのはもう少し上のほうで、ここはそこから下った場所になる。この辺りの川だと水の流れが緩やかで、川に入っても踏ん張る必要がないから、水浴びをする時は決まってこの場所でやってる。
川べりに獲物を下ろしてやる。さあ、川だぞ。たくさん水があるぞ。好きなだけ水浴びをしていいぞ――そう心の声で話しかけながら、ワタシは獲物を見守った。でも獲物はキョトンとしてこっちを見上げるばかりだ。どうやらまだワタシの気持ちが伝わってないみたいだ。こっちじゃなく、川を見ろ。お前が求めてたものが目の前にあるだろう――ワタシは鼻を鳴らし、頭を振って川に意識を向けさせようとしたけど、獲物はびくつくだけで一向に動いてくれない。……もうっ、仕方ないな。
ワタシは自ら川に入って見せた。四本の足が浸かり、ジャブジャブと歩く。そしてすぐに振り返って獲物に入って来いと目で誘う。最初こそぼーっと見てるだけの獲物だったけど、何か察してくれたのか、のろのろと立ち上がると、怪我した足をかばいつつ、足を覆うものをたくし上げてゆっくり川に入って来た。やっとわかってくれたか――一安心したワタシは川を出ようとした……けど、ここしばらく水浴びしてなかったなと思って、自分もついでにすっきりしようと思い、川の中ほどまで進んだ。そしてそこでゴロンと転がって、流れて来る水に全身を浸した。うーん、やっぱり水浴びって気持ちいい。しっかり汚れ、落としておこう――川底で身体をこすって、毛の奥まで綺麗にする。隅々までやってから立ち上がり、全身にまとわり付いた水をブルブル身体を振って取り払った。……ふう、さっぱりした。
獲物もちゃんと水浴びしてるかなと見てみれば、頭から後ろ足までもう水にまみれてた。大丈夫みたいだな、と思ってたら、こっちを見つめてた獲物が急にフフフと妙な声を出した。うつむいて、小刻みに肩を震わしてる。何か異変か? とも思ったけど、そこに苦しげな様子は感じない。むしろ楽しそうな雰囲気がある。よくわからないけど、問題がないなら、まあいいか。
獲物は水をすくっては自分の身体にかける。そしてこすって汚れを落としてる。その様子はとても気持ちよさそうだ。おもむろに頭を水に沈めて、ワシャワシャと毛をかき混ぜるように洗うと、バッと上げた顔は水を滴らせながらも爽快な表情を浮かべてた。それにワタシの心はほっこりする。嬉しそうだ。連れてきてあげてよかったな――そんな姿を横目に、水浴びを終えたワタシは先に川から上がって待つことにした。
身体を綺麗にする獲物だったけど、やっぱりワタシが怖いのか、その目がちらちらとこっちを見てくる。そのせいなのか、水浴びをする動きもだんだんぎこちなくなってきた感じがする。さっきまではあんなに気持ちよさそうにしてたのに、急にどうしちゃったんだろう。肌がツルツルだから、水に浸かり過ぎて寒くなってきたのかな。ワタシは全然大丈夫だけど、獲物はそうじゃないのかもしれない。ガタガタ震え出す前に連れ帰ったほうがいいかな――そんなことを考え始めた時だった。
「――、――!」
ワタシはピクンと耳を立てた。今、何か聞こえた。叫び声なのか遠吠えなのか、よくわからないし聞き取れないけど、でも確かに、遠く離れた森の奥から何かの声が聞こえる。聞き慣れない声……何だろう、胸がザワザワする――川べりで座ってたワタシは、落ち着かない気分に押されて立ち上がった。これに獲物はビクッと驚いて後ずさる。だけどそこでまた同じ声が聞こえた。
「――オ――コダ――オ!」
距離がちょっとだけ近付いたように感じる。声の断片が聞き取れたけど、その意味まではわからない。一体何の声だ?
ふと見ると、獲物は動きを止めて一方向を見つめてた。それは声が聞こえてくる方向……コレも声に気付いたようだ。警戒する時の兎みたいに、首を伸ばして声のするほうへじっと耳を澄ましてる。
「――ヴィオ、ド――ンダ! ヘン――ロ!」
また声が……どんどん近付いて来てる? ここにいると危ないかも――
「オーイ、オ――コダ――!」
突然獲物が大声で何やら叫び始めた。怪我をした足で川の中を歩きながら、声のするほうへ向かおうとしてる。これは一体――ワタシは動転しかけたが、ハッと気付いた。もしかしてこの声は獲物の仲間の声か? それならワタシが聞き慣れない声のはずだ。だけどコレは森の外で暮らしてるはずだ。ワタシが縄張りにしてるこんな場所まで来るなんてこと滅多にないのに……まさか、コレを助けに来たとか? コレは群れで暮らしてるっていうから、コレがいなくなって仲間が捜しに来たってことも考えられる……。
ワタシは叫び続けてる獲物を見た。明らかに声に反応してる様子から見るに、獲物も多分仲間を呼んでるんだ。自分はここだぞと……それは駄目だ! 絶対に駄目だ! コレはワタシが捕まえた大事な獲物だ。まだ味わってもないのに仲間の元へ返すわけにはいかない――ワタシは急いで川に飛び込んだ。
「ヒィッ!」
背後から近付いたワタシに獲物は怯えた声を上げたけど、それには構わずワタシは水浴びで濡れそぼった獲物を強引にくわえ込んで川から上がる。この状態になるとさすがに叫んだり暴れたりする気がないのか、大人しくなすがままになった獲物をくわえて、ワタシは足早に寝床へ引き返して行った。
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