第3話 病と祈り

 昼を過ぎた頃、弥太郎の容態は急変した。


 朝よりもさらに顔色が悪く、唇は紫がかっていた。

 呼吸は浅く、喉の奥でゼーゼーと音を立てている。

 額に当てた布は、すぐに熱で乾いてしまう。


 「……これは、まずい」


 カイは、弟の胸に耳を当てた。

 呼吸音が乱れている。

 肺に水が溜まり始めている。

 このままでは、夜を越せないかもしれない。


 「おしの、どうだい?」


 おっかさんが、畑から戻ってきた。

 手には、薬草の束と、川で汲んできた水の入った桶。


 「熱が……下がらない。咳もひどくなってる」


 「そうかい……じゃあ、あの人を呼んでこようかね」


 「あの人?」


 「村の薬師さまさ。山の上に住んでるんだよ。

  ちょっと変わり者だけど、腕は確かだって評判でね。

  おまえが小さい頃も、何度か診てもらったんだよ」


 カイは、すぐにでもその人物に会いたかった。

 この時代の医療がどれほどのものか、確かめる必要がある。

 そして、何より——弥太郎を助けるために。


 「私が行くよ」


 「なに言ってるんだい、まだ本調子じゃないくせに。

  おっかさんが行ってくるよ。おまえは弥太郎のそばにいておくれ」


 そう言って、おっかさんは手ぬぐいを締め直し、急ぎ足で家を出ていった。


 残されたカイは、再び弟の枕元に座り込んだ。

 弥太郎の小さな手を握る。

 その手は、驚くほど軽く、そして熱かった。


 「……くそ、何もできない」


 科学者としての知識は、ここでは無力だった。

 抗生物質も、酸素吸入器もない。

 あるのは、薬草と、祈りだけ。


 「姉ちゃん……」


 弥太郎が、うわごとのように呟いた。

 目はうっすらと開いているが、焦点は合っていない。


 「ここにいるよ。大丈夫、すぐによくなる」


 「……ほんと?」


 「うん。絶対に、治る」


 その言葉に、どれほどの根拠があっただろうか。

 だが、今はそれしか言えなかった。

 この子に、希望を与えることしかできなかった。


 やがて、戸の外から足音が聞こえた。

 おっかさんが戻ってきたのだと思ったが、違った。


 「おしの、薬師さまをお連れしたよ」


 戸が開き、ひとりの男が入ってきた。

 年の頃は五十代半ば。

 長い髭をたくわえ、麻の衣をまとっている。

 背は高く、目は鋭い。

 だが、その瞳には、どこか優しさが宿っていた。


 「おしのか。久しぶりだな。……覚えておるまいな」


 「……はい」


 「よいよい。弥太郎の様子を見せてくれ」


 薬師は、手早く弟の脈を取り、舌を見せ、胸に耳を当てた。

 その動きには、無駄がなかった。

 カイは、思わずその所作に見入っていた。


 「……これは、肺の病じゃな。

  熱が下がらねば、命に関わる」


 「治せますか?」


 思わず、カイが口を挟んだ。

 薬師は、少し驚いたように彼女を見たが、すぐにうなずいた。


 「薬草を煎じて飲ませる。

  それと、夜は冷やさぬように。

  あとは……神さまに祈ることじゃな」


 「……祈り、ですか」


 「そうじゃ。人の命は、理屈だけではどうにもならん。

  だが、祈ることで、心が強くなる。

  それが、病を追い払う力になることもある」


 カイは、黙った。

 科学者としての彼なら、鼻で笑っていたはずだ。

 だが今は、笑えなかった。

 この世界では、祈りが“最後の手段”なのだ。


 薬師は、薬草を渡し、煎じ方を教えてくれた。

 そして、静かに去っていった。


 その夜、カイは囲炉裏の前で薬を煎じながら、ふと思った。


 「もし、俺がこの子を救えたら……それは、俺の知識のおかげか?

  それとも、この世界の“祈り”の力か?」


 答えは、まだ出なかった。

 だが、ひとつだけ確かなことがあった。


 ——この世界では、命が、あまりにも脆い。


 そして、だからこそ、重い。

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