第2話 契約更新はベッドの上で

 事後。

 賢者タイム、という俗な言葉があるが、今の私はまさにそれだった。

 ただし、そこに悟りはない。あるのは深淵のような自己嫌悪だけだ。


 私はシャワーを浴び、完璧に身支度を整え、ダイニングテーブルに向かっていた。

 目の前にはノートパソコン。画面に映し出されているのは、大学近くの不動産情報サイトだ。

 『1K、バス・トイレ別、オートロック完備』

 理想的な城。ここには、脱ぎ散らかされた服も、生ゴミのような生活音もない。


「……りっかちゃん、本気?」


 背後から、情けない声が聞こえる。

 同居人、夏野花火が、私のシャツ(勝手に着ている)を羽織っただけの姿で立っていた。

 首筋には、私が無意識につけてしまった赤いマークが見える。

 直視できない。あれは私の理性が敗北した証拠物件だ。


「本気だよ。さっきのは事故。交通事故みたいなもの。ノーカウントです」

「事故で六回もイくかなぁ……」

「黙って」

(あんなに気持ちよくされたら、誰だってそうなる。私のせいじゃない、身体の構造のバグだ)


 私はマウスをクリックし、内見予約のボタンにカーソルを合わせる。

 花火が慌ててテーブルに身を乗り出した。


「待って! 反省してる! これからはちゃんとするから! 掃除も洗濯も、全部アタシがやるから!」

「……はあ」


 私は大きく溜息をつき、パソコンから目を離して彼女を見上げる。

 芸術学部の天才様が、必死の形相だ。

 彼女が私に執着する理由はわかっている。私の作る完璧に栄養管理された食事と、埃一つない清潔な寝床。

 彼女にとって私は、都合のいい「高性能ルンバ兼シェフ」なのだ。


「全般やるって言ったね? 言質とったよ」

「やるやる! 任せて!」

「じゃあ、まずあのシンクの惨状を何とかして。十分以内に」


 花火は「了解!」と敬礼し、キッチンへ突撃していった。

 ガチャン、バリーン、という不穏な音が響く。

 ……わかっていたことだ。

 五分後。

 彼女が得意げに持ってきたのは、水浸しの皿と、なぜか欠けてしまったマグカップだった。


「……不合格」

「えー! 綺麗になったじゃん!」

「床が水浸しなんだけど。これ、誰が拭くと思ってるの?」

「自然乾燥?」

「出て行け」


 私は再びマウスに手を伸ばす。

 花火が私の手を両手で包み込んだ。

 まただ。この熱。

 さっきまでのイライラが、体温を感じた瞬間に急速に解凍されていく。


「わかった、家事は向いてない。認める。でもさ、りっかちゃん、最近肩凝ってるでしょ?」

「……は?」

「法学部の試験勉強でガチガチじゃん。アタシがほぐしてあげる。これなら、めちゃくちゃ得意だし」


 拒否する間もなく、花火の手が私の肩に回る。

 彼女の指は、普段は絵筆やペンタブを握るための繊細な道具だ。

 けれど、人体に触れる時だけは、恐ろしいほどの探知能力を発揮する。


「……っ」


 親指が、凝り固まった筋肉の芯を的確に捉えた。

 絶妙な圧。

 強すぎず、弱すぎず、痛みと快感の境界線を正確になぞってくる。


「ん、ここ。すごい硬い。りっかちゃん、頑張りすぎだよ」

「……ふ、ん……」

(ずるい。そんな優しい声出さないで。調子が狂う)


 花火が私の耳元で囁く。

 吐息が鼓膜を震わせ、そこから痺れが背骨を伝って腰まで落ちる。

 マッサージ?

 いや、これはただの前戯だ。わかっているのに、身体から力が抜けて、椅子に深くもたれかかってしまう。


「ねえ、りっかちゃん。アタシが出て行ったら、誰がこの凝りをほぐしてあげるの?」

「……整体に、行くから……いい……」

(嘘。機械的な施術じゃ満足できない。花火の手じゃないと、奥まで届かない)


「整体の先生は、こんなところまで触ってくれないよ?」


 指先が肩から鎖骨へ、そして胸の谷間へと滑り落ちる。

 私はパソコンを閉じることさえ忘れ、ガクガクと膝を震わせた。

 契約更新の交渉テーブルは、いつの間にか性的な交渉の場にすり替わっている。


「条件……つける……から」

「ん? なぁに?」

「家事は……私が、やる。その代わり、家賃は……七割、アンタが払って……」


 私は喘ぎながら、なんとか譲歩案を提示する。

 プライドの欠片もない提案だ。

 家事は私がやる? 結局、私が損をしているだけじゃないか。

 でも、彼女を追い出してこの「手」を失う損失に比べれば、安いものだと計算してしまう自分が憎い。


「七割? いいよ。今月のコンペの賞金入ったし」

「それと……門限は二十二時……飲み会は事前申告……」

「はーい。他には?」


 花火の手が、スカートのウエスト部分に掛かる。

 もう、交渉どころではない。

 私の頭の中にある「契約書」の条文が、快楽のインクで黒く塗りつぶされていく。


「他には……、毎日……」

「毎日?」

「……帰ったら、すぐ……お風呂に入ること……」


 精一杯の衛生観念への固執。

 花火はクスクスと笑い、私の首筋に噛み付いた。


「わかった。一緒に入ろうね」

「……っ、馬鹿……」

(馬鹿は私だ。こんな詐欺みたいな契約に、身体一つでサインさせられてる)


 私は抵抗するのを諦め、花火の首に腕を回した。

 パソコンの画面が、操作がないためスリープモードに入り、黒く暗転する。

 そこに映ったのは、嫌そうな顔をしながら、誰よりも淫らな表情で同居人に抱きついている自分の姿だった。


 こうして、私たちの歪な同棲生活は更新された。

 理性が作成した契約書は破棄され、本能という名の拇印ぼいんが、また一つ押されてしまったのだ。


「あ、そうだ、りっかちゃん」


 熱に浮かされる意識の中で、花火が言った。


「大学では、他人だからね。話しかけないでよ?」

「……は? それはこっちの台詞……っ!」


 生意気な口を塞ぐように、花火の指がまた深く、私を突き動かした。

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