忘れられた祠

ギール

第一部:Tさんの証言1

宮田みやた君。地元の人間にすら忘れられてしまう祠ほど恐ろしいものは無かったよ」


 これは、私が施工管理の仕事で一緒に働いた外注のTさんから聞いた話だ。


 三年前の十月、TさんはG県で起きた土砂崩れの復旧作業に関わることになり、地質調査のためにH集落へ向かったという。H集落は二つの県の境目にある山奥の集落で、地図を詳しく見ないと存在すら気づかれない場所にある。


 Tさんは現地で災害対策会社の社員のBさんと、G県の地元職員Sさんと合流し、調査に必要な機材を携えて森へ入った。目的地には"禁足地"と呼ばれる一帯があり、地元の者ですら近づかないという噂があったそうだ。


 朝方から霧が出ていた。斜面は急で足元がぬかるみ、野鳥や虫の姿が次第に消えていった。音もない。耳鳴りのような静寂が辺りを包んでいったという。


「こんなに静かだったか?」


 Bさんが首をかしげて呟いたとき、Tさんは妙な違和感を覚えたそうだ。喉に言葉が引っかかり、背後から視線を感じた。振り返ると、霧と沈黙だけがあった。


「この辺り……たまに迷うんですよね」


 Sさんの声は低く、目線はどこか焦点が定まらなかった。

 数分前まで踏んでいたはずの道が、どこにも見えない。霧に溶けて、地面さえも滑らかに塗り潰されている。森全体が息を潜めている——Tさんはそう感じたという。


「こういう時は、その場で待った方が良いですね」


 Sさんは折り畳み式の椅子を人数分用意した。三人は雑談しながら霧が晴れるのを待った。

 徐々に視界が開け、足元が見えるようになった。レトロな外観の時計塔が現れた。


「あそこが、H集落唯一の時計塔です。昔はみんなあそこで時刻を確認してました」


 Sさんの昔話を聞きながら、Tさんはなぜか落ち着かない気持ちを拭えなかった。時計塔を見て、ようやく霧から出たという気がしたそうだ。


「時刻は十時半か。予定より二時間遅れですね」


 Tさんが時計塔を確認したとき、ふと気づいた。霧が晴れた木々の中に、何か小さなものがある。


「Sさん。時計塔から東側の木々の所にあるアレって何ですか?  祠みたいなのが」


「祠……?」


 Tさんが指差した先には、コケまみれで手入れされていない古ぼけた祠が、木々に囲まれる形で鎮座していた。

 Sさんの顔色が、ふっと曇ったという。


「いや、ちょっと待って。あんなの、前はなかった気がする。昔ここで遊んでたから分かるけど、あんな祠なんてあったっけ?」


 彼の声が、急にか細くなった。


 予定より遅れていたこともあり、彼らは村長に挨拶して作業に取り掛かった。ボーリング作業のための足場を組んだ時には夕方の六時半になっていた。帰り道、Tさんは再び祠を見たという。祠は森の奥からこちらを覗いているかのように、木々の影の中に沈んでいた。


 その夜、民泊で他の作業員に話を振ってみたが、誰も「そんなのは知らない」と言った。誰一人として、「あそこに祠があった」とは言わなかった。


「疲れてたのかもな」


 誰かがそう言って笑った。Tさんも笑ったが、内心では、あの灰色の屋根がはっきりと脳裏に焼きついていたという。


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