第2話:氷の令嬢は『可愛い』に弱い
翌日。
俺、春トは重い足取りで教室に向かっていた。
(昨日のあれ、全部勘違いだったら恥ずかしくて死ねる……)
冬月さんに「おはよう」と言われた(気がした)こと。
俺の心の声に反応して赤面した(ように見えた)こと。
一晩寝て冷静になると、すべて俺の願望が生み出した幻覚だったのではないかと思えてくる。
「……おはよう、春トくん」
教室に入った瞬間、鈴を転がすような美声が鼓膜を震わせた。
え?
顔を上げると、席についた冬月さんが、ほんの少しだけこちらを向いて会釈している。
(うわあああ! 今日も挨拶してくれた! しかも名前呼び!? 幻聴じゃないよな!?)
俺は一瞬でテンパり、挙動不審になりながら「お、おはよう」と返すのが精一杯だった。
冬月さんはまたプイッと顔を背けてしまったが、その耳はやっぱり赤い。
(か、可愛い……。朝から破壊力高すぎだろ。もしかして、昨日のは勘違いじゃなかったのか?)
期待と不安を抱えつつ、一時間目の授業が始まる。
しかし、ここで俺は致命的なミスに気づいた。
(……あ。世界史の教科書忘れた)
鞄の中を何度探っても、あるはずの教科書が見当たらない。
よりによって一番厳しい先生の授業だ。忘れたことがバレたら、罰当番+説教確定ルート。
かといって、隣の『氷の令嬢』に見せてくれなんて頼めるわけがない。
(うう……冬月さんに見せてなんて言えるわけないし……詰んだ)
俺が絶望に打ちひしがれていると。
ズズッ、と隣の机が動く音がした。
見ると、冬月さんが無言で自分の机を俺の方にくっつけている。
そして、開いた教科書を真ん中に置いた。
(えっ?)
俺が呆然としていると、彼女は視線も合わせずにボソッと言った。
「……見る?」
(天使だ……! 見た目だけじゃなくて中身まで天使だったのか!)
「あ、ありがとう! 助かる!」
俺は感謝して教科書を覗き込む。
――近い。
当たり前だが、教科書を二人で見ると距離が近い。
ふわりと、甘い柑橘系の香りが鼻をくすぐる。
(いい匂い……。シャンプーかな? それとも香水? いや、冬月さん自身の匂いか?)
邪なことを考えてはいけないと思いつつも、俺の思考は止まらない。
横目で見ると、冬月さんの整った横顔がすぐそこにある。
長い睫毛、スッと通った鼻筋、桜色の唇。
(マジで肌綺麗だな……。毛穴とか存在しないの? 陶器みたいで触りたくなる……いやいや、何考えてんだ俺!)
俺が心の中で葛藤していると、冬月さんが突然ビクッと震え、教科書を持つ手に力が入った。
見れば、彼女の顔は耳まで真っ赤に染まっている。
(あれ? 冬月さん、顔赤くない? 熱でもあるのかな? それとも俺が近づきすぎて不快だったか?)
(いや、でも……この距離で照れてる冬月さん、破壊力ありすぎでしょ。守ってあげたいこの可愛さ……!)
「ぅ……」
冬月さんが小さく呻き声を上げる。
その時、彼女の腕が動いて、机の端にあった消しゴムに当たった。
コロン、と消しゴムが転がり落ちる。
(あ、落ちる)
俺は反射的に手を伸ばした。
冬月さんも同じように手を伸ばす。
パシッ。
空中で、俺の手と冬月さんの手が重なった。
(うわあああ! 手触れた! 触れちゃった! 柔らかっ! すべすべ! もうこの手洗わない!)
俺の脳内は完全にパニック状態になり、普段以上に心の声がダダ漏れになる。
冬月さんも固まったまま動かない。
俺の手の上に、冬月さんの華奢な指が重なっている。
その体温が、ジンジンと伝わってくる。
「……っ!」
冬月さんは弾かれたように手を引っ込めるかと思いきや。
なぜか、その指先は震えながらも、俺の手をぎゅっと握り返してきたのだ。
ほんの一瞬だけ。
(え?)
驚いて顔を見ると、冬月さんは今にも泣き出しそうなほど真っ赤な顔で、俺を睨んでいた。
いや、それは睨んでいるのではなく、恥ずかしさに耐えている表情だった。
――ああ、もう。
(……春トくんの手、温かい……)
その瞬間、俺の頭の中に、誰かの声が響いた気がした。
それは幻聴かもしれない。
でも、俺の手を握った彼女の手の温もりだけは、間違いなく本物だった。
「コラ、そこ! いちゃついてないで授業を聞け!」
先生の怒声が飛んできて、俺たちは慌てて離れた。
クラス中の視線が集まる中、俺と冬月さんは二人して顔を真っ赤にしてうつむくしかなかった。
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