第2話 二度目の嘘

 巨木の家に、甘く焦げた匂いが漂い始めて、数日が経った。


 ミナトとエルデは、ぷりん作りに没頭していた。

 二人が味わった『贅沢なめらかカスタードぷりん』の再現しようと試みる日々だ。


 材料は、ニワトリの卵に似た幻獣の卵。ハチミツの様な甘さを持つ、妖精が集めた魔力の蜜などオヴァドの森にある素材で代用した。


 ぷりん作りに、ミナトは残業漬けの日々で培った『効率』や『精度』の癖が抜けなかった。


「もう一度、計量しましょう。火加減は弱火で。ここは理論的に考えて……」


 その顔つきはプロジェクトの締切を前にしたプロジェクトマネージャーのそれだった。

 額にしわを寄せ、黒縁のメガネをクイっと何度も持ちあげていた。


 一方のエルデは、全くの逆だった。


「ふむ、工程が多すぎるわね。こんな時は魔法で……!」


 ぷりん作りに、ミナトは仕事の癖で計量や温度管理にこだわり、エルデは魔法で工程を短縮しようとしては……二人は失敗を続けた。


 失敗したぷりんの山を前に、エルデはしょんぼりとうなだれ、ミナトは眉間の皺をさらに深くしてメガネがずれていた。


 エルデはミナトの表情を見て、唐突に吹き出した。

 エルデは笑いながら、ミナトの傾いたメガネを指でそっと押し上げた。


「笑って、ミナト。甘いものを作るなら、甘い顔をしたらいいんじゃないかな」


 エルデの屈託のない笑顔に、ミナトの張り詰めていた緊張が一気に緩む。


 失敗したぷりんや、甘すぎるスープのようなぷりんを、二人で笑いながら食べる日々。


 ミナトの日常には、笑い声などなかった。殺伐としたオフィスで、誰かを出し抜くか、上司に媚びるか。そんなギスギスした感情ばかりが日常を占めていた。

 だが、この森での日々は、失敗と笑いに満ちていた。失敗したぷりんの残骸と、エルデの無邪気さ。


 それは、ミナトの棘だらけだった心を、少しずつ、確実に溶かしていった。


 そんな日々の中で、ミナトは自分の身体に、奇妙な変化を感じ始めていた。

 ある日の午後、ミナトはふとメガネを外した。

 裸眼で周りを見て見ると、驚くほど焦点が合い、はっきりと見えたのだ。


「あれ? メガネの度が合わなくなってる?」


 近視が改善されたというより、まるで眼の機能そのものが高まったようだった。

 さらに顕著な変化は、小さな傷の治り方だ。熱した鍋に一瞬触れてできた火傷が、瞬く間に皮膚の表面から消えていく。

 

 エルデは、ミナトの指先の変化を心配そうに見つめていた。

 エルデが忠告した、「こちらの世界の食べ物に染まる」ことによる変化が始まっているのだ。


 だが、ミナトはそれを笑い飛ばした。


「頑丈になって残業に耐えられるなら好都合よ。もう、あっちの世界の疲労になんて負けないわ」


 ミナトの言葉を聞いて、エルデは胸の奥で複雑な痛みを覚えた。

 ミナトが変わっていく。

 心も身体も。この世界に馴染み、いずれ自分と同じ『人間』の定義から外れてしまう。


 それは、ミナトを永遠にこの停滞の場所に留めることを意味していた。


 その日の夜。

 

 狭いベッドに、二人は身を寄せ合って眠っていた。

 ミナトは、ぽつりと独り言のように漏らした。


「私は、あっちの世界で何になりたかったんだろうなぁ」


 ただ目の前のタスクをこなし、出世を目指し、目標を持てと怒られていた。

 だが、その目標の先に何があるのか、一度も想像したことはなかった。


 エルデは、ミナトの問いに真剣に答えた。


「ミナトなら、何にでもなれるんじゃない?」

「……ふふ、そうかな?」


 ミナトは、久々に心の底から笑った。その横顔は、初めて会った時のピリついたミナトとは別人のように穏やかだった。


 その笑顔を見た瞬間、エルデは決意した。

 

 ――私が貴女を好きになれば、帰還の扉は開く。


「そうだよ。それに、ここにいつまでも居られるのも迷惑だしね。そろそろ帰る方法を探してもらわないと」

 

 それは、ミナトを帰すために『ミナトを好きになる努力』を始めるための嘘だった。


 それから、数日が過ぎた夜。

 

 エルデは、ミナトが持ってきた『贅沢なめらかカスタードぷりん』の空のプラスチック容器を手に取った。


「これに、私の魔力を込めた『森の種』を入れておきましょう」


 エルデはそう言って、淡く緑色に光る小さな種を、容器の底に一つ入れた。


「いつか、貴女が帰る時、道に迷わないための道しるべとなるわ」


 それは、ミナトへの愛が完成した時、彼女が元の座標へまっすぐ戻れるようにするための、魔女の密かな願いが込められたお守りだった。

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