異世界で、魔女と、ぷりんを作る。
水乃ろか
第1話 残業帰りに異世界へ
金曜日の夜十二時。
ミナトはカツカツとヒールがアスファルトを蹴る音を立てて、駅前のコンビニの自動ドアをくぐった。
ミナトの黒縁のメガネの奥に宿る眼光はピリッと鋭く、いかにも「できる社会人」といった風情だが、その実は社会という名の巨大な洗濯機に揉まれ、疲弊の極致にあった。
今日も今日とて残業。
定時などとっくに過ぎ、皆が浮かれる金曜の夜も、ミナトにとってただの週末前夜に過ぎない。
齢二十八歳。OLとして勤務するミナトは自分が何を成し遂げたいのか、どこへ向かっているのかも分からない。
目標やビジョンもなく、女として組織で生き抜くために、ただ毎日を組織の歯車として奮闘し、そして削れていく。
この時間、スーパーはとっくに営業を終えているため、ミナトの生活を支えるのはコンビエンスストアだけだった。
そこで適当なコンビニ弁当を手に取り、次に彼女が向かうのはデザートコーナーだ。
これは一週間の激務を生き抜いた自分自身への、ささやかな、しかし絶対的に必要なご褒美だった。
ミナトが手に取ったのは――『贅沢なめらかカスタードぷりん』。
これはミナトの定番だ。一口で全てを忘れさせてくれる、濃厚な甘さを欲していた。
レジで会計を済ませ、重くなったコンビニ袋を下げて、ミナトは店を出た。
コンビニの自動ドアを出た、その瞬間。
世界が突然、悲鳴を上げて、歪んだ。
視界がぐにゃりと崩れ、色が分離する。
そして、足元の硬いアスファルトの感触はふかふかと柔らかい苔に変わり、街灯は発光する巨大なキノコに変わっていた。
辺りを見渡すと、さきほどまであったコンビニやマンションの姿も無く、ミナトの周りに存在するのは、ただひたすら深い森だけだった。
「え……は?」
ミナトはメガネの位置を指でクイっと上げた。
状況を理解しようとする理性が、脳内で警鐘を鳴らし続けた。
これは、錯覚、幻覚、過労? 疲労などによる幻覚でなければ、一体何だというのか。
しかし、混乱するミナトの前に、ふわりと宙を滑るようにして、一人の女性が現れた。
女性は手にランタンを持ち、そして彼女が乗っているのはホウキだった。
その女性の黒く長い髪が、月の光を浴びて輝いていた。
その姿は、絵本の中の『魔女』そのものだった。だが、シワだらけの老婆ではない。
むしろ、ミナトと同じくらいの年齢に見える、はつらつとした表情の女性だった。
魔女はホウキの上から、優雅な仕草で微笑んで言った。
「おやおや、久しぶりの迷子だね」
微笑んではいるが、その笑顔が逆にミナトの警戒心を強めた。
ミナトは社会で培った冷静さを振り絞り、理路整然と魔女に問うた。
「あの、ここはどこなんでしょうか? それに、あなたはどなたでしょうか? 私はさきほどまでコンビニに居たはずなのですが」
魔女はクスクスと笑っていた。
「こんな場所ではなんだから、とりあえず、家へおいで」
魔女が軽く手を振ると、ミナトの身体が宙にふわりと浮かんだ。
抵抗しようとする間もなく、身体が誘導されるようにして、森の奥まで運ばれていってしまった。
連れてこられたのは、一本の巨木だった。
その巨木の前には、異様な光景が広がっていた。
巨木の前には、巨大な金属の扉が鎮座している。
森の中に場違いな扉が、ポツンと立っている。
だが、魔女はその扉を見向きもせずに巨木の方へ向かった。
そして、その巨木には、窓や戸、煙突が見える。
魔女が振り返り、ミナトに言った。
「私の名前はエルデだ」
魔女はそう言うと、巨木の戸を開けて中へ入ってしまった。
ミナトがポカンとしていると、魔女――エルデが再び戸を開けて、ミナトへ言った。
「どうした、さっさと入れ」
エルデに促され、ミナトは警戒しながらも、半ば諦めて巨木の戸をくぐった。
中は木の中と思えないほど広く、そして綺麗に整理されていた。
アンティークのような家具が並び、暖炉には火がくべられて、壁一面に本棚が収められていた。
清潔で、温かく、ミナトの殺伐としたワンルームマンションとは対極にある空間だった。
エルデは暖炉の前の椅子に座り、ミナトに向き直った。
「ようこそ、オヴァドの森へ。迷子さん。そこに座ってくれ。ここの説明をしよう」
エルデと名乗った魔女は、ミナトの質問である、この世界について説明した。
この世界には、この森しか無い事。この世界は、時間が止まった世界であり、季節は永遠に春だという事。
そして、ここは『永遠に停滞した世界』であるという事。
「そして、私はこの世界を長年、一人で生きている。死ぬ事も無い、永遠の時を強いられている哀れな魔女さ」
その非現実的な言葉の数々に、ミナトは理解できないでいた。
「なにこれ、もしかして……夢?」
その言葉に、エルデはニヤリと笑い答えた。
「……ああ、覚めない夢さ」
エルデのその皮肉的な響きを含む言葉に、ミナトは思った事があった。
夢ならば、覚ます方法があるはずだ、と。
ミナトはエルデに、即座に尋ねた。
「どうやったら、ここから帰れるの?」
「帰る方法……か?」
その質問に、エルデは視線を逸らした。
エルデは迷い人が、元の世界に帰る方法を知っていた。
この巨木の前に鎮座する巨大な扉、『帰還の扉』が開く、唯一の方法を。
それは……『この世界の唯一の住人であるエルデが、迷い人を心から愛すること』。
だが、エルデは過去に、迷い人を誰も愛せなかった。誰も帰せなかった。
そして、帰れないと知った迷い人たちは、絶望し、泣き、叫び、狂い果てた末に、この世界に溶けていった。
「残念だが、私も見つけられていない。帰る方法が分かるまで、ここで暮らすといい」と、エルデは嘘をついた。
その時、『ぐうう』という音がなった。ミナトの腹の音だった。
ミナトは日付が変わるまで、夕飯も食べずにいた事を思い出した。
そして、手にしたコンビニ袋。そこにあった弁当は、すでに無くなっていた。
どうやら、こちらの世界に来る時か、魔女に連れてこられた時に失くしたようだった。
魔女がミナトの腹の音を聞くと、調理台へと向かい、木の実を煮詰めたスープをミナトに差し出した。
「腹が減ってるなら食べるといい。毒など入っていない。だけど、ひとつだけ忠告しておく。こちらの世界の食べ物を口にし過ぎると、少しずつ『人間』の定義から外れていく。完全に染まると、私のようになるからな」
「え……? はぁ、ありがとうございます」
その言葉を聞きつつも、ミナトはスープを一口飲んだ。空腹と疲労は、理性を遥かに凌駕していた。
スープを飲み干すと、傍らにあるコンビニ袋を思い出した。
「あ、そうだ」
ミナトはコンビニ袋の中にあった、ぷりんを取り出した。
ぷりんのふたを、ミナトが開けた、その時。
「そ、それはなんだ!?」
エルデが、まるで子どもの様に目を輝かせていた。
ミナトは、その表情に苦笑しながらも、スプーンでエルザに分け与えた。
エルデは興味深く、ぷりんを見つめて、それを口に入れた。
「……っ!?」
とろけるような甘さが、エルデの舌を、そして心を直撃した。
数百年ぶりに、エルデの表情が少女のようになり崩れた。
エルデがぷりんをぱくぱくと食べていると、次に興味を示したのは、その容器だった。
エルデは目を輝かせて、容器を舐める様に見つめていた。
「これは……この世界に無い物質ね。貴女の世界の座標を強く記憶しているようだわ」
「プラスチックの容器、が?」
その言葉に、なにやら魔女っぽい事を言っているなと、ミナトは感じた。
そして、食べ終わると、エルデがミナトへ言った。
「しかし、このぷりんとやらは美味いな! なあ、これを、なんとか作れないか?」
エルデの瞳は、純粋な探究心と熱意に満ちていた。
ミナトも、この世界で何をすればいいかも分からないし、魔女の世話になることもあり、それを了承した。
そこから、二人の奇妙な共同生活と、ぷりん作りが始まった。
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