善人?

 ……少し、過去について話そうと思う。

 確かあれは四歳……いや、五歳の頃だったか? ともかく幼稚園の頃の、まだ幼い私の話だ。


 あの時私はクラスの窓際で、一人レゴブロックで遊んでいた。ぽかぽかとした暖かな日差しに身を任せながら、黙々と手を動かしているのが心地よかったと記憶している。

 そこにふと先生がやって来て、「他の子と遊ばないの?」と私に尋ねてきた。

 私は単にレゴで遊ぶのが好きだったのでそうしていただけだったのだが、どうやら先生は私が除け者にされてしまったのではないかと心配してくれていたようだった。

 しかしそんな先生の心情など理解していなかった当時の私は、「別にいい」と素気なく返した。

 少し困ったような笑顔を浮かべた先生は、何かのごっこ遊びをしていた友達のグループのところまで歩いていくと、そこでこそこそと耳打ちをした。

 笑顔で頷いた彼らは、すぐにどたどたと私の下まで駆け寄って来て、「一緒に遊ぼ!」と言ったのだ。

 私が返答にたじろいでいる間に、彼らは続けて「貸して!」と言い、手を差し出してきた。


 私は一瞬の間、逡巡した。助けを求めるように先生を見た。

 しかし先生は、そんな私たちを遠巻きに見ながら微笑んでいた。

 ……笑っていたから、子供の私はもう、どうすることもできなかった。


 「いいよ」と、そう口にした途端、手の上の作りかけのブロックは奪われた。

 未完成だったそれがぐちゃぐちゃに作り替えられて行くのを、私は泣くことも笑うこともせず、ただ眺めていた。


 多分、この時に私は初めて『人の目』を見た。『目の奥で何を期待しているか』、『私に何を求めているか』を見た。

 そして、『自分の理想の姿』を、そこに見た。

 そうあらなくてはならないのだと、感じてしまった。

 

 小学校に上がり、私は学級委員を務めた。両親が求めたように勉学に励み、中学、高校においても高い成績を収め続けた。

 国立の大学に入って初めて女性から告白され、交際を始めた。

 研究室の先生の紹介で一流の企業に就職し、交際していた女性と結婚もした。その後できた二人の子供も、今では立派な社会人だ。

 正に絵に描いたような素晴らしい人生。しかしそれは全て、『誰かにとっての理想』の私の姿だ。私の望んだ姿ではない。

 私は自分の断固たる意志で、この人生を勝ち得たわけではない。

 

 だというのに、こんな自分を皆は善人と褒め称える。人格者、或いは素晴らしい聖人と。


 ――違う、違うんだ。私はそんな良いものじゃない。

 人助けなんて、『やりたくてやった』ことは一度もない。

 こんな素晴らしい自分に、『なりたくてなった』わけでは。

 ただ効率が良かっただけだ。何の望みも持たない私には……望みを忘れてしまった私にとっては、他者の指示通りに動くことが。


 どこかずっと罪悪感があった。嘘を吐いている、そんな気がしていた。

 多分、誰かに裁いて欲しかった。

 人生において『求められること』をほとんどやり終えてきた齢五十に至って、その思いはどんどんと強まっていた。


 そして、私の今に至る。


 ――ブ――……


 近いはずなのに遠い、クラクションの音。

 道路に飛び出した子供を咄嗟に駆け出して突き飛ばしたのは、肉体に染み付いた『善人の私』の行動だったか? それとも紛れもない『私の意志』だったか?

 ……どちらにしろ、迫るヘッドライトが瞳を焼き尽くす中で、私が少し安心していたのは事実だった。


 あぁ、これでやっと終わる。


 バキリという鈍い音がして、私はどこか晴れやかな気分で空を飛んだ。


 ◇ ◇ ◇


「――はい次、えーと阿佐ヶ谷正吾さんね」


 ……声がする。

 耳……で聞いているというより、頭の中に文字が浮かび上がってくるような感覚。

 考えている……ということは、意識があるということ?

 しかし何も見えない。いや、見るという機能自体が存在しない。付随して、動かすことのできる肉体自体が存在しないことに気付く。

 

「大丈夫ですよ、正吾さん。自分の姿を焦らずゆっくり思い出してください」


 自分の名前という確かな存在に安堵しながら、声の通りに朧げな意識で自分自身をイメージする。

 それに呼応するように、ぼんやりとした器のような“型”が自分の意識を包んで形成されていく。それは俗に肉体と呼ばれるものだった。


「いい調子ですよー……あれ、自分ではこういう風に見えているんですね? なるほど……」


「……どういう意味、ですか?」


 口を開く。それができることに自分でも若干驚きながら、私は尋ねた。

 頭の中の文字に声で尋ねる、というのも変な話だけれども。


「あぁいえ、失言でしたね。スイマセン……はてさて正吾さん、動きやすい体も手に入れたところで本題に入りましょうか」


 ぱん、と手を叩く音がする……いやそれだけじゃなく、先ほどまで文字のイメージだった声も、確かに音として聞こえ始めた。

 

 ……そうか、見えないのは目を閉じているからか。

 私はゆっくりと、既に存在する瞼を開いた。


 そこは暗闇のような日陰のような、或いは夕暮れのような、意識によって見え方の異なる不思議な場所だった。例えるとするならば、角度によって視界の移り変わる万華鏡のような。

 しかし一貫して、どうにも耐えがたい寂しさを覚える所だった。


 そしてそんな場所にぽつんと浮かぶ、焚火の炎のような揺らめき。見ようによっては天秤のようにも見える。

 声はどうやら、ここ響いているらしい。


「突然のことで困惑かと思いますが、まずはご挨拶を。ようこそ阿佐ヶ谷正吾さん。私は“審判官”です」


 声を発するぼんやりとした揺らめきは、言葉と共に徐々に人影のような姿を象り、私に向け一礼をした。

 どうにも奇妙な現象だが、不思議と恐れは感じなかった。

 審判官と名乗る影は、そのまま話を続ける。


「審判というのは、亡くなる方が天国に行くか地獄に行くか……それを決定するものです。ここまでは大丈夫ですか?」


「は、はぁ……」


 まだ訳の分からないことだらけだが、段々と状況が飲み込めてきた。

 どうやら、やはり私は死んでしまったらしい。

 そしてここはいわゆる死後の世界……という奴だろうか。天国か地獄かの審判をするということは、ここはまだそのどちらでもない場所ということだろう。


 まさか本当に死んだ後にも世界があるとは、実際に死んでみなければわからないものだ……なんて、少々場違いな感傷に耽る。


「ふむ、飲み込みが早くて結構ですね。正吾さんについては現在、天使、或いは悪魔の迎え待ちの状況です。私のここでの仕事は、あなたをそのどちらに引き渡すかを判断し決定すること、というわけです」


「仕事……死んだ後にも仕事があるんですね」


 非現実的な会話の中に現れた馴染み深い単語に、私は半ば反射的に反応していた。


「それはそうですよ。無いと秩序が保てませんからね……死んでからも仕事の話で辟易しましたか?」


「あぁいえ、むしろ少し安心しました」


 仕事があるということはつまり、何か役割があるということ。

 行動の原動力を他力本願で生きてきた私にとっては、その事実はただ自由に投げ出されるよりよほど安心できることだった。

 無論、そんな自分に自己嫌悪していたわけだが。


「……そうですか。まぁいいです。審判とは言いましたが、実際には既に私の方で粗方精査は終えています。今から行うのは主に正吾さんへの事実確認、そして最終決定ですから、すぐに終わりますよ……では説明も済んだことですし、さっそく始めましょうか」


 審判官が言い終わると共に、周囲の景色が変わる。

 いや、変わるというよりは、流れ出したという表現が正しいだろうか。

 世界そのものをスクリーンにして、目まぐるしく何かの記録が再生されているようだ。

 そしてそれは全て、私にとってどこか見覚えのあるものだった。


「――これは……私の記憶」

 

 どうやら、赤ん坊の頃からの私の記憶が高速に流れているらしい。

 いわば人生のリプレイだ。私という人間の全てが詳らかにされていく。

 

 しかしそんな壮大な振り返りは、流れ始めたと思ったのは一瞬、いつの間にやら終幕を迎えていた。

 どうやらこの世界には、時間という概念が無いようだ。確かに全ての記憶を見終わったという重い感覚はあるのだが、ほんの瞬きの間にそれは終わってしまったように感じる。


 そしてそうやって自身の全てを改めて受け止め心に残ったのは、やはりどこか空虚な居心地の悪さ。


「うーん、改めて見ても本当に素晴らしい人生でしたね。多くの人間に恵まれ、感謝され、その上で身を粉にして人のために尽くす。正に理想的な人物像です」


 ぱちぱちぱち、と手を叩きながら、審判官は淡々とした声音でそんな感想を述べる。言葉とその行動とは裏腹に、そこには何の感慨もないように感じられた。

 審判官というものは、そういうものだろうか。

 私は少し安堵したような気分になりながら、そのせいか思わず口走る。


「……違いますよ、本当は逆なんです」


「逆……というと?」


 審判官の影は私に向き直り、そう尋ねた。

 彼の姿は、誰の顔も映さない揺らめきでしかなかった。

その空白さが、きっと私の口を軽くさせた。


「――尽くさないといけないから、そうしていた。そのうちにいつの間にか人の感謝を集めてしまっただけで……本当は人のためになんて、思ったことはないんです。やらないと誰かを失望させてしまったり、悲しませてしまったり。それで私という人間が傷付けられてしまうのが怖いから、仕方なくやっていただけ」


 未だかつて誰にも……生前、家族にさえ打ち明けたことのない心情を吐露する。

 しかし言葉は不思議と、すらすらと紡ぐことが出来た。


「私という人間の本性は利己的で、自己本位な……それでいて常に誰かの目に怯えている、ただの子供です」


「……なるほど、だからその姿なのですね。合点がいきました」


 姿? そう疑問を抱くと同時に、まるで審判官自身が鏡になったように、人の姿を映し出した。

 そこに映っていたのは、レゴブロックで遊んでいたあの幼稚園の頃の私だった。

 いつも不安で、先生の顔色を窺っている。なのにその不安さを表に出すことはなく、精一杯に虚勢を張っている子供。

 ……そうだ、私はあれから何も変わっていなかった。


「『自分のために』やっていることが、人のためになる。聞こえはいいですが、それが『自分のためにやりたくて』やっているわけではないのなら、確かに呪いかもしれませんね。いわばあなたの人生は自己防衛。傷付けることで傷付けられるのが怖いから、誰も傷付けないように生きる。普通どこかで限界を迎えるものですが、あなたには全て期待通りに出来てしまう才能と運があった。それもまた、或いは不幸なことかもしれませんね」


 話しながら、審判官はまるで幻だったかのように元の揺らめきの人影の姿に戻った(こちらの方がよほど幻ではあるのだが)。


 私はそんな審判官の言葉を受け入れながら呟く。


「それを……不幸と呼んでしまうのは、どうなんでしょうか。大勢の『やりたくてもできない』人間が苦しんでいる中で、『やりたくなくてもできる』ことを不幸と呼んでしまうのは……」


「別に、構わないでしょう? 戦場での人殺しが罪ではないように、善悪や幸不幸なんていうものは、当人の立場や環境によって違って当然です。あなたの『人の期待に応えられる才能』は、あなたを苦しめるならば不幸だと思っていい。女子高生が『男子に告られ過ぎて断るのが辛い』と思っていいみたいなものです。まぁ半分嫌味ですが」


「それは……ふふ、そうかもしれませんね」


 公正な立場で人を裁き、天国か地獄へ送る。

 そういう職務であるはずの審判官の意外な言葉に、私は思わず笑ってしまった。


「しかしあなたは仮に自身が不幸であったとしても、そう思ってしまうそんな自分を許せない。そうですね?」


「……えぇ、まぁそうです。結局は気の持ちようみたいなもので。不幸であることを認めたとしても、そもそもそんな風に感じてしまうことが、やはり許せない。だって私はこんなにも多くの人に支えられ、『幸せ』に生きることができたんですから」


「えぇ全く。事実幸せそうでしたよ、記憶のあなたは。違いましたか?」


 ……それはもちろん、『幸せ』だった。

 汗水流して働いたお金で両親は大学まで通わせてくれ、自分のことを最大に理解して支えてくれる妻を得て、多くの人々の役に立てる素晴らしいプロジェクトに携わり、そして二人の子供を巣立つまで見送ることができた。


 これ以上ない幸福な人生だった。何度笑い、泣くことが出来ただろうか。


 ……しかしやはり、それは私自身の意志で成し得たことではない。


 私の心の内を察してか、或いは真に心の内すら聞こえているのか、審判官は言葉を続ける。


「――それは全て終わった今だから、そう感じてしまう。そうでしょう? 感情なんてものは一過性です。忙しい時期を終えて、考える余裕が出来て、その折にふと心が闇に囚われる。よくある話ですよ」


「……そんなことは」


 確かに、そういう考える余裕もない時期は、あった。

 目の前のことをこなすのに精一杯で、自分の存在定義についてなんて考えていられない時期は。

 しかしこの心の閉塞感は、つい最近生まれたものではないことは断言できる。

 時に見えなくなっていただけで、ずっとどこかにあった。自分自身に訴えていた。


 これでいいのか、これがいいのか、と。


 そう思う一方で、全てを否定できない審判官の言葉に、私は口ごもる。


「……ご満足いただけませんか。まぁ、少し蛇足でしたかね。そも、ここはあなたが幸福か不幸かを論じる場所ではなく、天国へ行ける善人か、地獄へ落ちる悪人かを判断する場所です。幸福だろうが不幸だろうが、どちらに行くかは変わりません」


 自分の事ながら実に不毛な議論だと感じていたところに、審判官の仕切り直しが入る。

 これ以上は水掛け論だったので、向こう側から引いてくれたことに胸を撫で下ろした。

 

「まずはあなたの生前犯した罪の数を振り返りましょうか……えーと、約一万八千件の罪を犯しているようですね?」


 いつの間に取り出したのか、一枚の紙切れを手に彼は言った。

 一体どういう風に罪が記されているのか気になりはしたが、覗いたところで自分に理解できる形ではないだろうことは想像がついたので、詮索はやめておいた。


「多い……のか少ないのか、よく分かりませんが。罪って約していいものなんですか?」


「ここでは私がルールですので構いません。件数としてはまぁ真っ当に少ない方でしょうね。大体一日に一つ罪を犯している計算になります」


 それではやはり多いのではないだろうか、そんな疑念が頭をよぎる。


「まぁ、罪といっても本当にくだらないことから全て数えていますから。部屋の掃除をやり忘れたとか、宿題の答えを先に見てから解き始めたとか」


 思った以上に罪のレパートリーは豊富なようだった。

 先ほどは戦時中の人殺しは罪じゃないと言っていたはずなのだが……


「件数はあまり参考にならないので、重量で測りましょうか。全ての罪の重さは、えー……15kg程度ですかね」


「……はぁ」


 これまたどこから取り出したのか、天秤に紙切れを乗せる審判官の姿に、私はため息混じりの返答をした。

 もしかしたらふざけています? ……という喉元まで出かかった言葉はぐっと飲み込んでこらえる。


「15kgはなかなか軽いですよ? 人は自分より重い罪は抱えきれないものですから。正吾さんの体重が70kgなので、まだ四倍以上は詰め込める計算です」


「どういう理論ですか、それは」


 まぁ15kg程度なら背負っていけるだろうけれども。罪の重さを物理基準に変換するのは、果たして適切なのだろうか? 

 もし罪の重さが質量として表せるなら、確かにそれは絶対的な基準として現実の裁判でも重宝されるとは思うが……


「まぁ諸々その他の基準で判断しても、正吾さんは罪人とは言い難いですねぇ。はい、ではここまでで何か質問はありますか?」


「少なくとも罪を犯しているのに、罪人ではないんですね?」


「そりゃあそうでしょう。細かな罪でも罪ですが、それで咎人というなら天国に人はいません。罪のない人間など存在しませんよ……それとも、自分に罪があるとは考えもしませんでしたか?」


「……そんなまさか」


 ただ、少し安心した。

 自分は他の全ての人間と同じように、汚れているのだと。

 他者の目を気にして潔白であろうとした私にとって、その太鼓判は嬉しいものだった。


 そんな私の様子に、審判官は頭を抱えるような素振りを見せる。


「はぁ、全く。変な人間を担当することになったものです」


「はは、すいません……」


 ふと、段々世界が色付いていることに気付く。

 暗く落ち込んでいた景色は、彩度を上げ朝焼けの景色に近くなっている。

 審判官の姿も、周辺の明るさに飲まれてその輪郭をより曖昧にしつつあった。


 どうやら、それが答えなのだと察する。


「――それでつまり……私は天国に行く、ということになるんでしょうか?」


「まぁ、そういうことです……ご不満ですか?」


「いや、地獄に行きたいというわけではないんですが……何というか……」


 話しながら、言い淀む。

 自分は地獄に落ちるべき人間だ、とまで思えるわけじゃない。

『誰かのために』生きてこなかっただけで、結果として『誰かのためになった』生き方ではあったと思うから。

しかしそれとはまた別の問題で、自分は天国に行けるほどの善人なのか、そう問われると……やはり違うのではないだろうか、と思う。

天国か地獄の二択で人間を振り分けるなんて、そんなのは無茶だ……なんて、今更死後の世界のシステムに文句を言ったところでどうにもならないが。


「――では問いましょう。あなたは、誰かを『善い人』だと思ったことはありますか?」


 薄れ消えつつある姿で、審判官は私にそう問いかけた。

 答えは、迷うまでもない。


「もちろん、ありますよ。会社の同僚や先輩には、当時何度もお世話になりましたし……それに、大変な育児と家事を両立してこなしてくれていた妻には、『善い人』だなんて言葉では表せないほど……本当に感謝しています」


 だからこそ、苦しい。

 皆からはあんなに優しい心を感じられたのに。

 私は私自身に、その優しい心を感じられなかった。

 皆と違って、私は『善人』ではない……それが、一層私の心を締め付けている。


「はい、素晴らしい回答ですね。しかしそれが『善』というものの本質です。いいですか、正吾さん。あなたが『善い人』だと思うから、彼らは『善い人』なのです」


「……?」


 謎かけのような審判官の言葉に、私は頭を捻る。

 私が思うから……それが、善になる?


「何を当たり前のことをと思うかもしれませんが、実際のところ、行いの善悪を定義できるのは外部の人間だけということです。当人にどれだけ『善意』があったとしても、世間で『悪』と見なされればそれは『悪』になる。ほら、よくある話でしょう……『良かれと思って』、なんていうのは。あなたにとっては、逆もまた然りということです」


 逆もまた然り。すなわち、『悪意』があっても『善』と見なされれば、それは『善』である、と。

 つまり善悪の定義に行動した本人の思惑は関与しない……ということか。


「……確かに、そうですね」


 司法の場では悪意性の有無が処罰の重さを変える、ということはよくあるが……結局のところ、それは本人の悪意性まで含めて外部の人間が吟味して悪の重さを定義しているというだけの話。

 根本的に『善悪を決定するのは他人である』という点に変わりはない。


「つまるところ……あなたが自分をどう思おうが、あなたが善人である事実は変えようがないということです。『多くの人間に感謝される生き方をした』、それだけが真実。まぁそういうわけなので……正吾さん、あなたは自分が悪い人だと思うことを諦めてください。はっきり言って無理があります」


「――そう、ですか……そうかもしれませんね」


 目を閉じて、多くの人々に向けられた感謝を思い出す。

 あれは絶対に、嘘ではないと信じられる。私がたくさんの人を幸福にしたことは、絶対に嘘ではないと。


 ……そうか。なら私は、私を『善人』だと思っていい、のか。

 例え私が受け身の対応者に過ぎなくとも。

 天国に行く価値のある人間だと……そう諦めても、いいのかもしれない。


 まさか、そんな風に考えることになるとは……思ってもみなかった。


「――はは。なんだか、長年の心のつかえが取れたような気分です。ありがとうございます」


「そうですか。お役に立てて何よりです」


 もうほとんど形のない影が答える。

 私の精神を包む器も、いまや溶けて消えつつある。

 終わりの時間が近付いているようだ。


「審判官さんは、これで『善い人』になりましたね」


「あくまで正吾さんにとっては、ですよ。今まで地獄に落としてきた人がどう思うかを考えれば、私の立場はあくまで中立です」


「別に、それでも構いません……あぁでもやっぱり、最後の最後で私は悪人かもしれません」


 もはや、浮かべる涙もないはずなのだけど。

 昂った感情が、宙に雫を舞わせている。


 せっかく、自分を認めてあげられそうになったのに。

 惜しいと感じてしまう自分がいる。


「こんなにも早く逝ってしまうのは、残した皆には悪いこと、ですね……」


「……そう感じられる美しさを、どうか忘れないでください」


 視界と意識が白く染まっていく。

 この白こそが天使なのだろうか?

 とても温かな白色……その心地よさに心を委ねる。


「――目覚めた先がどうか、あなたにとって天国であることを願っていますよ……それでは行ってらっしゃい、正吾さん」


 はい次――、そんな審判官の声が、最後に聞こえたような気がした。


 ◇ ◇ ◇


 ――ピッ……ピッ……ピッ……


 一定のリズムで鳴る電子音。


 ――痛い。

 ビリビリと、全身が痛んでいる。

 足がしびれた時の電気の走る感じ、あれが全身を強く駆け巡っているような。


 ……でも、そうか。

 痛むということは……生きている。


「……っ……」


 ゆっくり瞼を開ける。

 鮮烈な眩しさが一瞬視界を白く染め上げ、数秒の後に慣れる。

 白いレースのカーテンに、消毒液の刺すような匂い。

 窓から照らす太陽の明かりが、ただでさえ白い部屋を更に漂白している。

 どうやらここは病室のようだった。


「夢……だったのか」


 目覚めてしまえば、そうとしか思えないほど奇妙な世界の話。

 今やその記憶でさえ少し朧で、まるで夢の中の彼自身のように輪郭を掴めない。

 だが不思議と、軽くなった心は目覚める前までと同様だった。


「うっ……」


 何とか痛む上半身を持ち上げて、隣の机に置かれた数々のお見舞いの品を見る。

 色んな人に心配をかけてしまったようだ。しかしそれが、どこか少し嬉しく思える自分がいる。


 そんな中、机に置かれた一つの手紙にふと目が向く。

 子供の字で、知らない名前が書かれていた。


 手に取って封を切ると、中にはつたない文字で「助けてくれてありがとう。早く元気になってください」……そう書かれた手紙が入っていた。


 ――あの時、車から助けた子供か。

 ちゃんと助けられていたのか……良かった。


 ……『良かった』?


「……ふ、はは」


 ――これが『感じられる美しさ』、か。


 その通り過ぎて……あまりに馬鹿馬鹿しくて、思わず笑いが漏れた。


 そうだよな。『良かった』って……そう思うんだよな、私は。

 ならやっぱり、『助けたくて助けた』んじゃないか。

 

 ただひたすらに、シンプルな答え。

 私は別に、『人のためになるのが好き』だった。


 後から頭で考えて、理由を当てはめるから嘘になる。

 私は今、この瞬間に感じている些細な嬉しさのために人を助ける。

 それでいいじゃないか。


「――あぁ、でも」


 人生の半分を誰かのために使ったのだから、せっかくならもう半分は、自分のために生きてみるのも悪くない。

 せっかくの『天国』だ、それくらいの贅沢は許されるだろう?


 そうだな、まずはやりたいことを探そう。私の好きなことを。


 レゴブロック、家にまだあったかな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る