第6話 予想外
二月上旬。沖縄の空は抜けるように青く、太平洋から吹く風が肌に心地よかった。
名古屋アウルズの春季キャンプ地。8年目の今年、俺は初めて最初から一軍のキャンプ地に配属されることとなった。これまでの7年間、俺は毎年2軍からスタートし、シーズン中に1軍へ昇格するというパターンを繰り返してきた。だが今年は違う。開幕1軍が確約されているのだ。
今日の朝見た宿舎の窓からの朝焼けは、まるで俺のキャリアの夜明けを祝福しているかのように鮮烈だった。7年間という長い助走期間を経て、ようやく本当のスタートラインに立てた実感が、じわじわと胸に広がっていく。
去年の成績は最終的に打率.271。ホームラン21本。打点80。正捕手として、ようやくチームの中心選手として認められた数字だった。
レギュラーシーズン143試合中、120試合に先発出場。試合後半の疲労と戦いながら、投手をリードし続けた日々。肩の痛みに耐え、膝のサポーターを巻き、毎晩アイシングを欠かさなかった。8月の猛暑の中、防具を身につけて座り続ける苦しさ。9月の疲労が蓄積した身体で、なお集中力を維持し続ける困難。それでも俺は、マスクを外すことはなかった。
チームの順位は2位と惜しくもリーグ優勝には手が届かなかったが、捕手という過酷なポジションで、ここまでの成績を残せたことは、自分でも誇らしかった。最終戦が終わった後、1軍監督が俺の肩を叩いて言った言葉が今も耳に残っている。「三井、お前はもう二軍には戻さない。来年は開幕から正捕手だ」
これも、おととしの東亜製鉄四日市での猛練習の日々のおかげだろう。
あの冬、俺は熊野との勝負で野球人としての格の違いを見せつけられた後、坂田監督の許可を得て、熊野が所属する東亜製鉄四日市の練習に参加させてもらった。
11月の四日市は、名古屋よりもさらに冷え込んでいた。海からの風が、グラウンドを吹き抜ける。練習環境は決して恵まれているとは言えなかった。照明設備は古く、ウェイトルームは狭い。プロの2軍施設と比べれば、雲泥の差だった。
だが、そこには何かがあった。プロの施設にはない、何か研ぎ澄まされた空気が。
毎朝6時。熊野はグラウンドに現れ、ランニングとシャドーピッチングを繰り返した。誰よりも早く、誰よりも遅く。朝日が昇る前から、日が沈んだ後まで。その姿は、まるで修行僧のようだった。
「おはよう。早いな」
そう声をかけると、熊野はさも当たり前なように私へ返事する。
「プロを目指すなら、これくらいは当然だろ」
熊野の言葉は、重かった。プロを「目指す」者と、すでにプロである俺。その立場の違いが、言葉の端々に滲んでいた。
夜に熊野の寮の部屋を訪れると、対戦相手の映像を何度も見返し、配球ノートに書き込みを続ける熊野の背中があった。DVDプレーヤーのリモコンを握りしめ、何度も巻き戻しては再生を繰り返す。1打席を、10回も20回も見返す。そして、ノートに細かい字でびっしりと記録していく。
「この打者、内角低めに弱点があるな」
「アウトコースの変化球に手を出す癖がある」
「追い込まれてからは、ほぼ確実にストレートを狙ってる」
熊野の分析は、プロ顔負けの精密さだった。俺もプロで7年間捕手をやってきたが、ここまで細かく打者を研究したことはなかった。俺もそんな熊野を倣い、練習が終わったら熊野の部屋に邪魔させてもらい、同じようにデータ分析を積んだ。その日々は私をキャッチャーとして、そして一バッターとして成長させてくれたに違いない。
「三井、プロってのはどれだけ厳しい世界なんだ?」
ある夜、熊野が俺に問いかけた。その目は、まるで獲物を狙う猛禽のように鋭く、そして切実だった。部屋の蛍光灯の光が、熊野の横顔に影を落としている。
「...俺が知っている中で、一番厳しい世界だよ」
俺は正直に答えた。言葉を選ぶことなく、ありのままを伝えるべきだと思った。
「才能がある奴が努力する。努力している奴がさらに努力する。そして、それでも生き残れるのはほんの一握りだ。俺だってこのままじゃ、来年にはクビを切られる」
それは、誇張ではなかった。プロ7年目を迎えようとしているあの時、俺の立場は決して安泰ではなかった。若手の台頭や成績の低迷が俺を襲っており、そのままであれば容赦なく戦力外通告が待っていただろう。
熊野は黙って頷いた。そして、こう言った。
「それでも、俺は行きたい」
その言葉から測ることのできる熱意。そして「プロの舞台でもう一度バッテリーを組もう」。そう宣言した言葉が今も胸に焼き付いている。言葉では表せないほどの期待と、同時に、一抹の不安が胸をよぎった。プロの壁は、本当に高い。才能だけでは越えられない。努力だけでも足りない。運と、タイミングと、そして評価者の目に留まるかどうか。全てが揃わなければ、扉は開かないのだ。
だが、そんな扉など熊野であれば容易にこじ開けてくれるだろうとそう思えた。
しかし、プロの舞台でバッテリーを組むことを約束した熊野は、指名漏れを食らった。
驚きしかなかった。いや、驚きというより、衝撃だった。現実を受け入れられない自分がいた。
都市対抗での熊野の活躍は、スポーツニュースでも取り上げられていた。準決勝の完封勝利。決勝での僅差の敗戦。そして久慈賞の受賞。これだけの実績があれば、少なくとも育成指名はあると確信していた。
名古屋アウルズからも調査書が送られたと聞いていた。スカウトに転身した同期入団の橋田と球団事務所で偶然再会した際、一度熊野のことについて聞いた。
「変化球のキレがいいし、何よりコントロールが抜群だ。アンダースローだから、打者も慣れてない。即戦力とまでは言わないが、育成で取って磨けば、面白い戦力になるかもしれない」
橋田はそうすんなりと答えてくれた。その言葉を聞いて、俺は確信した。熊野は、必ず指名される。少なくとも育成で、名古屋に来る。そう信じて疑わなかった。
ドラフト会議当日、俺は名古屋の自宅でテレビの前に座り、固唾を呑んで中継を見守った。1巡目が終わり、2巡目が始まる。3巡目、4巡目。熊野の名前が呼ばれるのを、今か今かと待ち続けた。
テーブルの上には、缶ビールが置かれていた。熊野が指名された瞬間に、祝杯を上げるつもりだった。スマートフォンも手元に置き、指名されたらすぐにメッセージを送れるように準備していた。
そして4巡目、名古屋アウルズの指名の順番が来た。
「来る...!」
俺は思わず身を乗り出した。テレビ画面に映る球団関係者の表情を、食い入るように見つめる。
「第4巡選択選手、名古屋。草野司、外野手、鳴海自動車」
その瞬間、俺の心臓が止まった。
草野。鳴海自動車の4番打者。確かに実力者だが、熊野じゃない。
「まだだ。育成指名がある」
俺は自分に言い聞かせた。缶ビールを握る手に、力が入る。本指名で呼ばれなくても、育成指名で呼ばれる可能性は十分にある。熊野なら、育成からでもすぐに這い上がってくるだろう。
5巡目、6巡目。名古屋の指名は、どれも熊野ではなかった。投手は2人指名されたが、どちらも大卒の若手だった。
そして、育成指名の時間になった。
画面の中で、各球団のスカウト陣が書類を確認している。俺は祈るような気持ちで、画面を見つめ続けた。
だが、育成指名でも熊野の名前は呼ばれなかった。
名古屋アウルズが育成枠で指名したのは、沖縄の独立リーグの若手投手。年齢は20歳。まだ伸びしろのある選手だった。
「なんで...なんで熊野じゃないんだ...!」
俺は思わずテレビに向かって叫んでいた。拳でソファを叩きつける。痛みなど感じなかった。缶ビールが倒れ、中身がテーブルにこぼれた。だが、それすら気にならなかった。
画面の中では、指名された選手たちが笑顔でインタビューに答えている。夢を掴んだ若者たちの、希望に満ちた表情。それが、逆に胸に突き刺さった。
熊野は、その中にいない。
ドラフト会議が終了した瞬間、俺はすぐに熊野へメッセージを送った。
『熊野、今回は残念だった。やっぱり野球を続けないか?』
だが、メッセージに既読の文字はつかなかった。
翌日も、その翌日も。俺は何度もスマホを確認した。既読がつくのを待ち続けた。練習の合間に、食事の最中に、風呂に入りながらも。気づけば、無意識にスマホを手に取っている自分がいた。
チームメイトから「三井、最近スマホばっか見てるな」と冗談交じりに言われたこともあった。笑って誤魔化したが、心の中では熊野のことしか考えられなかった。
数日後、ようやく既読がついた。だが、返事が返ってくることはなかった。
その「既読」の二文字を見た時、俺は複雑な感情に襲われた。読んでくれた。メッセージは届いた。だが、返事はない。それが何を意味するのか、俺にもわかっていた。
熊野は、俺と話したくないのだ。少なくとも、今は。
それから、俺と熊野の連絡は途絶えた。
俺は何度もメッセージを送ろうとした。だが、その度に指が止まった。何を言えばいいのか。どんな言葉をかければいいのか。俺にはわからなかった。
「頑張れ」と言えばいいのか。だが、頑張ってきた結果が、これなのだ。
「また来年がある」と言えばいいのか。だが、来年も指名される保証はない。むしろ、年齢を重ねるごとに、可能性は低くなる。
「野球を続けろ」と言えばいいのか。だが、その言葉は、プロになれた俺が言うには、あまりにも無責任すぎる。
更なる慰めの言葉は、かえって熊野を傷つけるのではないか。今の熊野には、そっとしておくことが最善なのではないか。
そんな葛藤の末、俺は結局何も送れなかった。
毎日、熊野のことを考えた。契約更改の最中も、練習中も。
バッターボックスに立つ時、ふと熊野の投球フォームが脳裏をよぎることがあった。あのアンダースローから繰り出される、鋭く沈むボール。あれをプロの舞台で受けたかった。
11月、12月と時間が過ぎていく。年が明け、1月になった。それでも、熊野からの連絡はなかった。
去年のオフ、俺は再び東亜製鉄四日市で自主トレをさせてもらった。坂田監督は快く受け入れてくれたが、そこに熊野の姿はなかった。グラウンドに足を踏み入れた瞬間、違和感を覚えた。何かが足りない。いや、誰かが足りない。朝6時のグラウンドに、あの背中がない。シャドーピッチングを繰り返す姿がない。
「監督、熊野は...?」
恐る恐る聞いた俺に、坂田監督は悲しそうな表情で答えた。
「熊野は、指名漏れを味わった翌日、チームを辞める旨を相談してきた。引き留めようとしたんだが……あいつの目はもう決まっていた。ほどなくして退団・退職した。今、どこで何をしているのかは、俺も知らない」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸に鋭い痛みが走った。
熊野は、野球を辞めたのだ。
あれほど野球を愛し、プロを目指し、全てを賭けていた熊野が。
「監督...熊野は、何か言ってましたか」
「いや...特に何も...」
坂田監督の言葉は、重く、そして悲しかった。監督自身も、熊野の才能を高く評価していた。だからこそ、その決断を止められなかったことが、悔しくて仕方ないのだろう。
「三井、お前は熊野の親友だろう。もし連絡が取れたら、声をかけてやってくれ。あいつ、きっと孤独だと思うから」
「...はい」
俺は、力なく頷いた。
だが、連絡は取れなかった。正確には取ろうと何度もメッセージを考えたが、最後の決心がつかなかった。
もちろん俺もショックが大きかった。だが、一番ショックが大きかったのは、ほかでもない熊野本人であろう。
都市対抗の準決勝。九州SDS相手に投げた熊野の姿は、今でも鮮明に覚えている。
俺はその日、遠征先のホテルでインターネットの中継を見ていた。画面越しでも、熊野の表情は鬼気迫るものがあった。一球一球に全てを賭けるような、研ぎ澄まされた集中力。投球自体もアンダースローの強みを最大限に生かした投球術で、九州SDSの強力打線をきりきり舞いにしていた。
初回の華麗な三者凡退。アンダースローの強みを生かし切った、省エネ投球だった。
「すげえ...」
俺は思わず呟いていた。その投球は、完璧だった。
3回まで無安打。4回に初ヒットを許したが、後続を断ち、無失点。5回、6回も無失点。7回、8回と、熊野は疲れを見せることなく投げ続けた。
そして9回裏。マウンドに立つ熊野の表情を、俺は画面越しに凝視していた。汗が流れ、ユニフォームは泥で汚れている。だが、その目には、まだ闘志が宿っていた。
最後の打者をセカンドゴロ。
完封勝利。
ホテルの部屋で、俺は思わず拳を握りしめた。「やった...!」と叫びたかった。だが、声は出なかった。代わりに、目から涙が溢れた。
あの投球術、あの配球、あのコントロール。きっとあの熊野であれば、今の俺でも打ち崩すのは難しいだろう。いや、打てないかもしれない。
それほどまでに、熊野は完璧だった。
だが、指名はされなかった。
その事実に、俺は自分事かのように悔しさを覚えた。いや、自分事以上に悔しかったかもしれない。
熊野は恵まれない体格をどうにか克服するため、苦渋の判断の末にアンダースローへと転向した。並外れた努力で、独特の投球フォームを身につけた。
中学時代、熊野は普通のオーバースローだった。だが、身長が伸びず、球速も上がらない。高校に卒業する頃には、すでに限界を感じていたはずだ。
それでも、熊野は諦めなかった。アンダースローへの転向という、大きな賭けに出た。一からフォームを作り直す苦労。慣れない投げ方による肩の痛み。周囲からの「アンダーは伸びない」という冷ややかな視線。
それでも、熊野は投げ続けた。
どうにかプロを目指すため、どうにか野球を続けるために練習環境は決して良くない東亜製鉄四日市へと進んだ。
あの準決勝で見せた投球は今まで熊野が積み重ねてきた努力の結晶だった。
それでも指名へは至らなかったのだ。
改めて、プロの壁の高さに度肝を抜かれた。才能と努力だけでは足りない。運も、タイミングも、そして何より「評価する側の基準」が、全てを決める。
俺は運が良かっただけなのかもしれない。甲子園での大活躍。恵まれた体格。魅力的な打棒。それらが全て、俺に味方した。
だが熊野は、全てが揃っていても、最後の一歩で届かなかった。
後日、橋田に指名されなかった理由を聞いたことがある。
「なぜ、熊野を指名しなかったんだ」
橋田は、困ったような表情で答えた。
「悪かったな、三井。でも、球団としての判断だ。熊野は確かにいい投手だった。だが、アンダースローというフォーム、年齢、そして伸びしろ。総合的に判断して、他の選手を優先することになった」
「でも、都市対抗であれだけの結果を...」
「結果は見た。素晴らしかった。だが、プロはもっと厳しい。毎試合、あのレベルの投球を続けられるか。年間を通じて、ローテーションを守れるか。そこに疑問符がついた」
橋田の言葉は、冷徹だった。だが、それがプロの現実なのだ。
「三井、行くぞ」
チームメイトの声に、俺は現実へと引き戻された。
今年から二軍監督から一軍監督へと昇格した野上が、俺たち一軍の面々とコーチ・スタッフ陣を招集している。グラウンドの片隅に設置された簡易ベンチの前に、選手たちが集まり始めた。
沖縄の日差しは強く、影を作るベンチの周りに選手たちが集まる。新しいユニフォームに身を包んだベテランたち、緊張した面持ちの若手たち。春季キャンプ初日の、独特の空気がそこにあった。
「えー。今年からうちの名古屋アウルズに入団するメンバーだ。じゃあ一人ずつ自己紹介を」
野上監督は、そう手短に話した。監督の後ろには、緊張した表情を浮かべる新入団選手が整列している。
俺もルーキーの時にやらされたのを思い出す。あの時はテレビで応援していた憧れのスターが目前にいることに、緊張と興奮で体が震えた。声が上擦り、何を話したのか覚えていない。隣にいた同期が「お前、何言ってたかわかんなかったぞ」と笑っていた。
ドラフト1位の選手から順に、自己紹介は進んでいく。
「ドラフト1位、三河学院高校から入団しました、投手の岡本です。一日でも早く一軍で活躍できるよう、頑張ります」
18歳の若者が、カチコチに緊張した声で挨拶する。新しいユニフォームがまだ体に馴染んでいない様子だ。高校を卒業したばかりの、まだ幼さの残る顔立ち。
「ドラフト2位、帝都大学から入団しました、内野手の相沢です。守備と走塁で貢献できるよう、精一杯頑張ります」
大学出身の選手は、少し落ち着いた様子だった。だが、目には強い決意が宿っている。四年間の大学野球で培った、覚悟のようなものが感じられた。
ドラフト3位、4位と続く。そして、育成選手の紹介が始まった。
「育成1位、琉球独立リーグから入団しました、投手の宮里です。沖縄から来ました。よろしくお願いします!」
若い選手が、元気よく挨拶する。独立リーグ出身。彼もまた、這い上がってくるために必死だろう。育成契約という、不安定な立場。いつ解雇されるかわからない恐怖と戦いながら、夢を追い続ける。
そして、最後の1人が前に出た。
その瞬間、俺の心臓が激しく波打った。
見間違えるはずがない。中学の頃から見続けてきた、あの背中。あの横顔。時間が止まったような感覚に襲われた。
「スコアラーとして入団しました、熊野光太郎です」
熊野だった。
黒いウィンドブレーカーを着た熊野が、そこに立っていた。選手ではなく、スタッフとして。選手たちが着ているユニフォームではなく、スタッフジャンパー。その違いが、妙に際立って見えた。
「昨年10月まで、東亜製鉄四日市で社会人野球の選手をしていました。都市対抗では鳴海自動車の助っ人として出場し、久慈賞をいただきましたですが、ドラフトでは指名されず...球団から声をかけていただき、スコアラーとして入団することを決めました」
熊野の声は、以前よりも低く、落ち着いていた。だが、その奥には、複雑な感情が潜んでいるように感じた。言葉の一つ一つに、重みがあった。選ばれたもの、選ばれなかったもの。その境界線を越えてきた人間だけが持つ、独特の響きが。
周囲の選手たちも、熊野の経歴に興味を持ったようだった。都市対抗での活躍、久慈賞の受賞。それだけの実績を持ちながら、指名されなかった投手。その事実が、どれほどの重さを持つのか、プロの世界を知る者たちにはわかっていた。
「選手としてマウンドに立つことは叶いませんでしたが、裏方としてチームを支えることで、名古屋アウルズの勝利に貢献したいと思っています。データ分析、相手チームの研究、投手の配球アドバイスなど、俺にできることは全てやります。よろしくお願いします」
深々と頭を下げる熊野の姿に、俺は言葉を失った。
スコアラー。
選手としてではなく、裏方として。マウンドに立つのではなく、ベンチから支える立場として。
頭を下げる熊野の背中を見て、俺の胸に様々な感情が渦巻いた。喜び、悲しみ、安堵、そして痛み。全てが混ざり合い、言葉にならない。
あの冬の日、「プロの舞台でもう一度バッテリーを組もう」と宣言した熊野。マウンドで完璧な投球を見せた熊野。朝から晩まで、野球だけを考え続けた熊野。
その熊野が、今、スタッフとして頭を下げている。
「各選手、コーチ、スタッフの皆さん、熊野をよろしく頼む。彼は選手としても一流だったが、野球脳も一流だ。きっとチームの力になってくれる」
野上監督がそう締めくくり、新入団メンバーの紹介は終わった。
パラパラと拍手が起こる。俺も手を叩いたが、その音は自分の耳にも届かなかった。ただ、熊野の姿だけが、視界の中心にあった。
選手たちが散らばり、それぞれの練習に向かう中、俺は熊野の方へと歩いていった。足が、勝手に動いていた。頭で考える前に、体が反応していた。
「熊野...」
背中に声をかけると、熊野はゆっくりと振り返った。
その動きの一つ一つが、まるでスローモーションのように感じられた。黒いウィンドブレーカーの裾が、風に揺れる。
久方ぶりに対面する親友の顔は、以前よりも少し痩せて、そして大人びていた。頬の線が鋭くなり、目元には疲れの色が浮かんでいる。だが、その瞳には、変わらぬ野球への情熱が宿っていた。消えかけながらも、まだ燃え続けている炎のように。
「久しぶりだな、三井」
熊野は、静かに笑った。その笑顔は、どこか寂しげで、だが同時に、何かを受け入れたような穏やかさがあった。諦念と希望が、同居している表情。
「なんで...なんで連絡くれなかったんだよ」
俺は、ようやく絞り出すようにそう言った。胸の奥から、様々な感情が溢れ出してくる。怒り、悲しみ、安堵。全てが一度に押し寄せてきて、声が震えた。
言いたいことは、山ほどあった。なぜ黙っていたのか。なぜ1人で抱え込んだのか。なぜ俺を信じてくれなかったのか。
だが、熊野の表情を見た瞬間、そんな言葉は全て喉の奥に引っ込んだ。この男も、十分に苦しんできたのだ。俺以上に。
「悪かった。あの時は、お前に何を返信すればよいかわからなかったんだ」
熊野は目を伏せた。その横顔に、後悔の色が浮かんでいる。
「ドラフトで指名されなかった時、俺は全てが終わったと思った。お前との約束も、プロへの夢も、全部。お前のメッセージを見て、既読はつけたけど...返事ができなかった。お前の優しさが、逆に辛かったんだ」
熊野の声が、少し震えた。その震えが、どれほどの痛みを伴っているのか、俺にはわかった。
「お前は、プロで活躍している。俺は、指名すらされなかった。その立場の違いが、どうしても受け入れられなかった。お前からの慰めの言葉を受け取ることが、自分の敗北を認めることのように思えたんだ」
その言葉を聞いて、俺は胸が締め付けられた。
俺は、熊野を傷つけていたのだ。善意のつもりで送ったメッセージが、逆に熊野の傷口に塩を塗っていた。プロ選手である俺が、指名されなかった熊野に声をかける。その行為自体が、どれほど残酷だったのか。
「すまん...俺、何も考えずに...」
「いや、お前は悪くない」
熊野は首を横に振った。
「お前は、親友として当然のことをしてくれた。悪いのは俺だ。お前の気持ちを受け取れなかった俺が」
沈黙が降りた。
グラウンドでは、選手たちの声が響いている。キャッチボールの音、ランニングの足音、コーチの指示。絵にかいたかのような春季キャンプの風景だ。
だが、俺たちの間には、重い空気が漂っていた。
「でも、球団から連絡があって...スコアラーとして、もう一度野球に関われるチャンスをもらった。選手としてじゃないけど、それでも野球の世界に残れる。それに...」
熊野は顔を上げ、俺の目をまっすぐに見た。
その目には、以前とは違う光があった。選手としての闘志ではなく、何か別の、静かな決意のようなもの。
「お前とバッテリーを組むって約束は、叶わなかった。でも、お前を裏方として支えることはできる。スコアラーとして、データで、配球で、お前の力になれる。それも、一つの形なんじゃないかって...そう思ったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の目頭が熱くなった。
バッテリーを組むという夢は、確かに叶わなかった。
俺たちがあの冬の日約束した、プロの舞台で投手と捕手として戦うという夢。マウンドとホームベースで、言葉を交わさずとも通じ合う関係。一球一球を共有し、勝利を掴み取る喜び。それは、もう実現することはない。
だが、今、熊野は目の前にいる。
選手と裏方という関係で。だが、同じチームで、同じ目標に向かって。
「球団からの誘いがあった時、正直迷った。東亜製鉄で安定した道を歩んで生活するのも悪くないとも思った」
熊野が続けた。
「でも、野球を離れることは想像できないほどつらく思えた。それに...お前がいるチームだから、と思った」
「熊野...」
「お前と約束した、プロの舞台で一緒に戦うという夢。形は変わったけど、それでも実現できるんじゃないか。そう思ったんだ。お前が投手をリードする姿を、すぐ近くで見られる。お前の配球を、データで支えられる。それだけでも、意味があるんじゃないかって」
俺は、熊野の肩に手を置いた。
「お前が、ここに来てくれて良かった」
その言葉が、精一杯だった。他に何を言えばいいのか、わからなかった。
言いたいことは、たくさんあった。もっと早く連絡してほしかった。一人で抱え込まないでほしかった。選手としての夢を諦めてほしくなかった。
だが、そんな言葉は、今の熊野には必要ない。今、必要なのは、熊野の決断を受け入れることだ。
熊野は、少し驚いたような表情を見せた。だがすぐに、本当の笑顔を見せた。あの頃の、高校時代の、無邪気に野球を楽しんでいた頃の笑顔だった。
久しぶりに見る、その笑顔。
ドラフトの日から、何ヶ月ぶりだろう。いや、もっと前からかもしれない。都市対抗の後、熊野の笑顔を見た記憶がない。
「ありがとう、三井。俺も、お前と同じチームでまた野球ができて...嬉しいよ」
その言葉に、嘘はなかった。熊野の目が、それを物語っていた。
遠くから、コーチの呼ぶ声が聞こえた。
「三井! キャッチボール始めるぞ!」
現実に引き戻される。ここは、春季キャンプのグラウンドだ。俺はプロの選手で、これから練習が始まる。
「今行きます!」
俺は返事をし、熊野に向き直った。
「じゃあ、また後で。この後、飯でも行こうぜ」
「ああ。そうだな」
熊野は頷いた。
その仕草が、あまりにも自然で、まるで時間が戻ったかのようだった。高校時代、いつも一緒に食堂へ向かった日々。練習後、将来の夢を語り合った夜。
「じゃあな」
「ああ」
俺はグラウンドへと駆け出した。胸の中で、何かが温かくなっていくのを感じた。
夢の形は変わった。約束の形も変わった。
だが、俺たちはまた、同じフィールドに立っている。
それだけで、十分だった。
キャッチボールを始めながら、俺はふと熊野の方を見た。熊野は既にベンチに座り、ノートパソコンを開いて何かを記録していた。スコアラーとしての仕事を、もう始めているのだろう。
画面を凝視する真剣な表情。時折、メモを取る手の動き。その姿は、選手時代と何も変わっていなかった。対戦相手の映像を見返し、配球ノートに書き込みを続けていた、あの頃と。
「三井、集中しろ!」
相手をしてくれている先輩捕手の声に、俺は我に返った。
「すみません!」
グローブにボールを収め、投げ返す。だが、視線は何度も熊野の方へと向いてしまう。
その真剣な横顔を見て、俺は思った。
熊野は、選手としての夢を失った。だが、野球への情熱は失っていない。
あれだけの挫折を味わいながら、それでも野球の世界に残る道を選んだ。選手としてマウンドに立つことは叶わなくても、裏方として野球に関わり続ける。その決断が、どれほど勇気のいることか。
普通なら、野球から離れるだろう。二度と球場に足を運ばないかもしれない。プロの試合を見ることすら、辛くて避けるかもしれない。だが、熊野は戻ってきた。
ならば、俺がその情熱に応えなければならない。熊野が裏方として支えてくれるなら、俺は選手として結果を出さなければならない。
今年こそ、優勝だ。
熊野と、この名古屋アウルズで。
形は違えど、俺たちは再び、同じ夢を追いかける。
それが、俺たちの新しい約束だ。
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