第5話 ドラフト
東京ドームの照明が眩く輝いていた。都市対抗野球大会決勝戦。延長10回から登板した私は、マウンド上で息を整えながら、観客席を埋め尽くす数千もの視線を感じていた。
人工芝の緑が夜のライトに照らされ、まるで宝石のように輝いている。この球場で投げるのは4度目だったが、決勝という舞台の重圧は今までとは比べ物にならなかった。スタンドから響く応援団の太鼓の音が、私の心臓の鼓動と重なり合う。
マウンドの土を踏みしめる。この感触が、私を現実に引き戻す。ロジンバッグを手に取り、指先に白い粉をまぶす。アンダースローの投手にとって、指先の感覚は命だ。少しでも滑れば、球は思わぬ方向へと飛んでいく。
相手打者の目が、まるで獲物を狙う鷹のように鋭い。バッターボックスには、相手チームの三番打者が立っている。都市対抗通算8本塁打の強打者だ。体格は私より一回りも二回りも大きく、バットを構える姿には威圧感がある。
だが私には揺るぎない自信があった。
キャッチャーが示したサインは、内角低めへのシンカー。私は小さく頷き、セットポジションに入る。呼吸を整える。一、二、三。そして、腕を振り下ろす。
アンダースローから繰り出される球は、打者の手元で沈み込み、予測を裏切る軌道を描く。打者が振り遅れ、バットは空を切った。ミットから小気味良い音が響く。
「ストライク!」
球審の声が、ドーム全体に響き渡る。ベンチから、チームメイトたちの声援が飛んでくる。
「いいぞ、熊野!」
「その調子だ!」
私は帽子のつばに軽く手を当て、応える。そして再び、マウンドに集中する。
次の球は外角へのスライダー。打者は見送り、カウントは1-1。三球目、内角へのストレート。ファウル。四球目、再び外角へのスライダー。打者は手を出し、空振り。
ツーストライク、ワンボール。
キャッチャーが立ち上がり、マウンドに歩み寄ってくる。マスク越しの彼の目は、真剣そのものだ。
「熊野、ここは決めにいこう。内角低めのシンカー、思いっきりいけ」
「わかりました」
私は短く答える。余計な言葉は要らない。キャッチャーとは、付き合いは短いながらも、この大会で培った信頼関係がある。彼が要求する球を、私は投げ込むだけだ。
キャッチャーがポジションに戻る。私はセットポジションに入り、打者を睨む。そして、全身のバネを使い、腕を振り下ろす。
ボールは、まるで生き物のように打者の手元で沈み込んだ。打者は完全に泳ぎ、バットの先端にかすりもしない。三振。
「ストライク、バッターアウト!」
球審が右手を突き上げる。ベンチから歓声が上がった。私は小さくガッツポーズをし、マウンドを降りる。
しかし、野球は残酷だ。一瞬の油断が、全てを狂わせる。
延長11回裏。私は再びマウンドに立っていた。連投の疲労が、じわじわと体を蝕んでいる。肩が重い。指先の感覚も、少しずつ鈍くなってきている。
スコアは5対5。均衡は崩れず、試合は泥沼の様相を呈していた。両チームの選手も観客も、疲弊の色を隠せない。だが、諦めるわけにはいかない。ここで踏ん張れば、優勝が見えてくる。
相手チームの代打が、ゆっくりとバッターボックスに入ってきた。背番号44。ベテランの長距離砲だ。都市対抗通算12本塁打の実績を持つ男。彼の目には、勝利への執念が宿っている。
キャッチャーがサインを出す。外角低めへのスライダー。安全策だ。ここで四球を出すわけにはいかない。
私はセットポジションに入り、投球動作に入る。しかし、リリースの瞬間、指先が滑った。ボールは外角に浮き上がり、甘いコースへと吸い込まれていく。
まずいとそう思った瞬間、打者が振り抜いた。
木製バットの軽やかな音が、ドーム全体に響き渡った。打球は加速し、レフトスタンドへと吸い込まれていった。
サヨナラホームラン。
私たちの準優勝が確定した瞬間だった。
マウンドに立ち尽くす私の耳に、観客の熱狂と、ベンチから漏れる悔しさの叫びが混ざり合って聞こえた。相手ベンチの選手たちが、ダイヤモンドに飛び出してくる。彼らは歓喜に満ちている。それは当然だ。勝者には、その権利がある。
一方、私たちのベンチは静まり返っていた。選手たちは呆然と立ち尽くし、誰も声を発しない。鳴海自動車を指揮する監督は、ベンチの最奥で顔を覆っている。
スコアボードには無情な数字が点滅している。5対6。優勝まであと一歩。しかし野球に「もう少し」は存在しない。勝者と敗者。その二つしかないのだ。
私は、ゆっくりとマウンドを降りた。誰も私を責めない。それが逆に辛かった。
それでも、私には誇りがあった。
4試合19回の登板で、わずか2失点。防御率0.95という数字は、私の全てを物語っていた。準決勝の9回無失点完投。予選での僅差の勝利。どの試合も、私は全力を尽くした。
準優勝チームから選出される久慈賞の受賞が決まったとき、表彰式の壇上で盾を手にしながら、私は心の奥底で確信していた。
これで、プロへの道が開けると。
盾は思ったよりも重く、その重みが私の実績を証明しているようだった。スポットライトを浴びながら、私は客席を見渡した。鳴海自動車の面々が、涙ながらに拍手を送ってくれている。
優勝はできなかったが、私個人としては最高の結果を残せた。この実績があれば、プロのスカウトも注目してくれるはずだ。
控室に戻ると、複数の球団のスカウトが待ち構えていた。彼らは私に名刺を渡し、短い言葉を交わす。
「いい投球だった。うちも注目している」
「体は小さいが、ハートがでかい。それがいい」
その言葉の一つ一つが、私の胸に希望を灯した。特に、名古屋アウルズのスカウトが声をかけてくれたことは、私にとって何よりも嬉しかった。三井のいる球団。あいつとバッテリーを組むという夢が、現実になるかもしれない。
都市対抗を終えた翌週、私は勇気を振り絞ってプロ志望届を提出した。
そして、数日後、複数球団からの調査書が徐々に届いた。
封筒を開けるたび、心臓が高鳴る。どの球団も、私の都市対抗での実績を評価してくれているようだった。
そして、その中に、名古屋アウルズの名前を見つけたとき、私の心臓は激しく高鳴った。
三井。
今シーズンは名古屋アウルズで一軍の正捕手の地位を確かなものにした。あの冬、あいつとバッテリーを組むことを約束した。その約束が、今、現実になろうとしている。
「待ってろよ、三井。今度こそ、お前とプロの舞台でバッテリーを組む」
私は毎晩、寮の自室でそう呟きながら、ストレッチに励んだ。体は正直だ。少しでも手を抜けば、すぐに衰える。プロへの夢は、日々の積み重ねの上にしか成立しない。
ランニング、筋力トレーニング、シャドーピッチング。毎日のルーティンを欠かさず続ける。寮の仲間たちも、私の挑戦を応援してくれていた。
「熊野、頑張れよ」
「プロに行ったら、俺たちのサインくれよな」
彼らの言葉が、私を支えてくれた。
そして今日、十月下旬。ドラフト会議当日。
東亜製鉄四日市のクラブハウスに特設された会見場には、予想以上の数の記者が詰めかけていた。彼らのカメラレンズが、私という一人の社会人投手に向けられている。久慈賞受賞者として、それなりの注目を集めているのだろう。
長机の上には、複数のマイクが並べられている。会見場の後方には、テレビカメラが3台設置され、照明が私を照らしている。まるでスポットライトの下に立たされたような感覚だ。
東京ドームでの熱戦から約2ヶ月。あの夜の興奮は遠い記憶となり、今日という日が全てを決める。秋の冷たい空気が窓から差し込み、会見場は張り詰めた静寂に包まれていた。記者たちのカメラとペンが、私の一挙手一投足を追っている。
私はテーブルに置かれたマイクの前に座った。手のひらは汗で湿っている。深呼吸をしても、緊張は収まらない。
「落ち着け、熊野。平常心だ」
隣に座る坂田が、そっと声をかけてくれた。監督の顔には、この数ヶ月の激動が刻まれている。私を鳴海自動車の助っ人として送り出す決断をし、そして今日、私の運命を見届けようとしている。この人なくして、今の私はなかった。
「監督...ありがとうございます」
私はそう返した。声は震えていた。
坂田は、私の肩に手を置いた。その手は、温かく、力強かった。
「お前は十分やった。あとは、天命を待つだけだ」
午後五時。定刻通りに、テレビ中継が始まった。
「ただいまより、プロ野球ドラフト会議を始めます」
アナウンサーの声が、会見場に響き渡った。記者たちのペンが、一斉にカチカチと音を立て始める。この瞬間から、私の人生が大きく変わるかもしれない。
テレビ画面には、東京のホテルに集まった12球団のスカウト陣が映し出されている。彼らの表情は真剣そのものだ。一人一人が、チームの未来を背負っている。
1巡目の指名が始まった。
各球団が事前に公言していた通り、高校生や大学生の目玉選手が次々と指名されていく。甲子園のスター、大学野球のエース。彼らの名前が読み上げられるたび、会見場にわずかなざわめきが起こる。
「第1巡選択選手、札幌。花岡聡、投手、霧島学院高校」
「第1巡選択選手、大阪。金山健一、内野手、慶応義塾大学」
当然、私の名前は呼ばれない。1巡目は、将来のスター候補が独占する舞台だ。身長180cmを超える恵まれた体格、抜群の身体能力、そして若さ。彼らは全てを持っている。
それに比べて私は。身長169cm、体重70kg。アンダースローという特殊な投球フォーム。そして、25歳という年齢。
「さあ、熊野。問題は二巡目からだ」
坂田が、静かに言った。その声には、期待と不安が混ざり合っている。
社会人選手は、即戦力としての期待から、主に2巡目以降で指名されることが多い。特に私のような中堅チームからの指名となれば、早くても3巡目、場合によっては4巡目か5巡目になる可能性もある。
テレビ画面を見つめながら、私は自分に言い聞かせる。
「焦るな。まだチャンスはある」
だが、心臓の鼓動は止まらない。ドクン、ドクンと、まるで太鼓のように激しく打ち続ける。
2巡目が始まった。
「第2巡選択選手、沖縄。新堀卓也、内野手、マツバ」
沖縄の社会人強豪チーム、マツバ。新堀の名前は都市対抗でも何度も耳にした。走攻守三拍子揃った遊撃手だ。都市対抗では、私たちと準々決勝で対戦し、見事な守備でチームを救った。納得の指名だった。新堀の顔を思い出す。あの鋭い眼光と、機敏な動き。プロでも十分通用するだろう。
3巡目。
「第3巡選択選手、金沢。佐倉省吾、投手、大友製紙」
佐倉。彼とは都市対抗の予選で投げ合った。速球派の本格派右腕。最速150キロの直球は、私たちの打線を何度も沈黙させた。あの日、私たちは延長戦の末に勝利したが、彼の投球は見事だった。
「いい投手だったな」
坂田が、ぽつりと呟く。
「ええ。プロでも活躍するでしょうね」
私も、そう答える。だが、心の中では焦りが募っていた。
都市対抗でしのぎを削った選手たちの名前が、次々と読み上げられる。彼らは間違いなく、私よりも先にプロへの切符を手にする実力者たちだ。
正直、焦りが胸をよぎった。
いくら都市対抗で好投したとはいえ、所詮は鳴海自動車の助っ人としての活躍だ。そして、敗者である。あの準決勝で見せた完璧なピッチングも、最後のサヨナラホームランで相殺されているのではないか。もしあの時、鳴海自動車が優勝していれば、評価は違っていただろうか。
だが、そんなたらればを考えても意味はない。過去は変えられない。今は、ただ運命を受け入れるしかないのだ。
それに、私には譲れないものがある。
あの冬、三井と交わした約束。
あの時の三井の表情を、私は今でも鮮明に覚えている。そして、東亜製鉄四日市の仲間たちが背中を押してくれた思い。それを裏切るわけにはいかない。
4巡目。社会人野球の選手が多く指名される、最後のヤマ場だ。
「さあ、熊野...」
監督が、小さく息を吐いた。私の手は、テーブルの下で固く握りしめられている。爪が手のひらに食い込むほどだ。
記者たちの視線が、一斉に私に集まる。カメラのレンズが、まるで銃口のように私を捉えている。
「続きまして、名古屋アウルズ」
その球団名が読み上げられた瞬間、会見場の空気が一変した。記者たちが一斉に私に視線を向け、カメラを構える。シャッター音が、まるで銃声のように響く。
名古屋アウルズ。三井のいる球団。最も期待していた球団だ。
私の心臓は、今にも飛び出しそうなほど激しく鼓動していた。来る。今度こそ、私の名前が呼ばれる。
坂田が、私の腕を掴む。その手は、震えていた。
テレビ画面に映る名古屋アウルズのスカウト部長が、紙を手に取る。彼の口が動く。
「第4巡選択選手、名古屋。草野司、外野手、鳴海自動車」
その瞬間、時間が止まった。
私の名前ではなかった。
草野司。鳴海自動車の4番打者。都市対抗の節々で、試合を決定づける一打を放った強打のスラッガーだ。彼の豪快なスイングは、確かにプロでも通用するだろう。
だが、私の名前ではなかった。
心臓が、チクリと痛んだ。まるで細い針で刺されたような、鋭い痛みだった。
静かに、カメラが下ろされる。記者たちの目から、一瞬の期待が消え失せた。彼らの落胆した表情が、私の無価値を如実に物語っている。
坂田の手が、私の腕から離れた。彼は、何も言わない。言葉が見つからないのだろう。
プロ野球ドラフト会議の中継が、冷たい現実を突きつけてくる。
5巡目。6巡目。私の名前は呼ばれることなく、素材型の高校生が多く指名される。
「190cmを超える体躯を生かしたダイナミックなプレーが魅力!」
「将来性抜群の身体能力抜群な逸材!」
画面の右端に表示されるコメントを見るたび、私は自分の恵まれない体躯を恨みたくなった。プロの投手としては、明らかに小柄だ。
もし身長がもう少し高ければ。体格がもう少し大きければ。そうすれば、アンダースローという特殊な投球フォームも、「個性」ではなく「武器」として評価されたのではないか。
だが、こんなところで後悔をしても意味はない。自分に与えられたものだけで勝負するしかないのだ。私はうつむき気味な心を立て直し、再びドラフト会議を見据えた。
しかし、無情にも本指名会議は終了し、育成会議へと移り変わった。
育成選手。
二軍の公式戦やオープン戦には出場できるが、一軍への出場はできない。一軍の舞台に立つには競争を勝ち抜いて、支配下選手登録を目指さなければならない。契約金もなければ、年俸も支配下登録選手よりも圧倒的に低い。
だが、プロ野球選手であることには違いない。
育成指名会議へと移り変わった会見場は、さらに重い空気に支配された。本指名で名前を呼ばれなかったということは、私に大きな期待を寄せている球団はない、ということだ。
記者たちの中には、既に片付けを始めている者もいる。彼らにとって、育成指名は本指名ほどの価値がないのだろう。私の存在は、もはや記事にする価値もない。
育成指名選手は、文字通り「育てる」ための選手。プロへの扉にようやく指をかけた程度の存在。しかし今の私にとっては、それでも「プロ」の二文字に繋がる唯一の道だった。
「育成第1巡選択選手、高松。西尾大輝、投手、大洋高校」
「育成第2巡選択選手、新潟。田川正一、内野手、南九州学院大学」
高校生や大学生、独立リーグの選手の名前が次々と読み上げられていく。彼らは若い。伸びしろがある。将来性に賭けるだけの価値がある。
しかし、私は違う。もう25歳だ。社会人野球で燻っていた時間が、私から「将来性」という武器を奪っていた。
私の所属する東亜製鉄四日市のような、いわゆる「中堅」の社会人チームから育成で指名されるケースは稀だ。社会人選手は即戦力として期待されるため、育成枠で獲得するくらいなら、高卒や大卒の素材型を指名した方が効率的なのだ。
時間が経つにつれ、私の胸を占めるのは、期待よりも絶望感へと変わっていった。
会見場の時計が、午後8時を指している。ドラフト会議が始まってから、既に3時間が経過していた。長い、長い時間だ。
「名古屋アウルズ」
再び、その球団名が読み上げられた。私の心臓が、一瞬止まる。
だが、名古屋アウルズが育成枠で指名したのは、遠い沖縄の独立リーグの若手投手だった。年齢は21歳。まだ若い。身長は182cm。恵まれた体格だ。
名古屋アウルズから調査書が届いていたという事実が、かえって私を追い詰めた。アウルズは、私という選択肢を完全に切ったのだ。三井とバッテリーを組むという夢は、もはや叶わない。
私の目の前が、ぼやけてきた。涙を堪えるのに必死だった。記者たちの前で泣くわけにはいかない。それだけは、避けなければならない。
4巡目、5巡目...。指名される選手の背景は多岐にわたるが、そこに「東亜製鉄四日市」の名はなかった。
私の手は汗で湿っていた。テーブルの下で、固く握りしめている。爪の跡が、手のひらに深く刻まれているだろう。
坂田は、目を閉じ、天を仰いだ。その横顔には、深い悲しみが浮かんでいる。彼もまた、私の夢が砕け散る瞬間を、ただ見守ることしかできないのだ。
そして、午後9時近く。
会見場の時計の秒針が、重苦しい音を立てて進んでいく。カチ、カチ、カチ。その音が、まるで私の残り時間を刻んでいるようだった。
「以上をもちまして、育成選手選択会議を終了いたします」
コミッショナーの、事務的な声が響き渡った。
その声は、まるで裁判官が死刑宣告を読み上げるように、冷たく、機械的だった。感情の欠片もない。それが、かえって残酷だった。
会見場は、一瞬の静寂の後、記者たちの大きなため息と、低い声での会話で満たされた。誰も彼もが、気まずそうな表情をしている。カメラを片付ける音、椅子を引く音、そんな日常的な雑音が、私の耳には異常に大きく聞こえた。
「お疲れ様でした」
「残念でしたね」
記者たちの声が、遠くから聞こえてくる。彼らは、すでに次の取材のことを考えているのだろう。私の物語は、もう終わったのだ。
指名なし。
本指名でも、育成指名でも、私の名前は呼ばれなかった。
この4時間、私はただ座って待ち続けていた。期待と絶望を繰り返し、心をすり減らしながら。そして最後に残ったのは、何もない。空虚な結末だけだった。
私は、マイクの前に座ったまま、動くことができなかった。視界がぼやけて見える。テーブルの木目が、涙で歪んで見える。
長年の夢が、完全に断たれた瞬間だった。
高校時代から追い続けてきた夢。三井と交わした約束。東亜製鉄四日市での日々。鳴海自動車での奮闘。都市対抗での栄光と挫折。その全てが、今、無意味になった。
いや、違う。無意味ではない。ただ、報われなかっただけだ。
「熊野投手...」
記者の一人が、遠慮がちに私に声をかけた。若い記者だ。おそらく、私と同年代だろう。その声は、まるで葬式の参列者が遺族にかける言葉のように、重く沈んでいた。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
全身が鉛のように重い。足が震え、今にも崩れ落ちそうだった。テーブルに手をつき、なんとか体を支える。息が苦しい。胸が締め付けられるような感覚だ。
会見場の照明が、私の顔を容赦なく照らしている。逃げ場はない。ここで、きちんと言葉を述べなければならない。それが、私の最後の責任だ。
「...今日、私のプロ野球選手への道は、終わりました」
絞り出すような声だった。喉が渇き、言葉がうまく出てこない。声が震え、途中で途切れそうになる。
マイクが、その震える声を拾い、会見場に響かせる。記者たちは、ペンを走らせている。私の敗北の言葉を、一字一句漏らさず記録しているのだ。
「都市対抗で、久慈賞までいただき、多くの方々に期待していただきましたが...」
言葉を続けるのが辛い。涙が溢れそうになる。だが、ここで泣くわけにはいかない。最後まで、きちんと話さなければ。
「結果を残すことができませんでした。プロのスカウトの方々にご評価いただけなかったのは、私の実力不足に他なりません」
実力不足。
その言葉を口にした瞬間、全身から力が抜けた。そうだ、私は実力不足だったのだ。身長も、球速も、将来性も。プロが求める基準に、私は達していなかった。
私は深々と頭を下げた。涙で視界が滲む。このまま頭を上げたくない。誰の顔も見たくない。
会見場が、静まり返っている。シャッター音すら聞こえない。誰もが、息を殺して私を見ているのだろう。
「応援してくださった東亜製鉄四日市の皆さん、鳴海自動車の皆さん、そして...」
そこで、私の声が詰まった。次の名前を口にするのが、怖かった。
「三井...本当にありがとうございました」
三井の名前を口にしたとき、こらえきれずに涙が溢れ出た。
彼は今、プロで輝いている。名古屋アウルズの正捕手として、一軍で活躍している。その親友の横に立つという約束は、夢のまま終わってしまった。
あの時の三井の言葉が、耳に蘇る。あいつは、本気で私がプロに来ると信じていた。そして私も、そう信じていた。
だが、現実は違った。私たちの約束は、叶わなかった。
頭を上げると、記者たちの同情の眼差しが私を捉えていた。その視線が、針のように刺さる。
「以上です。ありがとうございました」
私は、もう一度深く頭を下げ、会見場を後にした。
記者会見を終え、クラブハウスのロッカーに戻ると、私を待つチームメイトたちの姿はなかった。
ロッカールームは、静まり返っていた。いつもなら選手たちの笑い声や、シャワーの音で賑やかな場所が、今は墓場のように静かだ。
監督の配慮だろう。誰にも見られたくない。慰められたくない。
そんな私の気持ちを、坂田は理解してくれたのだ。
蛍光灯の白い光が、ロッカーを照らしている。私の名前が書かれたプレートが、そこにある。熊野光太郎。この文字を見るのも、もう最後であろう。
私は、誰にも見られることなく、ユニフォームとスパイク、そして久慈賞の盾をバッグに詰めた。
ユニフォームを畳む手が震える。このユニフォームを着て、どれだけの試合を戦ってきただろうか。スパイクは、長年の使用で革が伸び、私の足に完璧にフィットしている。このスパイクで、どれだけのマウンドに立ったことか。
そして、久慈賞の盾。
盾を手に取った瞬間、その重みが、皮肉にも今の私の絶望の重さと重なった。
表面には、私の名前と「準優勝」の文字が刻まれている。準優勝。二番目。勝者ではない、敗者でもない、中途半端な存在。それが、私なのかもしれない。
この盾は、栄光の証のはずだった。だが今は、ただの重い金属の塊にしか感じられない。
バッグに盾を入れようとした時、スマートフォンが震えた。
着信だ。
画面を見ると、三井の名前が表示されていた。
あいつは今、遠い名古屋で、自分の活躍を喜び、そして親友である私の指名を心待ちにしていたはずだ。
ドラフト会議を、きっと彼も見ていたのだろう。私の名前が呼ばれるのを、固唾を飲んで待っていたはずだ。そして、最後まで呼ばれなかった時、彼はどう思っただろうか。
きっと、慰めの言葉をかけてくれるのだろう。
「大丈夫だ、熊野。腐るな」
「お前のピッチングは最高だった」
「俺が球団にかけあってみる」
三井の声が、想像できる。親友として、私を励ましてくれるだろう。
だが、どんな言葉も、今の私には鋭い刃のように突き刺さるだろう。
あいつの優しさも、あいつの成功も、今はただ、私とプロの舞台との間に横たわる、埋めようのない距離を強調するだけだった。
三井はプロ野球選手だ。一軍の正捕手だ。年俸は、おそらく数千万円だろう。毎日、テレビに映り、ファンに囲まれ、華やかな世界で生きている。
一方、私は。社会人野球選手ですらなくなろうとしている。これから製鉄所で働き、普通の労働者として生きていく。年俸は、三井の何十分の一だろう。
私たちは、もう同じ世界にはいない。
スマートフォンが、震え続けている。三井は、諦めずに電話をかけ続けているのだろう。
私は、電源ボタンを長押しし、スマートフォンをオフにした。
画面が、静かに光を失った。真っ黒な画面だけが残る。その黒い画面を、バッグの底に沈める。
三井からの言葉は、きっと温かいものだろう。だが、今は、その優しさが一番辛い。
彼の成功の光と、私の敗北の闇が、あまりにも対照的すぎた。
私は、バッグを背負い、ロッカールームを出た。振り返らなかった。もう、ここに戻ってくることはないだろう。
翌朝、私は坂田に引退の意を伝えた。
監督室は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。窓から朝日が差し込み、デスクの上の書類を照らしている。坂田は、デスクの前に座り、私の言葉を静かに待っていた。
「監督、野球を辞めます」
その言葉を口にする時、私の声は意外なほど落ち着いていた。もう、涙は出なかった。心が、感情を拒否しているのかもしれない。
「まだ来年もあるじゃないか!」
そう叫ぶが、私の表情を覗いてハッとしたような表情になり、深く頷いた。
プロに行けなかった選手は、引退する。それが当たり前なのだ。
坂田は、しばらく沈黙していた。窓の外を見つめ、何かを考えている様子だった。秋の風が、木々を揺らしている。葉が、ひらひらと舞い落ちていく。
「熊野、お前は本当によくやった」
坂田が、ゆっくりと口を開いた。
「お前を鳴海自動車に送り出したのは、正しい判断だったと思っている。あの舞台で、お前は最高のピッチングを見せた。久慈賞も獲った。誇っていい」
「ありがとうございます」
私は、そう答えた。だが、その言葉は空虚に響いた。
誇り。確かに、都市対抗での実績は誇れるものだ。だが、それが何になる。プロに行けなかった時点で、全ては意味を失う。
「製鉄所で、頑張れよ」
坂田は、そう言って立ち上がった。そして、私の肩に手を置いた。
「お前には、野球で培った根性がある。どこに行っても、やっていけるさ」
その言葉が、妙に現実的に聞こえた。そうだ、私はこれから「普通の人生」を歩むのだ。野球選手ではなく、会社員として。
私は監督室を出て、自分のデスクに向かった。野球部の寮には、もう用はない。これから、製鉄所への異動手続きを進める。
独身寮へ引っ越す準備をしていると、デスクの固定電話が鳴った。
その音が、静かな部屋に響く。誰からだろうか。もう野球関係の電話が来ることはないはずだ。
受話器を取ろうとした時、坂田が飛び込んできた。
「熊野、名古屋アウルズのスカウト部長からだ」
名古屋アウルズ。
その球団名を聞いた瞬間、私の体が硬直した。昨日、私を指名しなかった球団。三井のいる球団。
昨夜スマートフォンをオフにしたままだった私は、まさかプロ球団から連絡が来るとは思ってもいなかった。心臓が、再び激しく波打ち始める。
「...はい」
私は震える手で受話器を取り、耳に当てた。
坂田が、私の横に立っている。彼の表情は、緊張に満ちていた。
電話口から聞こえてきたのは、落ち着いた、しかし力強い声だった。中年の男性の声だ。おそらく50代だろう。
「熊野くん。名古屋アウルズのスカウト部長、松浦だ。昨日は指名がなく、大変残念に思っている」
その名前は、野球界では有名だ。数多くの選手を発掘してきた、名スカウトとして知られている。
「君の都市対抗での投球は、我々のスカウト陣の中でも非常に評価が高かった。特に、あの配球と、勝負度胸は、プロでも通用すると確信していた」
「...ありがとうございます」
私は、ただそれしか言えなかった。
評価が高かった。だが、指名はされなかった。その矛盾が、私を混乱させる。
指名がなかったという事実は、もう変わらない。過去は変えられないのだ。なぜ今、こんな電話をかけてくるのか。
「しかし、アンダースローという特徴上、一軍での即戦力としてではなく、時間をかけて育成する必要性、そして君の恵まれてはいない体躯について球団の意見が分かれ...」
松浦の声が、一瞬詰まった。彼も、この説明をするのが辛いのだろう。
「結果、今回は育成指名も見送られた。球団の判断だ、謝る」
謝罪の言葉。だが、それが何になる。指名されなかったという事実は変わらない。
松浦は、そう言って一呼吸置いた。
電話口から、彼の息遣いが聞こえる。深く息を吸い、そして吐く音。何か重大なことを言おうとしているのだ。
私の心臓が、ドクンと大きく鳴った。この沈黙の後に、何が待っているのか。
「我々が君の野球脳を評価した結果、球団は君に、別の形でプロの世界へ入ってもらいたいと考えている」
別の形。
その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。別の形とは、何だろうか。
「...別の形、ですか?」
私の声は、かすれていた。喉が渇き、言葉がうまく紡げない。いつのまにか坂田は私の元を離れ、窓の外の景色を見つめている。
「そうだ。君にはスコアラーとして、名古屋アウルズを陰から支えてもらいたい。君の配球術、試合運び、そして投手としての経験は、若い選手たちにとって貴重な財産になる」
スコアラー。
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中が、真っ白になった。
これは、夢を諦めるということなのか。それとも、別の形で夢を追い続けるということなのか。
選手ではない。ユニフォームは着るが、マウンドには立たない。ベンチに座り、データを分析し、作戦を立てる。影の存在として、チームを支える。
「君の投手としての経験、そして都市対抗で見せた冷静な判断力。それらは、スコアラーとして非常に貴重だ。特に、配球術については、我々のスカウト陣も唸っていた」
松浦の声は、熱を帯びていた。彼は本気で、私をスコアラーとして迎えたいと思っているのだろう。
「もちろん、すぐに返事をしてくれとは言わない。じっくり考えてほしい。ただ、我々は君の野球に対する情熱と知識を高く評価している。それだけは、忘れないでくれ」
「...考えさせてください」
私は、やっとそれだけ言えた。
「もちろんだ。1週間、時間をあげよう。それまでに、連絡をくれ」
電話は、そこで切れた。
受話器を持ったまま、私はしばらく動けなかった。窓の外では、秋の冷たい風が木々を揺らしている。葉が、次々と舞い落ちていく。
スコアラー。
対戦相手のデータや味方選手の特徴を踏まえて分析を行い、首脳陣や選手一人ひとりに毎試合の作戦を立案する職業。影の暗躍者とも称され、現代のデータ野球には欠かせない人材だ。
プロ野球の世界に身を置くことはできる。だが、選手としてではない。マウンドに立つことも、打席に立つこともない。ただ、データと向き合い、チームを支える存在。
選手としての夢は昨日潰えた。だが、野球という世界から離れるのか、それとも別の形で関わり続けるのか。その選択は、私の人生を大きく左右するだろう。
この話を飲むことは野球の世界に留まることを意味する。
東亜製鉄四日市では来年から主任の役職を貰うことを決定づけられている。野球で培ったひたむきな姿勢が評価されたようだ。総務部に配属され、従業員の労務管理を担当する予定だ。
この道はきっと安定そのものだ。
東亜製鉄は日本でトップシェアを誇る製鉄会社だ。創業100年を超える老舗企業で、経営基盤も盤石だ。そう簡単に自分のクビが切られる危機は訪れないだろう。
給与もそう悪くない。主任になれば、年収は500万円を超えるはずだ。
結婚して、家を建てて、子供を育てる。週末は家族でショッピングモールに行き、年に一度は旅行に行く。普通の、幸せな人生だ。
東亜製鉄に老後まで勤め上げて地元・三重で暮らし続けるのも悪くないだろう。
実家は三重にある。両親も高齢になってきた。地元にいれば、いつでも実家に顔を出せる。親孝行もできる。
だが、プロの世界。
それも親友である三井のいる名古屋アウルズでチームの勝利のために暗躍する。それもまた、一つの道ではないのか。
スコアラーの年俸は、選手ほど高くない。おそらく、400万円から500万円程度だろう。東亜製鉄の主任よりも同等か低い。
だが、それはプロ野球の世界だ。毎日、球場に通い、試合を分析し、選手と話す。野球に関わり続けることができる。
三井とバッテリーを組むという約束は、もう叶わない。
だが、三井が投げる球を、ベンチから見守ることはできる。いや、違う。ベンチからではない。ブルペンで、三井の球を受けることもあるかもしれない。練習で、配球のアドバイスをすることもあるだろう。
あいつの成功を、最も近くで支えることができる。
それは、バッテリーを組むことと同じではないのか。形は違うが、同じ目標に向かって戦うことに変わりはない。
私は久慈賞の盾のことを思い出す。
この盾は、私の全てを賭けた戦いの証だ。準優勝。確かに優勝ではない。だが、この盾を手にするまでに、どれだけの努力を重ねてきたか。
そして、この盾が示す「野球への情熱」は、まだ私の中で燃え続けている。
昨日、私は野球を辞めると決めた。だが、それは本当に正しい選択なのか。
「熊野。何の電話だったか?」
坂田が、静かに問いかけた。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
窓の外の空は、どこまでも青く澄んでいた。雲一つない、完璧な青空だ。秋の空は、夏のそれとは違う。どこか透明で、清々しい。
「いえ……なんでもないです」
私はそう返事を濁す。
坂田も深堀はしなかった。ただ、私の肩を軽く叩き、部屋を出ていった。
一人になった部屋で、私は盾を握りしめた。
もしスコアラーの職に就くことになれば、それは夢の終わりなのか。それとも、新たな夢の始まりなのか。
選手として、マウンドに立つ。それが私の夢だった。
だが、野球に関わり続ける。それもまた、夢の一つの形ではないのか。
安定の道を取るか新たな道を取るか私の心は揺れ動いていた。
東亜製鉄での安定した生活。地元での穏やかな日々。それは、多くの人が望む幸せだ。
だが、名古屋アウルズでの挑戦。不安定で、厳しい世界。だが、野球に関わり続けることができる。
どちらを選ぶべきなのか。
私は、窓の外を見つめた。
風が、木の葉を揺らしている。葉は、枝にしがみついているものもあれば、風に身を任せて舞い落ちるものもある。
どちらが正しいのか。それは、誰にもわからない。
私の答えは、すぐに出せそうになかった。
1週間。松浦が言った期限だ。それまでに、私は答えを出さなければならない。
人生を左右する、最も重要な決断。
その答えを、私はまだ持っていなかった。
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