第十六話 淡い光と深い闇

 アクア・ヘイブンの外縁に設けられた海辺のデッキに、ナナミはゆっくりと這い上がった。

 潮風が頬を撫で、濡れた髪を揺らす。


 足が震える。

 久しぶりの地面の感覚に、身体が戸惑っている。


「……着いた……」


(お疲れさま、ナナミ。まずは休息が必要ですね)


 アストラルの声はいつもより柔らかく、気遣うようだった。


 ナナミは息をつきながら立ち上がり、見上げる。

 船上都市は巨大な影のようにそびえ、塔の先端が光を反射していた。


 ――帰ってきた。


 その実感が、遅れて胸に広がる。


「と、とりあえず……宿、行こうかな。もう休まないと動けない……」


(ええ、それが良いでしょう)


 都市の中央へ続く桟橋に向かって歩きだそうとした、その瞬間――


 ナナミはぴたりと足を止めた。


「……あれ?」


(ナナミ?)


 持っていたはずのバッグが、どこにもない。


 初めてアビスリフトに吸い込まれたあの夜。

 全部、あの時に投げ出されてしまっていたのだ。


「あ……うそ……全部、無い……!」


(……荷物、全て失っていたのですね)


 今になってその事実が、音を立ててのしかかってきた。生死の境を常に彷徨っており必死だったナナミはすっぱり頭から消えていたのだ。


「ど、どうしよう……。宿……泊まれないじゃん……」


 思わず情けない声が漏れる。

 深海を生き延びても、帰還後の現実は容赦ない。


(落ち着いて。お金は……)


「ない……」


(…………)


 アストラルが明らかに言葉を選んで黙った。


「ま、待って……!でもっ、売れるものなら、あるよ!」


 ナナミは胸元を探り、濡れた布袋から小さな結晶を取り出す。


 淡く輝く海晶核。

 さっき光海帯で倒した小型海魔のものだ。


「海晶核がある!これをギルドに売れば……!」


(……確かに。それなら当面の生活費は賄えるでしょうね)


 アストラルは同意するように言い、しかしすぐに付け加えた。


(ですが、ナナミ。それ以外の核……よく見なさい)


「見……る?」


 ナナミは袋の奥から、幾つかの海晶核を取り出した。


 ――深海の海魔を倒した時のもの。


 それを光にかざした瞬間、息が止まった。


「え……なにこれ……」


 光海帯の海晶核は、淡い青。

 手のひらで転がる軽い光。


 だが、深海の海晶核は――


 黒藍の内部で光が脈打つ。

 生きているように魔力が渦巻き、手が痺れるほど重い。


(気づきましたね。深海のものは……格が違います)


「ここ、ここまで違うものなの……?」


(深海で海晶核を“持ち帰れる者”など滅多にいません。

 あなたがそれを売れば……街は騒ぎます)


 アストラルの声は厳しくはなかった。

 ただ事実を告げる落ち着いた調子。


(あなたが想像する以上に、これは価値がある。

 それを“誰とも知らない少女”が売るなど……波紋は大きいでしょう。)


 ナナミは唇を噛んだ。


 確かにそうだ。

 深い海に潜れるダイヴァーは限られ、彼らは皆、ギルドで名前も顔も知られた精鋭ばかり。


 そんな場所から帰ってきた上に、深海級の海晶核を持っている――普通なら、まず「ありえない」。


 (それに1番奥のモノには気付いてますか?)


 1番奥には深海核よりさらに濃い藍。

 中心で渦を巻く魔力は、まるで牙をむくような強烈な圧を放っている。


 巨大ウツボから採取した海晶核だ。手に取る。


 「……!!!!」


 何気なく拾っていたが、よくよく見るとナナミは汗が止まらなくなる。


「……でも……」


(……)


「……売らないと、寝る場所もないよ……」


 アストラルはしばし沈黙し――やがて小さく息をついた。


(……あなたの判断に従いましょう。

 ただし、その今手に持っているモノだけは特に売るのをオススメしません)


「うん……ありがとう」


 胸元を押さえ、ナナミは桟橋に向かって歩き出す。

 足は重い。

 けれど進まなければ、何も始まらない。


 ♢


 ダイヴァーズギルドの建物は、都市中央部に鎮座していた。

 外壁には海水の水車が並び、魔力供給管が蜘蛛の巣のように走っている。


 大きな扉を開けると、喧騒が一気に押し寄せた。


「今日の核いくらだ?」「潜行申請します」「潮流データ更新!」


 ダイヴァーたちの声と魔導機械の音が入り混じり、活気に満ちている。

 深海の静寂とは、まるで別世界。


(緊張してますね)


「してるよ……!絶対何か言われるもん……」


 列に並び、ようやく順番が回ってくる。


 淡い藍色の髪の受付嬢は明るい声で迎えた。


「お待たせしました!売却ですね?海晶核……ですか?」


 言いかけたその視線が、ナナミの手元で止まった。


「……え?」


 淡い光の海晶核。

 そして――深海の闇を宿す、重い海晶核。


 ナナミはアストラルの助言に従い巨大ウツボの海晶核だけは隠し深海層の海晶核をとりあえず3つ売ることに決めたのだ。


 受付嬢の表情から血の気が引く。


「……ちょ、ちょっと待ってください……それ……なんですか暗海級……じゃない……もっと深い!?

 え、どこで……誰が……!」


 ギルド内のざわめきが、波紋のように広がった。


 ナナミは、そっと息を呑む。


(……始まりましたね、ナナミ)


 アストラルの声が、静かに囁いた。

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