第7話:化け物の正体

 ティムの小さな手を引き、俺たちは慎重に山道を下り始めた。

 先ほどまでの険しい崖とは打って変わり、比較的緩やかな獣道が続いている。


「あの……兄ちゃん」


 隣を歩くティムが、おずおずと俺を見上げてきた。

 その瞳には、先ほどの活発さはなく、反省と不安の色が浮かんでいる。


「僕、お母さんにすごく怒られるかな……」

「さあ、どうだろうな。でも、まずは無事に帰ったことを喜んでくれるはずさ。それに、こんなに素敵な薬草もお土産にあるんだから」


 ティムは少しだけ表情を和らげ、ぎゅっと薬草を握りしめる。


「うん……。これを渡したら、お母さん、元気になってくれるかな」

「きっとなるさ。君の気持ちが、一番の薬だからな」


 そんな会話を交わしながら歩いていると、不意に、空気が震えた。


 ズウゥゥゥン……


 腹の底に響くような、重い地響き。それは一度きりではなく、断続的に、そして確実にこちらへ近づいてくる。

 まるで、山そのものが巨大な心臓となって脈打っているかのようだ。木々の葉がざわめき、小石がカタカタと音を立てて転がり落ちる。


「まずい……! ティム君、こっちだ! 早く!」


 俺はティムの腕を掴むと、すぐ近くにあった巨大な岩が折り重なってできた洞窟のような隙間へと駆け込んだ。身を滑り込ませるようにして奥へと進み、息を殺して身を潜める。


 隠れた直後だった。


 ゴシャアアアアッ!


 凄まじい破壊音が、すぐ近くで巻き起こった。

 俺たちがさっきまで立っていた場所の木々が、まるで小枝のようにへし折られ、なぎ倒されていく。地響きはもはや揺れというより衝撃波に近い。洞窟の壁がビリビリと震え、天井から砂や小石がパラパラと落ちてきた。


 そして、聞こえてきた。


『シュルルルル……』『グロロロロ……』『キシャアアアッ!』


 複数の、全く異なる種類の獣の唸り声や威嚇音が、同時に、同じ場所から発せられている。それはまるで、一つの体に収まりきらない悪意が、互いにいがみ合っているかのようだ。


 俺は恐る恐る、岩の隙間から外の様子を窺った。

 そして、見てしまった。


 その巨体は、ぬらりとした暗緑色の鱗に覆われ、まるで沼から現れた丘のようだった。その胴体は、俺が隠れているこの岩窟よりも遥かに大きい。

 だが、真に恐ろしいのは、その胴体から天に向かって伸びるおぞましい数の「首」だった。


 一本、二本ではない。俺が視認できるだけでも、五本、六本……いや、それ以上だ。それぞれの首は巨大な大蛇のようにしなやかに動き、先端には凶悪なかんばせがついている。

 裂けた口からは鋭い牙が覗き、爬虫類特有の縦に割れた瞳が、爛々と不気味な光を放っていた。


「ヒュドラ……」


 俺は思わずその名を呟いていた。

 間違いない。九つの首を持つ伝説の水蛇、ヒュドラだ。

 アルファンの世界にも登場する、最高ランクの魔物の一種。

 しかしゲームの知識が正しければ、ヒュドラが出現するのは物語の終盤、それも特定のダンジョンの最深部のはずだ。こんな序盤の村の、裏山に住み着いていいレベルの存在ではない。


 神様のバグは俺の仕様だけでなく、この世界の生態系まで狂わせてしまったというのか?


 その圧倒的な存在感、死そのものを具現化したかのような威圧感に、隣のティムが「ひっ……」と息を呑む音が聞こえた。

 隣を見ると、ティムは顔面蒼白で、その場にへたり込み、ガタガタと全身を震わせている。完全に腰が抜けてしまっていた。


 ヒュドラは俺たちという小さな存在には気づいていないのか、あるいは興味がないのか、しばらく周囲の木々をなぎ倒して威嚇していたが、やがて、その九つの首が、一斉にある方向を向いた。


 その方角は――ファスタ村だ。


 麓から漏れ聞こえる人々の生活の気配が、あの化け物を誘っているのだ。ヒュドラは、まるで手近な餌場を見つけたかのように、ゆっくりと、しかし確実に村の方向へと進路を変えた。


「まずい……!」


 このままでは村が襲われる。ティムを連れて逃げなければ。


「ティム君、しっかりしろ! 逃げるぞ!」


 俺は腕を引いた。だが、ティムは首を横に振るばかりで、その場から一歩も動けない。


「だ、だめ……足が、動かない……怖い……」


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔でただ震えている。


 俺は即座に決断した。ティムをここに残し、俺が奴を止める。

 だが、無防備な子供をこの場に置いていくわけにはいかない。俺は右腕のリムドに意識を集中させた。


『INVENTORY、オープン。コモンシールド、実体化』


 リムドの表面が淡く光り、俺の目の前に、幾何学模様の光が集束していく。光は瞬く間に円形の小型の物体になり、確かな質量を持って俺の手に収まった。

 この盾は『コモンシールド』という盾だ。アンプラでは最も基本的な防御装備で扱いやすい。


 盾としては非常に小さく、まるでドアノブの周辺だけくり抜いたかのような外見をしている。

 この状態では盾としては機能しない。


 半透明の青い光でできた、美しい盾。


 俺はその「コモンシールド」を、震えるティム君の手に握らせた。


「ティム君! これを持て!」

「こ、これは……?」

「これはコモンシールドという盾だ。無いよりはマシなはずだ」

「で、でもこんな小さい物でどうやって……」

「取っ手の裏側にスイッチがあるんだ。そのスイッチを押せば盾になるんだ」


 ティムは困惑しながらもスイッチに指を置いた。


「こ、これ……?」

「そう。押してみな」

「う、うん………………わっ!?」


 スイッチを押した瞬間、光の壁が展開して形成して盾となった。


「な、なにこれ!? 光ってる!?」

「いいか、これはただの光じゃない。君を守るための壁だ。何があっても、これを絶対に手放すな! 俺が戻るまで、この岩陰から絶対に出るんじゃないぞ!」


 光の盾の温かさに、ティムは少しだけ正気を取り戻したように、こくこくと必死に頷いた。


 ティムを岩陰の奥に押し込み、俺は意を決して外に飛び出した。

 ヒュドラはもう、村に向かって十数メートルも進んでいる。その巨体が一歩動くたびに、大地が揺れた。


「こんの……トカゲ野郎! 村へは行かせないぞ!」


 俺が叫びながらヒュドラへ走ると、ヒュドラは俺の存在に気が付いたようだ。


「そうだ、こっちだ! お前の相手は、この俺だ!」


 俺はヒュドラの注意を完全に引きつけるため、さらに叫びながら、村とは逆方向の、森の奥深くへと駆け出した。

 九つの首が、まるで一つの意志を持ったかのように、俺という小さな獲物を追って向きを変える。


 ズウゥゥゥン……!


 再び地響きが起こる。今度は、俺だけを標的とした、純粋な殺意の波動だった。

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