第3話 触れてはいけない
12月の半ばに差し掛かり、寒さが身に染みるようになってきた。布団の中から足を伸ばしてカーテンを揺らすと、雪が積もっているのがちらりと見えた。
「うおう、寒いわけだわあ」
「おい。飯ができたぞ。起きろ」
「嫌だ。今日は布団から出ない」
わがままを言うと、
「いやん。隼人さんのエッチ」
「うるせえよ。誰のために朝飯作ってると思ってる。食え」
私が来る以前は、隼人さんは朝ご飯を食べない人だったらしい。私も無理に作らなくていいと言ったのだけれど、「十代のうちはちゃんと食っとけ」と返されてしまった。
隼人さんは優しい。どこの誰とも分からない私を拾ってきて、私のためを思ってくれる。
どうしてこんなに優しくしてくれるのか分からない。そんな危うさもあるけれど。
今の心地よい関係が崩れるのが何より怖くて、ただひたすらに、彼に寄りかかっていた。
「さぶさぶ。隼人さん、私が食べてる間、後ろから抱きしめてて」
「さっき俺をエッチだと非難した奴と同一人物とは思えないな」
「非難してないって。私はド変態の隼人さんも受け入れる」
「誰がド変態だ」
ずいぶんと年下の女の子にこんなことを言われても、嫌な顔一つせず、コーヒーを飲みながら適当にあしらう。大人な対応がありがたい。
「隼人さん、今日のご予定は?」
「午前中に少し買い物に出る」
「え?」
衝撃が走る。隼人さんが外出するなんて、この3か月一度もなかった。食べ物はすべて宅配。その他の日用品もネット購入。散髪にも行かず、髪はずいぶん伸びていた。
「……雪ではしゃぐなんて、子どもっぽい」
「雪だからじゃねえよ」
違ったか。いつもと違うことなんてこれぐらいしか思い浮かばなかったのだけれど。
「んー、じゃあなんでだろ」
思い当たる節がまるでない。口元に手を当てて悩むが、推理するにも材料が少なすぎる。そんな私を見て隼人さんは優しく笑って「近いうちに分かる」とだけ言った。
隼人さんが家を発って、私は一人で本を読んでいた。
彼の部屋には本棚ぎっしりの小説があって、この3か月、多くの時間をそれに費やしてきた。隼人さんと同じ物語を読んでいるというのがなんとなく楽しくて、気づけば蔵書の半分近くをすでに読み終えていた。当面の目標はこの家にある全ての本を読むこと。それが終わったら隼人さんに新しい本を買ってもらって一緒に読もう。
この家を出て行くつもりもなく、それどころか本を買ってもらおうとする自分の図太さが面白い。
けれど、いつも考えてしまうことが一つ。隼人さんは仕事をしていないし、仕事を探している様子もない。それなのに、お金に困っている様子がまるでなかった。普段の日常生活はもちろん、思えば私が倒れていたのを彼が見つけたとき、小此木に治療費を払ってくれていたらしかった。闇医者だし身元不明の私に保険が下りるはずもないし、きっととんでもない金額だったに違いない。
そもそも、なぜ彼が頼ったのが闇医者だったのか。救急車を呼んでいれば、今頃私の世話を焼くことなく、病院に面倒事を押し付けられたはずなのだ。
この3か月、ずっと疑問に思っていたことだった。だけど、それは決して触れるべきではないパンドラの箱のような気がして、ずっと追及せずに来た。そして、今後もそれを聞き出そうとは思わない。
彼が秘密を抱えていようと、この生活が続くこと、それだけが今の私の祈りだった。
それなのに。幸せは突如、終わりを迎える。
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どぶの中の楽園 鈴華圭 @Suzuhana_Kei
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