第2話 過去のない少女






 始まりは3か月前。9月のこと。

 目を覚ますと、そこは薄汚れた硬いベッドの上だった。


「ああ、起きたかい」


 現れたのは坊主頭の男。酷い隈と無精髭のせいで、胡散臭い印象を抱かせる顔をしていた。少しだけ恐怖を感じながら、「どなたですか」と尋ねる。


「ああ、僕かい。僕は小此木ここのぎ。この病院の院長さ」

「病院……?」


 しかしその部屋は、病院にしては随分と汚かった。窓一つない部屋、天井にはクモの巣が張り、ベッド横のカーテンにはカビが生えていた。


「ああ、病院と言っても正式に認められていない、いわゆる闇医者というやつさ、ああ」


 口癖のように「ああ」と発する小此木。表情が全く変わらず、淡々と説明する姿が薄気味悪い。

 しかし、私はなぜこんなところにいるのだろう。病院のお世話になるようなこと……。

 思い出そうと頭に手をやると、頭が包帯で巻かれていることに気づくとともに、鈍痛が走った。どうやらこの怪我が原因らしい。


「ああ、覚えていないのかい。人目につかない路地裏に、頭から血を流して倒れていたらしいよ。ああ、優しい男がわざわざ君を連れてきてくれたんだ」


 人目につかない路地裏…… 。そんなところに、私は行ったのだろうか。自分の身を見下ろすと、私は制服を纏っていた。学校帰り、だったのだろうか。何も思い出せない。


「ああ、それで治療の報酬なんだがね。身体で払ってもらうというのはどうだろう。ああ」

「……は?」

「ああ、こっちは闇医者、犯罪者だからね。表の世界に知られたくないわけだ、ああ。だからね、君の裸の写真を何枚か押さえておけば、君も安易に誰かに僕のことを話したりできないだろう? 僕も安心というわけさ、ああ」


 何を言っているんだ? 本当にこの人は医者なのか? 私の身に何が起きたのかも分かっていないのに、僕は医者だ、報酬よこせと言われても納得できない。しかも、身体で払えだと?


「さて、じゃあ脱いでくれるかな。ああ」


 小此木はブラウスのボタンに手を伸ばしてきた。


「ふ……ざけんな!」


 次の瞬間、私は小此木の顔を殴り飛ばしていた。


「意味分かんないっつーの! なんであんたみたいな気持ち悪い奴に……」

「……ああ。面倒だな。やっぱり殺してしまおうか。うちは裏の人間専門の病院なんだ。ただの女子高生である君を、救ってやる義理なんてなかったんだよ。ああ」


 私の渾身のパンチによろめいた小此木は部屋の隅にあるデスクの上に置いてあったメスのような刃物を手に取っていた。


「っ……!」


 逃げようと思ったけれど、頭が痛んで動けなくなる。


「ああ、怖がらなくていい。優れた医者は生かし方だけじゃなく殺し方も知っているものだからね」


 なんで、こんなことに。なんで、なんで。

 身体がすくんで動けない。逃げたい、逃げなきゃ。どうやって。どこに。ここはどこ。動けない。

 ――誰か、助けて。




「小此木!」




 部屋の扉が乱暴に開けられ、男が怒声とともに入ってきた。

 細身で、目つきの悪い男。

 小此木はその声を聞き、動きを止めて溜息をついた。


「小此木。何のつもりだ」

「ああ、治療してやったのに感謝の思いの欠片もないようだったものでね。少し教育してやろうと思っただけさ。ああ」

「報酬ならさっき、十分すぎる額をくれてやっただろう」

「……ああ。そうだったね」


 つまらなそうに言うと、小此木はメスをデスクの上に放り、ベッドから離れていった。 助けてくれた男は私に近づいてきて、「何もされていないか?」と尋ねた。それに首肯すると男は胸をなでおろし、今度は小此木に聞く。


「この子はもう帰っていいのか?」

「ああ、いいよ。一週間は安静にしていたほうがいい」


 それを確かめると、男は「立てるか?」と私の顔を伺う。頷いたが、身体が動かなかった。どうやら腰が抜けてしまったらしい。男は私の表情からそれを察したのか、私に背中を向けて「乗れ」と言う。

 私は躊躇ためらう。知らない男に背負われること自体にも抵抗はあったし、なにより怖かった。この人は助けてくれたけど、何者なのかも分からない。信用できる要素は一つもなかった。

 そんな私を見て、男は溜息をつき。


「家に送り届けてやる。嫌ならここに残るか?」


 それを言われては、私に選択の余地はなかった。 私は彼の首に手を回した。 外に出ると空は真っ暗で、雲に覆われて月明かりさえなかった。


「あの、今何時ですか?」

「22時。門限でも心配か? 言っておくが、俺が倒れてるお前を見つけたのは昨日だ。だから今さらそんな心配しても無駄だ。覚悟して叱られろ」


 門限。そんなもの、あっただろうか。

 分からない。何も、分からない。


「お前、家は?」

「……分からない」

「家出か? 何があったか知らんが、もう大人しく帰れ。あのクズ医者も安静にしろと言っていたろ」

「違う。何も、分からないの」


 家も、家族も、分からない。自分が本当に昨日までこの世界に生きていたのかも確信できないくらいに、記憶がなかった。 お互いに表情は見えないが、私の声から真剣さを感じたのか。


「……記憶喪失、なんて言わないよな?」

「多分、そういうことだと思う」


 男は舌打ちをして、しばし押し黙る。私をどうするか考えているのだろう。警察にでも押し付けるつもりだろうか。なんとなく、嫌だなと思った。悪事をした記憶もないけれど、なんとなく警察とは関わりたくない。もっとも、そんなわがままを見ず知らずのこの男が聞いてくれるはずもないが。


「……ひとまず、俺の家に来い。狭いアパートで悪いが、とりあえず、その傷が治るまでは」

「え?」


 思わぬ言葉に声が零れた。


「警察に行ってもいいんだが、治療の跡が残っていると、小此木の病院に行き着くかもしれない。あいつはクズだが、捕まっちゃ困るんだ。しばらく我慢しろ」

「あ……ありがとう」


 なんだかとても嬉しかった。知り合いが誰もいない。頼れる人が誰もいない。そんな中にあって、私を家に置いてくれる。それだけで泣きそうなくらいに心が安らいだ。


「お前、名前は? 覚えてるか?」

及川おいかわ真咲まさきです」

「俺は鈴木隼人はやとだ。よろしくな」


 そうして、私は隼人さんの同居人となる。

 1週間のはずが、私のわがままで2週間になり、1か月になり、3か月になった。

 そんな私を咎めることもなく、彼はいつまでも置いてくれた。

 過去も未来も見えないけれど、彼の傍で生きられる今だけは確かに幸せだった。





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