新説・白雪姫 ~偽りのリンゴ~
@kauchi-ouchi
1章
第0話 真っ赤な嘘
鏡よ、鏡。
この世で一番、美しいのは――誰?
世界中、どこかで誰かが口にするこの言葉。
ある物語の始まりとして、幾世代にも渡って語られてきた。
魔女の毒リンゴに倒れた、美しく気高い姫。
王子のキスで目を覚まし、やがて幸せに暮らしたという――夢のような話。
このおとぎ話は、海を越え、大陸を越え、時には神話を飲み込みながら、
五百年以上もかけて、この星をゆっくりと包みこんでいった。
けれど、もしこの物語が、リンゴのように…真っ赤な“嘘”だったとしたら?
僕は、それを記録し直している。
伝説を、真実に塗り替えるために。
あの子の汚名をそっと晴らすために。
そして、まだ見ぬ未来の誰かへと証を届けるために。
僕が育ったのは、この大陸で一番の山脈に囲まれた、ちっぽけな村だった。
高くて白い山々が、空を切るようにそびえていて、真ん中には細い川が流れている。
水は冷たくて、澄んでいて、それだけでなんだかいいところに住んでいるような気がしていた。
村の人たちは、みんなおだやかで、山や川の恵みに感謝しながら暮らしている。
…と、その頃の僕は、本気でそう思っていたんだ。
「あの音…聞こえたってことは、今日リンゴが配られる日だ」
ふくふくと育った僕のお腹が、ぐぅ~っと空腹を主張する。
遠くの山あいから響いてきたのは、ゲムスホルンの音色だった。
それは羊飼いが夢に見るような、穏やかでやさしい音。
霧をまとった風にのって、空の高みにふわりと溶けていく。
雲が音を食べて、それがかたちになって――いつも、そんなふうに想像していた。
この音が村に響くと、白雪姫様からのリンゴが配られる。
赤くて、つやつやで、ぴっかぴかの、特別なリンゴ。
それをもらった人は、みんな笑顔になって、元気になるって言われていた。
でも僕が住む孤児院は、村のはずれ。誰も来ないし、来る予定もない。
「いいなあ…僕も、リンゴ食べてみたいなあ」
そうつぶやきながら、僕は中庭のベンチに寝転がる。
その横にあるお気に入りの本『群雄記』に目を落とした。
リンゴの味を想像しながら、僕はまたページをめくった――。
「――卑しいわね、ほんとに」
声のする方を見ると、孤児院の入口でレータが弓の手入れをしていた。
彼女は目を細め、僕のふくよかなお腹をじっと見つめている。
「だからアプは痩せないのよ」
冷たく、でもどこかお決まりのように言い放つ。
僕は言い返すでもなく、目線を本へ戻した。
「…そんなこと言ったってさぁ」
ぼそっと口にした僕の声に、彼女はふぅとため息をついた。
「大体、なんでグリム先生はあんたにだけ甘いわけ?」
それは昔からの話題。レータは僕よりしっかりしてて、実際、頭も切れるし、行動も速い。
同い年だけど、どう考えても僕より数段大人だ。
顔立ちも整っていて、孤児たちの間でも将来は美人になるって言われている。
そんな彼女の前だと、僕はどうしても言葉が詰まる。
「トレーニングすれば?少しは引き締まるでしょ」
そう言って、レータは弓を肩にかけ、大きな木の枝に軽やかにぶら下がった。
「やだよ、そんなの。今は…読書タイムなんだから」
本を胸に抱えながら、僕は顔をそむけた。
ページの中では、勇者が千の敵をなぎ倒し、名将が奇策で敵を翻弄している。
僕はそんな話が、たまらなく好きだった。
そのとき、突然――シュッという風を裂く音が。
「ぐえっ!?」
なにかが首に引っかかって、僕の息が止まりかけたのだ。
「おっと…」
レータの弓の端が、僕のネックレスにひっかかっていたらしい。
それは、母の形見――三日月の形をした、少し古びた銀のペンダント。
彼女は慌てて弓を引き戻し、僕の首がようやく自由になる。
「ねぇ、これまたキツくなってない? 首も太りすぎだよ」
レータは、にやにやしながら僕のネックレスとお腹を交互に見た。
「…いいんだよ、僕は。体より頭を鍛えるんだから」
僕はページを叩くように開いて、群雄記を見せつける。
「この中にはね、知識っていう力が詰まってるんだ。古今東西、偉大な戦士たちがどうやって勝ったかって話。戦のレシピだよ!」
レータは、腕を組みながら小さく首を傾げた。
「ふーん……で、それっていつ使うの?」
真顔で聞き返されて、僕は口を閉ざした。
今のこの国には、戦争も争いもない。
十年以上も前に白雪姫様が魔女を倒して以来、平和な時代が続いている。
みんなリンゴをもらって、笑顔で、健康で、幸せそうだ。
レータの言う通り、僕の知識なんて、きっと何の役にも立たない――
はずだった。
「郵便だよー!」
入口のベルと一緒に、顔なじみの配達員の声が響いた。
未来を変える知らせは、いつも突然やってくる。
それが何を運んでくるかなんて、あの時の僕には、まだ分からなかった。
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