ジュブナイル・トースト
隣乃となり
ジュブナイル・トースト
「食パンの耳を食べるだけの簡単なお仕事です! 未経験者、少食でも大歓迎! まずはお気軽にお電話ください! (はほえみの絵文字)」
できる、と思った。
その瞬間、わたしの脊髄、そのめずらしく柔らかな部分に、眩い針が突き刺さった。時速はおそらく300キロメートル。貫く、という表現のほうが相応しいと思うくらいに、その針はぶちぶちとわたしの中を壊しながら駆ける。同時に、生き生きとした未来への希望が、わたしを溺死させようと試みている。気づくとわたしの眼前には矢印があって、太くて青いそれはわたしのこれからの人生における、最上級の幸せを教えてくれた。
「きみの幸せはね、まず土踏まずに緑の露を感じて、白いワンピースを着て、マイナーなバンドの売れる前のアルバムみたいな厭な青春を体現してね、それからね、駅のストリートピアノの列の、一番うしろに並ぶことなんだ。いいかい。弾けなくてもいい。きみの指はもともと音楽のためにはできてないからね。昔これでご飯を食べていました、みたいな顔をしているおじいさんとか、チャンネル登録者が7桁のユーチューバーとかがいても、気にせずに立っているんだよ」
なるほど。わたしはこういう幸福を、食パンの耳を卑しく貪り食うだけで享受できるのか。それは揺らぐ。揺らいでしまう。
けれど、いいえ。わたしはわたしを諭すように、言う。お前はどんな思いつきにも確かな輪郭を与えてあげられない臆病なたちをしているのだから、その素晴らしかったはずの想像だって、程なくして「できそう」に格下げされてしまうのだろうって。あきれる。Oh my goshを生成AIに雑に投げると、こういう、わたしみたいな人間が現像されるのだと思う。ジジジ、とステルスの音を立てながら、この世で酸素を求めることを選択したのだと、思う。
「やめておくか〜。大体、こんな怪しいバイト、闇バイトかなんかでしょうしね」
そう思っていた時期が、わたしにもありました。
わたしは遠藤さんに言う。遠藤さんは作業服にところどころ付着した、パンくずの赤ちゃんみたいなやや大きめの粉をぱっぱと払うと、口を開いた。
「いいんじゃない? ぼくも初めはなんかの罪に問われるんじゃないかって怖かったよ」
ですよねえ、という声は、自然に出ていく。
食パンの耳を食べまくるアルバイトを始めて、一か月が経った。
自分が特別食パンラヴァーというわけでもないことに応募したあとで気が付いてしまったり、幼少期に母がよく作ってくれたパンの耳のラスクが油っぽくて苦手だったことを思い出したり。初めのほうにいろいろと危ない場面はあったけれど、わたしはなんとか、この小麦とイースト菌に塗れた生活を少しずつ愛せるようになってきた。
遠藤さんはこの仕事の先輩で、わたしと同じでそこまで食パンが好きなわけではないという。パンの耳のラスクが苦手だと告白すると、彼は共感してくれた。
「あれさ、なんか油っぽいよね」
愛好家には申し訳ないと思いつつも、少なくとも
「あなたはさ、自分はできないことばっかなのでここに働きに来たってこの前零していたけれど、案外そうでもないよね。けっこう、芸術系とか向いてるんだと思うし」
遠藤さんには七歳の娘がいるらしい。彼曰くその娘さんは、自分がこの仕事をしていることをすごく喜んでくれているのだと言っていた。わたしは彼の左手を盗み見て、そこに光を反射するものがひとつもなかったのを確認した。バイトの父親ってどうなの、とか1秒でも思ってしまった先ほどの自分は、おそらくモンスターだったと反省する。わたしの見てきたものがこの世界のすべてじゃない。 ひっくり返れ、一回。
◇
例の食パンの置物が完成したので、遠藤さんに写真を見せた。出来は全然良くないんですけどなどと前置きをして。メイドオブ100均粘土の食パンくんはどうしても安っぽくて、贔屓目に見てもそれなりにすらなっていなかったけれど、遠藤さんは眼鏡を外してじっくりと眺めてくれた。
「ほんとう、駄作ですよ」
「きれいな駄作だ」
彼は言った。きれいな駄作。きれいな、駄作。
わたしはあの針を思い出した。だって途轍もない速度と瑞々しさを保ったまま、彼の言葉はわたしを突き刺したから。ちょっぴり失礼かもとかそういうことはどうだってよかった。彼の言葉の、泣きそうになるくらいの美しいやさしさだけが、わたしの天辺に降り注いでいる。
パウル・クレーのあの天使の絵と目があってしまったときの、ミルク色のきもち。
あるいはお気に入りのシュシュをクッキー缶に仕舞ったときの、錆臭さを嫌うきもち。
そういうものを閉じ込めたわたしの心臓を、針が、そっと破った。
◇
「題名:きれいな駄作」
置物なので、置いて、鑑賞。
どれだけ気をつけても、埃はぺたぺたと粘土にくっ付くもの。食パンくんはきめ細やかな肌は持っていないけれど、大胆なつやがあって綺麗だ。けれど結局埃は取れなかった。
食パンくんは間抜けな顔をしている。しているけれど、わたしの心臓を一部移植しているのだから不思議と、かわいい。
わたしの手のひらも汚れている。洗って埃を落として、久しぶりにトーストでも作ってみようか。そういえば小さい頃のわたしは、ラスクよりもシュガートーストが食べたかったのだ。母には言えなかった小さな秘密。いつになってもラスクのことを好きになれなくて、意味のわからないバイトとかも始めちゃったりするわたしだけど、それくらいなら、わたしにもできそうだと思った。
毎朝お米にかけるふりかけを選べる生活とか。そう。そういうのじゃなくてもいいと思えた。
ジュブナイル・トースト 隣乃となり @mizunoyurei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます