第6話 追憶の赤 ③
翌日。
カレンダーの数字は赤く染まっていた。勤労感謝の日だ。
学校がないという事実は、いつの時代も子供たちにとって無条件の福音である。
理由は単純だ。昨日手に入れた「新しいおもちゃ」――時間を巻き戻す能力を、今日はどうやって使って遊ぼうか、そのアイデアが脳内で沸騰していたからだ。
布団の中で天井を見つめながら、翔琉はニヤニヤと笑った。
(今日は何ができる? 誰を驚かせる? 昨日の野球みたいに、またヒーローになれるかもしれない)
万能感に包まれた朝。彼にとって世界は、攻略本を手に入れたあとのRPGのようにイージーで、輝いて見えた。
遅めの朝食を済ませ、テレビのヒーロー番組を見終わった頃、玄関のチャイムが鳴った。
「翔琉くーん! あーそーぼー!」
聞き慣れた、鈴を転がすような高い声。
近所の幼馴染で、同じクラスのなな子だ。
活発で、少しおマセで、そして何より勘が鋭い。翔琉にとって一番身近な異性であり、時に姉のように口うるさい存在でもある。
翔琉は玄関へ向かうと、少し気取った仕草でドアを開けた。
「よう、なな子か。いいよ、遊んでやるよ」
昨日、大人の女性の神秘をこれでもかと(五十回以上も)目撃した翔琉は、自分を一晩で大人になった男だと錯覚していた。その自信が、妙に上から目線の態度となって表れていた。
なな子はキョトンとして、翔琉の顔をまじまじと覗き込んだ。
「なによそれ。翔琉君、なんだかいつもと違う。変なの」
「変じゃないさ。男は変わるものなんだよ」
「ふーん。まあいいや。で、何して遊ぶ?」
なな子はそれ以上深く追求せず、玄関の上がり框(かまち)に腰を下ろそうとした。
その時だった。
なな子の背後に、大きな影が忍び寄った。
「おーい。翔琉、いるかー?」
翔琉の頬が緩んだ。
昨日も来たばかりの叔父、竜也だ。
休日の昼間から、またしてもどこか焦点の定まらない目をしている。今の翔琉にとって竜也は、格好の「実験台」に見えた。
何でも知っているような顔をしている大人を、この能力で出し抜いて驚かせてやりたい。
翔琉は、なな子をそっちのけで竜也に話しかけた。
「あのさぁ、竜也おじちゃん。トランプ使って何かマジックできる?」
唐突な問いかけに、竜也は目を瞬かせた。
甥っ子からの、珍しいリクエスト。ここで「できない」とは言えないのが、大人の、いや、竜也という男のちっぽけなプライドだった。
「あ、ああ……マジック? おう、できるぞ。任せとけ、すげぇもん見せてやるからな」
竜也は安請け合いすると、ズカズカと上がり込んで靴を脱ぎ始めた。そして、玄関に突っ立っているなな子に目を留めた。
「ん? お嬢ちゃんも見ていくか? 特別だぞ」
翔琉と二人きりで遊ぶつもりだったなな子は、邪魔者が入ったことに唇を尖らせたが、ここで帰るのも癪だった。
「んー……うん」
不服そうに頷き、なな子もまた靴を脱いだ。
六畳の居間には、使い込まれたちゃぶ台が鎮座している。
その上座に、家主でもない竜也があぐらをかいて座り込んだ。
台所からお茶を運んできた祖母の慶子が、いつものように柔和な笑みを浮かべる。
「あら、竜也さんいらっしゃい。なな子ちゃんも、翔琉ちゃんと遊んでくれてありがとうね」
「こんにちは、慶子さん。翔琉がどうしても俺のマジックを見たいって言うもんだからさぁ。少しお邪魔しますよ」
竜也は調子よく言うと、翔琉が持ってきたトランプの箱を受け取った。
箱からカードを取り出し、手慣れた手つきで――と見せかけて少しぎこちなく――シャカシャカと切り始める。
「おまえら、いいか? よく見ておけよ。一瞬たりとも目を離すなよ」
竜也は無駄にハードルを上げながら、唯一知っている初歩的なカード当てマジックの準備に入った。
「それじゃあ、このトランプの山から、好きなカードを一枚引くんだ」
扇状に広げられたカード。翔琉は興味津々で身を乗り出し、真ん中あたりから一枚を引き抜いた。
「これにする」
ちゃぶ台に伏せられたカード。
竜也はニヤつきながら言った。
「次に、そのカードが何かを俺に見せないようにして、自分とお嬢ちゃんで見て覚えるんだ」
翔琉は両手でカードを囲い、なな子だけに見えるようにこっそりとめくった。
黒いスペードのマーク。数字は10。
二人は顔を見合わせ、コクンと頷き合った。
「覚えたよ」
「よし。じゃあ、そのカードをこの山の一番上に置くんだ」
竜也が差し出したトランプの山。翔琉は言われた通り、一番上にスペードの10を戻した。
竜也はすぐにその山を両手で挟み込み、素早く切り始めた。
ザッ、ザッ、ザッ。
十回ほど切ったところで、竜也は不敵な笑みを浮かべた。
「どうだ、これだけ切ったらもうどこに行ったか分からないだろう。ほら、念のためお前も切っていいぞ」
竜也はトランプの山を翔琉に差し出した。
だが、小学三年生の翔琉には、まだトランプをお洒落に切る技術(リフルシャッフルなど)はない。
「僕、それできないから、机の上で両手でゴチャゴチャに混ぜてもいい?」
竜也は「まだまだガキだな」と鼻で笑い、寛大な態度で許可を出した。
「おう、いいぞ。気が済むまで混ぜろ混ぜろ。そんでよぉ、俺がその中からお前が引いたカードをズバリ当てたら凄いだろ?」
そんなことが本当にできるなら、おじさんは魔法使いだ。
翔琉は本気でそう思い、ちゃぶ台の上にカードをぶちまけ、両手で大きく円を描くようにかき混ぜ始めた。
ガラガラガラ……。
「なな子ちゃんも手伝ってよ。絶対にわからなくしてやろうよ」
翔琉は助けを求めたが、なな子の反応は冷ややかだった。
彼女は竜也のうさん臭い態度と、子供を小馬鹿にしたような目つきを敏感に感じ取っていたのだ。
「私はいいわ」
そっけない返事。翔琉は一人で一心不乱にかき混ぜ続けた。
「終わったよ。これで絶対にどこに行ったかわからないはずだよ」
翔琉が息を切らして言うと、竜也はバラバラになったカードを雑にかき集め、再び山を作った。
「レディース&ジェントルメーン。さぁさぁ皆さまお立合い。このカオスの中から、真実の一枚を見つけ出してみせましょう」
竜也は大仰な仕草で、山の上から一枚一枚カードをめくり始めた。
時折、カードに手のひらをかざし、「うーん、ここから波動を感じる……」などと三流の霊媒師のような演技を挟む。翔琉はその様子を、口を半開きにして見守っていた。
二十枚ほどめくったところで、竜也の手がピタリと止まった。
「おっ? おっ? これは強い反応があるぞ。……これか? 間違いない、これだ!」
竜也が高々と掲げたカード。
それは紛れもなく、スペードの10だった。
「翔琉が引いたカードはこれだ! どうだ!?」
翔琉は目を見開き、思わず声を上げた。
「当たりだー!! 凄いよ竜也おじちゃん!! どーやったの? ねーどーやったの?」
尊敬の眼差し。これだ。竜也が求めていたのは、この無垢な称賛だった。
彼は鼻の下を人差し指でこすり、ふんぞり返った。
「へへんっ。タネも仕掛けもございませんってな。教えるわけねーだろ、コノヤロー」
「おねーがーい。おーしーえーてーよ! 竜也おじちゃーん」
翔琉が食い下がる。
その時だった。冷ややかな声が、熱狂する空気を切り裂いた。
「翔琉君。そのカードの裏を、光に透かして見てみて」
声の主は、なな子だった。
竜也の顔が引きつる。ギクリとして視線を泳がせた。
翔琉は言われた通り、スペードの10を手に取り、陽の当たるベランダに向けて掲げた。
「え? ……あ、あれー? なんか細い線の傷があるよ。爪の跡みたい」
なな子は、勝ち誇った竜也の顔を見据え、淡々とトリックを暴き立てた。
「翔琉君がカードを確認して、山の一番上に返したでしょ? その直後、このおじさんが山を受け取るときに、私たちに気づかれないよう親指の爪で強くカードの裏をひっかいて印をつけたのよ。あとは、混ぜた中から傷のついたカードを探すだけ。……ふんっ。子供だましね」
なな子は大のマジック好きだった。図書館でマジックの本を読み漁り、竜也が披露したような「キーカード」や「マーキング」といった初歩的なタネは熟知していたのだ。
だが、あえて黙って泳がせていた。そして、竜也が最高にいい気分になっている瞬間に突き落とす。これ以上ないタイミングでの「タネ明かし」だった。
翔琉はポカンとした。
「なんだぁ……。竜也おじちゃんも『凄い力』を持っているのかと思ったけど、違うんだ。ズルしただけか」
魔法使いへの憧れは、一瞬にして失望へと変わった。
子供二人に、しかも小学生の女子に完膚なきまでに論破された竜也は、顔を赤くして開き直った。
「そ、そうさ! 子供だましさ! 別にタネをばらされたからってどうでもいいし! 俺だってこんなの凄いと思ってねーし! うるせーな!」
大人気なく怒鳴り散らす大人。その姿はあまりにも滑稽だった。
だが、なな子は竜也の癇癪よりも、翔琉の言葉に引っかかりを覚えていた。
「ねえ、翔琉君。さっき言った『凄い力』って、どういうこと?」
翔琉はドキリとした。
秘密にしようとしていた能力のことを、つい口走ってしまった。
「え? あ、あの、あれだよ、言葉の綾っていうか……」
しどろもどろになる翔琉。
そこへ、お盆を持った慶子が現れた。
「ずいぶんと盛り上がってて楽しそうね。おやつを持ってきましたよ。……あら、竜也さん、顔が赤いですけど大丈夫?」
「う、うるせぇ……いや、なんでもないです」
慶子は不思議そうに首をかしげつつ、ジュースと煎餅をテーブルに置いた。
「ところで、何のお話をしてたの?」
なな子はすぐに慶子の方を向き、告げ口するように言った。
「あのね、翔琉君が『凄い力』がどうのこうのって言ってるの」
それを聞いた慶子は、手をポンと打った。
「あら、そういえば! 昨日、翔琉ちゃん凄かったのよ。まだ作っている途中の夕飯のメニューを、匂いもしない部屋からズバリ当てたの。あれは本当にビックリしたわ」
その話を聞いた竜也は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「へっ。そんなもん、台所に並べられた食材を見れば誰だって想像つくだろうよ。どこが凄い力だよ。バカバカしい」
竜也の嘲笑。なな子の疑いの目。
その空気が、翔琉の心に火をつけた。
(バカにするな。僕には本物の力があるんだ)
昨日の野球の時のような、あの全能感をもう一度味わいたい。竜也おじちゃんをギャフンと言わせたい。
その時、夕食のメニューを当てた時のやり方が使えると、翔琉の脳裏に閃きが走った。
竜也おじちゃんのマジックは、タネ(傷)を作って当てた。
なら、僕の能力(リセット)を使えば、タネなんかいらない。
手順はこうだ。
1.カードを引かせる。
2.わざと適当な答えを言って間違える。
3.相手が「残念、正解はこれだ!」とカードを見せる。
4.正解を覚える。
5.時間を戻す。
6.さも最初から知っていたかのように正解を言う。
これだ。これなら完璧だ。
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