第2話 新米刑事と黄色の日 ②

 家族連れで賑わう休日昼下がりの海果月みかづきショッピングモールは、すでに異様な空気に包まれていた。

 警報音が鳴り響き、我先にと出口へ殺到する人々。泣き叫ぶ子供、突き飛ばされる老人。まさにパニック状態だ。

「落ち着いて! 走らないで! 順序よく出口へ!」

 杵塚きねづかは声を張り上げ、群衆をかき分けながら逆流して進んだ。彼の目は、人々を誘導しつつも、鋭く不審物を探していた。

 一階、異常なし。二階、異常なし。

 汗だくになりながら駆け上がった最上階のフードコート。無人のテーブルが並ぶその中央に、不自然に置かれた黒いボストンバッグがあった。

「あれか……!?」

 杵塚は慎重に、しかし素早く接近した。

 周囲に人はいない。彼はバッグの前に膝をつき、呼吸を整えてからジッパーに手を掛けた。

 中を覗き込んだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 粘土のような塊、複雑に絡み合うコード、そしてデジタル時計の赤い表示。

「ビンゴだ……!」

 すぐさま無線機を取り出す。

「至急至急! 捜査一課杵塚より本部! 4階フードコートにて爆発物を発見!」

『本部了解! 爆発物処理班は現在現場へ急行中だが、到着まであと十分はかかる! 現場を封鎖し、到着を待て!』

 杵塚はデジタルタイマーを見た。

 残り時間、05:00。

「ダメだ! それじゃあ間に合わない! タイマーの残りはあと五分だ!」

『なんだと!? 杵塚、すぐに退避しろ! 貴官の命が優先だ! 繰り返す、直ちに退避せよ!』

 本部の悲痛な叫び。だが、杵塚は動かなかった。

 この数週間、管内で立て続けに発生している無差別爆破テロ。多くの市民が血を流し、平和な日常が理不尽に奪われた。

 (ここで僕が逃げれば、また悲劇が繰り返される。この巨大なショッピングモールが吹き飛べば、被害は甚大だ。逃げ遅れた人々はどうなる?)

 杵塚は拳を床に叩きつけた。

「ちくしょー!!」

 ふざけるな。悪が栄えてたまるか。

 杵塚はかつて、爆発物処理の研修を受けたことがあった。改めて爆弾を凝視する。その構造は、研修で見たモデルの改良型に見えた。

「本部、こちら杵塚。命令には従えません」

『おい杵塚! 何を考えている!』

「これより、私が解体します」

 杵塚は腰のベルトに装着していた十徳ナイフを取り出し、ニッパー部分を指先ですくいあげると、それを右手で握り直して生唾を飲み込んだ。

 起爆装置に伸びるケーブルは4本。青、赤、白、緑。

 どれか一本が正解で、残りの三本は即起爆のトラップだ。確率は四分の一。

「杵塚より本部。爆弾はあと三分で起爆します。解除できる可能性を見つけましたが、確率は25%。……これより、赤を切ります」

『バカな真似はやめろ!』

「もうこれ以上、誰かが泣くのを見たくないんです! 犯人を捕まえられる可能性が25%もあるのなら、僕はそれに賭ける! 僕は時間いっぱいまで引き付けてから勝負に出ます。それまでに他の人を建物から退避させてください。この惨劇を食い止められるのは、今、ここにいる僕しかいないんだ!」

 杵塚はニッパーを赤のコードに当てた。震える手を左手で押さえつける。

 僕のラッキーカラーは黄色だ。ここには黄色いコードはない。だが、神様、どうかこの情熱だけは買ってくれ。


***


 一方その頃。

 新人刑事・兎木緒ときおの運転する覆面パトカーは、物理法則を無視したカーチェイスを繰り広げていた。

「おっとっと~」

 兎木緒はあくびを噛み殺しながらハンドルを切った。

 犯人の黄色いスポーツカーは時速180キロで爆走していたが、兎木緒のパトカーはどういうわけか、その背後にピタリと張り付いていた。

 兎木緒のドライビングテクニックは教習所レベルだ。しかし、彼には天性の「悪運」?があった。

 前の一般車が急に車線変更して道が開ける。対向車線にはみ出しても、奇跡的にトラックが通過した後だったりする。歩道に乗り上げ、看板をなぎ倒してショートカットしても、なぜか誰一人として怪我人が出ない。

 まるでアクション映画の主人公補正が掛かっているかのような、神懸かり的な追跡劇。

「おーい! そこの黄色いの! 危ないから止まろっ! 絶対に逃げられないからさー! 頼むよー!」

 スピーカーで呼びかけるが、犯人はさらに加速する。

 市街地を抜け、海沿いの広いバイパスに出た。

「ちっ、しつけーな。いい加減観念しろっての」

 兎木緒は面倒くさそうに呟くと、アクセルをベタ踏みした。

 エンジンの悲鳴と共にパトカーが急加速する。

 犯人の車の斜め後ろ、死角(ブラインドスポット)にノーズをねじ込む。

「えーっと、警察学校の教科書の隅に載ってたアレ、なんだっけ。ピット……なんとか?」

 兎木緒はハンドルを小さく右に切り、犯人の車の後輪付近にパトカーのバンパーを接触させた。

 ――ピットマニューバー。

 高速走行中の車両を強制的にスピンさせる高等技術を、彼は鼻歌交じりにやってのけた。

 衝撃と共に、黄色いスポーツカーのバランスが崩れる。車体は独楽のように激しく回転し、白煙を上げながらガードレールに激突、横転して停止した。

 兎木緒はキキーッとブレーキをかけて停車すると、ゆっくりと車を降りた。

「だから逃げられないって言ったっしょ。ったく、派手にやりやがって。始末書書くの俺なんだからな」

 横転した車から、血を流した男が這い出してくる。爆弾魔だ。

 兎木緒は男の腕をねじ上げ、手際よく手錠をかけた。

「確保っと。……あ、そうだ」

 兎木緒は無線を聞いていた。杵塚先輩が命を懸けて、四分の一のギャンブルに挑もうとしていることを。

 彼は犯人の顔を覗き込み、まるで天気の話題でも振るかのように尋ねた。

「ねえ、君が仕掛けたそこのショッピングモールにある爆弾、あと少しでドカンらしいけど、止めるには4色の内、何色のケーブルを切ったらいいの?」

 犯人は顔を歪め、不敵な笑みを浮かべた。

「ふはっ、はっは……! あの爆弾はそんな単純じゃねえよ。止めるには4本のケーブルを『正しい順番』で全て切る必要があるんだ」

「へぇ、順番か。で?」

「教えるわけねーだろ! 俺の邪魔をしやがって! 俺はな、ずっと見てきたんだよ。休日のショッピングモールで、幸せそうな顔をして歩く家族連れをな! あいつらの笑顔が、俺には毒なんだよ! 俺みたいな独り身の絶望なんて知らずに、のうのうと笑ってやがる奴らが許せねえ! だから全員吹き飛ばしてやるんだ! あの凄まじい火薬量なら、建物ごと木っ端微塵だぜ! ざまあみろ!」

 犯人の目には、社会へのどす黒い憎悪が渦巻いていた。

 兎木緒はボサボサの頭をかき、困った顔をした。

「うわぁ、こじらせてるなぁ。動機が身勝手すぎて引くわー。……で、切る順番は?」

「くたばりやがれ、バーカ! ひっひっ!」

 話が通じないと判断した兎木緒は、無線機のスイッチを入れた。


「もしもーし。杵塚先輩いますかー?」

『……兎木緒君か?』

 無線の向こうの声は震えていた。

『杵塚だ。せっかくバディーになったばかりだったのに、こんな形で別れることになるとはな。君にはもっと色々と教えてあげたかったよ』

「あ、いや、そんなしんみりしないでくださいよ」

『犯人を逃がしたからって落ち込むんじゃないぞ。僕でもあの車は止められそうになかった。……僕はこれから、運命の赤を切る』

「あ、いや、あのー、犯人捕まえちゃいました。なんか取り込み中に、さーせん」

『な、何ぃっ!? 本当か!?』

「マジっす。で、爆弾解除の方法を聞いたんですけど、ケーブルを1本切るだけじゃダメみたいで、4本を正しい順番で切らないとダメらしいっすわ」

『なん、だと!? ってことは、4色の並び替えは……計24通り! 24分の1だと!? 4分の1なら博打も打てるが、さすがにそれは無謀すぎる! 神は僕を見捨てたのか! こんちくしょー!』

 無線の向こうから聞こえる、先輩の絶望の叫び。

 兎木緒はしばらく犯人の横顔をじっと見つめた。

 犯人は勝ち誇った顔でニヤニヤと笑っている。

 兎木緒は、はっと何かを思いついたように、再び無線に向かって口を開いた。

「先輩? まだ大丈夫っすか?」

『生きてはいるが、心臓が止まりそうだ! 今、遺書を家族にメール送信したところだ!』

「あ、いや、あのー、犯人が正解の順番を吐いたっすよ。なんかまたしても取り込み中に、さーせん」

『本当か!? よくやった兎木緒! 早く! 早くそれを教えてくれ! あと一分しかない!』

 その言葉に驚愕したのは、杵塚だけではない。

 手錠をかけられた犯人もまた、目を見開いて兎木緒を凝視した。

 (は? 俺は一言も喋ってねえぞ……?)

 一人の人間の生死、いや、数百人の命がかかったこの局面で、この刑事は嘘をついたのか?


 兎木緒は犯人の視線を無視し、平然と言い放った。

「じゃあ言いますねー。緑、白、青、赤。この順番でーす! 今すぐ切ってください」

『繰り返す!緑・白・青・赤の順だな?もう一度繰り返す!緑・白・青・赤の順だな?間違えないな?え?どうなんだ?』

「合ってますよー。やけに慎重ですねぇ先輩」

『命が懸かっているんだ!超慎重だわ!しかしよくやった!これが終わったらホームパーティーに招待してあげるからな!うおおおおお、切るぞおおお!』


 通信が切れた。

 兎木緒はパトカーのボンネットに腰掛け、遥か遠くに見えるショッピングモールの建物を眺めた。

 犯人もまた、呆然としながら同じ方向を見ていた。

「おい、刑事……お前、適当なこと言いやがって……外れたら全員死ぬんだぞ」

「んー? まあ、俺の勘って結構当たるんだよね」


 静寂が流れた。

 派手なカーチェイスで破壊された国道は封鎖され、鳥の声すら聞こえない静けさの中、兎木緒と犯人は並んでその時を待った。


 カッッッ!!!


 視界が白く染まった。

 直後。

 ドォォォォォーーーーーーン!!!!

 腹に響く重低音と共に、ショッピングモールの方角から巨大な火柱が上がった。

 遅れてやってきた衝撃波が、二人の髪を激しく揺らす。

 黒煙がもくもくと空へ昇っていく様は、まるで巨大な怪獣のようだった。


「あちゃー」

 兎木緒は額に手を当てた。

「外しちゃったかー。やっぱ勘なんてアテにしちゃダメだよね。ご愁傷さまです、先輩。でも?二階級特進おめでとうございます。南無ー」

 あまりに軽い「南無ー」だった。

 犯人は、その光景を見て狂喜乱舞した。

「ぐわはっはっは! 見たか! ざまーみろ! 俺様の芸術的な花火だ! あの刑事も、客も、全員木っ端微塵だ!」

 爆笑する犯人を横目に、兎木緒は淡々と尋ねた。

「で? 本当の正解は何だったの?」

 犯人は目的を達成した高揚感から、ペラペラと真実を語り始めた。

「正解なんてねえよ! 表の4本のケーブルは全部ダミーだ! どれを切っても、どの順番で切っても、即ドカンだ!」

「へえ、性格悪いねえ」

「本当に解除したければな、爆弾の裏蓋を外して、中にある『黄色いコード』を切れば止まる仕組みだったのさ! 表の配線に夢中になってる奴には絶対に見つけられねえよ! 傑作だろ!?」

 犯人は腹を抱えて笑った。

「しっかし、お前もとんでもねえ奴だな! 相棒にデタラメを教えて殺すなんて、俺よりクレイジーだぜ! ぐわはっはっは!」

それを聞いた兎木緒は、再度黒煙の方向を向いてそっとつぶやいた。

「俺ってそんなにクレイジーかねー?」

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