バックオーライ ケッカオーライ

団 田 図

第1話 新米刑事と黄色の日 ①

 ここは日本の東海地方、太平洋の荒波と穏やかな湾を併せ持つ海果月みかづき県。

 県庁所在地である海果月市の喧噪から少し離れた国道沿い。乾いた秋風が吹き抜けるアスファルトの上を、一台の覆面パトカーが滑るように走っていた。

 助手席の窓は全開だった。時速六十キロの風が車内に吹き荒れ、書類やらレシートやらがバタバタと暴れているが、助手席に座る男は微動だにしない。

 男の名は杵塚きねづかとおる。海果月県警捜査一課に所属する刑事だ。強烈な向かい風を正面から浴びているにもかかわらず、ポマードでガチガチに固められた七三分けの髪型は、鋼鉄のように乱れることを知らない。

 杵塚きねづかは、風に目を細めながら、隣でハンドルを握る新人に向かって口を開いた。


「いいかい、兎木緒ときお君。刑事というのはだな、バディーを信用し、互いの魂を尊重し合うものだ。今日から君は僕の相棒だ。僕の背中を見て、刑事のいろは、いや、男の生き様そのものを学んでいくといい。分からないことや、心の琴線に触れる疑問があれば、なんでも遠慮せずにこの僕に聞くんだぞ」


 情熱的な演説だった。しかし、運転席の新人刑事――兎木緒ときおの心には、その熱量は一ミリも届いていなかった。

 兎木緒は今、人生最大級の憂鬱の中にいた。

 昼食に買ったホットドッグ。たっぷりとかけたマスタードが、あろうことかお気に入りのシャツの袖にべっとりと付着し、黄色いシミを作っていたからだ。

 (あーあ、落ちねえかなこれ……漂白剤でいけるか?)

 先輩の言葉など右から左へ受け流しつつ、兎木緒は気のない返事をした。

「うーッス」

 その声には、警察官としての覇気や先輩への敬意が、微塵も感じられない。あるのはただ、けだるさと諦めだけだ。

 杵塚は一瞬たじろいだ。新人教育の第一歩として用意していた名言が、暖簾に腕押し状態で吸収されたからだ。だが、彼はめげない。後輩には成功体験こそが必要だと信じている彼は、あえて寛容な態度で微笑んだ。


「本当は腹から声を出して『ハイ!』と言って欲しいところだがね。まぁいい、今は多様性の時代だ。その脱力感も君の個性、ニュースタイルというやつだろう。認めるよ」

「あざーッス。ところで杵塚先輩、窓、閉めていいっすか? 風、すごいんですけど」

「何を言うんだ。僕が開けたんだぞ。窓を開けることによって車内の澱んだ空気が入れ替わり、風通しが良くなる。人間関係も同じだ。兎木緒君ともこうありたいという、僕なりのメタファーだよ」


 兎木緒は片手でハンドルを握りながら、もう片方の手で風に煽られるボサボサの髪をかき上げた。

 (風通しがいいのは結構だけどよ……先輩、社会の窓も全開なんだよな、話の流れて伝えようとしたんだが…)

 あえて指摘はしなかった。悦に入っている先輩のドヤ顔と、ぱっくりと開いたズボンのチャック。そのあまりに残酷なコントラストを横目で確認し、兎木緒は「面倒くさい人と組んじまった」と心の中で深く溜息をついた。


 杵塚は上機嫌だった。

「それにしても、なんて素晴らしい世界なんだろうね、兎木緒君!」

 杵塚は窓枠に肘をかけ、流れる景色を愛おしそうに見つめた。

「よく晴れた秋空に、黄金色に色づいた銀杏並木。この光り輝くイエローのトンネルをパトカーで駆け抜ける爽快感! 何事にも代えがたいじゃないか」

「そうっすか? 俺には視界が黄色すぎて目がチカチカするだけっすね。なんか、不吉な色に見えるし」

「何を言う! その黄色がいいんじゃないか! 今朝の『めざめるTV』の占いで言っていたんだ。今日の僕のラッキーカラーは黄色(イエロー)。蟹座の僕は無敵の運勢だそうだ。きっと今日、僕たちの前には素晴らしい何かが待っているぞ。ふふんっ」

 ラッキーカラーの加護を信じ、少年のように目を輝かせる杵塚。

 対照的に、袖についたマスタードの黄色いシミを見つめ、「俺にとってはアンラッキーカラー確定だ」と、これからの勤務に暗雲を感じる兎木緒。


 そんな奇妙な均衡が保たれていた車内に、事態を一変させる無線が飛び込んできたのは、その直後だった。


『至急至急。本部より各ユニットへ。管内全域に緊急連絡。手配中の“連続無差別爆破事件”の重要参考人が、海果月ショッピングモール付近で目撃された!』


 無線のオペレーターの声は緊迫していた。

『防犯カメラの映像を確認。対象は入店時に大きな黒いバックパックを背負っていたが、退店時には所持していないことが判明。店内のどこかに爆発物を設置した可能性が極めて高い。付近のPCは警戒しつつ、直ちに現場へ急行せよ。繰り返す、爆発の危険あり!』


 空気が凍りついた。杵塚の表情から柔和な笑みが消え、歴戦の刑事の顔つきへと変わる。

「来たか……! ついに尻尾を出しやがったな!」

 杵塚は興奮した口調で叫ぶと、慣れた手つきでダッシュボードから赤色灯を取り出し、ルーフに叩きつけた。ウーウーというサイレン音が静かな国道に響き渡る。

「現場は目と鼻の先だ! 兎木緒、アクセルを踏み込め! 急ぐぞ!」

 しかし、着任初日にして凶悪事件、しかも爆弾テロに遭遇してしまった兎木緒は、逆にアクセルを緩めた。

「えっ!? ちょ、待ってくださいよ先輩。爆弾があるって言いましたよね? そこへ行くんですか? 爆発したら死ぬじゃないっすか。ヤバいっすよ!」

「やばい? ……バッキャロウ!!」

 杵塚の怒声が車内に響いた。彼は兎木緒の胸倉を掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。

「いいか兎木緒! 市民が危険に晒されているんだぞ! 僕たち警察官が逃げて、誰が市民を守るんだ!」

「いや、それはそうですけど、爆弾処理班とか、もっと専門の人が……」

「甘ったれるな! 専門家が来るまでの数分、数秒が生死を分けるんだ! 恐怖に震える子供たちがいるかもしれない。逃げ遅れた老人がいるかもしれない。彼らの前に立ちはだかり、盾となるのが僕たちの仕事だ!」

 杵塚の瞳には、狂気にも似た正義の炎が宿っていた。

「警察官になると決めた時の初心を思い出せ! 君にもあったはずだ。この身を挺してでも善良な市民を助けたいという、熱く、気高い志が! 恐怖を乗り越え、勇気を持って悪と対峙しろ!」

 杵塚のあまりの熱量と唾の飛沫に、兎木緒は若干引き気味になりながらも圧倒された。

「あ、いや、俺はそういう理由で警察官には……」


 その時だった。

 対向車線の向こうから、鼓膜をつんざくようなエキゾーストノートが近づいてきた。

 鮮烈な黄色のスポーツカーだ。常軌を逸したスピードで、中央線をはみ出しながら突っ込んでくる。

 すれ違う刹那、杵塚の目がドライバーの顔を捉えた。

 手配写真にあった、狂気を孕んだ目つき。間違いない。

「あいつだ!!」

 杵塚が叫ぶ。だが、相手の車はハイパワーの改造車だ。この年季の入った覆面パトカーで、Uターンして追いつけるだろうか。いや、今の加速を見る限り、直線勝負では勝ち目がない。

 さらに杵塚の脳裏には、兎木緒が現場へ行きたがっていないという事実がよぎった。

 杵塚は瞬時に決断した。


「いいか、よく聞け兎木緒君! ここで二手に分かれる!」

「え?」

「僕はここで降りて、ショッピングモールへ向かう。市民の避難誘導と、爆弾の捜索を行うためだ!」

 杵塚はシートベルトを外しながら早口でまくし立てた。

「君は、さっきすれ違った黄色のスポーツカーを追え! 奴が爆弾魔だ! だが無理に捕まえようとするな。奴の車は速い。深追いはせず、逃走方向とナンバーを本部に伝えるだけでいい。危険だと思ったらすぐに距離を取れ。いいな!」

 兎木緒の顔色が少し明るくなった。爆弾のある現場に行くよりは、ドライブの方がマシだと思ったのだ。

「追跡っすか。それなら、まあ、なんとか」

「よし! 頼んだぞ!」

 車が減速するやいなや、杵塚は飛び降りるようにして車外へ出た。

「兎木緒! 死ぬんじゃないぞ!」

「ういっす!」

 兎木緒がハンドルを切り、タイヤを軋ませてUターンするのを見届けると、杵塚はスーツの裾を翻し、爆弾が仕掛けられた死地へと全速力で駆けていった。

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