最終話『君の涙だけが、僕の世界に色をつけた』
あの日から、五年が過ぎた。
都内のギャラリー。
静謐な空間に、多くの人々が足を止めていた。
壁一面に飾られているのは、鮮烈な色彩で描かれた風景画の数々。
海、遊園地、花火、雪景色。
そして、正面に飾られた一枚の肖像画。
『個展:一ノ瀬蓮 〜記憶のパレット〜』
僕、一ノ瀬蓮は、会場の隅でその光景を眺めていた。
二十二歳になった僕の視界は、相変わらずモノクロームのままだ。
けれど、今の僕は「色彩の画家」として評価されている。
チューブの文字と、理論と、そしてあの冬の記憶だけを頼りに描いた絵が、なぜか人の心を打つらしい。
「……よお、大先生」
背後から、懐かしい声がした。
振り返ると、スーツ姿の青年が立っていた。
神崎海人だ。
サッカーを辞め、今は商社で働いている彼は、学生時代の刺々しさが消え、精悍な顔つきになっていた。
「……来てくれたのか」
「当たり前だろ。俺は『共犯者』なんだからな」
神崎は正面の肖像画の前に立った。
あの日、二人で徹夜して描いた、真白の笑顔。
「……相変わらず、いい顔して笑ってやがる」
「ああ。……君のおかげだ」
「バーカ。俺は色を教えただけだ。……命を吹き込んだのは、お前だよ」
神崎は目を細めた。
その横顔に、あの日流した涙の跡はもうない。
僕たちは、大人になったのだ。
「……一ノ瀬くん」
不意に、女性の声がした。
真白の母親だった。少し白髪が増えたけれど、柔らかな笑顔は変わっていない。
「お久しぶりです」
「個展、おめでとう。……真白も、きっと喜んでいるわ」
彼女はバッグから、一通の手紙を取り出した。
淡い水色の封筒。
「これ……遺品整理をしていたら、出てきたの。机の引き出しの奥から」
「え?」
「『蓮くんが画家になったら、渡して』って……メモが添えてあったわ」
僕は震える手で受け取った。
五年前の彼女からの手紙。
神崎と母親が、気を利かせて席を外してくれる。
僕は肖像画の前で、一人、封を切った。
懐かしい、丸文字。
『拝啓、未来の蓮くんへ。
この手紙を読んでいるってことは、蓮くんは絵を描き続けてくれたんだね。
ありがとう。約束を守ってくれて』
文字を追うごとに、彼女の声が脳内で再生される。
『私ね、知ってたよ。
蓮くんが、自分の描いた「黒い絵」を怖がっていたこと。
でもね、私はあの日、蓮くんに触れて色が戻った時、一番最初に何を見たか覚えてる?』
あの日。雨の公園。
色が戻った世界で、彼女が見つめたもの。
『蓮くんの瞳だよ。
真っ黒で、寂しそうで……でも、私のことを見つけてくれた、優しい瞳。
私は、その色が一番好きでした』
視界が滲む。
『もし、まだ世界が灰色に見えていても、悲しまないで。
色は、目の前にあるんじゃなくて、蓮くんの心の中にあるんだよ。
私が残した全部の色を使って、蓮くんだけの世界を描いて。
……私はいつだって、その一番特等席で笑ってるから』
『追伸。
観覧車でのキス、まだ諦めてないからね。
いつかそっちに行ったら、利子つきで返してもらうんだから!
大好きだよ。
雨宮真白より』
ポタリ。
手紙の上に、雫が落ちた。
僕の目から溢れた涙だ。
その瞬間。
奇跡が起きた。
涙が落ちた一点。
水色の便箋の、その滲んだ部分だけが――鮮やかな**「水色」**に変わったのだ。
「……あ」
僕は顔を上げた。
ギャラリーの中。
肖像画の彼女の頬が、ふわりと**「ピンク色」に染まる。
隣の海の絵が「青」く輝き、花火の絵が「極彩色」**に弾ける。
触れていないのに。
彼女はもういないのに。
色が、戻ってくる。
洪水のように。
僕の涙がプリズムになって、世界に光を呼び戻していく。
「……そうか」
僕は涙を拭わずに、笑った。
魔法じゃなかった。
彼女は、僕の中に溶けていたんだ。
僕が流す涙の一粒一粒に、彼女が残した色が宿っていたんだ。
「……見えたよ、真白」
僕は肖像画の彼女に触れた。
キャンバスの感触は冷たいけれど、そこにある色は温かかった。
世界は、こんなにも美しかった。
君がいた世界は、こんなにも鮮やかだったんだね。
僕は筆を握る真似をした。
描きたい。
この、涙で濡れた新しい世界を。
「君の涙だけが、僕の世界に色をつけた」
個展のタイトルが、陽の光を浴びて輝いていた。
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