​第9話 『塗りつぶされた肖像画と、雨音の逃避行』

​ 夏休みが終わりかけていた。

 あの日以来、雨宮真白は検査入院のため、病院に戻っていた。

 神崎からは「面会謝絶だ。治療に専念させる」と釘を刺されていたため、僕は灰色の部屋で一人、彼女の思い出(スケッチ)を整理するしかなかった。

​ 外は、激しい夕立が降っていた。

 窓を叩く雨音が、あの日――彼女と出会った日のことを思い出させる。

​ ピンポーン。

​ 不意に、チャイムが鳴った。

 宅配便だろうか。

 僕は筆を置き、気怠げに玄関へ向かった。

​ ドアを開ける。

 そこにいたのは、びしょ濡れのパジャマの上に、カーディガンを羽織っただけの少女だった。

​「……真白?」

​ 僕は目を疑った。

 病院にいるはずの彼女が、なぜここに。

 彼女は肩で息をしながら、雨に濡れた顔で、弱々しく笑った。

​「……来ちゃった」

「病院は? 抜け出してきたのか?」

「うん。……看護師さんが交代する隙に」

​ 彼女は震えていた。寒さのせいか、それとも恐怖のせいか。

​「帰りたくなかったの。……あの白い部屋に一人でいたら、自分が自分でなくなっちゃいそうで」

​ 彼女が倒れ込むように体を預けてきた。

 僕は慌てて彼女を支えた。

​ ドッ。

 色が戻る。

 玄関のマットの茶色。彼女の唇の紫がかった赤。そして、頬の蒼白さ。

 彼女の命の火が、以前よりも小さくなっているのが、残酷なほど鮮明に見えた。

​「……バカだな、君は」

​ 僕は彼女を抱き上げ、部屋に入れた。

 タオルで髪を拭き、僕の着替え(大きめのTシャツ)を貸した。

 彼女はベッドに座り込み、温かいココアを両手で包んで、ようやく人心地ついたようだった。

​「……ごめんね、蓮くん。迷惑だよね」

「迷惑なもんか。……でも、神崎に知られたら殺されるぞ」

「ふふ。海人には内緒ね」

​ 真白は部屋を見回した。

 六畳一間の僕の部屋。壁には、これまでに描いた彼女のスケッチが所狭しと貼られている。

 海。遊園地。花火。

 色とりどりの記憶たち。

​「……すごい。私がいっぱいいる」

「ストーカーみたいで悪いか」

「ううん。……愛されてるみたいで、嬉しい」

​ 彼女は立ち上がり、部屋の隅にあるクローゼットの方へ歩いた。

 そこには、描きかけのキャンバスや、古い画材が積み上げられている。

 僕が「色」を失ってから、封印していた過去の遺物たちだ。

​「……これ、何?」

​ 彼女が指差したのは、一番奥に裏返しで置かれた、一枚の大きなキャンバスだった。

 ドキリとした。

 それは、僕が色を失うきっかけとなった、あの絵だ。

​「……見ないほうがいい」

「どうして?」

「化け物の絵だからだ」

​ 僕は彼女の手を引こうとした。

 だが、真白は僕の手を振りほどくことなく、逆に強く握りしめたまま、そのキャンバスを表に向けた。

​ そこには、一人の少女が描かれていた。

 だが、その顔は絵の具でぐちゃぐちゃに塗りつぶされ、目からは黒い涙が流れ、口元は裂けたように歪んでいた。

 美しいはずの少女が、内面の嫉妬や悪意によって崩壊していく様。

 僕にはそう見えていた。そして、それをそのまま描いてしまった。

​「……ひどい絵だろ」

​ 僕は目を逸らした。

​「中学の時、好きだった子を描いたんだ。……でも、僕には彼女の笑顔の裏にある『嘘』が見えてしまった。それを描いたら、彼女は泣き叫んだよ。『私はこんなんじゃない』って」

​ それ以来、僕は人の顔を見るのが怖くなり、やがて色は消えた。

 真白も、きっと軽蔑するだろう。

 人の醜さを暴くなんて、悪趣味な画家だと。

​ しかし。

 真白は、その絵をじっと見つめ、そっと指で触れた。

​「……泣いてる」

「え?」

「この子、泣いてるよ。……悲鳴を上げてる」

​ 真白は僕を見た。

 その瞳は、どこまでも優しかった。

​「蓮くんは、彼女を傷つけようとしたんじゃない。……彼女の『痛み』に気づいてあげたかったんでしょ?」

「……」

「化け物なんかじゃないよ。これは、傷ついた女の子の、本当の顔だわ」

​ 胸の奥が熱くなった。

 誰も理解してくれなかった。変人扱いされ、気味悪がられた僕の目を、彼女だけが肯定してくれた。

​「……私を描いた時も、そうだった?」

「ああ」

「私が無理して笑ってるのも、死ぬのが怖くて震えてるのも……全部、蓮くんにはお見通しだったんだね」

​ 彼女は背後から僕を抱きしめた。

 背中に、彼女の体温と、トクトクという心音が伝わる。

​「……嬉しい。蓮くんに見つけてもらえて、本当によかった」

​ 僕の目から、涙がこぼれた。

 色が戻った世界で、初めて流す涙だった。

 過去の呪いが、彼女の言葉によって解かれていく。

​「……真白」

「ん?」

「……帰りたくないなら、いればいい」

​ 僕は彼女の手に自分の手を重ねた。

​「神崎にも、病院にも、僕がなんとか言う。……今夜は、ここにいろ」

「……うん。ありがと」

​ 雨音は激しさを増していた。

 狭い部屋、過去の亡霊(絵)の前で、僕たちは寄り添って座り込んだ。

​ この安らぎが、終わりの始まりであることを、僕たちはまだ知らないフリをしていた。

 彼女の体が、以前よりも冷たくなっていることに気づかないフリをして。

​ 翌朝。

 僕の部屋のドアを、激しく叩く音が響いた。

 神崎でも、病院の人でもない。

 それは、真白の母親だった。

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