第10話 『母の涙と、閉じられた世界の扉』
激しいノックの音が、早朝のアパートに響き渡っていた。
僕、一ノ瀬蓮は、ベッドで不安そうに身を縮める雨宮真白に、「大丈夫だ」と目で合図を送った。
そして、覚悟を決めてドアを開けた。
「……真白!!」
ドアが開くやいなや、悲痛な叫び声と共に、一人の女性が雪崩れ込んできた。
真白の母親だ。
後ろには、神崎海人が沈痛な面持ちで立っている。
「真白! どこ!? 無事なの!?」
母親は靴も脱がずに部屋へ上がり込み、ベッドに座る真白を見つけると、その場に泣き崩れた。
「よかった……! いなくなったって聞いて……お母さん、もうダメかと……!」
「……ごめんね、お母さん」
真白が申し訳なさそうに母親の背中を撫でる。
母親は顔を上げ、涙で濡れた目で僕を睨みつけた。
その瞳には、娘を誘拐した犯人を見るような憎悪と、娘を失うことへの恐怖が入り混じっていた。
「……あなたが、連れ出したのね」
「はい」
「どうして……! あの子にどれだけ時間が残されているか、知っているでしょう!? もし何かあったら、あなたが責任を取れるの!?」
母親が僕の胸を叩く。
痛くはなかった。彼女の力は、悲しみで抜けきっていたからだ。
「返して……。私の娘を、返してよぉ……!」
その泣き声が、僕の胸を抉る。
僕は彼女の「生」を描きたいと思った。
けれど、母親にとっては、どんな形であれ「生きていてくれること」だけが全てなのだ。
僕のエゴが、この人をこんなにも傷つけた。
僕は、その場に膝をついた。
額を床に擦り付ける。
「……申し訳ありませんでした」
「謝って済む問題じゃないわ!」
「でも……彼女は、笑っていました」
僕は顔を上げずに言った。
「病院の白い天井を見上げている時よりも……僕の絵を見ている時の方が、彼女は生きていました。……お願いします。残りの時間を、僕に預けてくれませんか」
母親が息を呑む気配がした。
だが、その沈黙を破ったのは、他でもない真白だった。
「……あっ」
短く、空気が漏れるような音。
顔を上げると、真白が胸を押さえ、苦痛に顔を歪めていた。
「真白!?」
「くっ……はぁ、はぁ……!」
彼女の体が傾く。
僕は反射的に彼女を支えようと手を伸ばした。
指先が触れる。
色が戻る。
その瞬間、僕は絶望した。
彼女の顔色が、昨日とは比べ物にならないほど「土気色」に変貌していたからだ。
唇は紫色。爪の色も悪い。
命の灯火が、風前の灯のように揺らめいている。
「真白! しっかりしろ!」
「救急車! 海人くん、早く!」
母親の悲鳴。神崎がスマホを取り出す。
僕は真白を抱きかかえたまま、動けなかった。
彼女の体温が、急激に下がっていくのを感じた。
世界の色が、点滅している。
彼女の意識が遠のくにつれて、僕の視界の彩度も落ちていく。
鮮やかだった部屋が、再び灰色の闇に飲み込まれていく。
「……れん、くん……」
「喋るな! もうすぐ助けが来る!」
「……え、かいて……」
彼女はうわ言のように呟き、意識を失った。
同時に、僕の世界は完全に色を失った。
病院の集中治療室(ICU)の前。
長い、長い時間が過ぎた。
僕と神崎は、廊下のベンチで並んで座っていた。
母親は処置室の中で付き添っている。
「……一ノ瀬」
神崎が、重い口を開いた。
「医者が言ってた。……もう、家には戻れないって」
「……」
「無菌室に入るそうだ。免疫が落ちてる。……外出なんてもってのほかだ」
宣告だった。
僕たちの「旅」の終わり。
海にも、遊園地にも、もう行けない。
リストに残った「イチョウ並木」も「初雪」も、彼女は見ることができない。
「……俺の、せいか」
「半分はな」
神崎は僕を責めなかった。ただ、事実を淡々と告げた。
「でも、あいつが選んだことだ。……お前と過ごしたこの夏が、あいつの寿命を縮めたとしても、あいつは後悔してねえよ」
神崎は立ち上がり、ガラス越しにICUの方を見た。
「ただ……もう連れ出すな。これ以上やったら、あいつは本当に消えちまう」
神崎は去っていった。
僕は一人、灰色の廊下に取り残された。
数日後。
真白の容態が安定し、一般病棟の個室(無菌室仕様)に移ったと連絡が入った。
僕はスケッチブックを持って、病院へ向かった。
ガラス越しの面会。
マイクを通した会話。
直接触れることはできない。つまり、僕には彼女の顔色は見えない。
グレーの視界の中で、彼女はベッドに半身を起こし、微笑んでいた。
『……ごめんね、蓮くん。また心配かけちゃった』
スピーカーから聞こえる声は、弱々しかった。
「謝るなよ。……僕が無理をさせた」
『ううん。楽しかった。……蓮くんの家、秘密基地みたいで』
彼女は瘦せ細った手をガラスに当てた。
僕も、その位置に合わせて手を重ねる。
ガラス一枚。たった数ミリの壁。
けれど、色は戻らない。
温もりも伝わらない。
世界は、残酷なほど冷たい灰色だった。
『ねえ、蓮くん』
「なに?」
『私、もう外には行けないんだって』
彼女は淡々と言った。
『イチョウも見れないし、雪も触れない。……リスト、全部埋められなかったね』
「……ああ」
『だからね、お願いがあるの』
彼女は枕元から、あのノートを取り出した。
そして、震える手で、新しいページに何かを書き込んだ。
彼女はノートをガラス越しに僕に見せた。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
『世界を、ここに持ってきて』
『蓮くん。……私が見られない景色を、蓮くんが見てきて。そして、絵にして私に見せて』
彼女の瞳が、僕を射抜く。
『蓮くんが私の「目」になって。……それが、私の最後の願い』
僕はガラスに額を押し付けた。
触れられない。色が分からない。
それでも、僕は描かなければならない。
彼女の記憶の中にある色を、僕の想像力で補完して、この灰色の世界に再現しなければならない。
それは、色の見えない画家にとって、あまりにも過酷な挑戦だった。
「……分かった」
僕は誓った。
「君の部屋を、世界で一番鮮やかな美術館にしてやる」
真白が笑った。
色なんて見えなくても、その笑顔が黄金色に輝いていることだけは、僕には分かった。《
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