第8話:『エリート夫の転落、そして絶縁』
その日の夜、世田谷にある貴弘の実家は、お通夜のような静けさに包まれていた。
「……申し訳ありません、お義父さん、お義母さん。私が至らないばかりに、貴弘さんをあんな女に走らせてしまって……」
私はリビングのソファで、ハンカチを目元に当てて泣いていた。
目の前には、厳しい表情の義父と、青ざめた義母。
テーブルの上には、私が持参した「証拠」が並べられている。
美姫の借用書のコピー。
貴弘の会社に怒号が飛び交う様子の録音データ(昨日のカフェで録ったものだ)。
そして、美姫の整形前の写真と、現在の「崩れかけた顔」の写真。
「信じられん……」
義父が震える手で写真を握りつぶした。
「会社にヤクザが怒鳴り込んできたというのは、本当なのか?」
「はい……。あの大谷美姫という女性、闇金に多額の借金があって。それを貴弘さんに肩代わりさせるつもりだったようで……」
私は涙声で嘘を混ぜた。
「貴弘さんは騙されているんです。『杏奈より良い女だ』って洗脳されて……。でも、彼女の顔は私の顔を真似て整形した偽物で……」
「なんてこと……」
義母が口元を押さえて嗚咽する。
この家は、代々続く名家で、世間体を何よりも気にする。
「息子が不倫」だけでもスキャンダルなのに、「整形モンスターの借金女に入れ込んで、会社にヤクザを招いた」なんて、一族の恥以外の何物でもない。
ガチャリ。
玄関が開く音がした。
貴弘だ。義父に呼び出されて、慌てて飛んできたのだ。
「親父! お袋! 話ってなんだよ、急に……」
リビングに入ってきた貴弘は、私を見て凍りついた。
「……杏奈? なんでお前がここに……」
「貴弘さん……」
私は怯えたように身を縮めてみせた。
「ふざけるな! 出て行けと言っただろ! よくも抜け抜けと俺の実家に……!」
貴弘が私に掴みかかろうとした瞬間。
バシンッ!!
乾いた音が響いた。
義父が、貴弘の頬を全力で平手打ちしたのだ。
「……親父?」
「恥を知れ!!」
義父の怒号が飛んだ。
「お前は、小早川家の顔に泥を塗ったんだぞ! 会社に街金が押し掛けたそうじゃないか! しかも原因が、お前の不倫相手の借金だと!?」
「そ、それは……誤解だよ! あれは美姫ちゃんが勝手に……」
「黙れ! その女の正体を見たのか!」
義父が、美姫の崩れた顔の写真を貴弘に投げつけた。
「え……?」
貴弘が写真を拾い上げる。
そこには、鼻がひん曲がり、皮膚が壊死して膿んでいる、昨日の美姫の無残な姿が写っていた(私がクリニックでこっそり撮ったものだ)。
「ひっ……! な、なんだこれ……」
「それがお前の選んだ『理想の女』の成れの果てだ!」
義父が吐き捨てる。
「杏奈さんはな、お前がそんな女に騙されていても、必死に止めようとしてくれたんだぞ。それをお前は……追い出して、偽物を囲っていたとは!」
「違う! こいつは俺を……!」
「貴弘さん」
私は涙を拭き、冷徹な声で遮った。
「美姫さん、今頃きっと警察に保護されてるわよ。……クリニックで暴れて、器物破損で通報されたから」
「は……?」
「彼女、あなたの名前を出したそうよ。『夫の小早川貴弘が払うから許して』って」
「なっ……!?」
貴弘の顔から血の気が引いていく。
警察沙汰。そして会社への通報。
商社マンとしての彼のキャリアは、これで完全に終わった。
「嘘だ……俺は知らない……勝手にやったんだ……」
貴弘がガタガタと震えだす。
しかし、トドメはまだだった。
ジリリリリリ!!
家の固定電話が鳴り響いた。
このタイミングで鳴る電話なんて、ロクなものではない。
義母が恐る恐る受話器を取る。
「……はい、小早川です。……え? 貴弘の妻?」
義母が真っ青な顔で貴弘を見た。
「……貴弘。警察からよ。あなたの奥さんと名乗る女性が、署で暴れてて手がつけられないって……『顔が痛い』『旦那を呼べ』って叫んでるって……」
スピーカーからは、受話器越しにでも聞こえるほどの奇声が漏れていた。
『タカくぅぅぅん! 助けてぇぇぇ! 私の顔がぁぁぁ!』
それは、かつて彼が愛した「美姫」の声ではなく、地獄の底から響く亡者の叫びだった。
「……ひぃっ!」
貴弘が後ずさり、腰を抜かしてへたり込んだ。
「違う……俺の妻じゃない……俺の妻は……」
彼は縋るような目で私を見た。
「杏奈……杏奈だろ? お前が妻だろ? 助けてくれよ……あの女とは遊びだったんだ……!」
今さら。
あまりに浅ましく、滑稽な命乞い。
私はゆっくりと立ち上がり、彼の前で見下ろした。
かつて美姫が見せたような、冷たい笑顔を作って。
「ごめんなさい、貴弘さん」
私は薬指から結婚指輪を外し、彼の足元にカラン、と投げ捨てた。
「私、あなたの『顔』も見たくないの」
「あ……」
「お義父さん、お義母さん。……こういうわけですので、離婚させていただきます。慰謝料と財産分与については、弁護士を通しますので」
私は義両親に深々と頭を下げた。
「待て! 待ってくれ杏奈! 俺を一人にしないでくれ! 会社もクビになるんだぞ!?」
貴弘が私の足に縋り付く。
私はそれを、汚いものを払うように蹴り飛ばした。
「自業自得よ。……あっちの『杏奈(ニセモノ)』とお幸せに」
私は背を向け、玄関へと歩き出した。
背後で、義父の「勘当だ! 出て行け!」という怒号と、貴弘の情けない泣き声が響いていた。
外に出ると、夜風が心地よかった。
終わった。
私の顔を盗んだ女は怪物になり、私を捨てた夫は全てを失った。
私はスマホを取り出し、カメラを起動した。
インカメラに映る自分の顔。
疲れ切って、化粧も崩れているけれど、それは紛れもなく「私」の顔だった。
「……おかえり、私」
私は夜空に向かって、小さく微笑んだ。
ドロドロに溶けた地獄の底から、私だけが生還したのだ。
(完)
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