第7話:『崩壊する顔面、不在の神様』
翌朝、雑居ビルの薄暗い廊下に、ヒールの音が響き渡っていた。
美姫だ。
彼女は大きなサングラスをかけ、顔の半分をスカーフで覆っている。
その足取りは千鳥足で、呼吸は荒い。
「先生……! 開けて! 先生!!」
彼女は『大友美容クリニック』と書かれたドアを、狂ったように叩いた。
「お願い……痛いの……鼻が、熱いのよ……!」
昨夜の夫の暴力が引き金となり、彼女の顔面崩壊は加速していた。
鏡を見るのが怖くて、彼女は逃げるようにここへ来たのだ。
この顔を作った「神様」だけが、元通りに直してくれると信じて。
しかし、ドアは開かない。
中からは人の気配すらしない。
「どうして……予約したじゃない! メンテナンスの日でしょ!?」
彼女がドアノブをガチャガチャと回す。
鍵はかかっていなかった。
勢い余って、彼女は待合室へと転がり込んだ。
「先生!」
シーンと静まり返った院内。
受付には誰もいない。診察室のドアも開け放たれている。
机の上は書類が散乱し、パソコンも、薬品棚の中身も持ち去られていた。
もぬけの殻だ。
私の通報を受けた医師は、証拠隠滅をして夜逃げしたのだ。
「嘘……嘘でしょ……?」
美姫がその場に崩れ落ちる。
「私を置いていかないでよ……まだ、完成してないのに……!」
「残念だったわね」
私は診察室の奥、カーテンの陰から姿を現した。
黒いスーツ姿で、ゆっくりと彼女に歩み寄る。
美姫がビクリと肩を震わせ、振り返った。
「……誰?」
サングラス越しに私を見る。
今の私は、整形後の彼女と同じ顔をしている。
しかし、彼女は痛みとパニックで、目の前の女が「かつて自分が顔を盗んだ杏奈」だとは気づいていないようだった。
「先生はもういないわよ。保健所の立ち入り検査が怖くて、高飛びしたわ」
「なっ……あんた、看護師? ならあんたが治してよ! お金ならあるから!」
美姫が這いつくばって、私の足首に縋り付いた。
スカーフがずれ落ちる。
私は息を呑んだ。
酷い。
想像以上だった。
鼻筋に入れていたプロテーゼが中で折れたのか、鼻が不自然な方向に曲がっている。
そして、眉間から鼻先にかけての皮膚が、ドス黒く変色し、黄色い膿が滲み出していた。
壊死が始まっている。
「……見せてごらんなさい」
私は医師のふりをして、彼女の顎を掴み、上を向かせた。
彼女の顔――かつて私の顔だったもの――が、腐った果実のように崩れている。
「痛い……すごく痛いの……熱を持ってるの……」
「これ、もう手遅れね」
私は冷淡に告げた。
「組織が死んでるわ。一度全部取り出して、皮膚を移植しないと。……まあ、元の顔に戻る保証はないけど」
「そんな……嫌! 嫌よ! せっかく手に入れたのに!」
美姫が泣き叫ぶ。
涙が、膿んだ傷口に染みるのだろう。彼女は顔を抑えてのたうち回った。
「私の顔よ! 杏奈の人生を手に入れたのよ! なんでこうなるのよ!」
「それが『盗品』の末路よ」
私は彼女を見下ろしながら、自分のサングラスを外した。
「……え?」
美姫の動きが止まる。
彼女の目が、私を捉える。
私と同じ目。私と同じ鼻。
でも、私は崩れていない。完璧な状態の「杏奈」が、そこに立っている。
「久しぶりね、美姫」
「あ……あん、な……?」
彼女の唇が震える。
「なんで……なんであんたがここに……」
「あんたがメンテナンスの予約を入れたからよ。……私が代わりに通報しておいてあげたの」
「あんたの仕業なの!? 先生を追い出したのは!」
「そうよ。感謝してほしいくらいね。このままあのヤブ医者にいじくり回されていたら、顔だけじゃなくて脳まで腐ってたかもしれないわよ」
「ふざけるな! 殺してやる!」
美姫が立ち上がり、私に掴みかかろうとした。
しかし、私は一歩下がってそれを躱した。
彼女はバランスを崩し、薬品棚に激突した。
ガシャーン!
ガラスが割れ、彼女の顔に破片が降り注ぐ。
「ぎゃあああああっ!!」
新たな悲鳴。
彼女は顔を押さえて蹲った。指の隙間から、鮮血が流れる。
「あはっ……あはははは!」
私は笑いが止まらなかった。
かつて私を見下し、私の全てを奪った女が、今、ゴミのように床を這いずり回っている。
「どうしたの? 『私が本物になった』んじゃなかったの?」
私はしゃがみこみ、彼女の耳元で囁いた。
「ほら、鏡を見てごらんよ。……今のあんた、化け物よ」
床に落ちていた手鏡を、彼女の目の前に突きつける。
そこに映ったのは、血と膿にまみれ、鼻がひん曲がった、見るに耐えない怪物の顔だった。
「いやぁぁぁぁっ!! 見ないで! 誰にも見せないで!!」
彼女は鏡を叩き割り、顔を床に擦り付けて泣き叫んだ。
「タカ君……助けてタカ君……! 私、綺麗でしょ? 私が一番でしょ!?」
夫の名前を呼ぶその姿は、哀れを通り越して滑稽だった。
「残念だけど、貴弘はもうあんたを助けないわよ。……借金まみれの、顔が崩れた女なんて、あの男が一番嫌う『不良債権』だもの」
私は立ち上がった。
「さようなら、美姫。……その顔、あんたにお似合いよ」
「待って! 置いていかないで! 杏奈! 杏奈ぁぁっ!!」
背後から聞こえる絶叫を無視して、私はクリニックを出た。
廊下に出ると、生暖かい風が吹いていた。
私の顔を取り戻したわけではない。
私の顔をした怪物が、一匹死んだだけだ。
でも、まだ終わらない。
この怪物を招き入れ、私を捨てた元凶。
小早川貴弘。
次は、あんたの番よ。
私はスマホを取り出し、ある番号に電話をかけた。
貴弘の実家――私の元・義両親の家だ。
「もしもし、お義母さんですか? ……ええ、杏奈です。実は、貴弘さんのことで、とても大切なお話があって……」
声色は、涙ぐんだ「被害者の妻」を完璧に演じていた。
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