第2話「婚約破棄のススメ」


 私とアレクシス・フォン・エルネスティアの婚約は、私が5歳の時に決まった。


 両家の親が勝手に決めた政略結婚。私の意思なんて、最初から存在しなかった。


 ゲーム「恋の魔法学園」の本来のシナリオでは、転校生のヒロインが現れ、アレクシスは彼女に恋をする。そして私エリシアは嫉妬に狂い、ヒロインを陥れようとして失敗。婚約破棄され、学園を追放される。


 いわゆる「破滅ルート」だ。


 最初の10回くらいのループでは、この破滅を回避しようと必死だった。ヒロインと仲良くなろうとしたり、アレクシスとの関係を改善しようとしたり。


 でも50回を超えた頃から気づいた。


 そもそも、なぜ私が努力しなければならないのか?


 悪いのは、勝手に婚約を決めた大人たちじゃないか。


 100回を超えた頃には、もう答えが出ていた。


 婚約なんて、最初から破棄すればいい。


 そして今回、127回目のループで、ついにそれを実行する。


---



 昨日、教室でうっかり婚約破棄を口にしてしまった。


 本来なら、もう少し計画的に、正式な場で切り出すつもりだったのだが——まあ、いい。どうせ結果は同じだ。


 予想通り、翌日の昼休み、アレクシスから呼び出しがあった。


 場所は学園の中庭。人気のない、噴水のある一角。


 私が到着すると、アレクシスは既に待っていた。いつもの穏やかな表情ではなく、真剣な、少し困惑した顔をしている。


「来てくれたか」


「お呼びでしたので」


 私は淑女らしく会釈した。


 アレクシスは少し黙った後、口を開いた。


「昨日の話だが……本気なのか?」


「はい」


 即答する。


「婚約を破棄したい、と」


「その通りです」


 アレクシスは眉をひそめた。


「理由を聞かせてもらえるか? 何か不満があるなら——」


「不満はありません」


 私は彼の言葉を遮った。


「あなたは素晴らしい方です。容姿端麗、頭脳明晰、品行方正。誰もが認める完璧な王子様」


「なら、なぜ」


「だからこそです」


 私は彼の目を見つめた。


「アレクシス様。あなたは私を愛していますか?」


「それは……」


 彼は言葉に詰まった。


 そうでしょうね。127回ループして、一度も彼から真の愛情を感じたことはない。


 彼が愛しているのは、「公爵令嬢」という立場であり、「政略結婚の相手」という役割だ。私という人間ではない。


「私もあなたを愛していません」


 はっきりと言い切る。


「お互いに愛情のない結婚をしても、不幸になるだけです」


「しかし、両家の——」


「政略結婚の話でしたら、もっと良い選択肢があります」


 私はここぞとばかりに、準備していた提案を切り出した。


「隣国マルクトのマリアベル王女をご存知ですか?」


「ああ、もちろん」


「彼女は3ヶ月後、親善大使としてこの国を訪問します」


 アレクシスの目が少し見開かれた。


「なぜそれを……」


「情報網があります」


 嘘だ。ループで知っているだけだ。


「マリアベル王女は聡明で美しく、そして何より、両国の平和を心から願っている方です」


 私は一歩前に出た。


「彼女との婚姻は、私との政略結婚より、100倍国益になります」


「100倍とは……」


「具体的に申し上げましょう」


 私はポケットから小さなノートを取り出した。そこには、びっしりと数字と分析が書き込まれている。


「マルクト国は鉄鉱石の産出国です。現在、我が国は鉄鉱石の70%を第三国から輸入しています」


「ああ……」


「しかしマルクトと同盟を結べば、直接取引が可能になります。輸送コストが削減され、年間約500万ゴルドの節約になります」


 アレクシスは黙って私の話を聞いている。


「さらに、マルクトは我が国の魔道具技術を求めています。技術提携により、年間300万ゴルドの収益が見込めます」


「……君は、いつからそんなことを」


「ずっと勉強していました」


 127回分のループでね。


「加えて、両国の同盟は周辺国への強力な牽制になります。政治的安定は、経済成長に直結します。長期的には——」


「わかった、わかった」


 アレクシスは手を上げて、私を止めた。


「君の言いたいことは理解した」


 彼は深く息をついた。


「確かに……君の分析は正しい。マリアベル王女との婚姻は、多くの利益をもたらすだろう」


「でしょう?」


「しかし……」


 彼は複雑な表情を浮かべた。


「君は本当に、それでいいのか?」


「何がですか?」


「婚約を破棄して、君は何をするつもりなんだ?」


 来た。この質問を待っていた。


「商人になります」


「商人……昨日も言っていたな」


「はい。ヴァンフォード商会を設立し、王国一の商会に育てます」


 アレクシスは呆れたように私を見た。


「公爵令嬢が商人になる? そんな前例は——」


「ないからこそ、やる価値があります」


 私は不敵に笑った。


「時代は変わります、アレクシス様。貴族も変わらなければ、生き残れません」


「君は……本当に変わってしまった」


「いいえ」


 私は首を横に振った。


「私は変わっていません。ただ、今まで押し殺していた本当の自分を、ようやく解放しただけです」


 アレクシスは長い間、黙って私を見つめていた。


 そして、ようやく口を開いた。


「……わかった」


「え?」


「婚約破棄を受け入れよう」


 意外にあっさりと。


 まあ、彼も薄々気づいていたのだろう。私たちの婚約が、形だけのものだということに。


「ただし、条件がある」


「条件ですか?」


「ああ。君が本当に成功したら——商会を成功させたら——その時は僕も君を認める」


 アレクシスは真剣な目で言った。


「逆に、失敗したら……」


「失敗しません」


 私は即座に答えた。


「必ず成功させます。127回——いえ、何度失敗しても諦めませんから」


「127回?」


「言い間違いです」


 危ない危ない。


 アレクシスは不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。


「では、正式な手続きを進めよう」


「ありがとうございます」


 私は深々と頭を下げた。


「アレクシス様。あなたは良い王になれます」


「……君がそう言うなら、そうなるよう努力するよ」


 彼は少し寂しそうに笑った。


 悪い人じゃない。本当に。


 でも、私には私の道がある。


---



 婚約破棄の噂は、あっという間に学園中に広まった。


 翌日、私が教室に入ると、周囲の視線が一斉に集中した。


「あれが……」


「本当に王子を振ったの?」


「信じられない……」


 ひそひそと囁く声。


 私は気にせず、自分の席に座った。


「エリシア様……」


 隣の席のシャルロッテが、心配そうに声をかけてきた。


「大丈夫なんですか? 王子様との婚約を……」


「大丈夫よ」


 私は笑顔で答えた。


「むしろ清々しい気分だわ」


「そ、そうですか……」


 シャルロッテは戸惑った表情。


 その時、教室のドアが開いた。


 入ってきたのは、騎士科の制服を着た少年。茶髪で、精悍な顔立ち。


 レオンハルト・フォン・エルデンバーグ。騎士団長の息子で、攻略対象の一人。


 彼はまっすぐ私のところへやってきた。


「エリシア様!」


 大きな声で。教室中の注目が、さらに集まる。


「本当なんですか!? 王子様との婚約破棄!」


「ええ、本当よ」


「な、なぜ!?」


 彼は本気で心配している顔だ。


 レオンハルトは真面目で正義感が強い。そして騎士道精神に溢れている。きっと「令嬢を守らねば」とか思っているのだろう。


 可愛い。


「理由は色々あるけれど」


 私は立ち上がって、彼と向き合った。


「一番の理由は、私には他にやりたいことがあるから」


「やりたいこと?」


「商人になるの」


「商人……ですか?」


 レオンハルトは完全に理解できていない顔をしている。


「そう。商会を作って、お金を稼ぐの」


「お、お金……」


 彼の顔が引きつった。


 貴族が「お金を稼ぐ」なんて言うのは、下品だと思われているのだ。


「心配しないで、レオンハルト」


 私は彼の肩に手を置いた。


「私は大丈夫。むしろ、これからが本番よ」


「し、しかし……」


「あなたは優しいのね。でも、私のことは気にしないで」


 私はにっこりと笑った。


 レオンハルトは真っ赤な顔で、何か言おうとして、結局何も言えずに教室を出て行った。


 残された教室は、ざわめきで満ちていた。


「あの令嬢、壊れたんじゃない?」


「王子を振って、商人になるって……」


「きっとストレスで……」


 好き勝手言ってくれる。


 でも構わない。すぐに証明してみせる。


 私が本気だということを。


---



 その日の放課後、実家に戻ると、執事が待っていた。


「お嬢様、公爵様がお呼びです」


「わかっているわ」


 もちろん呼ばれる。予想通りだ。


 父の執務室へ向かう。


 重厚な扉をノックする。


「入れ」


 低い声。怒っている。


 私は扉を開けて中に入った。


 執務室の奥、大きな机の前に、父が座っている。


 ヴァンフォード公爵、アーノルド・フォン・ヴァンフォード。50代半ばの、威厳ある男性。


「エリシア」


「父上」


「座れ」


 言われた通り、椅子に座る。


 父は私をじっと見つめた後、口を開いた。


「王子との婚約を破棄したそうだな」


「はい」


「理由を言え」


「私には、やりたいことがあります」


「やりたいこと?」


 父の目が細められた。


「商人になることか?」


「はい」


「馬鹿を言うな!」


 父が机を叩いた。


「公爵令嬢が商人になるなど、前代未聞だ!我が家の名誉を何だと思っている!」


 予想通りの反応。


 でも、私には切り札がある。


「父上」


 私は冷静に言った。


「少し、お時間をいただけますか?」


「何?」


「5分で結構です。私の話を聞いてください」


 父は不機嫌そうだったが、黙って頷いた。


 私は鞄から、準備していた書類を取り出した。


「父上、我が家の財政状況を把握していらっしゃいますか?」


「何を……」


「領地の年間収入は約80万ゴルド。支出は約75万ゴルド」


 父の顔色が変わった。


「しかし、これには借入金の返済が含まれていません」


「貴様、どこでそれを……」


「独自に調べました」


 実際には、ループで何度も見てきた情報だ。


「現在の借入金総額は約500万ゴルド。年間返済額は約30万ゴルド」


 私は書類を机に広げた。


「つまり、毎年約20万ゴルドの赤字です」


 父は黙って、書類を見つめている。


「このままでは、5年以内に財政破綻します」


「……」


「しかし」


 私はここで、切り札を出した。


「私に商会設立を許可してくだされば、3年以内に借金を完済できます」


 父の目が、私を見た。


「本気で言っているのか?」


「はい」


 私は別の書類を取り出した。


「これが事業計画書です」


 そこには、詳細な計画が書かれている。


 1年目:学園周辺での小規模取引、元手を2倍に。


 2年目:北部の土地購入、鉱山採掘権獲得、元手を10倍に。


 3年目:国際貿易、新魔道具開発、王国最大の商会へ。


「北部に鉱山? そんなものは——」


「あります」


 私は断言した。


「1年後、北部でミスリル鉱脈が発見されます」


「何!?」


「今のうちに土地を買い占めれば、莫大な利益になります」


 父は書類を食い入るように見つめた。


「これは……本当なのか?」


「はい。私を信じてください」


 父は長い間、黙って考え込んでいた。


 そして、ようやく口を開いた。


「……条件がある」


「はい」


「1年間の猶予をやる」


 来た。


「1年で、元手を2倍にしてみせろ。できなければ、この話は なかったことにする」


「承知しました」


「そして、護衛は必ずつけること」


「はい」


「……本当に、やるつもりか?」


 父は複雑な表情で私を見た。


「はい」


 私は力強く頷いた。


「必ず成功させます」


 父は深くため息をついた。


「お前は……いつの間に、そんなに強くなったんだ」


「父上?」


「昔は、もっと大人しい子だったのに」


 それは、過去126回のループでの私ね。


 でも今回は違う。


「父上、ありがとうございます」


 私は立ち上がって、深々と頭を下げた。


「必ず、期待に応えます」


 父は何も言わず、手を振って私を下がらせた。


 私は執務室を出た。


 廊下を歩きながら、小さくガッツポーズ。


 やった。第一段階クリア。


 次は、初期投資の準備だ。


---



 自室に戻り、ベッドに座る。


 窓の外は、既に夜。星が輝いている。


 私はノートを開いた。


「1週間後、ロバート・ハリスの商館を訪問」


「2週間後、小麦の先物買い」


「1ヶ月後、リゼット・クラインのスカウト」


 やるべきことは山積みだ。


 でも、一つずつクリアしていけば、必ず成功する。


 127回のループで得た知識。


 前世の商社OL時代の経験。


 そして何より——諦めない心。


「さあ、始めましょう」


 私は独り言を呟いた。


「ヴァンフォード商会、始動よ」


 127回目のループ。


 今回こそ、違う未来を掴んでみせる。


 悪役令嬢なんかじゃない。


 私は、私自身の人生を生きる。


 月明かりが、部屋を照らしている。


 明日から、新しい戦いが始まる。


 でも、怖くない。


 むしろ、ワクワクしている。


 これが、本当の人生。


 これが、私が望んでいた未来。


「絶対に、成功させる」


 決意を胸に、私は眠りについた。


 127回目の挑戦が、今、本格的に始まる。

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