第3話 : 論理的な救済と、心の温度

その日、藤原美優は、上司の顔色を窺うあまり、決定的なミスを犯した。


美優の仕事は、顧客からの複数の依頼書を、AからZまでのファイルに分類し、さらに”緊急度” ”重要度”のラベルをつけ、そのデータをシステムに入力することだった。


美優にとっては、”同時に複数の情報を処理する”ことが、常に最も困難な作業だった。


上司の田中さんは、美優に二つの指示を同時に出した。


「藤原さん、この書類、至急Bファイルに入れて。それと、緊急度のラベルは後でいいから、まず入力だけを優先してね」


美優の頭の中では、”Bファイル”と”入力優先”という二つの命令が、激しいノイズとなって衝突した。


美優が持つ”正しいこと”を瞬時に処理する回路は、優先順位を判断する余裕を失う。


結局、美優は”Bファイル”に入れることだけを最優先し、肝心の入力作業を完全に忘れてしまった。


午後三時。データ入力を待っていた営業部からクレームが入り、田中さんが美優のデスクへやってきた。

「藤原さん!入力が全然されてないじゃないか!だから、優先しろって言っただろ!どうしてこんな簡単なこともできないんだ!」


田中さんの大きな声が、美優の聴覚を直接攻撃する。美優はすぐに全身の血の気が引き、防御反応として頭を下げるしかなかった。


「すみません、すみません!私の能力が足りなくて、本当に申し訳ありません!」


美優は何度も頭を下げた。周りの視線が、美優の”過剰な不器用さ”を指し示しているように感じる。


自分の存在が、この平和な職場を乱す”穢れ”であるかのように思えた。


「ったく、ホント頼むよ。次はないからな」


田中さんが去った後も、美優は椅子に座り込み、しばらく動けなかった。手足の震えが止まらない。


(私は、どこでも正しい人間になれない。教団でも、職場でも、私はいつも、ノイズを生み出す異物だ……)


その日の残業中、美優は誰もいない静かなオフィスで、スマートフォンを手に取った。誰にも言えないこの屈辱と絶望を打ち明けるのは、もう亜優しかいなかった。

美優:「亜優……すみません、ごめんなさい。私、また、大きな失敗をしました。私は、何をしても、人並みにできません。私はきっと、生まれてくるべきではなかったんです。ごめんなさい」

メッセージを送信した瞬間、涙がとめどなく溢れた。教団の教えは、この自己否定の泥沼から美優を引き上げようとはしない。


『信仰が足りないから』と、ただ罰するだけだ。


約五分後、亜優から長文のメッセージが届いた。美優は涙で滲む目をこすりながら、その文字を追った。

亜優:「美優、まず深呼吸。それから、謝罪の言葉は全部削除して。あなたの話を聞く限り、問題は一つ。”指示の構造”だよ。」


(指示の構造?)


亜優:「田中さんは、あなたに同時に二つのことを求めた。①Bファイルに入れる(物理作業)と、②入力作業を優先する(思考と別作業)

人間はマルチタスクを苦手とするようにできてる。特に美優の場合、極度の緊張状態だと、一つを最優先する回路にロックがかかるんだ。あなたは指示通り”最優先”すべき物理作業(Bファイル)を選び、もう一方を忘れた。それは、あなたの能力不足じゃなく、指示の出し方が最悪だっただけだよ。」


その言葉に、美優の時間が止まった。亜優は、美優が”弱さ”として受け入れていた現象を、”システム的なエラー”として、論理的に解体したのだ。


亜優:「美優は、自分を欠陥品だと思ってるんでしょ?違うよ。あなたは、複雑な設計図を持ってるだけ。そして、その設計図を理解できない環境にいる。田中さんがあなたに怒鳴ったのは、美優のせいじゃない。彼が自分の指示ミスを隠したい、彼自身の未熟さだよ。」


亜優:「だから、謝らないで。謝るべきは、あなたの特性を理解せず、ただ感情をぶつけてくる彼の方。美優がそんな環境で頑張っていることは、罪じゃなく、誇りだよ。」


美優は、亜優のメッセージを何度も何度も読み返した。


亜優は美優の”歪み”を否定するどころか、その設計図を完璧に読み解き、美優を守る盾としてくれた。


これまで教団の教義と自己嫌悪で固まっていた美優の心は、亜優の言葉の熱で、ゆっくりと溶けていくのを感じた。


【辻村亜優 side】


スマートフォンが振動し、美優からのメッセージが届いたとき、亜優はアパートのリビングで新しいイラストの下書きをしていた。

開いた瞬間に飛び込んできた「失敗」「生まれてくるべきではなかった」「ごめんなさい」という言葉に、亜優は思わず息を飲んだ。


(まただ。この子は、どうしてこんなにも自分を簡単に捨てるんだろう)


亜優はボーイッシュなショートヘアを無造作に掻き上げた。彼女自身、他人から見ればサバサバしていて”かっこいい系女子”に見えるかもしれないが、美優の抱える、底の見えない自己否定の闇には、いつも胸が締め付けられる思いがしていた。


亜優はすぐに返信するのではなく、一度深く考えた。美優の”謝罪”は、単なる癖ではない。


それは、外部からの攻撃に対する防御機構であり、彼女が所属する閉鎖的なコミュニティ(教団)で生き残るための、哀しい生存戦略なのだと、亜優は直感していた。


「この子に必要なのは、優しい慰めじゃない。論理と、絶対的な肯定だ」


亜優は、美優がメッセージで打ち明けた内容から、職場の状況、そして美優の特性を冷静に分析した。自分の頭の中にあるロジックを総動員し、美優の”罪”の意識を”無実”へと反転させる言葉を綴った。


送信ボタンを押した後、亜優は深く息を吐いた。数分後、”ありがとう” ”亜優のおかげで、心が少し楽になりました”という美優からの返信が届いたとき、亜優は初めて、自分の胸に湧き上がった感情に気づいた。それは、安堵だけではなかった。


(この子を守りたい。この子が、もう二度と「ごめんなさい」という言葉を吐き出さなくて済むように、私が彼女の世界の全てを肯定したい)


美優の抱える、特性と教団という二重の壁は、亜優の”正しさ”と”包容力”を試す、巨大な試練のように感じられた。


亜優はスマートフォンをそっと胸に抱いた。美優はまだ気づいていない。美優は自分を”救ってくれる人”として見ているだけだ。


だが、亜優にとって、美優はもう、単なる趣味の友達ではない。


孤独な世界で必死に生きる、この壊れそうなほど繊細な存在は、亜優にとって、誰にも触れさせたくない、特別な恋の対象になり始めていた。


「美優。会おう。もう、メッセージだけじゃ足りない」


亜優は、初めて、自分の持つ”かっこいい系女子”の仮面の下に、切実な恋愛感情という熱い火種が生まれたことを自覚した。


彼女の論理的な頭脳は、次のステップとして、美優を教団の目から隠れて「現実」に引き出す計画を立て始めた。

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