第2話:ハンドルネームの向こう側

 「完全なものなんて、面白くないでしょ?」


 アユの言葉は、まるで教団の教義で固められた美優の心に、暖かくも鋭利な刃先で小さな穴を開けたようだった。その穴から、外界の新鮮な空気が少しずつ流れ込んでくる。


 (面白くない。私がずっと見ていた教団の世界は、息苦しくて、色がない灰色の世界だった)


 美優はスマートフォンを握りしめ、布団の中で丸くなった。深夜1時を回っている。本来なら、明日の奉仕活動に備え、完璧な睡眠を取らなければならない時間だ。だが、この交流を断ち切ることの方が、教団の戒律を破る罪よりも恐ろしいことに思えた。


 美優は、アユが投稿したイラストについて、さらに感想をコメントした。謝罪の言葉を減らし、純粋に感じたままの“好き”という感情を初めて文章に乗せてみる。


 すると、すぐに返信が来た。アユはチャットツールへの移行を提案してきた。

 

 アユ:「あ、これ以上コメント欄で語ると、他のフォロワーが引いちゃうかも笑

もしよかったら、個別のDMで話さない?もっと深く語りたい!」


 美優の心臓が跳ね上がった。DM(ダイレクトメッセージ)それは、秘密の共有を意味する。美優にとって、SNS自体が禁じられた場所なのに、さらに個人的な空間へ移行することへの恐怖は計り知れない。


 だが、美優の“謝罪癖”と“自己否定”が、ここで意外な形で背中を押した。


 (私が断ったら、アユさんは『この人は自分と話したくないんだ』って思って、離れてしまうかもしれない。それは、とても悲しいことだ。ごめんなさい、私から話す機会を奪わないでください…!)


 美優は、アユの申し出を震える手で快諾した。


 それから数日間、二人のDMでも交流は、美優の精神的な生命線となっていた。


 アユは美優の不器用さや極端な真面目さを決して笑わなかった。美優が“完璧でなければならない”という強迫観念に囚われていることを察したのか、アユはよく『適当でいいよ』『休んでいいよ』という、美優の辞書にはない言葉を投げかけた。


 美優は教団では決して口にできない、職場での人間関係の困難や、日々の生活で何に過敏に反応してしまうかを、アユに打ち明けた。美優自身、それが“発達障害”という特性から来るものだと知らない。


 彼女は、ただ、“私が弱いから”だと信じていた。


 ミユ:「すみません。私、他の方から見ると、きっと変に映ってると思います。空気が読めないというか、いつも、自分だけ浮いてる気がして……」


 アユ:「ミユ、『すみません』って謝るのやめてみない?私は別に変だと思ってないよ。ただ、ちょっと頑張りすぎてるだけ。ミユが浮いてるんじゃない。周りがミユの持ってる特別な色に、気づいてないだけじゃないかな?」


 そのメッセージには、まるで美優という存在を特別な固有名詞として扱うような、温かい眼差しがあった。


 ある晩、二人が好きなSFアニメの“名前”についての考察で盛り上がっていた時だった。


 アユは、キャラクターの持つコードネームについて語っていた。


 アユ:「名前ってその人の核を表す記号だから、すごく重いんだよね」


 美優は、ふと、衝動的な気持ちに駆られた。これは、教団の教えを破るよりも、もっと個人的な反逆だった。


 ミユ:「あの、アユさん…アユさんは、ハンドルネームですよね。もちろん、無理にとは言いませんが、もしよかったら、その…本当の名前で、呼びたいなって」


 美優は、その一文を送った後、心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張した。拒否されたら、この唯一の救いの綱を失ってしまうかもしれないという恐怖。


 すぐに返信が来た。


 アユ:「えっ、本名?いいよ、もちろん!私、別に隠すつもりなかったし。辻村亜優っていうんだ。ミユは?本名教えてくれる?もし嫌だったら、このままでも大丈夫だからね」


 “辻村亜優”ボーイッシュで力強いイメージが、美優の頭の中に具体的な像を結んだ。美優は、自分の本名をタイプした。


 ミユ:「私は、藤原美優です。あの、亜優さん……美優って呼んでくださっても、大丈夫です」


 アユ:「やったー!じゃあ、これからは亜優って呼んでね。私も美優って呼ばせてもらう。美優、かわいい名前だね」


 “美優”と呼ばれる。それは、教団で信者たちから形式的に呼ばれる名前とは全く違う響きだった。亜優の声はまだ聞いてないのに、その文字を見た瞬間、美優は亜優のボーイッシュで優しげな声で呼ばれている気がした。


 美優は初めて、自分の名前が“誰かに特別な意味で認められた固有名詞”になったように感じた。


 そして、美優は思い切って、メッセージを送った。


 ミユ:「亜優、これからよろしくね」


 “さん”をつけずに呼ぶ行為。それは、教団の規律から見れば、不潔な態度、異端の愛の始まりだったかもしれない。しかし、美優の心は、罪悪感よりも、幸福感と高揚感で満たされていた。


 その夜、美優は教団が禁じる“感情の乱れ”に抗うことなく、スマートフォンから漏れる亜優の明るい光に抱かれて、ようやく眠りにつくことができた。


 明日から、美優の“正しい”世界は、少しずつ亜優の色に浸食されていく。


 





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