第3話 非日常と遭遇しまいました
家を出ると、まだ始業時間まで十分すぎるほど余裕があった。足が自然と学校とは逆の方向へ向かう。脇道へそれたのは、ただ少しだけ胸のざわつきを落ち着かせたかったからだ。春の朝なのに、胸の奥にはまだ前世の残り火みたいな気配がくすぶっていた。
近くの公園は、大通りから一本ずれた細い道の先にある。朝の喧騒が遮られるせいで、空気は驚くほど澄んでいた。まるで、ここだけ時間がゆっくり流れているようだった。
遊具のペンキはところどころ剥がれ、ベンチには夜露が光っている。人の姿はなく、その“空白”がいまの私には心地よかった。
公園に着き、時計をちらりと見る。思った以上に早く家を出てきたようだ。それだけで、少し肩の力が抜けた。
胸の奥がふっと温かくなる。歌いたい衝動が、小さな泡みたいに喉へ浮かび上がった。
私は深く息を吸い、軽く咳払いをして 、歌った。
『この美しい世界に~♪』
声が空へ伸びていく。前世で、歌は“戦うための力”だった。喉を枯らし、魂を削り、それでも歌い続けなければ誰かが死ぬ。そんな極限の環境で育った歌声は、今世でも消えることなく身体の奥に刻まれている。
本当は、歌うのが嫌いだった。自分の声なんて特別きれいでもないと思っていたし、訓練も苦痛でしかなかった。
けれどいつの間にか、私は歌うことを愛していた。あの世界で、私の声を必要としてくれた仲間がいたからだ。
……いろいろあった。いろいろありすぎた。
仲間との出会い。理不尽な苦労。戦場を駆け抜けた日々。そして、避けられなかった別れ。
前前世と比べれば5年間は短い。でも、その五年間の濃さは、普通の人生の何十年分にも匹敵していた。重くて、痛くて、それでも目をそらせないほど眩しい時間だった。
歌いながら、その記憶が胸に押し寄せる。
初めて仲間が死んだと知ったとき。喉が凍りついて、息が吸えなかった。その感覚はいま思い出しても胸が締めつけられる。
仲間の情熱。覚悟。笑顔の裏に隠れた恐怖。それでも前だけを見据えていた姿。
全部、眩しすぎだった。
歌い終えると、公園の静けさが胸にじんわり染みていった。葉っぱの揺れる音が、戦場の残響をゆっくりと洗い流していくみたいだった。
あの世界はもうどこにもない。けれど、そこを生きた自分だけは、ここにいる。前に進むための傷跡として。今を生きるための静かな重みとして。
私はもう一度、短く深い息を吸った。
そして、歩き出す。今の私は、高校へ向かう16歳の女子高生だ。ただその事実だけが、今の私を優しく現実へ引き戻してくれる。
その瞬間に。
唐突に、世界から音が吸い出された。
鳥のさえずりも、風が枝を揺らす音も、ぷつりと途切れる。ただ静かになったのではない。まるで録音テープを無理やり停止させたような、耳の奥がツンと痛む不自然な真空状態。
平和な公園の空気が、一瞬にして重苦しい鉛のように変質する。
異変に気づいたのは、前世の訓練のおかげだ。今は平和な現代日本に住んでいるとはいえ、16年程度では実戦で培った感覚は鈍りきらないらしい。
私は反射的に背筋を強張らせ、意識を“日常”から“戦場”へと強制的に切り替えた。
公園でいちばん太い木の陰に背を預ける。耳を澄ますと、真空の向こう側から、かすかな爆ぜる音と、金属がぶつかる音が漏れてきた。
「……誰が戦ってるの?」
久しぶりだから緊張はあったが、パニックはなかった。昔の私なら、一秒も迷わず走り出していただろう。非戦闘員だからね。
けれど、今は違う。平和な生活に溶け込んでしまったせいで、危機感よりも好奇心が勝ってしまった。
音のする方へそっと近づく。そして、目に飛び込んできた光景に、思考が一瞬止まった。
人間と、化け物が戦っている。
人間側は、黒い学ランを着た男子高校生。私と同じ学校の生徒だろう。黒髪は乱れているのに不思議と形がまとまっていて、光を受けるたびに細い艶が走る。そして何より、顔立ちが妙に整っていた。冷たい印象を与えるほど無駄がなく、彫りは深くないのに輪郭が綺麗で、目元がすっと切れ長だ。
黒い瞳は氷みたいに静かで、戦闘中なのに焦りの色がほとんど見えない。
いわゆる“クールで近寄りがたいタイプ”。こんな状況じゃなければ、女子の間で騒がれていても全然おかしくない。
対する化け物は……前世で戦った地球外生命体とは違う。どちらかと言えば、昔話に出てくる“鬼”だ。筋肉の量、肌の色、角。外見は異様だが、前世のエイリアンほど見るだけで吐き気を催すタイプではない。
「陽炎よ、
わが拳に集え
赤き息を灯し、
形を成せ!
急急如律令!」
男子が詠唱すると、人型の炎が浮かび上がり、鬼へ向けて火球を放った。だが鬼は拳一つでそれを打ち消した。
「っ!」
そのまま、鬼の拳が男子へ向かって飛ぶ。反射的に両腕で防御したが、衝撃で男子は木へ叩きつけられた。
「……これ、手伝ったほうがいいかな?」
心の奥がざわつく。助けるべきか、平穏を守るべきか。ここで動けば、私の日常は壊れるかもしれない。
――でも。
鬼が笑いながら男子へ歩み寄るのを見た瞬間、私の意思よりも先に、身体という『ハードウェア』が反応してしまった。
思考する脳とは裏腹に、喉の奥が勝手にキュッと締まる。声帯が戦闘用の波長へと瞬時に調整され、肺が深く息を吸い込む。
それは恐怖による反応ではない。かつて何百回と繰り返した、迎撃のための起動プロセスだ。
無意識のうちに、鼻歌が漏れていた。
歌詞がなくても、意味なんて関係ない。私の力は、歌そのものではなく“込める意思”で発動する。今の鼻歌に乗っていたのは『防御』、そして『出力強化』。
次の瞬間、鬼の拳と男子の間に、異質な光が走った。
それは白い光ではない。淡い青色の光が、幾何学的な六角形のハニカム構造を描き出し、それが高速で連結して『壁』を形成する。
パパパッ、と空中にデジタルノイズのような粒子が舞ったかと思うと、鬼の剛腕はその薄い光の膜に阻まれ、硬質な音を立てて弾かれた。
「……なっ!?」
目の前に展開された、呪術とは明らかに異なる理(ことわり)の盾。男子の目が驚きで見開かれた。
しかし、彼の戦闘センスは本物だった。驚愕を一瞬で飲み込み、生まれた隙を見逃さない。
彼が放った次なる火球は、私の歌によるバフ(強化)を受けて、先ほどより明らかに大きく、力強く燃え盛っていた。
火球は直撃し、鬼は轟音と共に倒れた。
胸の奥で、張り詰めていた糸がふっと緩む。
よかった。そう思った瞬間には、もう次の現実が押し寄せていた。
男子は周囲を鋭く見回し、まるで獣みたいに気配を探り始める。その視線の鋭さに、背筋がぞわりと粟立った。
「そこから動くな。お前、何者だ?」
……うん、何その敵意は、こちらが手伝ったのにね。先に逃げた方が良かったか。
頭の中で、前世の自分が呆れ顔で腕を組む。“何やってるのお前は”って。昔なら一秒もかからず姿を隠して、戦況が落ち着いたら撤退――その判断が反射みたいに出ていたはずだ。
だけど今世の私は、平和のぬるま湯にすっかり浸かってしまった。人が死なない毎日。爆音の響かない空。何かの視線を警戒しなくていい生活。
判断が遅れたのは、そのせいだ。それがほんの少し、悔しい。
諦めて姿を現す。
「敵ではありません」
なるべくゆっくり、両手を上げて木陰から歩き出す。心臓はドクドクしているのに、表情だけは落ち着いている、これは前世で身についた“癖”だ。
「……本家の人間か?」
「本家? よく分かりません。ただの通りすがりの女子高生です」
“本家”って何。言葉の意味より、その問いかけの“断定の仕方”のほうが気になる。敵意というより、疑念に染まった声。信じるよりも疑う方が自然になってしまった、そんな生き方。
少しだけ、胸がきゅっとした。
「そこから動くな。……お前、何者だ?」
低い声だった。感情を抑えているのに、疑いが刺さってくる。
私は両手を上げ、木陰からゆっくり出た。
「敵ではありません。ただの通りすがりの女子高生です」
彼の黒い瞳が細くなる。
「……本家の人間なのか?」
「本家? いえ、本当に意味が分かりません」
一瞬の沈黙。彼は視線を逸らさず、静かに告げた。
「嘘だな。俺が張った人祓いの結界を、一般人が越えられるはずがない」
「結界……? そんなもの、知らないです」
「惚ける気か。俺の動きを監視して尾けてきたんだろう」
そこで、私は小さく息を吐いた。
「監視なんてしてません。私はただ……度々ここに寄り道してるだけです」
彼は言葉の裏を探るように私を見つめる。その視線は鋭いのに、不思議と焦りの色はなかった。ただ、長い時間を“疑い続けてきた人間”の目をしていた。
続けても良いか迷いながら、私は丁寧に名乗った。
「私は佐藤ゆい。今日から星川私立高校の一年生です」
彼のまつげがわずかに揺れる。けれど表情は変わらない。
「家もこの近くなので……この公園は私の休憩場所なんです。これで……納得してもらえますか?」
彼は黙ったまま数秒ほど私を見つめ、それからゆっくり視線を外した。
攻撃する気配はない。追ってくる気配もない。
それだけで十分だった。
私はくるりと背を向け、公園の出口へ歩き始めた。胸の奥ではまだ軽い緊張が波のように揺れている。けれど、その緊張を押し広げるように朝の光は明るく降り注いでいた。
――とにかく学校へ行こう。今日の私は、高校一年生。その役割だけは、誰にも奪わせない。
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