第2話 3度目の人生の日常

太陽の光がやわらかく頬をなで、まぶたの裏がじんわりと白く染まった。


外からは、小鳥たちのさえずりが途切れることなく続き、どこかで風に揺れる枝がこすれ合う、かすかな音が混ざる。目を開ける前から、世界がゆっくり動き始めているのが分かった。


私は――佐藤ゆいは、光に押し上げられるようにまぶたを持ち上げた。布団の温もりが背中に貼りついて離れず、もう少しだけここにいたい気持ちになる。


「朝かぁ……」


声に出すと、まだ眠気の残る喉のざらつきが、逆に心地よかった。薄いカーテン越しに差し込む光は、部屋の埃を金色に染めて舞わせている。


重たい腰を上げて窓に近づく。金属のレールに触れた指先が、ひやりとして少し跳ねた。ゆっくりと窓を開けると、4月の春風が、ふいに頬へ触れてくる。


冷たさと、ほんのり土と草の匂いが混ざった空気。ほのかに花粉の苦い香りもして、鼻の中が少しくすぐったい。


「寒くて気持ちいい……」


窓から流れ込む風は、寝起きでぼんやりした頭をそっと撫でて、少しずつ覚醒させていく。ふっと息を吸い込むと、近所の家から朝ごはんの匂いが漂ってきた。焼き魚の匂い、味噌汁の湯気を思わせる香り。生活の音と匂いが、町全体からじわじわと寄せてくる。


私は肩と背中をぐっと伸ばした。骨が軽く鳴って、その音が妙に老人らしくて、少し笑ってしまう。


「ん~……久々に前世の夢を見たね」


口の中には寝起きの乾いた味が残っているのに、夢の余韻だけははっきりしていた。あの宇宙の冷たい光、その奥で響く金属の振動……。思い出したくなくても、身体が勝手に覚えてしまっている。


今世の私は、どこにでもいる普通の女子高生だ。

普通の家族に生まれ、普通に16年間を生きてきた。でも、完全な「普通」には、どうしてもなれない。


前世と前前世の記憶を抱えたまま、この世界に生まれたからだ。


ベッドの端に腰を下ろし、指で布団のしわをなぞる。布団の繊維が指先にざらっと触れ、その感触が妙にリアルで、この世界の“生きている感覚”をもう一度確かめたくなった。


窓から吹き込む風が、素足の脚を冷やす。鳥の声がだんだん増えていき、朝が本格的に始まる気配がする。春独特のやわらかな太陽の匂いが、少しずつ部屋に満ちていった。


私は深く息を吸う。今世の空気は、宇宙船の再利用フィルターの匂いとはまったく違う。温かくて、生きていて、ちょっと湿っている。


「……いい朝ですね」


ひとりごとのように呟くと、胸の奥に乗っていた思いが軽くなっている気がした。前世の夢の冷たさを、春風がそっと追い払ってくれるようだった。


この温度、この匂い、この音。五感すべてで、私は“今の世界”に戻ってきていた。


そして、静かな部屋に一人で座りながら思う。この穏やかな朝に身を委ねられることが、どれだけ贅沢で、どれだけ幸せかと。ほんの少し泣きたくなるくらいに。


春の光は、まっすぐに新しい一日を照らしている。それは、私に「ここに生きているんだよ」と伝えてくれる、優しい追い風だった。


前世の私は未来世界で生き、『歌姫』として地球外生命体との戦争に参加していた。あの世界の空気は冷たく乾いていて、歌うたびに胸の奥が少しずつ削れていくような感覚があった。


15歳の私は、仲間たちの声と爆発音の響く中で、敵の待ち伏せに遭って――そこで命を落とした。あの光景は、今でもまぶたの裏に焼き付いて離れない。声を振り絞る仲間の姿、艦内を揺らした最後の振動。忘れたくても忘れられない、一度きりの人生だった。


前前世では、平凡なサラリーマンの男だった。毎朝コンビニでコーヒーを買い、満員電車にもまれ、会社の人工的な灯りの下で日々をこなすだけの、ありふれた大人。事故であっけなく命が終わったとき、「こんな終わり方か」と自分で思うくらい、特別な出来事は多くなかった。


けど今振り返ると、その「何もない日々」は、意外なほど温かい。夕暮れのオレンジ色、冬の風の匂い、背中に残った疲労の重み――ひとつひとつが、失ってからようやく、大切だったと気づけるものだった。


今世の私は、その二つの人生から恩恵を受けて生きている。


前前世で得た社会人としての常識や落ち着き。そして前世で身につけた、『歌姫』としての経験と力。


未来の技術によって魂そのものがいじられ、強化され、その力は輪廻を越えて今も静かに息づいている。ただ、その歌姫の能力は“誰かを支えるための力”であり、戦場でしか輝かないものだ。


ふと、胸の奥にひっかき傷みたいな違和感が走った。「今の私は歌姫じゃない」と頭では分かっているのに、どこかでまだ“戦場の私”が息をしている気がした。


その感覚を確かめるように、私はゆっくり立ち上がり、部屋の隅にある姿見の前へ歩く。


鏡の中には16歳の女子高生が映っていた。腰まで伸びた黒髪には、光に触れると薄い茶色が混ざり、ゆるやかに揺れている。顔立ちは……自分で言うのも変だけど、“平均的”だ。


前前世の私から見れば、可もなく不可もない、街中を歩けば埋もれてしまうような顔。けれど、どこか疲れたように下がった目元だけは、妙に人生を悟ったみたいに落ち着いて見える。


「……これが、今の私」


鏡の前でつぶやくと、自分の声がほんの少し遠く聞こえた。長い髪を指ですくと、さらりと流れる感触がやけにリアルで、けれどどこか借りもののようでもある。自分と一致するようで、まだほんの少し一致しきれていないそんな微妙な距離。


着ているのは、ヒヨコ柄のパジャマ。ゆるっとした黄色の生地が腰のあたりでふわりと揺れて、思わず苦笑する。

前前世の私はスーツしか着ていなかったし、前世は軍服とステージ衣装ばかり。だからこんな「ただ可愛いだけの部屋着」は、どう扱っていいかいまだに慣れない。

なのに、鏡の中の私はどこか満ち足りた顔をしていた。疲れているのに、満足しているような、静かな幸福を抱えた目。


「……変なの」


そう言いながらも、胸の奥の違和感は少しだけ薄くなっていた。鏡の中の私が、ようやく“生活の中にいる人間”の顔をしていたからかもしれない。


もう一度、深く息を吸って鏡から離れる。


けれど今世は――20XX年の現代日本。

その事実は、ほっとするような安堵でもあり、胸の奥がひりつくような寂しさでもある。


「さて、今日は入学の日だから準備しないとね」

自分に言い聞かせるように、小さく声を出す。前世では訓練とレッスンと戦闘ばかり。休むことを許されず、未来を想像する余裕なんてなかった。


だから転生したと分かった瞬間、私は心の中で決めたのだ。今度こそ、ちゃんと“生きる”って。ゆっくりと、誰かのためじゃなく、自分のために人生を味わうって。


こんなふうに、私はこの16年間を過ごしてきた。そして今日、4月8日でいよいよ高校生になる。


制服の袖を通すのも、通学路を歩くのも、教室に入るのも、全部が新しい。昨日の夜、早く寝たのは、その初日を丁寧に迎えたかったからだ。


台所で朝ごはんを用意する。トーストを焼く香ばしい匂い、じゅっと音を立てる目玉焼き、シャキシャキのサラダ。そしてブラックコーヒー。その苦味だけは、前前世から変わらない、私の朝の“目覚まし”だ。


前世でも、戦場に出る前にほんの一口だけ飲む習慣があった。口の中に広がる苦さが、不思議と心を落ち着けてくれる。


「いただきます」


椅子に腰をかけて、ひとりで静かに朝食をとる。けれど、その静けさが今の私にはどこか心地よい。


実は、私が中学生になってからずっと一人暮らしだ。両親が海外で働くことになり、私を連れて行くかどうか迷っていた。けれど当時の私は、日本に残りたい気持ちが強くて、「一人暮らししたい」と、自分の言葉で説得した。


幸いなことに、両親は私の願いを聞いてくれて、一人暮らしを許してくれた。あれから、もう3年が経つ。


未来とは違い、現代の技術はそれほど便利ではなくて

、最初の頃は戸惑うことも多かった。それでも――この少し不便な生活が、思っていた以上に楽しかった。そんな日々のおかげで、今の私は家事も掃除も、特別なことのように構えず、当たり前みたいにこなせるようになっている。


朝食を終えて皿を洗い、身支度を整える。今世の我が家は、中流家庭の2階建てバンガローで、小さな庭がある。休みの日には、その庭の手入れをするのが好きで、いまでは色とりどりの花が咲いている。



前前世は男だったから花に興味はなかったけれど、前世では宇宙生活ばかりで草一本見るのも珍しかった。だからこそ、この小さな庭がたまらなく愛おしく感じられる。


玄関で靴を履きながら、小さく「行ってきます」と呟くと、自分の声が少しだけ弾んで聞こえた。冗談のつもりで“引退生活”なんて言ってみたけれど、本当はこの平穏が何より大事だ。


もう誰も消えない世界で、私は今日という新しい一日を始める。


外に出ると、朝のひんやりした空気が頬を撫でていく。その冷たさが、まるで「おかえり」と優しく迎えてくれているようだった。


前世の環境の影響で今世の私は自然を好きになった。毎朝、自分が育てた花を見ると、心がふっと癒される。ちなみに家の裏には小さな野菜園もある。おかげで、家の掃除も含めて今世の生活はかなり充実していて、未来の便利な生活を恋しがる暇すらなかった。


「太陽の下を歩いて木々と自然が目に入ると気分がよくなるね。それに、この時期の桜は何度見ても飽きないな。今週の土曜日に花見しようか」


今後の予定をぼんやり考えながら、街並みを眺める。前世では、ほぼ宇宙船の廊下ばかりだった。窓の外に広がっていたのは宇宙と、他の戦艦の群れ。船内には未来の技術で地球の映像を映すホログラム空間があったけれど、本物ではないから、どれだけ眺めても物足りなくて、むなしく感じるだけだった。


それに戦争中だったから、あの地球外生命体と戦うことも多かった。あのエイリアンたちの見た目は本当に酷くて、一般人が見たら一発で吐くと思う。魚と虫が合体して宇宙で生きる、嫌な化け物。


個体の大きさもバラバラで、一番小さいものは犬のドーベルマンくらい。記録に残る最大の個体は、宇宙大戦艦の2~3倍。その宇宙大戦艦の大きさは、現代のアメリカ最大の空母の5倍のサイズだ。


……どうして、あんな巨大生物が存在できるのか。しかも生物なのにレーザーを撃ってくる。理不尽の塊だ、あいつらは。


「うん、この流れの思考は止めよう。前世は前世、今世は今世」


こめかみを揉みながら、深く息を吐く。気づけば、昔の感覚に引っ張られていて、胸の奥が少し重くなっていた。あれはあれ、これはこれ。そう区切らないと、せっかくの朝の空気まで曇ってしまう。


前前世と前世の記憶はあっても、引きずらないほうがいい。前世では前前世を受け入れたのだから、今世では前世も受け入れればいい。ゆっくりでかまわないから、今の自分を少しずつ中心に置いていけばいい。


「今の私は16歳の女子高生だ。普通の女の子だ」


言葉にしてみると、自然と肩の力が抜けていく気がした。


けれどあの激戦だけは、16年経っても忘れられない。あの時、背負った覚悟と、仲間たちの思い。死に向かって走っていった戦友たちの姿。もう二度と会えないと分かった瞬間に胸を刺した、あのさみしさ。今でも痛む。

時々、あの頃の爆音や仲間の笑い声がふと蘇る。何気ない仕草まで思い出してしまって、胸の奥がぎゅっとなる。あの宇宙の光景も、あの甲板の匂いも、忘れたくても身体がしっかり覚えている。


転生できたことは、きっと救いだったのだと思う。でも、その救いと同じくらい、大切なものを置いてきた。

失ったものは戻らないし、何もかもきれいに割り切れるほど、私は強くない。


それでも――今を生きる以上、前に進まなきゃいけない。頭ではちゃんと分かっている。分かっているけれど、やっぱり……本当に、寂しい。


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