3、[弟]市場にて

 木の皮で編んだ平坦な屋根が揺れている。それが倒れてこないよう、木の棒にしっかりとくくりつけてから、ムルク・ヤクシンは母のほうへと振り返った。


「終わったよ、母さん。大雨でも降らない限り、倒れてくることはない」

「ありがとうヤクシン。大雨どころか雨なんて、数か月は降っていないからね。しばらくの間は大丈夫だろう」

「次の月は雨が降るって、王さまは言っているようだけれど」


 ムルク・ヤクシンの手をとり立ち上がった母は、わざとらしく顔をしかめた。


「そんなお告げ、信じられるかい。去年も、前の年も、地面をちょろっと濡らしていっただけじゃないか。トウモロコシも獲れないし、水を飲むのもひと苦労だし、王さまは何を考えているんだろうねぇ」


 それは生け贄になるはずだった己が生きているせいではないか、という言葉をムルク・ヤクシンは辛うじて飲み込んだ。王に捧げられるはずだった己の命を、危険を冒して守ってくれたのは他ならぬ母である。母の判断を疑うような言葉を告げられるほど、ムルク・ヤクシンは恩知らずではなかった。

 とはいえ変な沈黙ができてしまったのは確かで、ムルク・ヤクシンは無理やり話を変えようと市場が立ち並ぶ通りに目をやる。木の皮で編んだ屋根を、太い枝で支えた簡素なつくりだ。同じ空間が、何十、何百と立ち並んでいる。色とりどりな織物を敷いた上に座った母が家で作った道具を売り、代わりに食べ物やら衣類やらを手に入れてくるのがこの場所なのだ。


 多くの人が集まるからこそ、ものを盗んだり壊したりする不届き者が時折現れる。それを防ぐため、見回りをするのがムルク・ヤクシンの仕事だった。加えて彼は、最近腰を悪くした母を家へと送り迎えするようにもなっている。気丈な母は行きは大丈夫だと、一人で行くことも少なくない。しかし帰りの時間になると腰の痛みが増すようで、迎えは歓迎してくれる。それがムルク・ヤクシンにとってささやかな喜びだった。


「でも、市場はまだすごく人が多い。これだけものを売り買いするひとがいれば、まだまだぼくたちも生きていけるよ」

「あれも、これもと言ったらきりがないからね。ヤクシンの言う通りかもしれないよ。でもね、母さんが父さんと結婚する前は、もっともっと人が多かったんだ。母さんの母さんはもっと上手に石の道具を作れたけれど、売れ残ることなんてなかった。でも今はこのざまだよ」


 母は、葉の繊維で編んだ袋をもちあげてみせる。そのなかには、トウモロコシ料理をつくるのに欠かせないメタテやマノ、それに日々の生活で入用になる、角をくだいた石の小道具が入っていた。ムルク・ヤクシンは重いそちらを持とうといつも声をかけるのだが、母は「自分が作ったものは自分で持ち運ぶ」といってきかない。仕方なく、より軽いトウモロコシの粉や、織物の材料になる糸などを持つのだった。


「色々な人が住んでいるから、おのおのの暮らしに合ったものを買うんじゃないかな。メタテやマノを使わない人もいるって聞くし」

「たしかにね。あたしらからしたら信じられないけれど。かといって、色々な人に合わせて売るモノの種類を増やすのも手間だしね。結局あたしらは、自分が学んだ道具を作って売るしかないのさ」

「でも、そのおかげで、ぼくたちは毎日ご飯が食べられている」


 最近、母は愚痴が増えたと思う。年老いた大人は愚痴が増えると、同じ守護職につく同僚から聞いたことがあった。ならば、話を聞くのが息子としての務めなのだろう。同僚は結婚して家を出れば愚痴を聞かなくて済むと言ってっていたが、ムルク・ヤクシンの頭の中に、その選択肢はまったくなかった。


 大きさの異なる石が入っているせいで、いびつに膨らんだ袋を母が持ち直す。そのついでといわんばかりにムルク・ヤクシンの顔を見上げてふうっと息をはきだした。


「ヤクシンは本当に欲がないね。もっとやりたいこととか、食べたいものとかないのかい? もっとも、食べたいものは希望に沿えるかわからないけどね」

「ないよ。家族がみんな元気だったら、ぼくは満足」


 みんな、という言葉を強く言ったことが伝わったのだろう。母はしばらく言葉を探すように石を袋越しになぞった。


「あの子のことは、気にしすぎる必要はないんだよ。悪いことをしているとは思っているけれど、ヤクシンのせいじゃないのだから。ヤクシンは、ヤクシンの人生を生きればいい」

「そうは思えないって、母さんがいちばんわかっているでしょ」


 語気を強めたムルク・ヤクシンに、母は黙った。真っすぐ前を向き、袋を持ち直す。これはもう、話しかけても返事がもらえない合図だ。


「……ごめん」

「謝らないで」


 なるべく触れないようにしていたのに、つい言葉が口をついて出てしまった。家族と元気に仲良く生きていきたいというムルク・ヤクシンの思いに嘘はないが、それでも常日頃思っていることというのは、ふとした瞬間に言葉に出てしまう。


 自分を生かすために、姉は活動的な人生を奪われた。


 物心ついたころからぼんやりと抱いている思いは、年齢を重ねるごとに強くなっている。確かに家で会う姉は、明るくおしゃべりで、集合住宅の家々を訪ね歩いて楽しく生活している、ように見える。

 だが、もし姉がもっと堂々と都市を歩ける人生を歩んでいたら。きっと行動力も知力もある彼女は、人々の耳目を集める人気者になっていたに違いない。母のように親の後を継ぎ、市場で淡々とものを売る人生ではない。もっと明るくて、元気で、見ている人に力を与えてくれる存在。そういったものに、ムルク・イツァエはなれたはずだ。


 対して己はどうだ。優れた姉と共に生まれたにもかかわらず、能力はごくごく平凡。メタテとマノを積んだ大袋を担いで丸一日歩きとおせる父ほどの筋力はなく、市場の守護というありふれた仕事を毎日こなしている。

 己を生かすために、姉は自分の能力を抑え込んでいる。ムルク・ヤクシンにはそう見えてならないのだった。

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