STAGE:Ⅲ レーザー・ルール
1
潜入二日目。ゴールデンウイークの二日目でもある。
気持ちのいい朝だった。網戸の窓からは暖かい陽射し、小鳥がチュンチュンとさえずる声、爽やかな風も吹いていた。
できれば、こんな時に来たくなかった……。
まさしく休養地に最適の環境といえる。しかし、現実はゆとりを与えてくれない。
場所は本館の二階、保険室。二台のベッドとカーテンがあり、窓際の方で目を覚ました。
そして、反対側のイスに――ルームメイトの茂木が腰かけていた。
服装は体育着の半そで短パン、不満げに頬杖をついている。
「まったく、勝手に抜け出しやがって……さっさと終わらせるぞ」
茂木の目的は聴取だった。銀四郎はすでに昨夜の内容を報告してある。
「これまでの話をまとめると――お前は体育館の調査中、謎の不審者に襲われた。で、抵抗しているうちに……いきなり貧血で倒れ、ここに運ばれていたって?」
「そうだ」
「ふざけんな。何を隠してやがる」
茂木に睨まれても……黙秘をつらぬく。
『体育着』については自分の手で始末をつける。
はあ、と茂木がしかたなさそうにため息をつき……立ち上がる。
「とにかく、おとなしくしていろ。すべてが終わるまでな」
こちらの返事を待たずに出ていった。
嫌われたっていい。アリスたちを、あんなろくでもない話に巻き込みたくない。
保健室にはソファーとテーブルの応接セット、薬や消毒液などが保管された戸棚もある。
しばらくすると、今度は例のジャージ中年がやってきた。
いつものようにうさんくさい笑顔を浮かべ、朝食が載ったトレーをテーブルに置いた。
「見学も自由だから、好きに休むといい」
それだけ言い残し、去っていく。昨夜の件は知らないように見えた。
銀四郎はさっそく朝食を取ろうと、ベッドから起きてソファーに腰かけた。
献立は和食。味噌汁をすすりながら、あのフード少女について考える。
体育着の件で口封じに来たのか……なぜ、とどめを刺さなかったのか。
憶測にしかならない。中断して、朝食を一気に平らげた。
「……ふう」
食欲はちゃんとある。昨夜と比べて、体調も回復している。
実は『体育着』の他に、茂木に黙っていたことがあった。その点を除けば万全だ。
ふと、向かいの棚の上に――小型のテレビが置かれていることに気づく。
ニュースが見たくなってきた。リモコンもテーブルにある。
電源をつけると、ちょうどスタジオのキャスターが喋りだすところだった。
『ゴールデンウイーク最終日に、防犯を想定した『対処訓練』が……都内の『
ぱっと画面が切り替わり、誰もが知る駅の外観が映った。
『訓練には警察だけでなく、大手セキュリティ会社を筆頭に多くの団体も協力しています』
再び切り替わり、様々なロゴやマークが紹介されていく。
画面は最後にニューススタジオへと戻り、キャスターと解説者のトークが始まる。
『熊川さん、どう思います?』
『防犯の見直しは大切ですよ。駅の構内でも、物騒な事件は起きますからねえ……少し前だと、あの――――』
消した。駅のホーム襲撃も、父の暴走の一つだった。
シャワーを浴びることにした。
汗をかいた体やジャージが、昨夜から変わっていないのだ。
しかも体育館でイベント中の今なら、誰かと鉢合わせるリスクを回避できる。
トレー一式を食堂に返し、部屋に戻り、着替えとセットを持って『混浴』に向かう。
男湯でもいいが、教団の大人が入ってくるかもしれない。
これ以上のトラブルは避けたい。引き続き、敬遠されがちな方を利用させてもらった。
ところが、脱衣所に来た途端……ぎょっとする。カゴの一つに白のトートバッグと、真っ黒なパーカーが入っていたのだ。
灰色のスポブラとショーツも一緒。パーカーは間違いなく、あのシステマ使いの服だ。
「……マジかよ」
引き戸からシャワーの水音が聞こえる。つまり、正体を拝めるチャンス。
しかし、銀四郎は迷っていた。襲撃者は女子、混浴とはいえ覗きはよくない。
だったら――顔のみを確認して、すぐ脱衣所を出る。
シャワーは後だ。着替えとセットを抱えて、ゆっくりと引き戸に忍び寄った。
指を伸ばし、ギリギリの隙間をこっそり作る。
後ろめたさを殺しつつ、ついに覗きこんでしまう。
彼女は温泉のシャワーを浴びており、程よく日焼けした裸身を濡らしている。
あいつは……昨日のバスケで活躍していた、小麦肌の『ナナ』という少女。
確認は終わった。だが、離れようとした時に――――異様な現象が起きる。
「え?」
どろり……と、小麦肌の色が落ちていくのだ。髪の黒色も、シャワーが流していく。
その上から、真っ白な素肌と透き通った銀髪が露わになった。
何もかもが、偽装。理解が追いつかないまま、少女の容姿に魅入られる。
髪はボーイッシュなショートカット。勝ち気な瞳も銀色で、鋭く研ぎ澄まされていた。
そして、生命力に満ちた野性的なプロポーション。
すっかり見惚れていた。ゆえに、撤退すべきタイミングを逸した。
「あ」
彼女がシャワーを止め、こちらに歩いてくる。脱衣所に入るつもりだ。
慌てて後ろに下がっても、すでに手遅れ。ガラガラガラ、と引き戸が開く。
素っ裸の銀髪少女と目が合った。
「…………」
「…………」
無言で見つめ合う中――――銀四郎は両手を上げる。
同時に、抱えていた着替えとセットが……どさりと落ちた。
それを皮切りにシステマ使いが動きだす。一気に距離を詰め、得意のストライクで腹部を狙ってくる。
やはり来るか。すかさず迎撃しようとした瞬間――――ふっ、と少女の姿が消えた。
ストライクはフェイント。本命は滑らかなローリングからの足払い。
「ぐっ⁉」
まったく違和感のない動作に、釣られた。
がくん、とバランスが崩される。体が、後ろに倒れていく。
まだだ。銀四郎は上半身を捻り、右肩から床につけ、後ろ向きに回転。
さらに両手を、肩越しに持ってきていた。重心も同じサイドに移していく。
回転とともに立ち上がり、ファイティングスタンスを取る。
バックワードロール。後ろに倒された際、すばやく立て直すためのテクニック。
「こいよ、バトルジャンキー」
しかし、少女はじっとしたまま。なぜか不機嫌そうに顔をしかめていた。
「戦闘バカ扱いすんな。あたしにも気分ってものがある」
「仕掛けてきたのはそっちだろ」
「いきなり裸を見られて、かっとしない女がこの世にいるか?」
「あー、たしかに……」
システマ使いに常識を諭され、おとなしく背中を向ける。
――――数分後。
「もういいぜ」
言われた通りに振り返った。
そこには……白のTシャツと黒のショートパンツに着替えた銀髪少女。
機嫌は直っていない様子で、ギロリと銀四郎を睨んでくる。
「こっちはお前のせいで大変だったんだ。少し、付き合ってもらうからな」
2
結果として、シャワーが後回しになる事態は避けられた。
その代償にまた、面倒なトラブルに巻き込まれたわけだが。
銀四郎は露天の浴場で汗を流しながら、離れた位置に目をやる。
アレはいったい……Tシャツ短パンの銀髪少女が床にマットを敷き、妙なことをしていた。
逆立ち、である。カモシカのようにほっそりとした生脚を伸ばしている。
シャツの裾もずり落ち、へそや脇腹はもちろん下着までちらつく。
いろいろと目に毒な奇行にたまりかねて、声をかけた。
「おい、何してるんだよ?」
「風呂上がりのストレッチ」
無愛想に応えつつ、少女は体勢を変えていく。
ヨガのポーズに柔軟運動と、徹底的に全身をほぐす。
ストイックな姿勢は認めるが、そろそろ本題に入らなければならない。
「なあ、お前はいったい――――」
「とっくに察してるだろ。言ってみろよ」
……『金鵄』は、合宿イベント中の『紅桜』を測定すると説明していた。
しかし、アリスたちにその素振りはなかった。
「つまり『測定係』なのか?」
「それだけじゃない。あたしの役割は『エージェントの監視』だ。任務の動向をチェックするために、
「アリスたちが『実行役』で、お前が『見張り役』……趣味が悪いな」
「そっちも、ひどい嘘つきじゃねえか」
少女が再び、逆立ちを始めた。
銀四郎を見上げる格好で、ニヤニヤと狡猾な笑みを浮かべる。
「『紅桜』が悪化したことを、報告しなかった」
「…………」
彼女の言う通りだった。
シャワーに濡れた『紅桜』は今や、二の腕を越えて肩まで侵食している。
「そう硬い顔すんなよ。チクったりはしない」
「黙っていてくれるって?」
「あたしの役割は『干渉』じゃないからな。けど、無条件はダメだ」
「……従うしかない、か。何をすればいい?」
エージェントは逆立ちしたまま、とんでもない要求を口にしてきた。
「マッサージだ」
「――――は?」
「マッサージ。何度も言わせんな、こっちはお前のせいでヘトヘトなんだよ」
「ちょっと、待つんだ」
いったん落ち着きたい。
まずは、引っかかっていた件を問いただす。
「さっきから出てくる『俺のせい』って、どういう意味?」
「昨夜のことだ。あたしはぶっ倒れたバカを運んで、痕跡も消して回った」
たしかに、いろいろと迷惑をかけていた。
「それが納得いかない、と?」
「違う。ここまで来て、まだ思い出せねえのかよ?」
「うーん……」
何かを忘れている気はするものの、具体的な形を掴めない。
そんな姿に少女が、とうとう限界を迎えたらしい。
ビキッ、とこめかみに青筋を浮かべ――感情を爆発させる。
「体・育・館だよ! お前、床にアレをぶちまけただろ!」
「あ」
すっかり忘れていた。ストライクによる衝撃で、吐いてしまったのだ。
彼女は容赦なく不満をまくしたてる。
「ふざけやがって。なんで汚れ仕事のエージェントが、汚物の掃除までしなくちゃいけねえんだよ!」
「なんというか、ごめん……ん? 最初に攻撃してきたのは、そっちだよな?」
「とにかく退屈だったんだ。エージェント同士の私闘も禁じられてるし。だから昨夜、お前と遊ぶことにした」
「え、なら被害者は俺――――」
「あたしだ! 勝手に吐いて、勝手にぶっ倒れやがったお前が悪い!」
少女の顔が赤くなり、ヒートアップしていく。
逆立ちをやめた方がいいのでは、と指摘する余裕もなかった。
「この
エージェント、
吹雪はマットの上でうつ伏せになり、銀四郎は彼女の筋肉を足で踏み、ほぐしていく。
最初は足の裏。軽く踏みつけながら、コミュニケーションを取る。
「どうだ?」
「もっと強く」
ぎゅっと力を加えた途端、少女から……ふう、と満足げな吐息が漏れる。
銀四郎はまんべんなく圧をかけつつ、不平を唱えた。
「おい、吹雪」
「あん?」
「この格好でやるのは、ちょっと……」
「うるせえ。口じゃなくて、足を動かせ」
「はいはい」
しかたなく、マッサージを続ける。
現在の自分は、腰にタオルを巻いただけの状態。
こんな姿の少年がTシャツ短パンの少女を踏んでいるのだ。誰かに見られたらアウトだ。
早く終わらせたい。とはいえ手、いや足を抜くわけにもいかない。
次は、ふくらはぎ。緊張しやすい部位のため、慎重に踏んでいく。
受ける側の吹雪もブリージングで、常に身体をリラックスさせる。システマ式の基本だ。
ほぐしていると、彼女の機嫌もだいぶ良くなってきた。
「んっ……ずいぶん、慣れてるじゃねえか……」
「まあ、たまに『先生』が頼んでくるからな」
「あん?」
「いや、なんでもない」
うっかり口を滑らせたが幸い、少女はリラクゼーションに夢中のようだった。
そして今度は――お尻。まず丈夫な部位である太腿に、両足を乗せた。
緊張はケガに繋がる。ゆっくりとした呼吸を心がけながら、臀部へと移った。
「んんっ……あたしが言うのも何だけど、いいのか? 『紅桜』の件を隠さなければ、元の生活に戻れるのに」
「ああ。ここで引いたら、きっと後悔する」
「例のストレス軽減?」
「それだけじゃない。教団はもちろん、アリスたちのことも放っておけないんだ」
銀四郎は、体を横向きに切り替える。左足をお尻に乗せたまま、右足を胸の裏側に置く。
軽めに力を加えつつ、全体にバランスよく負荷をかけていった。
ぴくん、と吹雪の身が微動する。
「ん、くっ……甘いな。その程度の覚悟だと、いずれ地獄を見るぜ」
「まるで予言者だな。お前も、
「だとしたら、どうする? この場で強引に聞き出すか?」
「やらないよ」
吹雪は強い。今の状況から攻撃される展開も、見越しているだろう。
銀四郎は再び正面を向き、両足を肩甲骨の辺りに移した。
周囲の筋肉をほぐしていくと、少女がくすぐったげに身じろぐ。
「ん、ふっ……テクニシャンめ、こういう搦め手で屈服させようってか……」
「おい、俺は真面目にやってるんだぞ……」
最後に、背中から降りた。仕上げは――だらりと下がっている彼女の腕。
肩、上腕、前腕、手の平、と順番に踏みほぐして終了。
「まあ、これで勘弁しといてやる。ただし、あたしの存在はアリスたちにも秘密だ。共犯者の立場を忘れんじゃねえぞ」
「わかったよ」
やっと、解放される……そう思った時だった。
「じゃあ、次はあたしの『システマ式マッサージ』だな」
「――――え?」
「システマでは、同志とのスキンシップも重要だ。ほら、さっさと交代しようぜ」
「いや、お、俺は……」
「よろしくな――――シロウ」
3
普通に気持ちよかった。昨夜からの疲れがすっかり取れた。
新しいジャージに着替えて『混浴』を出る。吹雪は『ナナ』の偽装を体に施すらしい。
あのどろりとした迷彩だ。手伝わされそうになったので逃げてきた。
「ふう……」
部屋に戻り、ベッドの下段に倒れこむ。
時刻は午前の十時。アリスたちもまだ活動中だろう。
こちらものんびりしていられない。さっそく起き上がり、見学へ向かうことにした。
体育館では、『室内ホッケー』が行われていた。
銀四郎は舞台の縁に腰かけた。しばらくすると、タカキが近づいてくる。
「よう、シロウ。試合に不参加なのが残念でならないぜ」
もう立ち直ったのか。オールバックの少年はふてぶてしい態度で、隣の縁に寄りかかった。
むろん、話をしたい相手ではない。無愛想に先を促す。
「何の用だ?」
「これから楽しいショーが始まる。一緒に観戦しようじゃないか」
「ショー?」
意味を聞いても、タカキは何も言わずにニヤニヤ笑うのみ。
また、バカなことを企んでいるようだ。とりあえず放っておき、コートに目をやる。
こちら側に立つのは貞乃のチーム。対する相手には、かなりの巨漢がいた。
たしか、昨日はいなかった。
肉食獣を思わせる荒々しい顔立ち、盛り上がった筋肉が暴力的な威圧感を放つ。
半そでの名札に『ガリュウ』と記されている。
何者だろう……銀四郎の疑問に答えるように、タカキがしゃべりだす。
「あいつはオレの懐刀ってやつさ。単細胞だが、強いパワーと広いコネを持つ。飛び入り参加で来てもらったんだ。当然、ラフプレーもできるぜ」
見え透いた魂胆だった。
「貞乃を痛めつけるつもりか。これはホッケーだぞ。スティックで殴りかかれば、さすがに退場させられる。そんなこともわからなくなったか?」
「言ったはずだ、あいつのコネはでかい」
タカキが体育館の壁際を指さす。
ジャージ姿の信者たちが待機している。その一角に、異質な存在がいた。
ガリュウと似た顔、体格は本人より一回り大きい。きっと偶然ではない。
「お察しの通り、ヤツはガリュウの親父さん。裏で不祥事を重ねてきた、元教師だ。バレてクビになったところを、教団が拾ったらしい」
ガリュウの父は下品な笑みを浮かべながら、ブルマ姿の女子にちょっかいをかけていた。
アリスや姫子がいくつか防いではいるものの、彼は離れた場所で何度も繰り返す。
息子にも受け継がれた獰猛な迫力に、誰もが委縮してしまっていた。
不祥事の内容は一目瞭然だ。タカキが得意げに語り続ける。
「利口で生意気な女は力ずくでねじ伏せる。さあ、屈辱のショーが始ま――――」
「黙ってろクソ野郎」
怒りを通り越して、冷めきっていた。
ピーッ! と、開始のホイッスルが鳴り響く。
先攻はガリュウ。彼がスティックでボールを転がし、一気に突っ切る。
パスをするタイプではないのだろう。仲間の二人は距離を取っていた。
ガリュウはゴールに向かわず、貞乃の方へ突進していく。彼女のチームメイトも蜘 蛛の子を散らすように、逃げ去った。
無理もない。銀四郎の時と同じだった。結局、自分の身は自分で守るしかない。
巨漢が重戦車のごとき勢いで来ようと、黒髪の少女は後退しなかった。
静かにスティックを構え、冷ややかな目で敵を見据える。
そして、両者が間合いに入った。
まず動いたのはガリュウ。シュートを打とうと、両腕を大きく振り上げる。
そこに貞乃を巻きこんで、事故を装うつもりだろう。ブンッ! とここまで風切り音が聞こえてきた。
しかし、少女は同じスティックでバシッ! と簡単に逸らす。
以降もガリュウのラフプレーが続くが、貞乃は涼しげに捌いていく。
思うような展開にならず苛立ってきたのか、タカキが声を張り上げる。
「おい、チマチマやってんじゃねえよ! さっさとぶちのめせ!」
ガリュウも焦っていたらしい。スティック勝負を諦め、強引に右のキックを繰り出す。
悪手だった。貞乃がスティックのグリップを右手、先端より少し下を左の逆手で握る。
そのまま先端の付近を使い、下から相手の蹴りをすくい捕り、左手で前方に押す。
「ぬおっ⁉」
ガリュウはバランスを取るために、貞乃に尻を向けつつ右足を着地させた。
――――スティックの形状はゴルフクラブのようになっている。つまり、先端を足にひっかけることが可能。
貞乃はそこから内股に入れ、頂点まで跳ね上げる。
頂点とは……金的。
その瞬間――――声にならない絶叫が、体育館を震わせた。
試合はいったん中断となった。
白目を剥き、泡を吹いたガリュウが信者たちに運ばれていく。
父親もいた。彼は貞乃を睨みつけながら体育館を出た。
……感心せざるを得ない。彼女はガリュウの巨体を巧みに利用し――審判や観客、信者のカメラから動作を隠したのだ。
そしてガリュウの性格上、女子に負けた事実は話せない。
まさに完全犯罪。オールバックの少年があんぐり口を開け、ぽかんとしている。
おそらく、今の半棒術を目にできたのは彼と銀四郎だけ。そこも計算済みだろう。
読めていた結末だった。タカキにあれこれ聞かれる前に、こちらも退散する。
試合の再開とともに舞台から降り、体育館の出入り口へと向かう。
その途中、もう一つの試合が気になって足を止める。
江野だ。茶髪サイドテールの後輩は……転んでいた。いや、正確には転ばされていた。
相手チームの男子たちがスティックで足を引っかけているのだ。
昨日、貞乃がコテンパンにした不良グループ。パーマ、金髪、スキンヘッドの三人組。
彼らは江野が転ぶ様子を楽しげに観察する。ブルマ姿に興奮しているのか、ひたすら鼻息を荒げていた。
チームメイトたちは何もせず、ただバツが悪そうに距離を取るのみ。誰も逆らえずにいた。
再び、不良たちが仕掛けた時――――ふいに、江野の動きが切り替わる。
彼女はスティックでバシッ! バシッ! と、攻撃を捌き始めた。
見覚えのある動作だった。スキンヘッドがしびれを切らし、右キックを繰り出す瞬間まで。
「あ」
江野はスティックのグリップを右手で握り、先端より少し下を左の逆手で握った。
そして――――さきほどの『金的潰し』が
哀れな不良は絶叫すらできず、ゆっくりと前に倒れこむ。
残る二人は顔を青ざめて後退し……逆に、江野が迫真の演技でスキンヘッドに歩み寄る。
もう十分だった。銀四郎は背を向けて、体育館を後にした。
身の守り方は人それぞれである。
4
ホッケーも、ちょうどお昼ごろに終わった。すぐに腹をすかせた生徒たちが食堂に殺到するだろう。
それを見越して、一足先にランチを済ませた。体の調子は良くなってきている。
午後には復帰できる。昼の自由時間……銀四郎は暇を持て余し、本館の二階を歩いていた。
だが、途中で足を止める。あの保健室の前だった。学校のものと同じ引き戸の窓に、人影がぼんやりと映っている。色は赤、女子のジャージである。
顔はわからないものの、戸棚を漁っているのは間違いない。目的も察しがつく。
迷わず開け放つ。中にいた少女――貞乃がびくりと身を震わせる。彼女は錠剤を 詰めた瓶を手にしたまま、呆然と立ち尽くしていた。
その間に近づき、瓶を取り上げる。
はっ、と少女が我に返った。
「ちょっと――――」
「『ニトログリセリン』だな。心臓でも悪いのか?」
貞乃はむっとした顔で睨んでくる。
「とぼけないで。知識があるから気づけたんでしょ」
彼女の言う通りだった。
ニトログリセリンは心臓病の薬だけでなく火薬にも用いられる。むろん、医薬品の方は爆発しないよう厳重に加工されている。
けれど『八咫烏』のことだ。どうせロックを解除する裏技も、細かい計算も教えている。
教団は生徒のスマホを没収し、荷物のチェックにも目を光らせていた。
武器は茂木や貞乃のように、工夫して作るしかない。
「戦う手段としては正しい。でも、火薬はやり過ぎだ」
「奴らが祭りで何をしようとしたのか、もう忘れたの? 生半可な火力じゃ、返り討ちにされる」
「だからって……」
「コントロールくらいできるわ。爆弾魔やテロリストと一緒にしないで」
「……信用できない」
八咫烏は何か、重要な情報を隠している。エージェントも口止めされていた。
彼女もこちらをじっと見つめ、返せと圧をかけるのみ。
銀四郎も引かない。互いに視線をぶつけ合うこと数分――――根負けしたのは貞乃だった。
「じゃあ、ヒントをあげる。それなら命令に抵触しないし」
「どうしても言えないのか?」
ええ、と少女がうなずく。
「これは、あなた自身が気づかなくちゃいけない問題よ」
「俺、が?」
彼女はそこについては触れずに話しだした。
「まずはおさらい。シロウくんは教団の企みを暴くために、私たちと潜入している。けれど『紅桜』の都合上、暗殺を止めなければならない」
「自己責任による妨害はオッケー、だしな」
「どう考えても変でしょ」
ばっさりと、貞乃が切り捨てる。
「『金鵄』の言い分は私たちも聞いた。教団がヨガと称してクラヴマガを教えてる、同じ使い手なら意図を見抜けるかもしれない。でも、それがシロウくんである必要は?」
「俺もおかしいとは思ったけど、他に理由なんて――――」
「私たちの邪魔まで許されてる点は?
たしかに、振り返ってみると違和感だらけだ。
しかし……今の銀四郎は紅桜に抗いながら、戦っていくしかない。
暗殺を阻止し、教団のもくろみも潰す。無血の解決こそが理想だった。
不安定に揺れる銀四郎に、貞乃は次のヒントを突きつける。
「そして、シロウくん――――あなたは大事なことを見落としてる」
「え?」
「答えは、あなた自身の中にある。私に言えるのはここまでよ」
……わからない。ただ、本当に何の引っかかりも感じなければ――こうして、戸惑うことはないはず。
あの『金鵄』との賭けまで放棄し、引き際を越えることもなかっただろう。
つまり、心のどこかに納得できない自分がいる。
そこをはっきりさせない限り、銀四郎は情報の差に置いていかれたままになる。
そんな時に、思考を中断せざるを得ない事態が発生した。
廊下からの足音や談笑の声だ。ここに近づいてくる。
この状況を見られたら、怪しまれてしまう。さっそく身を隠すことにした。
保健室には二つのベッドとカーテン。銀四郎は窓際の方を選び、カーテンを閉める。
布団に潜りこむと、なぜか貞乃も入ってきた。少女が上になる格好で、二人は横になった。
「お、おい」
「ニトログリセリンの瓶、持ったままでしょ」
「後で返すよ」
「だめ。今、ここで返してもらう」
彼女は譲らない。銀四郎がどさくさに紛れて、逃げだすことを危惧しているのだろう。
少女が手を伸ばし、瓶を取ろうとする。
――――貞乃は重要なヒントをくれた。信じてもいいのではないか。
いや……やはり火薬を渡すことなんてできない。銀四郎は瓶を遠ざけた。
彼女は、軽蔑を込めたジト目で見下ろしてくる。
「何のつもり?」
「武器を作りたいなら、俺も一緒に考える。こんなものは使うべきじゃない」
「……前に言ったわよね? 私、偉そうに説教する男は嫌いだって」
少女の瞳が徐々に冷たい殺気を帯びていく。
ところが、そこで保健室の引き戸が開き……誰かが入ってきた。
貞乃も目撃されることを好まない立場だ。息を潜め、おとなしくするしかない。
彼女がぴたりと身を寄せてくる。赤ジャージ越しに柔らかな感触が伝わり、慌てて意識を入室した存在に集中させた。
ずかずかと荒っぽく床を踏み鳴らす、足音が二人分。不良たちの可能性が高い。
やがて、会話が聞こえてきた。
「なあ、タカキ。本当にあるのか?」
「ここは普通じゃないからな。どれどれ……」
一人はオールバックの少年、もう一人はガリュウだろうか。妙に気弱な声を発している。
どうやら、貞乃と同じく棚を漁っているらしい。
「ほら、あったぜ。ていうか、薬でどうにかなる問題じゃねえよ。さっさと病院に行け」
「ここは山奥だろ」
「自慢のコネを使えば――――」
「女の子に負けたってことで、親父はカンカンだ。他の奴らも笑ってばかり。なにもしてくれねえ」
「……クズ教師とその取り巻きだもんな。良識を求める方がおかしいか」
体育館での振る舞いと違う、砕けた調子だった。
今なら重要な情報を拾えるかも、そう思った矢先――ふと、瓶を持つ手に違和感を覚える。
反射的に位置をずらす。ちっ、と悔しげな舌打ちが聞こえた。例の二人ではない。
貞乃だ。こっそり手を伸ばしていた。鋭い目つきで瓶を狙っている。
こんな時に……銀四郎は苛立ちながらも、必死に瓶を守る。
一方、水面下の戦いなど知らない二人のトークは続く。
「タカキ、お前……変わったよな」
「あん?」
盗み聞きの余裕はなかった。
銀四郎が瓶を頭上の辺りに移すと、貞乃はよじ登ろうとする。
その華奢な背中を、もう片方の手で押さえつけ――ぎゅっと抱きすくめた。
「前よりずっと……誰かを騙したり、陥れることにもためらいがなくなった。ブレーキが取れちまったみたいに」
「いいんだよ。あの人――――『先生』は、ズルやイカサマしか能のないオレを肯定してくれた。そもそも、お前が会わせたんじゃねえか」
「親父がうるさかったんだよ。不良のガキをとにかく集めろって」
黒髪の少女が逃れるために腰を上下させた。ギシギシとベッドが軋み始める。
そして二人は――はあ、はあ、と激しい息遣いとともに体をぶつけ合う。
いつしか全身が汗ばんでいた。貞乃の額からも、透明な雫がしたたり落ちる。
「おい、あのベッド――――」
「そっとしといてやれ。保健室で盛るなんて、よくある話じゃねえか。行こうぜ」
彼らはとんでもない誤解をしたまま、去っていった。
戸が閉まる音と同時に、貞乃はとうとう拘束を振りほどき、大きく身を乗り出す。
この瞬間――彼女の胸と腋の中間が、顔面を覆いつくした。
「…………」
アリスや姫子ほどではないものの、たしかな弾力に圧迫され、甘酸っぱい柑橘系の香りが鼻をくすぐった。
おそらく、制汗スプレーだ、ホッケーの後に吹きつけたのか。
生々しい匂いにくらくらしてきた。脳裏に『先生』の言葉がよぎる。
『銀四郎くん、女の子は大変なのよ。汗をかくと、胸の谷間にも溜まっちゃうんだから』
その時の彼女はえっへんと、スタイル抜群のプロポーションを誇示していた。
そこそこの貞乃も、いろいろと気にする年頃だったらしい。
少女は瓶を取り返し、ベッドからするりと猫のように脱出、保健室から逃げてしまった。
「ま、待て!」
銀四郎も廊下に出たが、すでに遅い。いるのは何人かの生徒に、青ジャージを着た教団の大人だけだ。
しかし、信者たちは妙な人物を連れていた。
スーツ姿だ、珍しい……一目でどこかの重役とわかる、厳めしい顔つきの中年男性。
胸元に社章のバッジをつけており、ロゴにはなんとなく見覚えがある。
彼は物珍しそうに周囲を眺めつつ、信者たちと歩いていく。
……何者だろう。教団のメンバーとは思えない。疑問に囚われたまま、立ち尽くした。
5
昼休みが終わると、生徒は体育館に呼び出された。
銀四郎たちは半そで短パン、またはブルマの体操服で整列。おなじみのジャージ男がステージに立ち、説明を始める。
「今回は『座学』と『ヨガ』の時間を使って、ちょっとしたゲームを行う。テーマは、ずばりコレだ」
彼が懐から何かを取りだす。生徒たちはそれを見た途端、ざわめきだした。
その正体は――――『拳銃』だ。トリガー一つで命を奪える、黒い殺意の塊。
「おっと、誤解しないでくれよ。こいつはモデルガンだ」
中年の言葉はあっさり受け入れられ、誰もが安心しきる。
むろん嘘ではない。銃口に埋めこまれた金属板『インサート』が証明している。
モデルガンの悪用や改造を防ぐためだ。付けることを義務づけられている。
無理に外そうとすれば本体が壊れてしまう。アリスたちも見抜いているだろう。
揺さぶりのつもりか。だとしたら、なめられたものだ。
この程度でボロは出ない。冷静な思考を保ちつつ中年の話に集中する。
「知っての通り、日本(ここ)で銃を持つことは違法だ。けど、もしもの事態に備えて――――扱い方や知識を学ぶことは正しい。少なくとも、僕はそう思っている」
あくまで自衛や護身、防犯という建前。
多くの生徒が、敵として教えられた『八咫烏』を意識するだろう。
「とはいえ、いきなり小難しい理屈を覚えるのは苦痛だよね。まずはエアガンに触れて、実際に撃ってみよう。みんなが楽しめるミニゲームの形で」
背後のスクリーンに、タイトルがでかでかと投射された。
名称は『シューティング・ロワイアル』、わりとシンプルなネーミングだ。
「内容はサバゲ―とほぼ一緒。形式はバトルロイヤル、最後の一人になるまで戦ってもらう。そして会場は――――この施設の『裏側』、我々が所有する森一帯だ」
またも生徒たちがざわめきだす。今まで立ち入りを許可されなかった区域だからだ。
期待や不安、他にも様々な感情が渦巻く中……銀四郎も戸惑っていた。
たしかに、サバゲ―にはうってつけのエリアかもしれない。
しかし『裏側』は、後ろめたい部分を隠す教団の生命線でもある。
公開すれば必ずリスクを負う。いったい何を企んでいるのか……。
ゲームの説明が終わると、全員で本館の玄関に向かった。
つくりは学校の昇降口とそう変わらない。靴を履き替えて外に出る。
抜けた先は、広大な駐車場だった。
とめてあるのは……数台のバスと大型バン、昨日はなかった黒の高級車が一台。
コンクリートの地面が午後の強い陽射しを浴び、かなりの熱を帯びている。
肉を焼く鉄板みたいだ……五月の時点でなかなかの暑さ。
青年が前を歩き、彼の後を生徒たちがついていく。
傍目には普通の授業に見えるだろう。だが、ここはカルト教団の『拠点』だ。
正面は厳重なゲートが守り、敷地の四方は五メートルほどの壁が囲んでいる。
そんな、得体のしれない施設。その裏側に回りこむ。
――――中年の言った通り、そこは私有地の森だった。
うっそうと生い茂る木々に、手入れが行き届いた芝生……人に管理された緑の世界。
信者たちもいた。リュックらしきものを運んでおり、一箇所にまとめて置いている。
アレはたしか……強引に地面を転がっても、問題ないという触れこみの人気シリーズ。
ジャージ男が足を止め、ゆっくりと振り返った。
「あの
ニヤリと、彼は不吉な笑みを浮かべる。
そして――――『シューティング・ロワイヤル』がスタートした。
6
薄暗い森林の中を、慎重に進んでいく。
木の幹や茂みだけではない、地形にも凹凸がある。自衛隊の演習場という印象が強い。
それらを利用して……身を隠すことも怠らない。
今の銀四郎は、ザックとともに支給されたセットを装備している。
サバゲ―用のゴーグルをつけ、青色の布を安全ピンで胸元に固定。
そこを撃たれたら、ゲームオーバー。戦いはもう始まっている。
銀四郎の両手にも一丁の『拳銃』があった。腰にホルスター付きのベルトもある。
ペイント弾を入れたエアガン。銃身が金属製だから、間違いないだろう。
しかし質感や仕組み、重量が『本物』そっくりだった。実銃を意識した設計であることは明白。
「――――」
ずっと鳴りを潜めていた共感覚、『銃眼』を喚起させる。
前方、数十メートル先に……銀色の光が三つ。左右の二つとは、まだ離れている。
おそらく交戦中だが、削り合うまで待つのは性に合わない。
銀四郎は駆けだした。もっとも近い、中央の光との距離を詰めていく。
標的は、右手で拳銃を持った少年。彼も気づき、こちらに銃口を向ける。
銀四郎は左側――相手にとっては右側の方から、弧を描くように走った。
少年の脇が開き、狙いが不安定になる。彼は構わずにトリガーを引く。
パシュッ! と、空気が放出された音。ペイント弾は……当たらない。
次は銀四郎。足を止め、両腕を突き出し、体との三角形を意識。
肘をまっすぐに伸ばして、撃つ。
パシュッ! と、再びエアガンの銃声。べちゃりと、相手の胸に赤い染みがついた。
趣味が悪い。ペイント弾の色ではない。布に付着した途端、リトマス紙のような反応が起きるのだ。
まずは一人目。そして、すでに二人目の気配を察知していた。
がさがさ、と近くの茂みが揺れた瞬間――――別の少年が飛び出してきた。
手にはリボルバー。撃鉄は落ちてないが、引き金と連動するダブルアクションなら発砲できる。その銃口が突きつけられた。
避けることは不可能。すかさず左手を伸ばし、リボルバーのシリンダー部分を握りこむ。
トリガーは――――動かなかった。うろたえる少年に、淡々と説明する。
「ダブルアクションのリボルバーはトリガーを引く際、同時にシリンダーも回転する。つまりここを押さえればトリガーも止まる」
ただし、撃鉄が起きている場合は通用しない。
そこは伏せたまま、パシュッ! と右手の『拳銃』で引導を渡す。
三人目は、少し離れた木の幹から。銀四郎はすぐ横に転がり、相手のペイント弾を回避。
ローリング中も、片手による照準を維持した。おかげで間髪入れずに撃ち返せる。
システマの歩法だった。パシュッ! と銃声に続いて、べちゃりと被弾の音。
「ふう……」
脱落者たちが置いていった、スペシャルアイテムを『戦利品』として回収しつつ上を見る。
木々に隠れて浮遊し、こちらの様子を確認する物体が一つ。
カメラ付きのドローンである。このゲームの監視システムだ。
ドローンは余計な羽音を立てず、静かに去っていった。なかなかの高性能と思われる。
「さて、と」
木の幹に背を預けて座りこみ、周囲に気を配りながら考える。
――――ゲーム開始時、生徒たちは三分ごとに一人ずつ森へ入った。
時間の経過からして、すでに全員が戦闘態勢についているだろう。
気になるのは……やはりエージェント。
アリスたちが得意分野のシューティングで手を抜くとは思えない。
この機を逃せば、教祖への道はさらに遠のく。銀四郎も最後まで生き残るつもりだった。
出会ったら戦うしかない……優勝者は一人だけ、『八咫烏』を踏み台にしてでも前に進む。
決意を固めた途端、ぽつぽつと水滴が落ちてきた。
雨だ。徐々に勢いを増していき、ざあざあ降りになった。
「……山の中だからな」
しかし、これは天気雨。すぐに止むだろう。
木陰でやり過ごすことにした。
短い間とはいえ、かなりの雨量だった。木々も芝生もすっかり濡れている。
雨は止んだが、銀四郎はじっとしていた。知り合いの気配を感じ取ったからだ。
二人は幹を挟んで、背中合わせに立っている。
「お前か――――吹雪」
「残念だけど、戦いに来たわけじゃねえ」
わかっている。本来なら会話を挟まずに、容赦なく仕掛けてくるはずだ。
「それがないってことは……」
「今回のあたしは『監視役』に徹する。そして、アリスたちの邪魔になる存在はすべて――――」
その瞬間、吹雪はすばやく身を翻す。二人を隔てていた幹を回りこみ、銀四郎の前に出た。
ポニーテールの日焼け少女『ナナ』の姿で現れた、彼女の手には――拳銃。
銀四郎も反応していた。二つの銃口が、交差する。
パシュッ! と重なる銃声。べちゃりと、弾は吹雪――――の後ろにいた敵に命中。
同時に、銀四郎の後ろにいた敵も被弾。
「……排除するってことだ」
「俺を助けるのは?」
「アリスたちがお前との決着を望んでる。そこへの横やりを防ぐために、あたしは露払いをしてる」
「なるほど……って、おい! その格好どうしたんだよ⁉」
吹雪、もとい『ナナ』は体操服を着ていなかった。
小麦色の肌にぴったり吸い付いた、黒のスポーツウェア。
上は短めのタンクトップで、ほっそりしたへそ周りが露わになっている。
下はショートタイツ。包まれた臀部には、ブルマとは違う魅力がある。
「ああ、こいつは例のスペシャルアイテム」
「マジかよ……」
種類がランダムのアレ、銀四郎はまだ使っていない。もちろんこんな服ではない。
吹雪は苦々しい顔をして、経緯を話し始めた。
「体操服がさっきの雨で濡れちまったんだよ。そのままだと動きにくいし」
「待て、森の中で着替えたのか?」
「他にどこがある? 覗きに来たバカは全員キルした。まあ、あのドローンは射程外から撮ってやがったけど」
「――――」
教団の中年は天気が急変しやすいことを事前に伝えなかった。
ザックにも、手当たり次第に『服』を入れたのだろう。どこまでも下劣な連中だ。
しかし、憤りを覚える余裕はなかった。
『銃眼』がこちらに接近する、複数の光を捉えたからだ。
「……チームを組んでるな」
少女が忌々しげに吐き捨てた。
「くそっ! 振り切ったはずなのに、もう嗅ぎつけやがった」
「知ってるのか?」
「タカキとガリュウたちだ。こんな格好のせいで目をつけられてる」
たしかに、吹雪のスポーツウェア姿は多くの視線を集めてしまう。
加えて、彼女はこの先も……一人で露払いを続けていかなければならない。
アリスたちも気づかない、裏側でずっと――――
「よし」
覚悟を決めた。タカキたちが追いつくまで、まだ少し時間がある。
拳銃にセーフティをかけ、ホルスターに挿す。レバーとグリップとの二段構造だった。
銀四郎はザックを下ろし、切り札を取り出す。
吹雪は怪訝そうに見ていたが、それを目にした途端――はっと息を呑んだ。
「おい、そいつは……」
「服じゃなくてよかった。俺はラッキーだったんだな」
銀四郎に支給されたスペシャルアイテム――――『ペイント手榴弾』である。
結束バンドと一束の針金もあった。倒した敵から奪った戦利品だ。
手榴弾のクリップを外し、バンドで木の幹に固定する。位置はくるぶしほどの高さ。
安全ピンに針金を結び、片方を向かいの幹に巻きつけると……ゴールテープみたいにピンと張られた、ブービートラップの完成。
アマチェアのタカキたちには十分だ。ぽかんとしていた吹雪の手を引いて、走り出す。
少女は珍しく、戸惑っている。
「いいのかよ……切り札を使っちまって」
「俺たちは共犯者、助け合うのは当然だろ。それにアイテムが『服』になる可能性が高い以上、条件もそんなに変わらない」
いろいろと建前を並べてはいるが、奥底にあるのはたった一つの真理。
一人で戦う女の子を、放っておけなかった。
「…………」
「…………」
吹雪は何も言わず、銀四郎も黙りこんだ。
しばらく進んでいくと、背後で――――バシャッ! と、巨大な水風船が破裂したような音が響いた。
音が止み、静寂が戻ってくる中――少女がぽつりとこぼす。
「お人好しの甘ったれが……頭にくるぜ」
乱暴な言葉とは裏腹に、その手はぎゅっと握り返していた。
7
温もりを名残惜しくも離し、二人はそれぞれの戦いに向かう。
吹雪と別れた後、銀四郎は歩いていた。右手は拳銃を握っている。
周囲が異様な静けさに包まれている。敵の気配もゼロだった。
迷うことはない。作り込まれたルートが案内してくれる。
まさしく獣道。その道に生きる人間にしか、判別できない。
そして待っていたのは――――
「ごきげんよう、一匹オオカミの掃除屋さん」
妖艶に微笑む、金髪の少女。
姫子だ。豪奢な縦ロールと碧眼の輝きは、薄暗い森でも異彩を放つ。
彼女も吹雪と同じく、スペシャルアイテムの『服』に着替えていた。
真っ白なライダースーツが、豊満な胸からしなやかな脚までぴっちりと強調する。
その上には、怪しい黒のベルト。ハーネス型で全身に巻きつけるタイプ。
胸の部分はバストを縁どるように、太腿はガーターベルトのように締めつけていた。
腰の辺りはホルスターになっており――右に拳銃、左にマガジンを挿している。
「す、すごい格好だな…………」
「断っておきますが、わたくしの趣味じゃありませんわよ。ホルスター付きという実用性を優先した結果ですの」
姫子は堂々としているものの、頬が赤く染まっている。さすがに恥ずかしいのだろう。
銀四郎も妙な気持ちを覚えていた。露出は吹雪より少ないはずなのに、何かが自分の心を掴んで離さない。
機能美を追求したライダースーツを、ホルスター付きのベルトで束縛する矛盾。
「シロウさん」
「ん?」
「そろそろ怒りますわよ」
「…………ごめんなさい」
姫子がこほん、とせき払いして話し始める。
「とにかく一番手はわたくし。ようやく、あなたと踊れる時が来ました」
「そう、だったな」
校舎でのやり取りを思い出す。
こうして向かい合った彼女は、狡猾なハニートラップの姿より……ずっと眩しい。
もう言葉はいらない。銀四郎は拳銃を握り締め、姫子もホルスターから拳銃を抜く。
「――――」
「――――」
二人の間には数メートルほどの距離がある。撃てば十分に届く。
しかし、互いに銃口は下げたままだった。向けること自体が『攻撃』になるからだ。
銃弾はまっすぐに発射される。つまり、銃口の延長線上に標的がいなければならない。
ただ向けるだけでは、避けられてしまう。この法則を『
そして、正確な射撃にも……精密な呼吸のコントロールが求められる。
照準を合わせる時、トリガーを引く時、ぴたりと息を止める。
これを戦闘中のストレスに耐えつつ、繰り返さなければならない。
その呼吸サイクルを崩す方法こそが――――肉体への打撃。
とはいえ、拳銃を持った手で殴り合いなんてできない。
なら、どうするか。
――――来る。最初に動いたのは姫子だった。
右足を前に出し、左足のかかとを軽く浮かせ、すばやいフットワークを開始。
ステップ、スライド、シャッフルと焦らすように……踊るように、少しずつ距離を詰めてくる。先読みできない複雑な足さばき。
利き足を前にしており、クラヴマガとは違う……答えはすぐにやってきた。
予想外の範囲からヒュン、と風を切る音。
膝のタメを活かした左のサイドキック。鋭い槍を思わせる蹴りが一直線に放たれた。
「くっ⁉」
目測を誤った。すらりとした脚の長さに惑わされたのだ。
ギリギリの反応で、左の前腕を割りこませて逸らす……が、威力を往なしきれない。
蹴りの外側に逃れようとした体が――ぐらりと揺れる。
「あ」
転んでしまった。下が芝生とはいえ油断は禁物。
とっさに体を回し、ディフェンスに利用した左腕を持ってくる。
地面に衝突する瞬間、手のひらを叩きつけ……受け身を取った。
そこに、姫子が銃口を突きつける。同時に銀四郎は左手を支えにして、右足を伸ばす。
腰も入れて威力を強化し、かかとで一直線に蹴りこんだ――意趣返しのサイドキック。
「あらあら……」
姫子は残念そうに後退して回避。けれど、どこか楽しそうでもある。
その間に立ち上がり、右手で銃口を向けるが、彼女はひらりと逃れて木に隠れた。
弾の無駄撃ちはできない。拳銃を下げ、姫子に語りかける。
「利き足を前にした構え、軽快なフットワーク、最速のキック――――『
「ふふ、このテクニックを生み出した彼は、わたくしの『推し』ですの」
今は亡きジークンドーの始祖、かの映画スターに心酔しているようだ。
金髪の少女がいつになく饒舌になる。
「ずっと一人でしたわ……マフィアの
「あの人の得意技はサイドキックだったよな?」
「ええ、よくご存じで。わたくし程度では足元にも及びませんけど」
「いや、姫子だって負けてない。すさまじい蹴りだよ」
校舎で戦っていたら、きっと手も足も出なかった。
「ありがとうございます。では……あなたの賞賛に全身全霊で応じましょう」
「ああ、遠慮はいらない」
「勢い余って壊してしまうかもしれませんが、責任はきちんと取りますので」
「おう――――あれ?」
不吉な言葉を耳にした気がする。
思い返す余裕はなかった。さっそく姫子が仕掛けてきたからだ。
手が銃でふさがっている以上、メインは足を主体とした打撃。
これで相手の呼吸を乱し、射撃の精度を鈍らせ、銃口の延長線上に追いこんでいく。
現代のガンファイトが始まった。
姫子は長い足を活かし、多彩な蹴り技を繰り出してくる。
スピーディな右フロントを左手で払い、股間狙いのグローインを脛で逸らす。
膝へのストンプはふくらはぎを用いて防ぐ。
本当に強い。一つ一つがかなりの威力を秘めており、守るたびに全身が悲鳴を上げた。
カウンターに移ろうにも彼女のフットワークを捉えられない。
このままだとまずい。銀四郎はわずかな隙を衝き、ディフェンシヴフロントを放つ。
防御的なキック。姫子は膝でブロックしたが、後ろへと押し出される。
銀四郎はすばやく足を戻し、近くの木に転がりこむ。
すると、少女の挑発が聞こえてきた。
「野ウサギみたいに隠れちゃって……可愛いですわねえ」
「幻滅したか?」
「まさか。もっといじめたくなってしまいます」
「
がくりとうなだれながらも、思考を回し続ける。
現状は、強烈な蹴りで防戦一方。呼吸も荒くなっていた。いずれは銃口の射程に捕まる。
足による打ち合いは無理、銃による撃ち合いに持ちこむしかない。
しかし、彼女のフットワークもなかなかのものだ。一筋縄ではいかない。
だったら――――動きが止まる瞬間を狙う。まずは呼吸を整える。
休む必要はない。システマのバーストブリージングでリズムを固定すれば済む話だ。
「フッ、フッ、フッ――――」
鼻から吸って、口から吐く……小刻みに繰り返す。酸素が体内に行き渡っていく。
何も言わずに姫子の前に立った。彼女も真剣な表情で静かにたたずむ。
銀四郎を観察して、悟ったのだろう。次の一手が最後になると……。
先に動いたのは、やはり姫子。必殺のサイドキックをまっすぐに放つ。
攻撃か、回避か、防御か。行動を取ろうとする恐怖心を抑えつけ、バーストブリージングの呼吸だけに集中する。
「フッ、フッ、フッ――――ッ!」
息を吐いた瞬間に、蹴りを受けた。流れに逆らわず、全身の力を抜き、仰向けに倒れていく。
吹雪も使った受け身、衝撃を分散させるシステマの応用。
交錯の時、銀四郎は銃口を突きつけていた。もちろん失敗に終わった。
かろうじて照準を維持しているが、今の状態でまともな射撃は不可能。
威力を散らしても、ダメージがゼロになるわけではない。
呼吸も乱れる以上、弾も外れる――――はずだった。
バーストブリージングは継続的に負荷がかかる状況……激しく組み合うレスリングにも有効である。
受け身で減らしたダメージなら、ギリギリ耐えられる。そして、もう一つの条件。
照準を合わせる際、トリガーを引く際は呼吸を止めなければならない。
銀四郎の息は、止まっている。吐き出した直後に蹴りを食らったからだ。
パシュッ! と、銃声が響き……べちゃりと赤い染みが広がった。
「今度は『肉を切らせて骨を断つ』ですか……無茶な戦い方をしますのね、あなたは」
「ここまでしないと勝てなかった。けど試合に勝って、勝負に負けたようなものだな」
その言葉は、現在の状況を表している。
銀四郎は仰向けに倒れたまま、姫子に――――膝枕をされていた。
彼女の布は赤色に染まっている。制したのは銀四郎だったが、体を動かせずにいたのだ。
さすがに負担が大きかった。しばらく休むことにしたら……いつの間にかこうなっていた。
拒む気力もなく、健康的な太腿に頭を預けていると、姫子が話しかけてくる。
「ところで、シロウさん。あの呼吸法についてですが……」
「ん?」
「いつから、アレをできるようになりましたの? 打撃の負荷にも耐えうる呼吸なんて、聞いたことがありませんわ」
「……クソ親父といた頃に、教えてもらったんだ」
「どんなトレーニングを?」
「――――」
あれを、トレーニングと呼んでいいのか。
父の鉄矢は優しかったが、ときおり怖かった。
バーストブリージングを維持しながら、何度も……何度も、暴力を受けた。
食べたご飯を吐き出しても、やめてくれなかった。自力で受け身を覚えるしかなかった。
暗示のごとく刷りこまれた言葉が、脳裏をよぎる。
『銀四郎、お前は機械だ。体内の血も、臓器も、いずれ視えるようになる力も、すべて部品に過ぎない。世界を回す歯車の一つ、システムだと認識しろ』
あの頃は、それが正しいと信じていた。
親に褒めてもらいたい、厳しくするのも愛情なんだと……本気で思っていた。
「――――失礼、いじわるな質問でしたわね」
ぽふんっ、と頭上に二つの塊が置かれる。
ふんわり包みこむような感触……凍っていた芯が熱を取り戻していく……。
8
脱落者の少女と別れて、銀四郎は森の奥を進む。
姫子が説明してくれた。生き残った方がこの道を通る。
その先で待っていたのは――――茶髪サイドテールの後輩エージェント。
「お疲れ様です、シロウ先輩」
「江野か……戦う気はなさそうだな」
「はい、今回のウチはガイド役。勝者を案内するのが仕事ですから」
「なるほど。ところで江野」
「はい?」
「お前もまた、すごい格好じゃないか……」
彼女の服装はあのスクール水着だった。藍色の生地が、未成熟の肢体を覆う。
雨に降られたのか、それとも汗をかいたのか、全身がびっしょり濡れている。
玉のような水滴を弾く、瑞々しい肌がまぶしかった。
さらにホルスターはショルダータイプ。左肩から吊るし、脇に装着している。
ハーネスのベルトが胸の谷間に食いこみ、発育途上のバストがくっきりと強調されていた。
目のやり場に困っていると、江野がくすくすといたずらっぽく笑う。
「では先輩、ここからは『
「……お、おう」
何か企んでいる、そうわかっていても――――行くしかないのが悔しかった。
やり方は知っている。地面に腹ばいになり、利き手で拳銃を握り、両手を前に伸ばす。
江野も同じく姿勢を取った途端、ようやく彼女の意図が読めてきた。
お尻だ……可愛らしい小ぶりのヒップがふりふりと揺れる。
特に、水着で少し上がっているところが――――ダメだ。必死に煩悩を振り払い、動作に集中する。
さっそく、江野が前進を開始した。銀四郎もついていく。
片方の足を横に出し、体を前に蹴りだしながら両手で引き寄せる。
足を交互に変えて繰り返せば、そのまま進むことが可能。
しかし江野はたまに水着のズレを直しつつ、こちらに白い肌をちらつかせてくる。
その度にどぎまぎしてしまう。別の話を持ちだし、ごまかすことにした。
「そ、そういえば、茂木は?」
「茂木センパイはジャンケンに負けたので――――銃と手榴弾を手にして、敵の大群と刺し違えました」
「は?」
どういう意味かを聞こうとしたが、できなかった。
いきなり周囲の状況が一変したのだ。あちこちから、べちゃべちゃ! と被弾の音。
続いて、生き残ろうとする者たちの叫びも飛んでくる。
『やっちまえ!』
『下がれ、こいつは罠だ!』
『もう嫌! こんな争い……』
『俺、この戦いが終わったらさ――――』
すっかり戦争の空気に染まった、阿鼻叫喚の地獄絵図。
まさしく、ペイントでペイントを洗う激戦地。茂木もここで散ったのだろう。
耳を塞ぎたくなる衝動を抑え、無心で悪夢のような戦場を通過した。
再び、静かなエリアに着いた。
江野はさきほどの戦場に戻っていった。吹雪と同じ『露払い』の役割もあるらしい。
一人でゆっくり森を歩く。この先に彼女がいる、根拠はないのに不思議と確信できた。
果たして黒髪の少女――――
「よう」
「…………」
彼女は何も言わず、こちらに背を向けている。
服装はこれまでの格好とは違う、ブレザー制服。
凛とした後ろ姿は、ただただ美しかった。学校にいれば多くの人気を集めるだろう。
その華奢な肩に、アサルトライフルの負い
「羨ましいな。こっちは拳銃一丁、ここまで接近を許していいのか?」
「……武器の性能で勝っても全然うれしくない。あとで難癖つけられても困るし。徹底的に叩きのめしてあげる」
「そっか……ところで、これは?」
自分の足元に妙な物があった。
棒状の何かが、芝生の地面に突き立っている。銀四郎が来る前から存在していた。
犯人の少女が冷淡に説明する。
「敵から奪った戦利品――――
「え?」
よく見てみると、たしかにその通りだった。あの鉤もついている。
「ま、待て。こういう物もスペシャルアイテムの一つだっていうのか⁉」
「ええ、棒術使いにも優しいゲームで助かったわ」
「そんなのお前だけ――じゃなくて、棒による打撃はいろいろとヤバいだろ」
「どうして? ルールで禁止されてはいないはずよ。おそらく、ある程度は認可されてる」
……姫子との一対一でも、格闘をしたことに注意はなかった。
「つまりメインは射撃、サブは近接攻撃……という意識で戦えと?」
「私も何回か試したけど、おとがめは一度もなかった。それが暗黙の決まりでしょうね」
「試したって、お前なあ……」
「バカな不良をちょっといじめただけ。とにかく、これでルールの確認は終わり。その『半棒十手』を抜きなさい。あなたの動作が――――開戦の合図よ」
銀四郎が手に取ると同時に、振り向くつもりなのだろう。
決闘の形としては面白い。ただ、気がかりなこともある。
「後手のお前が不利になるぞ。銃口を向けたところに俺はいないかもしれない」
「私はアサルトライフルで、あなたは棒と拳銃。むしろ十分なハンデでしょ」
「そこまで言うのなら……わかった。恨みっこはナシだぜ」
空気が、張り詰めていく。
両者の間にある距離は数メートルほど。拳銃とライフルの撃ち合いでは勝負にならない。
まずは銃口を避けつつ肉薄し、棒術でライフルを弾き飛ばす。
迷いはなかった。しゃがみ込んで、右手で半棒を抜き、その反動を活かし――システマのローリングに移る。
貞乃も振り返り、銃口を向けるがもう遅い。あと一歩、踏みこんだら半棒の間合い。
仮に反応されても、フィリピン武術アーニスは防ぎ切れない。
技を繰り出そうとして、ふと貞乃の行動に嫌な予感を覚える。
彼女は発砲せずにライフルを引き戻し、槍のように先端を突きだす。
リーチは足りていない。
「っ⁉」
あった。剣というよりは棒……
防御するしかない。バチンッ! と棒がぶつかり合う。
銃口を逸らしながら、銀四郎は吐き捨てる。
「だましたな。背を向けていたのは、そいつを隠すためか!」
「お互い様でしょ。保健室での一件、忘れたとは言わせない!」
貞乃の猛攻が始まった。
獲物の長さは向こうの銃棒が上、こちらの半棒では間合いに入れない。
「くそっ!」
守ることで精一杯のまま、後方に押しやられる。
ピンチとはいえ退くことはできない。離れれば離れるほど有利になるのはライフル側だ。
銀四郎は前に踏みこんで十手を――――アンダースローで投げ放った。
狙いは少女の顔面。回転する十手が、斜め下から襲いかかる。
「っ!」
彼女が打ち払った一瞬に、銀四郎は距離を詰める。
投げ十手の型。奉行は空いた手で捕縄術や逮捕術、袖に仕込んだ鎖の技へと繋げる。
貞乃が反射的にライフルを構え直す。だが、そこに付け入る隙があった。
左手をまっすぐに伸ばし、銃身を握る。右に押しつつ、左肩を前に出す。
両足で一気に前進、左手を
そのまま両手で掴む。銃に体重をかけ、貞乃へ押しつける。
左足も使い、蹴りを放つ。貞乃は脛でブロックしたものの、わずかに重心が崩れる。
銃身を力ずくで上に振り、パンチのように打つと……貞乃の頬をかすめた。
彼女が怯んだ刹那に体を戻し、銃を少女の右肩の外側へ押し下げて、ホールドをほどく。
――――奪った。使うために後退しようとした時、今度は貞乃が距離を詰めてきた。
その手には、制服のスカートベルト。すかさず銃棒で迎撃するが、回避されてしまう。
彼女はベルトを用いて銃棒を逸らしつつ、踏み込んで――――銀四郎の首に巻きつける。
「あ」
ぎゅっと、首を絞められた。
スカートベルト自体の殺傷力は低い。だからこそ、じわじわとくる苦痛は辛いものだった。
ライフルも取り落としていた。少女が銀四郎の背後に回り、木の幹に押さえつける。
そして、妖しくささやいてきた。
「このまま楽になりたい?」
「な……に?」
「もう気づいてるでしょ。本当に向き合わなければならない相手の存在に……けど、あなたはわざと答えを先送りにしてる」
「…………」
「知ってしまった以上は戻れない。いつまで鈍感な子どもでいるつもり?」
「っ!」
体が反射的に動いた。顔の向きに合わせて右手を高く上げた。
ベルトを持つ手首に負担をかけつつ、回転。貞乃と正対する。
貞乃は危険を察知したのか、首のベルトを解き、すばやく下がった。
銀四郎は追撃の掌底――パームヒールストライクを放つが、精度が落ちている。
少女もあっさりと躱す。彼女は左右の手でベルトの両端を持ち直し、振り上げる。
バチンッ! と顔面をしたたかに打たれた。頬に熱い痛みが走り、脳を揺さぶられる。
「……動きにキレがない。迷ってるの?」
「お前を傷つけるつもりはない、それだけだ」
できることなら、何も知らないままでいたかった。
だが貞乃の言う通り、許されないことだ。答えはすでに出ている。
少女が探るような目でこちらを観察してきた。
「つまり、
「違う。俺は、どこにもつかない」
バチンッ! と体を打たれた。胴にビリビリとした衝撃が伝わる。
ベルトを鞭のごとくしならせた彼女は、冷たい瞳で睨みつけてくる。
「そんな中途半端な考えが通ると思う? 敵か味方か、あなたの選択肢は二つしかない」
「関係ない。俺は最後まで――――あの人と始めた『掃除屋』として戦う」
ヒュン、と風を切る音。
銀四郎は左手を伸ばし、蛇のように襲い来るベルトを掴んだ。
激痛とともに血が滲み、皮膚が赤く腫れたが構わなかった。
少女が忌々しげに吐き捨てる。
「……その在り方だって、幻想に過ぎなかった。あなたが貫いてきたのも『紅桜』を抑えるための偽善。他に何があるの?」
「まだ、最後の
初めて会った夜、赤い少女は言った。
誰かがやらなくてはならない、と。
「千理の
「あなた、まさか――――」
「俺は、俺自身がやらなくてはならないことをやる。これだけは、他の誰にも譲れない」
気づけば、右腕がズキズキと疼きだしていた。
二の腕、肩へと上がっていき……ついに首まで到達する。
『紅桜』の悪化。戦闘のストレスでハイになったまま、自らの『正義』に没頭したからだ。
もう隠せない。貞乃は首に浮かんだ紅い桜を目にして、愕然とした。
「そこまで、進んでいたの?」
「悪い、どうしてもできなかった。ここでのことを忘れて、生きていくなんて……」
八咫烏はなぜ、銀四郎を潜入させたのか。
そして、保健室で少女が指摘した――――致命的な見落とし。
簡単な話だった。真実にたどり着くのが怖くて、無意識に思考を鈍らせていた。
「でも、それも終わりだ。貞乃……お前を越えた先に、アリスがいるんだな?」
「ええ。そろそろ、この戦いの意味もわかってきたでしょ?」
「ああ、承知した上で――通らせてもらう!」
戦闘が再開された。
銀四郎は左手でベルトを引っ張る。だが貞乃は躊躇なく手放して、バックステップ。
まだだ。右手は腰のホルスターに伸びている。グリップを握り、銃口を抜きだす。
セーフティレバーを親指で解除、肘を九十度に曲げ、前腕を胸と垂直にした構えで牽制。
少女は緩急をつけたフットワークで銃口から逃れる。
ベルトを捨て、空いた左手も合わせ、まっすぐに銃を突き出しても……捉えられない。
だったら、誘導する。システマの達人は常にさりげない動きで優位に立つ。
昨日のバスケットボール、ナナに扮した吹雪も相手を転倒させていた。
「――――」
自分と相手を繋ぐ糸……『動線』を意識する。銃口を向けたまま、少しずつ足を動かす。
マリオネットを操るように、貞乃のフットワークをコントロールしていく。
彼女はブレザーの懐に拳銃を忍ばせている。しかし、まだ抜いていない。
迷っているのだ。射撃か近接、どちらで攻めるべきか……。
銀四郎は絶妙な距離感を保つことで、どちらの手も五分五分という状況を作り出した。
貞乃は一方に傾く瞬間を狙うだろう。その計算高い思考が命取りになる。
銀四郎が足を引くと、彼女は距離を詰め……逆に踏みこむと、後ろに下がる。
少女は攻撃のタイミングに気を取られ、足元をおろそかにしていた。
重心が不安定になっているというのに、だ。
銀四郎は銃口を貞乃――――ではなく、彼女の足元に向けて撃つ。
パシュ、と銃声に続き……べちゃりと、被弾の音。
たった一押しで体勢が崩れ、少女はあっけなく転んだ。
「――――え?」
アンクルブレイク。貞乃は地面への着弾で、足を反射的に動かし、もつれてしまったのだ。
ぺたんと尻もちをつき、呆然とこちらを見上げる姿は……糸の切れた人形のようだった。
べちゃりと、二発目の被弾。
またもや、天気雨に見舞われた。
ざあざあ降りの中……二人は木陰で、背中合わせに座っている。
貞乃がわなわなと身を震わせながら、切り出した。
「どうやって誘導したのよ? あんな離れ業を成立させるなんて――私のパターンやクセを熟知しているとしか……」
「昨日のバスケットボールだよ。同じチームで、俺は貞乃の動きを近くで観察できた」
「あの時から、こういう展開を予測していたの?」
「いや、お前にビシッと言われて……やれることをやろうと思ったんだ」
「じゃあ敗因は、敵に塩を送った私……」
がっくりとうなだれる少女。らしくない姿に戸惑いを覚え、なんとか励まそうとした。
「で、でも、俺は貞乃のそういうところが好きだ。冷酷なエージェントよりずっといい」
「――――バカ」
ぽすんっと、華奢な肩が寄りかかる。
甘酸っぱい香りと柔らかな感触に、とくん……と心臓が高鳴る。
どうにも落ち着かない気分だった。貞乃は黙りこんでいるが、そこには危うい何かがある。
こちらが茶を濁そうとする前に、先手を打たれてしまった。
「雨、止みそうね」
「え、あ、そうだな……」
平凡なやり取りから、徐々に天秤が傾いていく。
「さてと、今のうちにやってしまいましょう」
「な、なにを?」
「首の『紅桜』の隠ぺいよ。ドローンはまだしも、人目を引くのは面倒でしょ」
彼女は立ち上がり、銀四郎と向き合う形でしゃがみこむ。
その手には回収したスカートベルト。それを首輪のように巻きつける。
間近に整った美貌が迫り、繊細で優しい手つきに喉をくすぐられ、思わずたじろいだ。
「い、いいのかよ? 俺は報告しなかったのに……」
「負けた私に、干渉する資格はない。勝てたあなたは、自分のやるべきことに集中しなさい」
少女がぎゅっとベルトを結んだ。ちょうどいい締まりに、気合も入ってくる。
貞乃に怪しい挙動は見られない。さきほどの沈黙は杞憂だったのだろう。
「……シロウくん」
「ん?」
ほっとした途端に――――奇襲を食らった。
彼女がそっと、唇を重ねてきたのだ。
しっとり濡れた感触に心を奪われ、熱い吐息が肺を満たす。
雨が止むと同時に……少女は離れた。頬を赤く染め、恥ずかしげに目を逸らしている。
「さ、貞乃――――」
「キ、キスの間に、私はあなたを何回も殺せた……だ、だから調子に乗らないこと! いいわね⁉」
ビシッと、指を突きつける貞乃。その気迫に押され、こくりとうなずいた。
9
互いに顔を合わせられないまま、二人は逃げるように別れた。
唇に残る余韻をどうにか振り払い、早足で森を進む。
そして、最後に待っていたのは――――
「今回もまた、苦戦してきたようだな」
真紅のツインテールを風になびかせ、ルビー色の瞳でこちらを見据える赤い少女。
アリスだった。抜群のプロポーションを飾るのは、情熱的なワインレッドのビキニ。
雨水のしたたる滑らかな肌、ほどよく引き締まった腰つき、すらりとした手足。
暗殺に用いられることが悲しくてならない、完成された肉体。
ホルスターはウエストポーチ型のファニーポーチ。右手に握る拳銃は、ガバメント。
銀四郎も同じように持っている。
「おかげさまでな。けど文句は後だ。とりあえず質問させてほしい」
「いいだろう」
「どうして、こんな方法を取ったんだ? 校舎のテストとそっくりじゃないか」
「そうだ。この戦いも、シロウ――――お前を試すものだった。その様子だと、自らの本心に気づけたようだな」
つまり、銀四郎の立ち位置を明確にすることが目的。
たしかに貞乃も、敵か味方かをはっきりさせようとしていた。
「でも……俺が望む結末は、アリスたちと違う」
「ああ。だからこそ、ここで決める。どちらの
八咫烏は、誰かがやらなくてはならないことをやる。
銀四郎は、銀四郎がやらなくてはならないことをやる。
二つの正義は相容れない。こうなってしまう展開は簡単に予想できたはずだ。
「アリス、俺を待っていてくれたんだな……」
彼女は照れくさそうに、ぷいっと顔を背ける。
「……あの夜の借りを返しただけだ。お前は出会ったばかりの私を信じてくれた。とはいえ、こちらにも意地がある。わざと負けることはできないぞ」
「それで十分だ」
もう、言葉はいらない。最後の戦いが始まった。
アリスの動きは、持ち前の足腰を活かした俊敏なフットワーク。
同足と逆足を合わせ、効率よく勁力を発生――合理的な打撃へと繋げる、八極拳の歩法。
予想よりずっと速い。おそらく、水着姿で服の無駄な質量を排除している。
ただし、重さが減れば攻撃力が低下する。まさにスピード重視の戦法だ。
彼女はまたたく間に距離を詰め、肘打ちの頂肘を繰り出す。
「うおっ⁉」
横に転がり、ギリギリで回避。ブンッ! とスイングが空を切る。
銀四郎はすぐに立ち、肘を九十度に曲げ、銃口を向けようとした。
だがアリスは上半身を外から内に振り、がつん! と肩をぶつけてきた。
「ぐっ!」
まさかの体当たりにのけぞってしまう。そこにガバメントも突きつけられる。
まだだ。銀四郎はすかさず左手を伸ばし、手のひらで銃口をぐいと押した。
スライドと銃身を後退させた。アリスがトリガーを引くが――――無反応。
ガバメントはショート・リコイル式。スライドが後退すると、発砲できない。
取った。確信とともに銃口を向けた瞬間、今度はアリスの左手が伸びる。
鏡合わせのように、スライドが後退させられた。これでは発砲できない。
銀四郎の拳銃もガバメントだった。互いに銃を押さえつける、こう着状態に突入。
彼女が話しかけてきた。
「どうするシロウ? いったん仕切り直すか?」
「じゃあそれで―――」
「甘いな」
アリスは容赦なく腹部にかかとを叩きこんだ。
「があっ⁉」
ガバメントを落とし、相手の銃口からも手が離れ……後ろに倒れていく。少女が拳銃を突きつける。
しかし銀四郎は、直前にシステマの受け身を取っていた。姫子の時にも使った衝撃分散だ。
体が地面に着く刹那、クラヴマガにスイッチ、受け身の姿勢でサイドキックを放つ。
蹴りはアリスのガバメントを弾き飛ばした。
「っ!」
銀四郎は支えの足を地面に着けつつ、蹴り足を浮かせ、キックの構えを維持する。
左手で顔をガード、右手を地面に着けて腰を起こし、蹴り足を後ろに引く。
一気に立ち上がった。すると、アリスは自らの胸元に手を伸ばす。
あるのはビキニと青い布のみ……だが銀四郎も迷わず、そこに手を伸ばした。
基本的に、ブラジャー型ホルスターはバストの下側に留める。よって、銃を抜く際は上着の下から取り出す。
とはいえ仕込みがないことは、ビキニ姿を見れば一目瞭然。
しかし、アリスが触れた途端……ぺろん、と皮膚の一部が剥がれ落ちる。
それは肌色のシリコンだった。バストの大きさを偽装するための道具。
そして露わになったのは、やはりブラホルスター。小型拳銃デリンジャーを挿している。
もともと少女の胸は大きい。だから、使うわけがないという先入観を持たせたのだ。
銀四郎は、デリンジャーを抜いたアリスの手首を掴むことに成功。
はっ、と少女が驚きの表情を浮かべる。
「気づいていたのか⁉」
「思春期の男子をなめるなよ。昨日の混浴で、本来のボディラインは目に焼きつけてある。多少の違和感だって、こうして発見できる」
……タネを明かすと『銃眼』で捉えたのだが、あえて伏せておく。
挑発を含んだ発言に、彼女の顔は……かあっと赤くなった。
「このっ、スケベ男が!」
アリスは冷静さを失い、力任せに右の蹴りを繰り出そうとする。
読めていた。すかさず左の膝を軽く上げ、つま先で少女の脛をぴたりと押さえつける。
ストップキック。さらにアリスの手と手首を捕まえたまま、技に入った。
両手の人差し指から小指までの八本で引き、二本の親指で少女の手を手首に向けて押し下げる。
アリスの手が徐々に開いていき、デリンジャーが落ちそうになった。
キャヴァリエ、クラヴマガにおけるリストロック。騎士を意味する言葉でもある。
あと少しのところで、彼女も動いた。腰を水平に振り、どんっ! と内側をぶつけてきた。
「うっ⁉」
勁力を込めた的確な一撃、またしても後ろに倒されてしまう。
その勢いでアリスが馬乗りになり、右手のデリンジャーを向ける。
銀四郎は腰を跳ね上げた。すると、マウントを取ったアリスがバランスを崩す。
彼女は体を支えようとして、左手を地面に着ける。
それを狙っていた。片腕を伸ばし、少女の左腕を捕まえる。
同じように片足で左足も押さえ、再び腰を使って、アリスを頭の方へ跳ね上げる。
最後、右に回転。体勢を入れ替え、上になると同時にすばやく離れた。
少女が立て直す前に、落ちていたガバメントを拾い、銃口を突きつける。
アリスは――――静かに苦笑して、自らの運命を受け入れた。
べちゃりと、決着の音。
戦いが終わった。
ゲームの優勝者は、銀四郎。
他の連中はドロドロの潰し合いや、エージェントの奮闘で全滅していた。
もちろん吹雪たちも脱落した。あの露払いのおかげで掴み取れた結果である。
「ふう……」
いろいろなことが過ぎ、ようやく自由になれた銀四郎は――――温泉に浸かっていた。
ライトアップされた夜の露天風呂。お湯が体の傷にしみる痛みも、どこか心地よい。
疲れを癒していると、洗い場からアリスの声が飛んでくる。
「来たぞ、シロウ」
振り向いた先には――裸にバスタオルを巻き、髪をアップにまとめた赤い少女。
つい、まじまじと見てしまう。彼女にマウントを取られ、抜け出そうとした時……二人は密着していた。
戦闘中は気にならなかったが、記憶は五感に焼きついている。
男女の肉体が重なり……互いの吐息、汗、匂い、体温も交わり……どこまでも溶け合っていくような――――
「シロウ」
「え?」
はっ、と我に返る。
アリスも思い出したのか顔を赤らめ、ボディラインを隠すように自分の肩を抱く。
「そんなにじろじろ見られると、困る」
「お、おう……悪かった」
慌てて背を向ける。どうやら彼女は恥じらいを覚えたらしい。
良いことだった。昨日みたいに堂々としていたら、こっちがまいってしまう。
シャワーの水音が聞こえてくる。ぎこちない空気がリセットされていく。
銀四郎はさっそく話しかけた。
「えーと、要件は?」
「忘れたのか? あの戦いの後、お前が提案したはずだ。まずはミーティングで内容をまとめよう、と」
「そ、そうだったな……」
プロポーションに心を奪われて、すっかり失念していた。
やれやれ、と少女が呆れて苦言を呈する。
「もっと気を引き締めるべきだ。場所のセッティングも任せたのは間違いだったな」
「い、いいだろこれくらい! 俺も大変だったんだ――女の子に蹴られたり、ベルトでびしばし叩かれたりで!」
「ん? 男にとってはご褒美だろう?」
「どういう嗜好してんだよ⁉」
危険な考えである。いずれ、きちんと説得しなければならない。
しかし今は、現実と向き合う時間だ。
「アリス、ミーティングの前に一つ……確認したいことがある」
「――――」
シャワーの水音が、ぴたりと止まる。
銀四郎が聞きたいのは――貞乃に指摘された、見落としのことだ。
アリスは仲間をまとめる『元締め』のエージェント。彼女なら答えを知っているはず。
「……本当に、いいんだな?」
「ああ、もう覚悟は決まっている」
八咫烏にすべてを任せて、撤退するという選択肢もあった。
けどできなかった。元の日常に帰る意味を、失ってしまったから……。
拾った『鍵』を手にして、真実への『扉』を開く。
「あの祭りの夜、教団は――――何のウイルスをばら撒こうとしたんだ?」
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