STAGE:Ⅰ 放課後の暗殺者

 穏やかな朝はいつも――――ピコン! ピコン! と鳴り響く、スマホのアラームに叩き起こされる。

「うう……」

 ゾンビのようにうめきながら、銀四郎は目を覚ました。アラームも止める。

 窓にカーテン、本の並ぶ棚はジャンルがバラバラ、雑然とした勉強机、クローゼット。

 まさに学生が使っていると一目でわかる、典型的な部屋。

「…………」

 まぶたが重い。仕事からのボランティアによる反動で、疲労と眠気が体に蓄積していた。

 だが、今日は月曜日。高校一年生である銀四郎は学校に行かなければならない。

 まず部屋着のままドアを開けると、そこはリビング兼ダイニング。

 贅沢な間取りで、奥にはトイレや洗面所、脱衣所と浴室にも繋がっている。

 自分の他には誰もいない。家具もソファーとテレビがあるのみ。

 日課をきちんとこなす。軽めのストレッチに、ほどほどの補強トレーニングを始めた。

 適度に汗をかき、手首のテープも剥がして、浴室でシャワーを浴びる。

 鏡に自分の姿が映った。無愛想な目元は父ゆずり、中性的な顔立ちと線の細い体つきが母ゆずり。

 容姿のせいで周囲からは舐められがち。トレーニングをしても筋肉がつかない。

『先生』によると、これらもまた『紅桜』の影響らしい。

 浴室を出て、制服に着替えた。警棒に打たれた部分はすっかり回復している。

 適切な処置をしてくれた相手を、敵に回した……心に垂れこめる暗雲を必死に振り払う。

 代わりに大きめの湿布を、『紅桜』の上に貼りつけた。もちろん隠ぺいのために。

 ――――いつもと変わらない朝。

 銀四郎は寮のアパートで一人ぐらし。銀四郎を保護する団体からの支援金で、この生活が成り立っている。

 食事は一階の食堂で、部屋の掃除は雇われた業者がやってくれる。苦労がないというのに、なんだか窮屈で退屈、管理された生活。

 朝食と身支度も済ませ、必需品を詰めたリュックを背負い、寮を出た。

 武器は必要ない。掃除屋と違って、自衛は素手と工夫で事足りる。

 四月中旬の朝、ほんのりと暖かい春の街。多くのマンションやアパートが立ち並ぶ。

 車道を車、歩道を通勤する大人や登校する学生たちが忙しげに行き交っている。春祭りの余韻はみじんも残っていない。

 その中に、寮の正面に横づけした白塗りの車がある。近づくと運転席のドアが開き、だらしないスーツ姿の男が降り立った。

 高崎祥太たかさきしょうた。ひょろりとした二十代後半、跳ね放題のくせ毛に死んだ魚の目。

 これでも一応は警察の刑事であり、銀四郎の監視係なのだ。

「おはようございます」

「おう」

 高崎は無愛想に答えて、懐から拳銃――ではなくリモコンみたいな形状の測定器を取り出す。

 銀四郎の周囲を探るように測定器を向けてきた。

 紅桜カウンター。大気の『紅桜』を計測するという触れ込みの市販品。

 感染しないと証明されているのに、信じられない世間の声によって生まれた。

 気持ちはわからなくもないが、これを刑事の高崎も使っている現実に鬱々としてくる。

「警察も科学的な根拠より、世間の憶測を信じるんですね」

「しかたないだろ。目に見える数値がなければ、安心できない。そんな世の中だ」

 そんな世の中――――遠山鉄矢の脅威が去っても、その恐怖は根強く残っている。

 誰もが暴走と感染を恐れる状況に、警察も監視を置かざるをえなかった。

 だが、彼らとて人数を割きたくない。高崎を選んだのにも、そういう意図が見て取れる。

 とはいえ、ダメ刑事のおかげでいろいろと隠し事もできている。

 皮肉に辟易しているうちに、紅桜カウンターが『異常なし』との結果を下す。

 測定器といっても、範囲はあくまで大気。体内までは測定できない。

 発症の事実を知るのは自分と『先生』だけ。『掃除屋』も同じである。

『八咫烏』と大して変わらない、欺瞞だらけの日常。真実を打ち明ける勇気もない。

 紅桜カウンターをしまう高崎を眺めつつ……はあ、とため息をつくのだった。



                    2



 紅桜を過剰に怖がる世間のせいで、電車やバスなどの移動手段もうかつに使えない。

 監視係の高崎はそのための送迎係でもある。

 校門前で降ろしてもらい、校庭を横切り昇降口へと向かう。高崎は周辺で監視を続ける。

 下駄箱の上履きに足を入れ、廊下を歩き始める。

 ときおり生徒や先生とすれ違うが、そろって銀四郎と距離を取りたがる。

 小学、中学からずっと……こんな疫病神の扱いが続いていた。

 ここに発症の事実まで持ち込んだら、もっと大変なことになる。

 これ以上の混乱を起こしたくない。自分が我慢すればいいことだ。もう慣れている。

 何度も己に刷りこんできた言葉を反芻しつつ、教室の戸を開けた。

「ん?」

 クラスの空気は既に完成している。わいわいがやがやと賑やかな談笑の輪は、朝の学校にふさわしいものだ。

 銀四郎がどれだけ手を伸ばそうと、届かない場所でもあるが――――嫌な感じだ。

 何かがおかしい、と掃除屋の嗅覚が告げていた。

 その時……クラスメイト全員が一斉に振り返り、無表情で冷たい眼光をぶつけてきた。

「っ⁉」

 ゾクリと、背筋に悪寒が走る。顔ぶれがいつもと違う。

 クラスメイトじゃない。昨夜のエージェントの言葉が頭をよぎる。

『八咫烏はあらゆる色に染まり、あらゆる日常に溶け込む』

 瞬間、もっとも近い席にいた男子生徒が踏み込んできた。

 野球部の設定だったのか右手に金属バットを持ち、水平に振ってくる。

 体はすでに反応していた。左肩を入れ、バットの方に向ける。続けて左腕を下に伸ばす。

 右手も上げて顔面の左側をガードする。

 銀四郎も前進――バットの内側に飛び込むことで、相手の持ち手に左腕をぶつけた。

 衝突に敵が硬直した刹那、すかさず左腕でバッドを握った腕を押さえつける。

 同時に右の肘を、相手の顔面に打ちこんだ。

「ぐっ……」

 のけぞる男子生徒の腕をすぐに引き寄せ、腹部に膝蹴りも決めた。

「があっ⁉」

 ダウンした敵をそのまま――――背後に接近していた刺客にぶつけ、怯ませた隙に教室を脱出する。

 廊下の窓ガラスをよく見ると、すべてマジックミラーに張り替えてあった。つまり、外からは校舎の様子を視認できない。

 ここで仕留めるつもりか。駆けながらポケットのスマホを取り出すが、もちろん圏外。

 共感覚は反応しなかった。銃の使用をためらったのだろう。あの少女が絡んでいるなら、ありえる話だ。

 いずれにせよ学校は密室と化した。暗殺の標的は、銀四郎。

 ふと、人影が目に留まった。

「あれ?」

 走っていた足を止める。

 昇降口に立つ、一人の少年。彼は閉まり切ったガラス戸に力を込めたり叩いたりしていた。

「くそ、開かねえ! いったい何がどうなってやがる⁉」

 男子生徒。それも知っている顔だ。

茂木もぎ?」

 つぶやきを拾った少年が振り返る。

 ハンサムな顔立ち、髪は下を刈り上げたツーブロック、すらりとした長身。

 茂木健斗もぎけんと。交流はないものの、クラスメイトの一人である。

「なんだ、遠山かよ」

 銀四郎を仲間だと認識した途端、茂木は苦々しい表情を浮かべた。

 いつものことだ。構わず近づいていく。

「割るのも無理そうか?」

「ああ、何してもヒビ一つつかねえ。スマホもダメだ」

 頑丈さも徹底しているらしい。

 とはいえ、校庭に遮蔽物はない。出ても狙撃の的にされるだけだろう。

 校舎の中で身を守りつつ、助けを待つのが最善。

 ダメ刑事の高崎も、時間が経てば異変に気づくかもしれない。

 だが、それでは遅すぎる。

「聞いてくれ、茂木。とりあえずスマホの圏外を何とかして、外と連絡を取ろう」

「何とかするって……まさかハッキング?」

「いや、圏外の原因――――ジャマーを壊す」

 茂木が眉をひそめる。

「都合よく、この学校に設置されてるってか。映画の見すぎじゃね?」

「スマホが圏外になること自体、異常な状況だ。関係ない人のスマホまで圏外にしたら、いろいろと騒ぎになる。校舎の俺たちしか、範囲に入れてないはず」

「だから校舎そのものに置いてある? 巻き添えを気にする連中とは限らないだろ。お前は知らんが、俺に狙われる心当たりはないぜ」

「詳しい説明は省くが、俺にはある。まだ知り合ったばかりだけど、少なくとも非道な奴らじゃない。お前が巻きこまれた理由はあとで――――」

「八十点」

 その意味を考える暇もなく……右手に、冷たい何かが刺さった。

「は?」

 呆然としたまま目をやると――――ナイフの刃。

 手のひらに深く、食い込んでいた。

「ぐっ、あああああっ⁉」

 ようやく痛みを実感した。

 負傷の経験はある。それでも、刃物が直に刺さる痛みは初めてだった。

 悶絶する銀四郎を、茂木は冷酷な瞳で眺めている。

「八十点だ、遠山。ジャマ―の着眼点はよかったのに、俺が敵の可能性を放棄していた。仲間を疑うことを知らないお人好しは、すぐに死んでくぜ」

「お前も……八咫烏、なのか?」

 本性を現した茂木の右手には、ナイフの柄が握られていた。

 刃はない。銀四郎の手に刺さっているからだ

 スペツナズナイフ。バネの力でノーモーションかつ、投擲より速くブレードを射出する。

 気づけなかった……掃除屋の嗅覚にも引っかからない。まさしく手練れの暗殺者。

「いちおうヒントはあったぜ。教室を出ても、エージェントたちは追ってこなかった」

「今までずっと、同じクラスの俺を監視してたのか?」

「自意識過剰だな。知ってるだろ、八咫烏はどこにでもいる。たまたま俺のいた学校にお前がいた。そんだけの話だ」

 茂木はナイフの柄を捨て、懐から新たなナイフを取り出し、順手で構える。

「そんな状態の右手じゃ、お得意のクラヴマガも形無しだ。終わりにしてやるよ!」

 刃が滑らかな弧を描き、蛇のように襲いかかってくる。

 銀四郎は――背負っていたリュックをそこに投げつけた。

「はんっ」

 茂木は鼻で笑い、容赦なくリュックに刃を走らせる。

 目にもとまらぬ早業。筆箱、教科書までもが切り刻まれていく。

 その隙に距離を取り、左手でズボンのベルトを引き抜く。

「次はねえぞ!」

 エージェントが向き直り、鋭い突きを放つ。狙いは腹部。

 銀四郎は斜め前45度に踏み込んで、軌道の外に逃れた。

 同時に左手のスナップを利かせ――バチンッ! とベルトで茂木の手首をしたたかに打つ。

「ぐあっ⁉」

 思わぬ痛撃にエージェントがナイフを取り落とす。

 再び距離を取り、ベルトを捨てた。右手が使えない以上、決定打には繋がらない。

 代わりにファイティングスタンスで構え、挑発の言葉を投げる。

「右手さえ封じれば勝てるって? 俺のこと、ちゃんと調べてないだろ」

 小さい頃に父が教えてくれた。

 奉行ぶぎょうのスキル、捕縄術とりなわじゅつ。ムチのごとく、しならせる遠山流『ごう』の型。

 現代でも代用にベルトを扱うことくらい、造作もない。

「ほざけ!」

 かっとなった茂木が左ストレートを繰りだす。

 かかった。左手を伸ばし、パンチの内側……左腕を押して逸らす。

 手のひらをこちらに回しつつ拳を作り、そのまま親指の付け根を茂木の顔面にぶ つけようとする寸前で――反転、小指の外側によるハンマーフィストをお見舞いした。

「ぶぐっ⁉」

 拳を作る際にできる、肉のついた部分を打撃点として使うパンチ。

 これもクラヴマガの一つ。利き手を負傷した際のパターン。

 相手が怯んだ隙に、銀四郎はまたしても廊下へと駆け出す。

 クラスメイトすら信用できない状況。

 構わなかった。日常だろうと非日常だろうと、いつも一人だから。



                    3



 銀四郎は一階の保健室に向かっていた。右手の処置をするためだ。

 刃は抜いていない。手当てを始めるまで、下手にいじるのはやめておいた。

 今のところ、エージェントとの遭遇はない。

 おかしい。右手は使用不能、ベルトは捨ててきた。まともに戦える状態とは言い難い。

 暗殺者にとって、絶好の機会だというのに襲撃がない。

 茂木にしたってそうだ。わざわざ騙し討ちを仕掛ける必要があったのか。

 教室の仲間たちと挟み撃ちにした方が、ずっと確実だった。

 考えているうちに、保健室の前にたどり着く。

 ここにも八咫烏が潜んでいる可能性が高い。むしろ潜んでいないとおかしい。

 恐る恐る戸を開けて中をうかがうが――――部屋は真っ暗で誰もいない、気配もゼロ。

「うーん……」

 釈然としないものを感じつつも、慎重に足を踏み入れる。

 油断は禁物だ。茂木みたいに嗅覚に引っかからない手合いだっている。

 電気をつけた。手前に二脚のイスと先生用の机。奥に三台のベッドとカーテンが並ぶ。

 ちゃんと見ておく。手当てしている最中に不意打ちが来た場合、対応しきれない。

 手の痛みを我慢しながら……カーテンを開け、一つ一つ確認していく。

 いよいよ最後のカーテンを開けると、ベッドに一人分の膨らみがあった。

「ん?」

 布団を取ってみないと、中身を判別できない。とはいえ明らかに罠だろう。

 触らないようにしていたら、いきなり膨らみがもぞもぞと動きだす。

 ぎょっとした途端――無傷の左手が、がしっと何かに掴まれる。

「へ?」

 ……真っ白な腕がベッドから伸びていた。

 自分の左手を捕まえたそれは、呆然としていた銀四郎をベッドの中に引きずり込む。

「うおっ⁉」

 連れてこられた先には――――見知らぬ美少女が横たわっていた。

 凛とした顔立ちに澄んだ青の碧眼、髪は煌びやかな金髪の縦ロール。

 彼女は銀四郎の左手をしっかりと掴んだまま……フフ、と妖しく微笑んだ。

「ごきげんよう」

「…………」

 少女の顔から、目を離せない。

 心臓もバクンッ、バクンッ、とうるさいくらいに高鳴っている。

 さらに甘ったるい香りが鼻をくすぐり、理性に靄がかかっていく。

 そういうタイプの、『薬』……慌てて出ようとするが、左手が強い力で掌握されていて振りほどけない。

 彼女が獲物を狙う獅子のごとく瞳を爛々と輝かせ、ぺろりと舌なめずりする。

「わたくしたちの世界は弱肉強食。弱い者は、強い者に喰われる運命(さだめ)ですの」

 そして銀四郎の抵抗を逆手に取り、その上に覆いかぶさってきた。

「っ⁉」

 少女は、大胆にも下着姿だった。華やかな刺繡を施した、金色の布。

 しなやかな曲線の脚に肉感的なボディを鮮やかに彩る。昨夜の赤いエージェントよりも大きい、二つの果実が視界を押し潰してきた。

「――――」

 夢のような感触に包まれ、全身の力が抜けていく。

 未知の情報を脳が処理しきれず、思考も停止していった。

 男を本能的に支配する、女王の肉体――――

「0点、ですわね」

 少女は銀四郎の左手を解放し、代わりに右腕で首をがっちりとホールドしてくる。

 胸も強く押しつけられた。不思議な弾力に富んだ柔肌で、もみくちゃにされてしまう。

 はあ、と失望のため息が聞こえた。

「0点ですわ、遠山さん。こんなにあっさり主導権を奪われてしまうなんて。わたくしの肉体が魅力的すぎるのも、イケないんでしょうけど」

 勝利宣言とばかりに、嗜虐心に満ちたささやきが……耳元をくすぐる。

「このまま、窒息死させてあげますわ。男にとっては本望な結末でしょう」

「――――あいにくだが、変態の胸に溺れる趣味はない」

「は?」

 最後の力を振り絞って、銀四郎は動き出した。

 左手で少女の右腕を掴み、彼女の右足も自分の左足で外側からロック。

 腰を跳ね上げ、アーチが一番高くなった瞬間――左側に回転。

 立場は逆転した。上になった銀四郎が押さえ込み、少女の喉元に右手を突きつける。

 スペツナズナイフのブレードが刺さったままの、だ。

 愕然とした少女がつぶやいた。

「……クラヴマガ、ですわね」

「まあな。とにかく降参してくれないか?」

「その前に一つ――どうして動けましたの? 薬も効いていたはず」

「危なかったよ。『魅了』と『薬』、両方が完全に効いてたらアウトだった」

 銀四郎はすでに『紅桜』を発症しており、他のウイルスや薬にも有効な抗体ができている。

 答えを知った彼女は苦笑した。

「まさに毒を以て毒を制す、ですわね。ところで遠山さん」

「なんだよ?」

「いつまでこの体勢を続けていれば、よろしいのかしら?」

「え、ああっ⁉」

 下着姿の少女を押し倒して、自分の手に刺さった刃で脅す高校生……とんでもない構図ができあがっていた。



 エージェントの少女は――――一条姫子いちじょうひめこと名乗り、右手の処置までしてくれた。

 敵を助けていいのかと聞くと……自分の役割は『ハニートラップ』で終わっているから、問題ないらしい。

「残念ですが、これ以上のことは話せませんの。引き続き、頑張ってくださいまし」

 姫子はベッドの下に置いていた制服に着替えている。

 彼女が保健室を出ようとする前に、銀四郎は声をかけた。

「一条」

「なんですの?」

 言うべきかどうか迷ったが、意を決して口を開く。

「いつも、ああいう戦い方を?」

「必要ならやる、手段の一つにすぎませんわ。それがどうかしましたの?」

「できれば、しないでほしい。便利なのはわかるけど、やっぱり暗殺に使うのは……その、きれいな体だし、親が産んでくれた体だし――――」

「セクハラ」

「ち、ちがうちがう!」

 ふふ、と姫子が楽しげに微笑する。

「冗談でしてよ。暗殺者にもプライドがありますの。無暗に肌を見せる真似はしませんわ」

 少女はくるりと背を向ける。

「縁がありましたら、またどこかで。次は、一緒に踊りましょう」

 そう言い残し、去っていった。

 踊る、は彼女なりの暗喩だろう。本気の殺し合いを望んでいるのか。

 いろいろと、掴みどころのないエージェントだった。

「さて……」

 気持ちを切り替え、銀四郎も廊下に出る。

 姫子は既にいない。他のエージェントの気配もなかった。

 しかし、コンディションが悪くなる一方だった。

 包帯を巻いた右手は無茶できない、共感覚の『銃眼』も反応できずにいる。

 そもそも刺客たちの戦闘スタイルに銃がない。常に後手を踏む形で戦わされていた。

 なんとか切り抜けてきたものの、確実に消耗しつつある。

「……ふう」

 心を落ち着かせ、押し寄せてくる恐怖を振り払う。

 自分の目的はジャマ―破壊。校舎のどこかにあることを、茂木も否定していなかった。

 勝たなくいい。とにかく持ちこたえる。

 己を鼓舞して廊下を進んでいると――――いきなり教室の戸が開く。

 出てきたのは、またしても制服姿の少女。今度は奇襲ではなく堂々と目の前に現れた。

 整った色白の小顔、腰までストレートに伸びた流麗な黒髪。

 華奢な体つきだが一切の隙を見せない立ち姿に、冷え切った殺意を宿す瞳から……手練れのエージェントだと判断できる。

 銀四郎が虚を衝かれた一瞬に、少女が間合いを詰める。

 肋骨を狙った素早い右パンチ。とっさに左の肘を曲げ、体にぴったり引きつけて防御。

 そこで背後にも気配、後ろの戸だ。右手でナイフを構えた女子生徒が踏みこんでくる。

 銀四郎は右足で振り向きざま、回し蹴りを正中線に打つ。

 女子生徒を押し出した瞬間、なんと眼前に左キックが飛んできた。

 天井に三人目。すぐさま腰を折り、右手でキックを叩くように払い、連動で右足を踏み込む。

 左パンチを打とうとして――――スカートの中に目が行ってしまう。

 白……気を取られて、カウンターの機会を逃した。窓際に下がるしかない。

 降り立った三人目は小柄な少女だった。甘いカフェオレを思わせる茶髪のサイドテール、あどけない顔立ちに小悪魔めいた笑みを浮かべている。

 ここに来て三人。窓際を背にした途端、女子生徒が一斉に襲いかかってきた。

 銀四郎は両手の指をまっすぐに伸ばし、肩の高さに構える。

 左の手首で黒髪少女の前腕を捌き、右でナイフ少女の手首を打ち、刃を止める。

 さらに右膝を上げ、つま先を手前に反らした蹴りで、正面の茶髪少女を押し出した。

 ディフェンシヴフロントキック。接近する敵を突き放す、防御的なキック。

 そのまま、人体の反射に基づいた『360度ディフェンス』でしのぎ続ける。

 ここは耐えなければならない。この戦い……焦ったほうが負ける。

 三対一による我慢比べの末、ついに早まったナイフ少女が刃を突き上げてきた。

 綻びだ。右の前腕をナイフの手首に当てて防御、手で制服の襟を掴み、こちらに引き寄せる。

 切っ先が刺さらないよう上半身を右に捻り、左腕で手首を外側から、肩に押さえつけた。

 盾にされた少女に、残りの二人が硬直する。

 すかさずディフェンシヴフロントでナイフ少女を突き放し、正面の茶髪少女にぶつけた。

「うひゃあっ⁉」

 おかしな声とともに転がった二人を置いて、銀四郎は黒髪少女に背を向ける。

 そして全力で走りだす。

「ちっ」

 舌打ちした少女が追いかけてくる。銀四郎はすぐに廊下を曲がり、階段を上がっていく。

 二階に出て、近くの教室に駆けこむ。掃除の時のようにイスと机が後方にまとめてある。

「……はあっ! はあっ!」

 中央の空きスペースで、できる限り息を整えた。かなりの体力を消耗していたのだ。

 そこに黒髪少女が、悠々とした足取りで入ってくる。

「七十五点」

 彼女は冷徹な無表情のまま、告げてきた。

「七十五点よ、遠山くん。集中力が欠けていたとはいえ、防御に意識を割きすぎ。私や江野えのとの直接対決を避けたのは、良い判断だったけど」

「江野……あの茶髪の子か?」

江野絵美香えのえみか。後輩のくせに天才で生意気、手のかかる問題児。私は咲谷貞乃さきたにさだの、そこそこのエリートってところ。ナイフの子は――ただのエージェントNさんでいい」

「仲間なのに、ずいぶん雑な扱いだな……」

 はんっ、と少女が鼻で笑う。

「私たちは仲良しグループじゃないの。実力不足の子はモブ扱いで充分」

「でもあの子が盾にされた時、お前と江野は攻撃をためらった」

「っ」

 貞乃の眉がぴくりとつり上がる。構わず銀四郎は話し続けた。

「八咫烏とかエージェントとか、格好つけたがるのはいいけどさ……仲間との絆を誇るのって、恥ずかしいことか?」

「――――決めた」

「へ?」

 貞乃は隅に置かれた掃除用具入れのロッカーに近づき、中からモップを取り出す。

 雑巾を外して長い柄の部分をくるくると、慣れた手つきで回転させる。

「私はね、偉そうに説教してくる男が……大っ嫌いなの」

「いや待て、そんなつもりは――――」

 ヒュン、と風を切る音。

 少女が柄を片手で握り、鞭を打つように払ってきたのだ。狙いは銀四郎の膝。

「うおっ⁉」

 ぎりぎり、バックステップが間に合った。

 もし食らっていれば骨も危なかっただろう。貞乃は柄を両手で構え直す。

「上から目線で説教して、気持ちよくなりたいんでしょ? だったら女の子に棒でめった打ちにされる快感を、教えてあげる」

 本気とも冗談ともつかない、蠱惑的な笑みを浮かべて宣言した貞乃に――少しゾクリとしてしまう。

「まったく……八咫烏のエージェントってのは変な奴ばっかりだな」

「その減らず口も、私たちの仕事に割りこんでくる態度も矯正する。事が終わる頃には、私の棒じゃなきゃ満足できない体になってる――から!」

 今度は素早くスナップを利かせた、短い打ち。

 スイングは水平。それに合わせて、銀四郎は左肩を入れる。

 最初の男子生徒によるバットと同じパターン。大きく前に踏み出したが――――バシッ! と防御する腕ではなく、手首がしたたかに打たれた。

「ぐっ⁉」

 タイミングは合っていた。しかし、寸前で軌道が変化したのだ。

「もう飽きたわ、そのパターン」

 逆に少女が間合いを詰めてきた。

 銀四郎は反射的にディフェンシヴフロントキックを放つ。

 それも見切られ、バシッ! と足首に柄を打ちこまれた。

「っ⁉」

「動きが全体的に鈍ってきてる。包帯を巻いた右手もろくに使えない。さすがに限界でしょ、楽にしてあげる!」

 繰り出される執拗な連撃に、全身のあちこちが痛んでいく。

 モップの柄は致命傷を作らないものの、確実に心と体を削っていった。

 それでも、耐える。一度きりのチャンスを最大限に活かすために。

 とうとう教室の隅に追い込まれた。

 背には掃除用具入れのロッカー。勝ちを確信した彼女が容赦なく踏み込んでくる。

 そこに合わせて銀四郎は――――床に放置された雑巾を、思いっきり蹴った。

「食らいやがれ!」

 貞乃がモップから外していたものだ。

 雑巾は床を滑り、少女の足元へと向かう。

 そして動いていた足が、絶妙のタイミングで踏んづけてしまった。

「きゃっ⁉」

 少女は意外とかわいい声を上げて、すってんころりと尻もちをついた。

 ちらりと大人びた黒が見えたが、同じ轍は踏まない。

 彼女が立て直している間に、背を向けて掃除用具入れのロッカーを開けた。

 素手のままじゃ勝てない。こちらも武器を使わせてもらう。

 銀四郎も、雑巾を外したモップの柄を取り出す。

 だが、これでは負傷した右手がハンデになる。そこで、少しアレンジを加えた。

「同じ武器なら、勝てるとでも思ってるの?」

「…………」

 少女が立て直したと分かっても、銀四郎は背中を向けたままだった。

 柄を握るのは無傷の左手のみ。今は先端を見せないように、隠していた。

 返事が来ないことに不満を覚えたのか、彼女の苛立った声が飛んでくる。

「少しは何とか言ったら? 説教だけじゃ飽き足らず、人の下着まで盗み見ておいて!」

「勘弁してくれ……転ばせたのはわざとだけど、いろいろ想定外だったんだよ」

「想定外?」

「あんなに鮮やかな転び方をするとは思わなかったし、あとはその、大胆な下着とかギャップのある悲鳴とか――――」

「もう殺す」

 貞乃の急接近を肌で感じ取りつつ、銀四郎は振り向きざま……片手の柄で横なぎに払う。

 少女はまっすぐに突きを放っていた。対して自分の狙いは、彼女が握る柄の側面。

 むろん交錯すれば打ち合いに発展する。右手を満足に扱えない銀四郎では勝負にならない。

 なら、発展させなければいい。ガギィッ! と貞乃の柄に、ありえないものが食い込んだ。

 それは……刃。正確には銀四郎が握る柄の先端に、包帯で括り付けられたブレード。

 まさに即席の槍だった。少女は驚き、目を見張る。

「そんな――――」

「うおおおっ!」

 左手にありったけの力を注ぐ。

 彼女の柄が、弾き飛ばされた。すかさず貞乃に先端の刃を突きつける。

 少女は呆然としたまま、疑問を口にした。

「どうして? 槍を作れる素材なんて、どこにも……」

「大したことじゃない。よく見てみろよ」

 言われて、槍を観察した彼女がはっと息を呑む。

「スペツナズナイフの、ブレード? 括り付けた包帯は、あなたの――――」

「ああ、ブレードは茂木からのプレゼント。包帯は右手に巻いてた」

 手当ての過程で抜かれたブレードは、ずっとブレザーのポケットに入れていた。

 そこに右手の包帯も利用し、貞乃の意表を突く武器を作り上げたのだ。

「これで退いてくれないか? 無駄な争いは避けたい」

「……自分で八咫烏に喧嘩を売っておいて?」

「降りかかる火の粉を払うだけだ。血みどろの殺し合いをしたいわけじゃない」

 ふん、と少女が不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「病気の進行を抑えるために、『殺さない掃除屋』をやってる……だったわね」

「ああ」

「偽善よ、そんな理由。結局は自分が助かりたくて他人を助けてる。私たちの八咫烏より、たちが悪い」

「自分が正しいとは思ってないさ。ただ世の中には困っている人が大勢いて、俺は『紅桜』の悪化を止めたい。互いの利害が一致していれば、十分じゃないか?」

『紅桜』を完全に発症した先に待っているのは、暴走した父親と同じ末路。

『殺さない掃除屋』でそれを阻止できるのなら、偽善者になってもいい。

 彼女はフフ、と嘲笑を浮かべた。

「甘いわね。すぐに限界が来るでしょ」

「やってみなくちゃ分からないだろ」

「だったら、この場で私を屈服させてみなさい。殺すつもりがない以上、私に止まる理由はない。多少の傷を負っても構わない。あなたと刺し違えることだってできる」

「……面倒くさい奴だな」

 頑固なのか、ひねくれてるのか。とにかく負けを認めたくない、そう顔に書いてある。

 やるしかない。気は進まないが、こんなところで油を売っている余裕もない。

 銀四郎は左の槍をスカートに引っかけて牽制しつつ、指示を出す。

「両手をまっすぐに上げろ」

「こう?」

 貞乃が首を傾げながら従うと、脇の下ががら空きになった。

 そこに銀四郎の右手が伸び――――こちょこちょとくすぐり始める。

「ちょ、ちょっと……んっ、くっ!」

「くすぐり責めは証拠が残らない、便利な拷問だ」

「こ、の……」

「痛んだ右手でもこれくらいはできる。どこまで耐えられるかな?」

 彼女は歯を食いしばり、ありったけの殺意を込めてこちらを睨んできた。

 ……ゾクゾクと怪しい愉悦が、心を震わせる。

 変な衝動が自分を蝕んできた。貞乃はいまだに、降参を言い出さない。

 危うい均衡を続けていた時だった。

「あのー、どんなプレイですか? それ」

「……え?」

 思わず手を止める。いつの間にか、もう一人の女子生徒が背後を取っていた。

 呆れ顔でたたずむ茶髪サイドテールの小柄な少女――――江野絵美香えのえみかだ。

 くすぐりから解放された貞乃は……はあ、はあ、と息を荒げて江野を睨みつけた。

「な、なにしに来たの?」

「ヒマだったんで、お二人の見物に。てゆーか、ウチらの任務は遠山センパイの『採点』じゃありませんでした?」

「あ、あんたには、関係ない」

「相変わらず、すぐかっとなるんだから貞乃センパイは。しかもまんまと返り討ち、おまけに辱めを受けてるとか……だっさ、公開処刑しちゃおー」

 少女はニヤリと邪悪な笑みを浮かべ、懐からスマホを取り出し、カメラを貞乃に向ける。

 ピピッ! と電子音が鳴る。なにやら、ライブ中継が始まったようだ。

 彼女は焦りだし、火照った顔を手で覆い隠す。

「や、やめなさ――――」

「やめませーん。そもそも任務外の行動をしてる、センパイは報告しないといけませんし」

 貞乃が慌てて後ろに下がろうとする。

 だがその瞬間、ビリビリと布が裂ける音がした。

「あ」

 引っかかっていた槍の先端が、スカートを無慈悲に破っていく。

 さらに腰回りの部分までもが断たれる。

 はらりと、一枚の布が床に落ちた。

「…………」

 空気が、凍りついた。

 あの江野すらも、何も言えずに硬直している。

 ただ一人、大胆な黒をさらす少女がわなわなと震えていた。

「――――江野」

 冷え切った声音に……強気だったはずの茶髪少女が、あわあわと弁明を並べ立てる。

「う、ウチは悪くないです! お二人でマニアックなプレイしてるのが悪いんでしょ⁉ 遠山センパイが悪い!」

「いやいやいや! もともとは咲谷が素直に負けを認めてくれないせいで――――」

「もう殺す!」

 彼女が猛スピードで駆けだす。ターゲットは、江野。

 茶髪の少女もすばやく逃走。二人はあっという間に廊下へと消えていった。

「えっと…………俺は?」

 途方に暮れていたら、懐のスマホがブルブルと振動した。

 出ると――圏外のはずなのに、切羽詰まった江野の声が飛んでくる。

『センパイ、三階に行ってください! そこで『最終試験』が待ってます!』

「え、最終?」

『伝えたいことはそれだけです! お互い生きていたら、またどこかで――――』

 ぶつん、と通信が切れる。

 そして言葉にならない断末魔の絶叫が、校舎を揺るがすのだった。



                    4



 教室を出て、ふらふらとした足取りで三階に向かう。

「…………」

 もう限界だった。即席の槍は分解し、包帯を右手に巻き直している。

 武器を扱える体力もなかったのだ。素手のまま階段を上っていく。

 やがて、たどり着いた三階の廊下に――――彼女がいた。

「ずいぶんと、苦戦してきたようだな」

 真紅のツインテール、ルビー色の瞳、ワインレッドのブレザー……すべてが赤い少女。

 他のエージェントとは別格の雰囲気をまとい、毅然として自分の前に立ちはだかる存在。

 銀四郎は恨みを込めて、本気で睨みつけた。

「ああ、おかげさまでな。右手が痛い、スタミナ切れる、全身ボロボロ……最悪の気分だよ」

「いちおうやり過ぎないようにと、念を押しておいたのだが――やはり素直に聞いてもらえなかったか。手のかかる部下たちだ」

 やれやれと、少女は肩をすくめる。

 ……雑談に付き合うつもりはない。さっそく本題に入ることにした。

「それで? 次は何を――――『採点』するんだよ」

「ほう」

 エージェントが興味深げに目を細める。

「気づいてたか」

「俺の実力を測るためのテストだったんだろ、全部」

 奇襲や裏切り、ハニートラップ、数的に不利な戦い。

 すべて暗殺者にとって重要なシチュエーション。

「どのエージェントも、必ず『点数』を口にしていた。後半の咲谷は『暴走』だった」

「本来ならペナルティーを科すところだが、不問にしている。キサマの応用力や拷問スキルも確認できたからな」

 ぜんぜん嬉しくない賞賛に、頭が痛くなってくる。

「いい加減にしてくれ。俺を殺したいんだろ? こんな回りくどいことしなくたって……数の暴力で人気のないところに追い詰めれば済む話じゃないか」

「その必要はない」

「え?」

「キサマ自身が言ったはずだ、これは『採点』だと。多少のやり過ぎがあっても、命をかけた殺し合いをしているわけじゃない」

 たしかに、今回の連戦で思い知った。

 もし本気の彼女たちが束になって来ていたら、自分はとっくに殺されていただろう。

 ところが、それはなかった。わざわざ『採点』という形を取った理由は一つしかない。

「俺を、『八咫烏』にスカウトしたいってことか?」

「少し違う。私たちは『依頼』をしたいのだ」

「『掃除屋』の俺に?」

「そうだ。我々に協力して、ある人物の暗殺を手伝ってほしい」

 仲間は、彼女と『採点』を担当したエージェント。

 今回の目的には銀四郎の素質チェックだけでなく、顔合わせの意味もあったようだ。

「カルト教団『千理の瞳』……聞いただろう。昨夜の祭りにバイオテロを計画した連中だ。私たちの標的は――――奴らを率いる教祖」

「なんだよ、それ…………」

 一線を守ってきた自分を暗殺に加担させようとしているのだ。

 冷静でいられる方が、おかしかった。

「冗談じゃない! 俺は『掃除屋』で『紅桜』もある。殺しなんて、できない」

「キサマは手を汚さなくていい。あくまでも我々の支援を――――」

「どっちだって同じだろ! 加担した時点で確実に、今までの俺じゃいられなくなる」

「だったら、このまま『八咫烏』を敵に回し続けるか? 次は『採点』ではない。完全に敵として排除に乗り出すぞ」

 しかも、戦えば戦うほどストレスが溜まり……『紅桜』は悪化していく。

 仮に八咫烏を倒せても、その果てにいるのは――――第二の遠山鉄矢と化した、銀四郎。

 少女はそこまでわかっているのだ。

「……卑怯だ。従うしかないってことかよ」

「選択肢があるだけマシだろう。さて、キサマはどうする?」

 答えるまでもなかった。

 両腕でファイティングポーズを取り、左足を一歩前に踏み出す。

 ただし両手は拳を作らずに緩める。他でもない、クラヴマガのファイティングスタンス。

「それがキサマの返事か。冷静な判断ができていない。0点」

「うるさい……お前らの基準で、勝手に俺の価値を決めつけるな!」

 余力は残っていない。すべてをかけて、大きく前に踏みこんだ。

 選んだのは上段の右ストレート。赤い少女は前腕を上げ、外側でブロックして弾く。

 がくん、とバランスも崩された。同時に彼女の右足も、動き始める。

 かかとの内側を使ったキック、狙いは足首の少し上……斧刃脚ふじんきゃく

 中国の八極拳だ。このままだと骨をやられる。

 銀四郎はとっさに左膝を上げ、ふくらはぎの部分で受けた。

 つま先も引き上げて筋肉を収縮させる。防御の脛受けだった。

 ダメだ。強引なガードに、重心が置き去りになる。少女はすでに次の動作へ移行していた。

 間に合わない。上段から、虎の手を模した『虎爪掌』を打ちこまれる。

 顔面、左肩、と二連撃。

「ぐっ⁉」

 鈍い痛みに揺さぶられ、意識が朦朧とする。

 ラスト、右肩への三撃目……に銀四郎は動く。

 反射的にディフェンスを発揮、手首をぶつけて防いだ。

 しかし上段に気を取られ、中段に致命的な隙ができていた。

「あ」

 もう遅い。そこにすかさず四撃目の掌打が突き刺さった。

 かつてない衝撃が、胴体を殴りつける。

 手向けの言葉として、その秘伝が告げられた。

「――――八大招はちだいしょう猛虎硬爬山もうここうはさん

 ばたんっ、と廊下に倒れる……体は動かない。

「く、そっ」

 指一本すら動かせない。視界も闇に覆われていく。

 カラスのように真っ暗な、奈落の底に沈んでいった。



                    5



「ん……」

 意識の浮上とともに、五感が戻ってくる。

 まず、背中にフカフカしたベッドの感触。

 保健室なのか。続いて鼻につんとくる消毒の匂い。

 さらにぎしぎしと、ベッドが揺れる音。

 視覚もはっきりしてくる。すると、自分の上に何者かが覆いかぶさっていることに気づく。

 誰だろう。やがて、意識が完全に覚醒した。

 そこはやはり、四方がカーテンに閉ざされた保健室のベッド。

 そして――――とんでもない光景が目に飛びこんできた。

「え、ちょ⁉」

 赤のエージェント少女が……銀四郎をベッドに押し倒して馬乗りになっていたのだ。

「起きたか」

 彼女は平然としたまま、両手でこちらの上半身をぺたぺたと触っている。

 肌に繊細な指先が触れるたび、変なくすぐったさがこみ上げてきた。

「お、おいっ、何してんだよ⁉」

「手当てに決まっているだろう。とにかくじっとしていろ」

 言われてようやく、自分の状態を認識する。

 体のあちこちにテープが貼られたり、薬が塗られていた。

 だが一番の問題は――――妙に全身がスースーすることだった。

「待て待て待て! なんで俺、パンツ一丁にされてる⁉」

「だから、手当てのためだ。連戦で負傷したキサマを隅々まで見る必要がある。もちろん、最低限の尊厳はきちんと守るつもりだ」

「あくまで最低限だろ! 情けなんていらない!」

 もがこうとしたが……ズキリと生じる痛みに硬直してしまう。

 はあ、と呆れたエージェントがため息をつく。

「その負傷では何もできないぞ……よし、上半身は完了した」

 そう言って少女は自らの体を反転させ、銀四郎と逆の向きになる。

「あれ? もう終わったんじゃ――――」

「上半身が、な。これから下半身を見せてもらう」

「はあっ⁉」

 さっそくエージェントは行動を開始した。

 抵抗しようとするものの……目の前で揺れる少女の下半身に、気を取られてしまう。

 スカート越しでもわかるほどに形のいいヒップ、純白の太腿とふくらはぎもまぶしい。

 まずい。銀四郎とて多感な年頃の少年。

 体のそういう反応を止められなかった。

「気にするな。ただの生理現象であることは理解している」

「くっ、殺せ!」

 屈辱の時間が流れること数十分。彼女が処置を終え、ようやく離れてくれた。

 銀四郎は手渡された制服を着ながら、傍らに立つエージェントに探りを入れる。

「で、どうして殺さない? お前たちに逆らったんだぞ」

「『八咫烏』の『金鵄きんし』――――我々のボスが、キサマと話をしたがっている」

「まさか、親玉が直々に説得?」

「さあな。『あの人』の考えていることなんて、誰にもわかりはしない」

 やがて、銀四郎の着替えが完了する。

 見届けた少女はついてこい、と告げて背を向けた。

 後に続こうとして……ふと、あることに気づく。

「なあ」

「どうした?」

 彼女が怪訝な面持ちで振り返る。

「名前だよ。教えてほしいんだ。ずっとお前って言うのも変だし」

「……今のキサマはいつ我々に殺されても、おかしくない状況下にいる。知って何になるというのだ?」

「自分を殺す相手の名前ぐらい知っておきたい。すぐ死ぬかもしれないなら、なおさらだ」

「手を下すのが私とは限らないが……いいだろう。私は――――哀原あいはらアリス。アリスで構わない」

 哀原あいはらアリス。外国人の容姿である彼女らしい名前だ。

「なるほど。アリス、か」

「…………」

「え、やっぱり馴れ馴れしかった?」

「いや、そういうことではないのだが……」

 少女、アリスは何やら考えこんでいる様子。

「思えば、私もずっとキサマ呼ばわりしてきた。そろそろ、こちらも改めるべきかと感じたのだ」

「まあ、俺は敵の立ち位置だからな。けど変えてみるのも、ありじゃないか? おかしな名前じゃなきゃ何でもオッケーだ」

「では、銀四郎から取って――――シロウ」

「お、おう」

 不覚にも……どきりとさせられた。

 女の子に下の名前で呼ばれる経験はなかった。

「短い付き合いになるかもしれないが、言っておこう。よろしく、シロウ」

「よ、よろしくな……アリス」

 彼女は下の名前で呼ばれても平気なようだった。

 普段から、発音しやすい方で呼ばれているのだろう。

 妙な悔しさを覚えつつ、背を向けたエージェントを追いかけた。



『金鵄』とは『八咫烏』の最高位。同じ立場の人間が三人、存在する。

 彼らの足並みが揃うことで権限が発動されると、アリスが教えてくれた。

「そのうちの一人が、俺に会いたいのか。どんな奴なんだ?」

「『金鵄』は『金鵄』……彼らには個人としての概念がない」

「どういうことだよ?」

「名前も顔も意思もわからない、ということだ。今回の目的も三人の考えが一致したからこそ、成立している」

 二人は保健室を出て、廊下を歩いていた。

 夕日の光が、校舎を照らしている。どうやら自分は放課後まで眠っていたらしい。

 でも今は、放課後と呼べるのか……廊下や教室のあちこちで制服姿のエージェントたちがくつろいでいる。

 見た目は一般の生徒と変わらない。ただし殺伐とした雰囲気を除けば、だ。

 物騒な武器をいじっていたり、冷たい視線を向けてくる者もいた。

「……エージェントってのは、いつもこんな感じ?」

「どれだけ殺しの腕があろうと、私も彼らも未熟な年代だ。現在はシロウ、お前を警戒しているのだろう」

「俺はもうコテンパンにされてる。恐れる必要なんてないだろ?」

「そうでもない。貞乃に恥をかかせた映像が、江野によって拡散された。お前の注目度はエージェント内で上がってきている」

「ぜんぜん嬉しくないな。というか、俺はともかく咲谷が気の毒だ。消せないのか?」

「一般のウェブと同じだ。アップしてしまった以上、完全な隠滅は不可能に近い」

 話している間に、校長室の前へたどり着いた。

『金鵄』はこの中にいると聞いた。いかにもボスらしいチョイスと言える。

「悪いが、私はここに待機していなければならない。そういう指示だ」

「わかった」

 八咫烏のボス……一体どんな人物なのだろうか。

 そして、何の思惑があって銀四郎との対面を望むのか。

 憶測を働かせても無意味だ。思い切って、懐に飛び込んでみるしかない。

 自分はまだ生きている。その希望をつなぐヒントも見つけられるかもしれない。

 重い期待と不安を抱えて、ドアノブに手を伸ばそうとした時――アリスが声をかけてきた。

「シロウ」

「ん?」

「呑まれるなよ」

 真剣な表情で、たった一言。

 だが……ふっと心が軽くなる。安直な励ましより、ずっとよかった。

「おう、ありがとな」

 少女と見つめ合う。

 戦いを通し、互いを知っていくうちに――――たしかな信頼ができていた。

 歪なやり方なのだろう。それでも、築かれた絆まで否定したくない。



 いよいよ、校長室の中に足を踏み入れた。

「…………」

 罠の可能性もある。開けたドアを後ろ手に閉めつつ、素早く視線を巡らせた。

 奥には窓際を背にした大きめのデスク、手前にはテーブルとソファーの応接セット。

『金鵄』と思われる存在は、たった一人でソファーに腰かけていた。

「君が、遠山銀四郎とおやまぎんしろうだな」

 低い声、服装はスーツ姿、がっしりとした体格。男性と判別できるものの顔がわからない。

 なぜなら彼は、江戸の時代劇などでよくある『編み笠』を被っていたからだ。

 籠を逆さまにしたような形ですっぽりと覆い、顔の部分にいくつか切りこみが入っている。

「驚かせてしまったか。これは『深編笠ふかあみがさ』といってね、仮面みたいなものだよ。君はもちろんエージェントたちにも、顔を見せてはいけないんだ」

「……個人としての概念がない、だったな。辛くないのか?」

「別に自我を殺しているわけじゃない。僕を含む三人の意思が統一されていればいい。それだけのことさ」

 会話をしても、胸を締めつけるプレッシャーから逃れられない。

 出会ったばかりだというのに、銀四郎は目の前の『金鵄』に気圧されていた。

 得体が知れない、としか言いようがない。顔が隠れているのはむしろ幸いだった。

 一番やりにくいタイプ。彼が漂わせている風格は、『暴力のカリスマ』そのもの。

 父、遠山鉄矢とおやまてつやも持っていた天性の素質だ。

 まさに映画のアウトローが放つ気迫で、善悪問わず人を惹きつけてしまう。

 アリスは、このことを忠告していた。

 しかし銀四郎も警察に保護されるまで、ずっと父のカリスマに晒されてきた。

 耐性がつくどころか、かなりの苦手意識ができている。

「とりあえず、そこにかけてくれないかな?」

「はい……」

 反対側のソファーを勧められ、指示された通りに座った。

 いつの間にか主導権を握られている。かといって下手に口を挟むのはまずい。

 何が導火線になるのか不明だからだ。そして地雷を踏めば、どんな目にあうのかも……。

「そんなに身構えなくても大丈夫だよ。ここは僕と君の二人きり。罠も監視も必要ない」

「そうか」

 穏やかな物言いだが、惑わされてはならない。

 つまり、銀四郎がいきなり『金鵄』に襲い掛かったとしても――彼は一人で返り討ちにできる、ということだ。

「まずはおさらいをしておこう。君は『紅桜』による暴走を抑えるために殺さない『掃除屋』として活動している、だったね?」

「ああ。クソ親父の影を否定することで、自分は違うと納得させている。咲谷も言っていたけど、やっぱり薄汚い偽善だな……」

「僕はそれでいいと思っている。君だって、八咫烏のすべてを否定していないだろう?」

「別に……『殺し屋』に対して、そう考えてるだけだ。好きじゃないけど、潰したいわけでもない。気に食わなければ昨夜のように噛みつくことだってある」

「なるほどね。安心したよ、君が血も涙もない聖者じゃなくて。お父さんはまさしく、そんな人だったからねえ」

 父の鉄矢も、元はまっすぐな正義感を持つ優しい男だった。

 しかし、まっすぐ過ぎたのだ。何度も戦いの渦中に身を投じ、多くの命を救ってきた。

 その反面で、悪を容赦なく殺し……少数の命を切り捨ててきた。

「ストレスに耐え切れなくなった親父は『紅桜』を完全に発症、悪を殺すことしか考えられなくなった」

 結果――手段を選ばない、モンスターと化してしまう。

 無関係の人たちが大勢、暴走する正義の生贄にされた。

「彼は遠山家における、史上最悪の汚点になったね。だが、僕の考えは少し違う」

「え?」

「僕は、遠山鉄矢とおやまてつやこそが本来の遠山ではないか……と、思っているんだよ」

「――――は?」

 一瞬、何を言っているのか理解できなかった。

 そして頭が意味を受け入れた時、理性があっけなく吹き飛んだ。

「おっと」

 体が動き出す前に勝負はついた。

『金鵄』の人差し指がトン、と銀四郎の額を押さえたのだ。

 彼は右手を伸ばしたまま諭すように告げてくる。

「失礼、口が過ぎてしまった。そのものではなく、近いということだ」

「何がどう違うんだよ」

「まずは話を聞いてほしいな。根拠はちゃんとある。かっとなるのは終わってからでも、いいんじゃないか?」

「……くそっ」

 どのみち暴れたところで、この男に止められる。しぶしぶ、怒りを収めるしかなかった。

『金鵄』の指が離れる。感情の機微にも敏いらしい。

「君のご先祖様――――遠山景元とおやまかげもとについては知っているかな?」

「まあ、それなりには。『紅桜』の件で調べたこともあるし」

 遠山景元とおやまかげもと。遠山家における名奉行の一人。当主の証『金四郎きんしろう』を襲名した、重要な存在だ。

「彼は裁判を巧みにこなし、将軍からも『お褒めの言葉』を賜っている。ところが、彼の経歴には傷がついている」

 ……暗澹とした気分にさせられる。銀四郎が重い口を開いた。

天保てんぽうの改革。幕府が実行した重要な政策に、景元は抵抗していた」

 けれどそれは、強引な改革に苦しむ町人たちを守るためだった。

 けっして鉄矢のような暴走ではない。一緒にしてはならない。

 しかし『金鵄』は厳しく追及してくる。

「どんな背景があろうと、彼が奉行の身で幕府に逆らったことは事実だ。そして君や遠山鉄矢の本質は、景元に近いと思わないか?」

 鉄矢も、時には権力そのものを破壊した。

 銀四郎も、『八咫烏』という暗殺の権力そのものを敵に回している。

 さらにどちらの在り方も身勝手であり、警察とも相容れない。

「正義感を暴走させる『紅桜』も――――『権力への反抗』という景元の本質に起因しているのではないかね。まあ、根拠に欠ける憶測にすぎないが」

 とはいえ、現時点でもっとも有力な仮説だった。専門家じゃなくても簡単に想像がつく。

 銀四郎がずっと、深く考えないようにしてきたことでもある。

「俺のやってることは、無駄だって言いたいのか? 『掃除屋』も、『八咫烏』に歯向かうことも……」

 自分の信念が、ぐらついてしまうからだ。

『殺さない掃除屋』を続け、暗殺を是とする『八咫烏』の方針にも反発した。

 父の影を振り払うストレス軽減で、『紅桜』の悪化を抑えてきたつもりだった。

「君の療法が必ずしも正しいとは限らない、そう主張したいだけさ。ただ『紅桜』にはまだ謎が多いし、ご先祖様のこともある。下手な抵抗は、控えるべきじゃないかな?」

「――――」

 わからなくなってくる。

 何を持ってすれば、この袋小路から抜け出せるのだろうか。

 そもそも、本当に正解があるのかどうかも……判然としない。

「そこで、だ。僕と『賭け』をしてみないか?」

「賭け?」

『金鵄』は妙な提案を持ちかけてきた。

「テストでもアリス君が言っていただろう。『千理の瞳』の教祖の暗殺を手伝えと。君が断った依頼を、この場で改めて受けてほしいんだ。もちろん報酬も弾む」

「……人を好き勝手に揺さぶっておいて、虫が良すぎるだろ。第一、どうして俺にこだわる? 八咫烏は俺を殺したいんじゃなかったのか」

「二人の『金鵄』はそのつもりだったよ。けど僕は違った。君の存在が任務の役に立つと、説得したんだ」

 彼によると、教団はヨガと称した護身術――――クラヴマガを教えているらしい。

「クラヴマガ、を?」

「君も使っている、それだ。なぜそんなことをするのか、心当たりはないかね?」

「あるわけないだろ。奇妙な教団の存在なんて昨夜に知ったばかりだ。クラヴマガについてなら俺じゃなくて、きちんとした専門家に聞いた方がいい。八咫烏にいないのか?」

「あいにく、我々は武術や護身術といったものに疎くてね……特定の戦闘パターンを習得させると、あとで足がつきかねない」

「無責任だな、結局は自分の保身かよ」

「生徒の自主性を重んじる、と言ってもらおうかな。とにかく、クラヴマガに詳しい君の視点があれば、奴らの意図も見抜けるかもしれない。どうかね?」

 疑問は残るものの、自分に固執する理由はなんとなくわかった。

 祭りにウイルスをばら撒こうとした『千理の瞳』も、放っておくのは気が引ける。

「仮に依頼を受けたとして、俺は何をさせられる?」

「『千理の瞳』は近いうちに……素行の悪い少年少女を集めて、更生を目的とした『合宿』を開く。君はそこに『潜入』してもらう。テストで顔を合わせたエージェントたちとともに」

 八咫烏のエージェントには戸籍がない。潜入の際は、偽の戸籍を与えられる。

 この戸籍は『仮相戸籍かそうこせき』と呼ばれるものだ。

「俺にも、そういう戸籍が?」

「ああ。偽装や隠ぺい工作、細かい手続きはこちらで済ませておくよ」

「いろいろと、複雑な信頼関係だな……『賭け』っていうのは?」

「なあに、簡単な話さ。君が患っている『紅桜』の進行度。それが任務中どうなるのか、測定するんだ」

 暗殺への加担という意識で悪化した場合、任務を放棄しても構わない。

 そして八咫烏は、銀四郎から手を引く。

「むろん、今後いっさいの干渉がないとは――保証しかねるがね」

「もし、最後まで変わらなかったら?」

「処分、はもったいない。八咫烏の一員になってもらおう。殺しが関与しても問題ないと証明されれば、余計な縛りも必要なくなる。さて、乗り気になってもらえたかな?」

 この男は謎の多い『紅桜』を利用し、銀四郎を暗殺の現場に引き入れようとしている。

 しかしここで断っても、どうせ待つのは処分の運命だ。

「……エージェントたちと足並みをそろえる必要は?」

「ないよ。すべて、自己責任ということで」

「言うと思った。つまり、暗殺を妨害してもいいんだな?」

「現場のエージェントを敵に回す覚悟があったらね。ただし提供できる情報に制限がある。君にとって、不利なスタートだ」

 なんにせよ、リスクを承知で挑むしかない。

「いいぜ、乗ってやるよ――――その依頼ギャンブル



                    6



 銀四郎は『八咫烏』の管理下に置かれている。

 監視をしていた刑事、高崎たかさきは追い払われてしまったらしい。

 他人の心配をしている余裕はなかった。

 金鵄は、しばらく日常にいられなくなると忠告してくれた。

 その前に会っておきたい人がいる。そう言ったら、あっさり外出許可をくれた。

 ついてきた見張りのエージェントは、面識のない寡黙な男子。

 テスト時も校内に潜んでいたのだろう。自分と同じ高校のブレザー制服を着ている。

 二人で学校を出て、暗くなった街をしばらく歩いていくと、目的地が見えてきた。

そこは――――『病院』だった。

 紅桜という奇特な症状を抱える銀四郎には、監視の刑事の他に担当の医師がついている。

 彼女は『掃除屋』による療法を提案し、バックアップもこなす『先生』でもあった。



 エージェントには外で待機してもらい、いつもの診察室に入った。

 その途端――――『先生』こと、副來智菜ふくらいともなは驚きの表情を浮かべた。

「銀四郎くん、どうしたの⁉ ボロボロじゃない……」

「あ、えっと、ちょっと転んじゃって」

 自分の状態をすっかり失念していた。はぐらかしながら彼女の対面に座る。

 白衣を着た副來ふくらいはセミロングの黒髪に、完璧な美貌とスタイルを誇る、優しい女性だ。

 だが、鋭い瞳でこちらを観察する『先生』に――――ごまかしは通じない。

「嘘ね。今はもう取り繕っているけど、入ってきた時のあなたは眉と上瞼うえまぶたの内側、下瞼したまぶたをわずかに上げていた。目線もうつむき気味。悲しみの兆候が視えたわ」

「いや、それは……」

「口元は中立の位置だった。自己抑制の意思もありそうね。つまり辛いことがあったのに、何らかの理由で堪えなければならない。そんなところかしら?」

「――――」

「手当てはしてある。一体どんな状況だったの? 女の匂いも四人分ついてるし」

「そこまで分かるのか⁉」

 たしかにアリス、姫子、貞乃、江野、と数は合っている。

 いろいろと図星だった。そもそも彼女は銀四郎のカウンセラーでもあるのだ。

 隠し事をできると思う方が、間違っていた。

「ごめんなさい……どうしても話せないんです」

「私にも、言えないこと?」

 黙ったまま、うなずくしかなかった。

『掃除屋』の仕事に『紅桜』の発症、銀四郎はこれらの秘密を先生と共有している。

 とはいえ副來にだって生活がある。『八咫烏』との一件に巻き込むわけにはいかない。

「これは俺が向き合って、解決しなくちゃいけない問題です。しばらく会えなくなるけど、必ず帰ってきます。今日はそのことを伝えたくて……」

「銀四郎くん」

 先生が両腕を伸ばし、銀四郎をそっと抱き寄せる。

 穏やかな温もりが、冷え切っていた心を溶かしていく。

「私はね、心配なのよ。それだけの傷を負っても、あなたは痛めつけられたことに怒りを感じない。当然のことだと受け入れてしまっている」

「……悪いのは俺です。俺がちゃんと心を強く保っていれば、紅桜の発症はなかった。掃除屋なんて物騒な仕事に手を出すことも、なかった」

「人の心は、私たちの予想よりずっと脆くて儚いものよ。完璧に見える人間がいても、内側まで同じとは限らないの。銀四郎くんは悪くない。むしろ頑張っているじゃない」

「でも、怖いんです。クソ親父を否定しても、紅桜が景元の『正義』に起因していたら……無駄なんじゃないかって」

「そんなの、ただの仮説よ。何の科学的根拠もない。もしそうだったとしても、私が新しい療法を考える。何度でもね」

 副來は最後にチュッと、銀四郎の額に口づけした。柔らかな感触が伝わってくる。

 スキンシップには慣れていたが、さすがに顔が熱くなってきた。

 慌てて距離を取ると、彼女がくすくすと楽しげに笑う。

「ちょっとしたサービスよ。これ以上は踏み込まないことにするわ。もちろん、いつでも相談してね」



 副來が何者なのかは、実のところよく分かっていない。本人も話したがらない。

 少なくとも裏稼業を勧める辺り、堅気の者ではないのだろう。

 別に構わなかった。銀四郎にとっては、道を示してくれた恩人なのだから。

『紅桜』を抑えるためのワクチンを注射してもらいながら、ぼんやりと考えていた。

 むろん気休め程度のものだ。それでもデータを取ることで科学は進歩していく。

 ちなみに彼女の歳も判明していない。うっかり、質問を口にしかけた時だった。

「銀四郎くん。レディに対して、聞いてはいけないことって知ってる?」

「え?」

「年齢よ」

 注射器を握る先生の手が、バキバキと嫌な音を立てる。

 命の危機を察知した銀四郎は、ブンブンと風を切る勢いで何度もうなずいた。

 やがて、針がゆっくりと皮膚から抜かれる。消毒も終えて、テープが貼られる。

「しばらく、激しい運動は控えてね。今日はそれ以外のトレーニングをやっておきましょう」

「はい」

 ワクチンの他にも、副來の病院でやることはたくさんある。

『訓練』もその一つ。技術と体力は『掃除屋』を続けていくのに必要な要素だ。

 接種のない日は、先生がリハビリの名目でクラヴマガの教室を開いてくれる。

 しかも、射撃の練習もできる。

 もともとこの病院が建つ前は、アミューズメント施設があった。

 地下はボーリング場となっていた。あろうことか副來はそこに手を加え、『射撃場』を造り上げてしまったのである。

 本当に、とんでもない人だ。さらに彼女は、『眼』のトレーニングも取り入れている。

 まず、A4紙の四隅に点を描く。そして番号を振り、順番の通りに目で追っていく。

 三分間ほど繰り返す。これで六本の外眼筋がいがんきんを鍛えられる、可動範囲が広がるのだ。

 拳銃の照準を合わせる時も、目だけで追うことができる。

 ここの柔軟性に欠けているとうまく追えず、頭も一緒に動いてしまう。

 そうなれば照準もぶれて、正確な射撃ができなくなる。

 次はヒモに三色の玉を通した器具、『ブロック・ストリング』を使うトレーニング。

 数珠じゅずに似ている。ヒモを鼻の中心に当て、反対側を柱に結びつける。

 三つの玉は15センチ、40センチ、80センチ程度の間隔で……配置。

 手前、真ん中、奥とピントを合わせつつ、視点を移していく。

 これで距離感や、奥行きを正確に把握する『立体視』がうまく働く。

 最後は『周辺視野しゅうへんしや』――何かを見る際、その周囲の情報も読み取る能力。クラヴマガにおいても重要な部分。

 紙に直径80センチほどの円を描き、1から12までの数字を時計のように書き入れる。

 中央に星のマークをつけて壁に貼る。続いて両目の視点をマークに固定。

『周辺視野』で数字を認識、同時にマークから数字へ視線を飛ばす。

 迷うことなく数字に到達していれば、合格。

 どれも地味なトレーニングだが、こうした積み重ねが『広い視野』や『動体視力』を養う。

 現に先生はこの鍛錬で強い『眼』を手に入れ、表情分析まで可能にしている。

 さきほどのように、顔のわずかな変化も見逃さないのだ。

 そんなすごい人のおかげで救われた。共感覚『銃眼』も、最初から使いこなせていたわけではない。

 銃に色を感じること自体に、恐怖を覚えていた頃だってある。

 彼女は銀四郎の突拍子もない体質を信じ、正しく導いてくれた。

 あとは、表情分析……練習してはいるものの、医者とカウンセラーを兼ねる副來には遠く及ばない。

「…………」

 銀四郎がイスに座ってトレーニングする間、先生は机のパソコンと向き合っている。

 つまり、無防備な表情を晒していた。

真剣な横顔をじっと見つめ、表情分析を試みる。

「……先生」

「ん、どうしたの?」

 副來がこちらに振り返っても、キーボードを打つ手は動いたままだ。周辺視野でパソコンを見ているのだろう。

 さすがの技量に委縮しながらも、銀四郎はおずおずと口を開いた。

「ひょっとして――――怒ってます?」

 ふいに、タイプ音が止まる。先生の顔から、すうっと感情の色が抜けていく。

 重苦しい静寂が訪れた。レディの横顔を盗み見たのはまずかったか。

「ご、ごめんなさい! 唇が薄くなっていて、上下の瞼もちょっと緊張している気がしたけど……ぜんぜん違いますよね」

「いいのよ、ちゃんと当たってるし。表情に出してた私が悪いの……」

 彼女はすぐに元の優しい笑みを浮かべる。

 ただ、どこか暗い影があった。

「そうね、私はずっと怒っているのかもしれない――――『あの時』から」

「あの、時?」

「……銀四郎くんは『千理眼事件せんりがんじけん』について知ってる?」

「いや、知りません。どんな事件なんですか?」

「ずいぶん前の話よ。あなたの世代とは無縁でしょうね……」

 かつて『超能力』の存在を、本気で証明しようとする学者がいた。

 彼は副來博士ふくらいはかせと呼ばれる。

「え、副來?」

「偶然、同じ苗字だったの。だから私もこの事件に興味を持った」

 博士は、不思議な霊能力を持つという一人の女性と出会う。

 さっそく実験が行われた。彼女は次々と驚きの成果を挙げていく。

「でも実験を巡ったトラブルや疑惑、過剰な批判も後を絶たなかった」

「それで……どうなったんですか?」

「能力者は追い詰められて自殺、博士はペテン師扱いで孤立してしまったの」

超能力を排斥すべき迷信とみなす、当時の風潮が原因だったらしい。

「『千理眼』は実在したのか、今ではもう分からない。けどこの問題は、現在でも起こりうることよ。たとえば私の表情分析」

「というと?」

「仕組みを知らない人間からしたら、不思議な能力に見えてしまう。あなたの共感覚『銃眼』もよ」

 共感覚は一つの刺激に対して、二つ以上の感覚が働く知覚パターン。

 銃眼のカラクリもそうだ。『銃』に対して、五感が過敏に反応しているに過ぎない。

「自分の能力に溺れちゃダメ。不可解に思えることにも必ず裏がある。忘れないでね」

「……はい」

 そこで、ふと気づく。

 八咫烏が敵対するカルト教団『千理の瞳』にも、同じ二文字が使われていた。

 名称の意味も重なる。副來に聞いてみようとしたが――――

「あ、れ?」

 急に、視界がぐらついた。倒れかけた体を、先生が支えてくれる。

「銀四郎くん⁉」

 熱い。身体中が、熱い。特に、『紅桜』のある右腕。

 意識がぷつんと切れた。



「うう…………あ」

 診察室のベッドで、目を覚ました。先生が、心配そうに覗き込んでくる。

 汗でびっしょり濡れていたものの、体はだいぶ楽になってきていた。

 しかし、右腕に違和感がある……最悪の可能性が頭をよぎった。

 上半身を起こし、副來の前だろうと構わずブレザーとワイシャツを脱ぐ。

 隠ぺい用の湿布を貼った、右腕を目にして愕然とする。

「嘘、だろ」

『紅桜』の浮き上がった血管が――――二の腕まで伸びていたのだ。

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