第5話「最初の犠牲」

朝の光が謁見の間に差し込んでいる。レオニス王は玉座に座り、宰相ヴァルクは傍らに控えていた。二人の前には、東方からの伝令が跪いている。その顔には、恐怖と焦燥の色が濃い。


「フェルナンド街が、ワイバーンに襲撃されております」


伝令の声は震えている。ヴァルクが一歩前に出た。


「被害の状況は?」

「建物の一部が破壊され、火災が発生しております。街の防衛隊では対処しきれず――」


伝令は言葉を切り、深く頭を下げた。


「どうか、勇者様のお力を」


レオニスは目を閉じた。この言葉を聞くたびに、胸が締め付けられる。勇者の力――それは確かに強大だ。しかし、その力がもたらすものを、彼は既に知っている。


「陛下」


ヴァルクが静かに呼びかけた。レオニスは目を開け、宰相を見た。ヴァルクの目にも、同じ苦悩が宿っている。


「...勇者たちを派遣するしかないのか」


レオニスの声は重い。ヴァルクは慎重に言葉を選んだ。


「陛下、しかし前回の件が――」

「分かっている」


レオニスは玉座の肘掛けを握りしめた。


「だが、街を見捨てるわけにはいかぬ」


ヴァルクは深く息を吸った。そして、提案する。


「では、王国軍も同行させましょう。万が一に備えて」


レオニスは頷いた。万が一――それは、魔物への備えではない。勇者たちへの備えだ。二人とも、それを理解している。


「副長ベルナールに率いさせよ。騎士百名で十分か?」

「はい。彼なら、適切に対処できるでしょう」


ヴァルクの言う「対処」が何を意味するのか、レオニスには分かっていた。監視だ。そして、可能な限り被害を抑えること。


「伝令」


レオニスが声をかけた。


「勇者たちと王国軍が、すぐに向かう。街の住民に伝えよ」

「ありがとうございます!」


伝令は深々と頭を下げ、急いで部屋を出て行った。謁見の間に、重い沈黙が落ちる。


「陛下...」


ヴァルクが口を開きかけたが、レオニスは手を上げて制した。


「言うな。分かっている」


レオニスは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。城下では、相変わらず勇者の像の前に人々が集まっている。


「私は――選択肢がないのだ」


その言葉には、深い無力感が込められていた。




王城の中庭で、騎士団副長ベルナール・ドゥ・モンフォールは部下たちに指示を出していた。四十歳、歴戦の軍人である彼は、冷静沈着で知られている。しかし今、彼の表情には緊張の色があった。


「東のフェルナンド街に向かう。ワイバーン討伐の任務だ」


騎士たちが姿勢を正す。ベルナールは続けた。


「勇者殿方も同行される。我々は――」


彼は言葉を選んだ。


「我々は、街の防衛を最優先とする」


騎士たちは顔を見合わせた。その言葉の意味を、彼らも理解している。勇者を補佐するのではなく、街を守る――それは暗に、勇者から街を守ることをも意味していた。


その時、中庭に勇者たちが現れた。ハル、レン、ミカ、クロウの四人は、相変わらず異界の衣服を着ている。


「また魔物退治?楽勝じゃん」


ハルが軽い調子で言った。レンは拳を打ち鳴らしている。


「今度こそ本気出していい?」

「めんどくさ。行きたくない」


ミカが露骨に嫌な顔をした。クロウは例の如く、何かを呟いている。


「運命が我を呼ぶ...戦場という名の舞台へ...」


ベルナールは彼らを見て、拳を握りしめた。前回の報告を、彼はガルフ団長から詳しく聞いている。ルーンベル村の破壊、市民への暴行、そしてフェルナンド街での――。


いや、まだフェルナンド街では何も起きていない。しかし、起きるだろう。ベルナールはそれを確信していた。


「勇者殿方」


ベルナールが声をかけた。


「準備はよろしいですか?」

「あ、はい。いつでもオッケーっす」


ハルが笑顔で答えた。その笑顔に、緊張感のかけらもない。


ベルナールは部下たちに目配せした。騎士たちは馬にまたがる。総勢百名の騎士団が、整然と並んだ。


出発の時が来た。ベルナールは心の中で、ある決意を固めていた。


――街を守る。どんな犠牲を払っても。




フェルナンド街まで一日の道のりを、一行は馬で進んでいた。ベルナールは勇者たちの近くを馬で進みながら、彼らを観察していた。


ハルとレンは、周囲の景色を見て何か話している。ミカは馬の上で退屈そうにしている。クロウは一人、詩を呟き続けていた。


彼らには、緊張感がない。これから戦場に向かうというのに、まるで遠足にでも行くかのような態度だ。


ベルナールは隣を進む部下に、小声で話しかけた。


「街の住民の避難を、最優先で行う」

「はい」


部下が頷く。ベルナールは続けた。


「戦闘が始まったら――住民を守れ」

「勇者様より、ですか?」


部下が小声で尋ねた。ベルナールは前を向いたまま答える。


「...住民を守るのが、我々の使命だ」


部下は何も言わなかったが、その表情が全てを物語っていた。騎士たちは皆、同じことを考えている。前回の惨劇の噂は、軍内部にも広まっていた。


ベルナールは空を見上げた。雲一つない青空が広がっている。しかし、彼の心には暗雲が立ち込めていた。




夕刻、一行はフェルナンド街に到着した。街は城壁に囲まれた中規模の商業都市で、人口は約三千。交易で栄えた街だが、今は――戦場と化していた。


上空に、巨大な影が旋回している。ワイバーンだ。翼を広げれば十メートルを超える翼竜型の魔物は、時折炎のブレスを吐き、建物を焼いていた。


街の防衛隊長ロベルト・カルロスは、城門で一行を出迎えた。五十代の屈強な男だが、その顔には疲労と恐怖が刻まれている。


「勇者様!」


ロベルトは勇者たちの前に跪いた。


「お願いします!街を、お救いください!」

「任せてください」


ハルが軽い調子で答えた。その態度に、ロベルトは一瞬戸惑ったが、すぐに希望の表情を浮かべた。


ベルナールは馬から降り、ロベルトに近づいた。


「住民の避難は?」

「まだ半数ほどが街に...建物に隠れているか、避難中です」


ベルナールの顔色が変わった。


「半数?まだ千五百人も?」

「はい、ワイバーンが上空にいるため、避難が難航しており――」


その時、上空でワイバーンが咆哮した。耳をつんざくような鳴き声が、街中に響き渡る。


「来るぞ!」


防衛隊の一人が叫んだ。ワイバーンが急降下してくる。そのまま、街の中心部に向かって炎のブレスを吐いた。建物が燃え上がり、悲鳴が響く。


「クソッ!」


レンが叫んだ。


「よっしゃ、やったる!」


レンは地面を蹴り、驚異的な跳躍力でワイバーンに向かって飛び上がった。その速度と高さは、人間の域を遥かに超えている。


ベルナールは呆然とその光景を見ていた。あれが――勇者の力。




レンはワイバーンの翼に飛びつき、そのまま拳を叩き込んだ。轟音と共に、ワイバーンの翼が砕け散る。骨が折れ、膜が裂けた。


「っしゃああ!」


レンが勝ち誇ったように叫ぶ。しかし――。


ワイバーンは飛行能力を失い、墜落し始めた。そして、その落下地点は――街の中心部だった。


「待て!」


ベルナールが叫んだが、遅い。ワイバーンの巨体が建物に激突し、周囲の家屋を巻き込んで倒壊する。土煙が舞い上がり、悲鳴と怒号が響いた。


「まだ住民が――!」


ロベルトが絶叫した。


墜落したワイバーンは、まだ生きている。苦しげに身をよじり、周囲の瓦礫を吹き飛ばしている。その動きで、さらに建物が崩れていく。


「じゃ、俺がとどめ刺すわ」


ハルが前に出た。その手に、光が集まり始める。


ベルナールは直感した。――ダメだ。


「待て!」


ベルナールが駆け寄った。


「まだ住民が避難していない!」

「え、マジっすか?」


ハルは首を傾げたが、既に魔法の発動を止める気はないようだった。


「えーと、前より威力抑えるか」

「やめろ!」


ベルナールの絶叫が、街に響いた。




光球が、ハルの手から放たれた。それは美しい軌跡を描きながら、倒れたワイバーンに向かって飛んでいく。


時間が、ゆっくりと流れるように感じられた。ベルナールは走りながら、部下たちに叫んだ。


「伏せろ!全員伏せろ!」


騎士たちが地面に伏せる。しかし、街の住民たちは――まだ逃げている最中だった。


光球が着弾した。次の瞬間、世界が白く染まった。


爆発。


衝撃波が、全てを吹き飛ばす。建物が崩れ、瓦礫が宙を舞い、炎が広がった。轟音が鼓膜を破り、熱風が肌を焼く。


ベルナールは地面に叩きつけられ、意識が遠のきそうになった。耳が聞こえない。視界が歪んでいる。しかし、必死に意識を保った。


どれほど時間が経ったのか。


ベルナールは体を起こした。全身が痛む。鎧が所々へこんでいる。周囲を見回すと――。


街が、消えていた。


正確には、街の半分が崩壊していた。建物は倒壊し、道は抉れ、火災があちこちで発生している。土煙が空を覆い、視界が悪い。


そして――悲鳴が、聞こえてくる。


「助けて...」

「誰か...」

「痛い...痛い...」


ベルナールは震える足で立ち上がった。周囲を見る。自分の部下たちは――倒れていた。


「おい!しっかりしろ!」


ベルナールは最も近くにいた騎士に駆け寄った。若い騎士だ。まだ二十歳にもなっていない。彼は地面に倒れており、動かない。


ベルナールは騎士の兜を外した。


――目が、開いていない。


「おい、起きろ!」


ベルナールが揺さぶるが、反応がない。脈を確かめる。


ない。


「...嘘だろ」


ベルナールは次の騎士に駆け寄った。彼も動かない。その次も。その次も。


十人以上の騎士が、動かなくなっていた。


「クソッ!クソッ!」


ベルナールは拳で地面を叩いた。涙が溢れてくる。部下が――死んだ。




土煙が徐々に晴れていく。そして明らかになる、街の惨状。


建物の半分以上が崩壊している。残った建物も、ひび割れや傾きが見られる。火災があちこちで燃え上がり、黒煙が空を覆っていた。


街の住民たちが、瓦礫の中から這い出してくる。血まみれになった者、腕や足を骨折した者、泣き叫ぶ子供たち。


ロベルトは呆然と立ち尽くしていた。彼の街が――守るべき街が――目の前で崩壊した。


「これは...これは...」


言葉が出てこない。ただ、膝が震えている。


住民たちの悲鳴が、彼の耳に届く。


「家が...家が...」

「妻は!妻はどこだ!」

「息子が...息子が瓦礫の下に...!」


ロベルトは崩れるように跪いた。涙が止まらない。


「すまない...すまない...」


彼は街を守れなかった。防衛隊長として、住民を守れなかった。


その時、背後から声が聞こえた。


「あれ?また威力デカすぎた?」


ロベルトは振り向いた。


勇者ハルが、首を傾げていた。その顔には――困ったような笑みが浮かんでいる。


「でも魔物倒したじゃん」


レンが言った。


「早く帰ろ。疲れた」


ミカがあくびをした。


ロベルトは、信じられない思いで彼らを見つめた。


彼らは――笑っている。この惨状を前に、笑っている。




ベルナールは死んだ部下たちの傍を離れ、勇者たちに向かって歩いていた。その足取りは重く、しかし確かだった。


「貴様ら...!」


ベルナールの声は、怒りで震えている。


ハルが振り向いた。


「あ、どうしたんすか?」

「我が部下が死んだのだぞ!」


ベルナールは叫んだ。その目には、涙と怒りが混じっている。


「十三名だ!十三名の騎士が、貴様の魔法で死んだ!」

「え、マジ?」


ハルは目を丸くした。

「ごめんなさい」


その謝罪は、あまりにも軽かった。まるで、コップを倒してしまったかのような軽さだ。


「ごめんなさい...だと...?」


ベルナールは剣の柄に手をかけた。引き抜こうとする。しかし、部下が飛んできて彼の腕を掴んだ。


「隊長!ダメです!」

「離せ!」

「相手は勇者です!隊長が殺されます!」


部下の必死の制止に、ベルナールは剣を抜くのをやめた。しかし、怒りは消えない。


ハルは困ったように頭を掻いた。


「えーと...」


そして、首を傾げて言った。


「俺、またなんかやっちゃいました?」


ベルナールは、その言葉を聞いて――。


全身の力が抜けた。


これが――神の使い。

これが――救世主。


彼は膝をついた。涙が溢れてくる。怒りも、悲しみも、全てが混ざり合って、ただ――絶望だけが残った。




翌朝、街の跡地では住民たちが瓦礫の撤去を始めていた。しかし、その作業は遅々として進まない。多くの者が負傷しており、働ける者が少ないからだ。


ロベルトは瓦礫の山の前に立っていた。昨夜から一睡もしていない。彼の目は虚ろで、頬はこけている。


「隊長」


部下の一人が報告に来た。


「死者数、確認できただけで三百十七名。負傷者は千名を超えます」


ロベルトは何も答えなかった。ただ、頷くことしかできなかった。


「それと...住民たちが、勇者を探しています」

「...勇者を?」

「はい。怒っている者たちが」


ロベルトは重い足取りで、住民たちの元に向かった。広場には、数十名の住民が集まっていた。


「勇者はどこだ!」


一人の男が叫んだ。


「勇者が街を滅ぼした!」

「我が家族が死んだ!」

「責任を取らせろ!」


怒りの声が、次々と上がる。ロベルトは彼らの前に立った。


「...勇者たちは、既に王都に帰還した」

「何?」


住民たちが驚愕する。


「逃げたのか!」

「責任も取らずに!」


怒号が響く。しかし――その声は、すぐに別の声に遮られた。


「勇者様を侮辱するな!」


広場の端から、別の住民たちが現れた。彼らは勇者の信奉者たちだった。


「勇者様は魔物を倒してくださった!」

「街が壊れたのは、魔物のせいだ!」

「勇者様に感謝こそすれ、文句を言うなど!」


二つのグループが、睨み合う。


ロベルトは、その光景を見て――絶望した。


住民たちすら、分断されている。




同日の午後、王城の謁見の間ではベルナールが報告をしていた。レオニス王とヴァルクは、彼の言葉を黙って聞いている。


「ワイバーンは、討伐されました」


ベルナールの声は、震えている。


「しかし――街の半分が崩壊しました」


レオニスが息を飲む。


「死者、三百十七名。負傷者、千名以上。そして――」


ベルナールは一度言葉を切り、続けた。


「我が部下、十三名が戦死しました。負傷者は三十名を超えます」


謁見の間が、静まり返った。レオニスの顔が、蒼白になる。ヴァルクは拳を握りしめた。


「...兵が、死んだのか」


レオニスの声は、かすれていた。


「はい」


ベルナールは深く頭を下げた。

「私の責任です」

「違う」


レオニスは立ち上がった。


「これは――私の責任だ」


レオニスは玉座から降り、窓辺に歩み寄った。


「何故だ!何故こうなる!」


王の叫びが、謁見の間に響いた。ヴァルクは何も言えなかった。ベルナールも、ただ頭を下げている。


レオニスは拳で壁を叩いた。


「勇者を召喚したのは私だ。彼らに任務を与えたのも私だ。そして――」


彼は振り向いた。その目には、怒りと悲しみが混じっている。


「兵を死なせたのも、私だ」




夕刻、城下町では噂が広まり始めていた。しかし、その内容は――歪められていた。


「勇者様が、大型魔物を討伐なさった!」

「さすが勇者様!」

「フェルナンド街は、救われたそうだ!」


酒場で、市場で、路地で――人々はそう語り合っていた。


ある男が、疑問を口にした。


「しかし、街に被害が出たと聞いたが?」


すると、周囲の者たちが即座に反応した。


「それは魔物が暴れたからだ」

「勇者様のせいではない」

「勇者様が来なければ、もっと被害が出ていた」


男は口を閉ざした。それ以上言えば、自分が孤立することを理解していたからだ。


別の場所では、真実を語ろうとする者もいた。


「いや、私の親戚がフェルナンドにいてな。聞いたんだが、勇者の魔法で街が――」


しかし、その声はすぐに封殺された。


「デマを流すな!」

「勇者様を侮辱するつもりか!」

「そんな嘘をつく奴は、国の敵だ!」


真実を語る者は、糾弾された。そして――沈黙を余儀なくされた。


こうして、城下には「勇者が街を救った」という物語だけが広まっていった。




夜、王城の廊下でレオニスは一人歩いていた。彼は勇者たちの部屋に向かっていた。このままにはしておけない。問い詰めなければ。


しかし、廊下の角で――王女フィリアに出会った。


「父上」


フィリアは微笑んでいる。


「勇者様が魔物を討伐なさったそうですね。素晴らしいことです」


レオニスは立ち止まった。


「フィリア...」

「はい、父上」

「勇者たちは、街を破壊した。兵を殺した」


フィリアの笑顔が、消えた。


「父上、何を仰っているのですか」

「事実を言っている」


レオニスは娘を見据えた。


「フィリア、目を覚ませ。勇者たちは――」

「魔物を倒してくださったのでしょう?」


フィリアがきっぱりと言った。


「街の被害は、魔物のせいです」

「違う。勇者の魔法で――」

「父上」


フィリアは一歩前に出た。その目には、強い光が宿っている。


「勇者様は正しい。常に、正しいのです」


レオニスは、娘を見つめた。そこにいるのは――もはや、自分の娘ではなかった。


「...フィリア」


レオニスの声は、悲しみに満ちていた。


「お前は...もう、戻ってこないのか」


フィリアは微笑んだ。しかし、その笑みは冷たかった。


「私は、正しい道を歩んでおります」


彼女はそう言い残し、去っていった。


レオニスは廊下に一人残され――膝をついた。


娘を失った。いや、失ったのは娘だけではない。国を、民を、全てを失いつつある。




深夜、兵舎ではベルナールが一人、死んだ部下たちの遺品を整理していた。机の上には、若い騎士の手紙があった。


『母上、僕は今、王城で騎士として働いています。誇りを持って、民を守っています』


ベルナールは手紙を読み、涙が溢れてきた。


「すまない...」


彼は手紙を胸に抱いた。


「すまない...守れなかった...」


机の上には、他にも遺品がある。婚約者からの手紙、家族の肖像画、お守り――。


ベルナールはそれらを一つ一つ手に取り、部下たちの顔を思い出した。


そして――怒りが湧いてきた。


「勇者...」


彼は拳を握りしめた。


「お前たちは...」


ベルナールは立ち上がり、窓の外を見た。城下では、勇者の像が月光に照らされている。


「許さない」


彼の声は、静かだが強い決意に満ちていた。


翌日、ベルナールはヴァルクの執務室を訪れた。宰相は彼を迎え入れ、二人きりで話をした。


「宰相閣下」


ベルナールは深く頭を下げた。


「私も、手伝います」

「...何を?」


ヴァルクは慎重に尋ねた。ベルナールは顔を上げ、まっすぐにヴァルクを見た。


「勇者を――止めるために」


ヴァルクは、ベルナールの目を見て――頷いた。


「...分かりました」


こうして、反勇者派が――静かに、しかし確実に形成されていった。




深夜、レオニスは執務室で一人、窓の外を見つめていた。城下では相変わらず、勇者の像の前に松明が灯され、人々が祈りを捧げている。


しかし、その光景は――もはやレオニスの目には、悪夢にしか映らなかった。


机の上には、報告書が積まれている。ルーンベル村の破壊、市民への暴行、そして今回のフェルナンド街。


レオニスは手を伸ばし、最新の報告書を手に取った。そこには、死んだ騎士たちの名前が記されている。


エドガー・フォン・ブライト、二十歳。 ルシアン・ドゥ・モレル、二十三歳。 アルバート・ラ・ロシュ、十九歳。


一人一人の名前を読み上げていく。彼らには、家族がいる。恋人がいる。夢があった。


そして――レオニスが、彼らを死なせた。


「私は...間違えた」


レオニスは呟いた。


「あの者たちを召喚したことが...」


いや、と彼は首を振る。


「召喚したことではない。それを認められなかったことが、間違いだった」


レオニスは報告書を机に置き、両手で顔を覆った。


村が破壊された時、彼は見て見ぬふりをした。市民が殴られた時、彼は娘の言葉に屈した。そして今――兵が死んだ。


どこまで目を背ければ、気が済むのか。


レオニスは顔を上げ、窓ガラスに映る自分の顔を見た。疲れ果てた目、深く刻まれた皺、そして――恐怖に歪んだ表情。


「これは...」


彼は静かに、しかし明確に言葉にした。


「召喚の、失敗だったのだ」


その言葉を口にした瞬間、何かが崩れ落ちるのを感じた。それは、希望だったのかもしれない。あるいは、自分自身への言い訳だったのかもしれない。


しかし、事実は変わらない。


「ヴァルク...」


レオニスは独り言のように呟いた。


「お前の言う通りだった」


宰相は、最初から気づいていた。あの者たちが災厄であることを。しかし、レオニスは信じたかった。神話を、伝説を、そして――奇跡を。


「勇者は――災厄だ」


その言葉は、静かに執務室に響いた。


窓の外で、風が吹く。松明の炎が激しく揺れ、まるで何かを警告するかのようだ。


レオニスは窓に手を当てた。ガラスは冷たく、その冷たさが彼の手のひらに伝わってくる。


「魔王より先に...」


レオニスは目を閉じた。


「勇者が、国を滅ぼす」


その言葉と共に、彼の中で何かが変わった。これは――もはや、希望の物語ではない。これは、生き残りをかけた戦いだ。


勇者という名の災厄に対する、抵抗の始まりだった。


月が、冷たく城を照らしている。


静寂の中、レオニスは一人立ち尽くしていた。


しかし、その目には――もはや迷いはなかった。


あるのは、ただ一つ。この国を守るという、王としての覚悟だけだった。




一方、勇者たちの部屋では――。


ハルはベッドに寝転がり、天井を見つめていた。


「今日も疲れたなー」


レンは窓の外を見ている。


「次はもっと強い敵がいいな」


ミカは既に眠っている。


クロウは一人、何かを呟き続けていた。


彼らは、何も気にしていなかった。


街のことも、死んだ騎士のことも、王の苦悩も――何も。


ハルはあくびをした。


「明日は何しようかな」


その声には、何の重みもなかった。


まるで、今日一日が――ただのゲームだったかのように。




遠く、フェルナンドの街では――。


瓦礫の中で、一人の子供が泣いていた。


「お母さん...お母さん...」


しかし、答える声はない。


月明かりが、崩壊した街を照らしている。


風が吹き、静寂が訪れた。


救われたはずの街は――今、深い絶望に包まれていた。


そして――。王国は、後戻りできない道を歩み始めていた。

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