第6話 「私があなたに贈ったもの」

 エステラと再会して一年。リョウエン旅芸団が全滅して一年が経った。彼女がもういないという事実に胸を貫かれたまま生きていけるほど、この世界は静かではない。アランは悲しみを飲み込んで、この一年をこれまでと変わりなく過ごしていた。

「あー!疲れたー!もう動かねぇ!絶対動かねぇからぁ!」

 その日、アランはそう叫ぶと椅子にどかりと座って、持っていた剣や荷物を放り投げた。家には誰もいないが、代わりに隣の家から「騒がしい!」と老女の声が響く。アランは「すみませーん!」と返して、目の前のテーブルに突っ伏した。

 アランは傭兵の仕事から帰って来たばかりだった。今回の依頼は久しぶりに国外で、商船の護衛をしていた。報酬金が一回で十万サラ。田舎ならそれでひと月は暮らせる。アランは十五歳の誕生日を迎えた辺りからアレクシから自由に依頼を選ぶことを許されるようになった。今回は自由に選んだ記念すべき十回目の依頼だったが──ウェントース皇国とアウラルス帝国を往来する商船で、三往復する計十七日の長期依頼はとにかく疲れた。依頼主の商船に乗るにはウェントース皇国の港に行かなければならなかったし、積荷作業も手伝わされるし、船員達は皆男ばかりでむさ苦しく、話も合わなかった。さらに初日に酔って吐いていたら船員たちに爆笑されたので、もう二度とあの商船の依頼は受けないと誓った。

 身体と瞼が重くなって、瞬きの時間も長くなる。家に帰って安心したのか、睡魔が襲ってきたのだ。

(このまま眠っちゃお……飯は後からで……。ベッドは……いいや。辿り着く前に倒れそ…………)

 そのまま睡魔に身を任せた──かったのだが、大きな音を立てて開かれた扉がそれを許さなかった。

「アラン!帰ってきてたのね!」

「……姉ちゃんも、おかえり……」

 義姉のミレーヌだ。彼女の溌剌とした声が頭に響いた。

「帰って来る日が分かったら手紙くらい出しなさいよ!」

「船から出せるわけないだろ……」

 顔を横にして、片頬をテーブルにつけたまま薄目を開けて見ると、ミレーヌは玄関からこちらに向かって歩いて来ていた。昼の白い光に照らされて、白い髪がより輝く。眠い目には眩しすぎて、アランはぎゅうっと目を瞑った。

「あんたねぇ、こんなところで寝ちゃダメでしょう。ベッド行きなさいよ」

「動けない……眠い……」

「も〜っ、手のかかる弟だこと!」

 そう文句を言いながらも、ミレーヌは頬を緩め、アランの後頭部を撫でた。

「おかえり。今晩は私がご飯作ってあげる」

「んー」

 髪を縛っていた髪紐がミレーヌの手によって解かれる。頭にあった突っ張るような感覚が無くなって楽になって、アランはふっと息を吐いた。

 ふと、嗅ぎなれない臭いがして、アランは再び目を開けた。

「姉ちゃん、何か臭う」

「は?何言ってんのあんた」

「変な臭いする」

 ミレーヌは腕捲りした袖に鼻を近づけた。

「あー、言われてみれば?」

「パン焦がした?」

「いくつの時の話してんのよ」

「先月の話だよ」

 町の共同窯で一人だけ黒煙を上げさせていたのは記憶に新しい。ミレーヌは唇を尖らせ、「そうだったかしら?」と目を逸らした。それから虚空を見つめ、相槌を打つ仕草をする。

「ソレイユはなんて?」

 アランはミレーヌに尋ねた。ソレイユは、ミレーヌの見えない友達だ。見えないし聞こえないからアランは直接彼と話をしたことはないが、ミレーヌを通して知る彼は、ミレーヌに比べたら冷静的な部分もある良い人だった。

「焦げても食べられたんだから、無問題って!」

 満面の笑みに、アランは苦笑を返す他無かった。姉という存在の機嫌を損ねたら、弟は今日の残り一日を安心して過ごせない。

「……で、今日はパン焦がしてないの?」

「してないわよ。誰かが焦がしたなんて話も聞いてない。……あ、そっか」

 ミレーヌはまたソレイユに何かを言われたらしく、納得した様子を見せた。

「カフェを見てきたのよ、今日」

「かふぇ?」

「口回ってないわね。カフェよ、カフェ。ほら、王都でも話題になってるっていう、大衆食堂みたいなやつ。コーヒー売ってるところ。きっとコーヒーの匂いね。あんたがいない間に、アプリクスにも開店したの。気になって窓から中を覗いてたのよ」

 完全に怪しい人か、食べ物を欲しがる浮浪者だ。それには触れず、アランは口を開く。

「中に入れば良かったのに」

「だって、人が多くて入る気が失せたんだもの。それに、ああいう流行りものにすぐ乗るのって、なんだかムカつくじゃない?」

「分かんねぇ」

「分かりなさいよ、弟でしょ」

 片頬を柔く摘まれる。黄色の目は楽しそうに細められていた。

「っていうか、もう目覚めたでしょ。昨日のスープならあるから、それ飲んじゃって」

「豆?」

「豆に決まってるでしょ」

 アランは先程よりも覚醒した目を擦り、上半身を起こした。テーブルには、アランの髪紐が置かれている。

「姉ちゃん、よそって。俺、疲れた」

「今日だけよ?」

 わざとらしい大きなため息を吐いて、ミレーヌはスープを器によそいに行く。ソレイユと会話しているのか、時折横を見ていた。

 アランは顔や首の横筋にかかった髪を、頭をぶるぶると振って払うと、テーブルに頬杖をついた。欠伸を一つ漏らして、ミレーヌの後ろ姿を見る。久しぶりに見たが、義姉は何一つ変わっていなかった。

「ねぇ、姉ちゃん」

「何よ」

「俺って、十三歳に見える?」

 器を持ったままミレーヌが振り返る。

「私、そういう外見の年齢っていうの?分からないのよ。皆がそう言うなら、そうなんじゃない?」

「姉ちゃん、今年何歳だっけ」

「夏で十八よ」

「俺、秋で十六」

「……何、私がそうは見えないって話に持って行こうとしてる?」

 よそい終えた器とスプーンをアランの前に置くと、ミレーヌは向かいに座った。器の中に浮いて揺れる豆を見ながら、アランは頷いた。

「周りの奴らと比べると、姉ちゃん、明らかに若いじゃん」

「そうかもね?でも、そんなこと気にしたってどうしようもないじゃない」

「でも気になるじゃん。俺、今回の依頼で子ども扱いされまくって、気分悪かったし」

「どうせ子どもっぽいことでも言ったんでしょ。ほら、アランって苦いの無理じゃない」

「麦水は飲める!」

「飲めない十代の子を、アラン以外に見たことがないわよ」

「飲めなかったのは九歳までだよ!」

「変わんないわよ〜」

 アランは言い返す代わりに、スプーンで豆を掬って飲み込んだ。別に苦くもないのに、苦々しい表情になる。胸の辺りで結んだ髪から枝毛を見つけながら、ミレーヌは話題を変えた。

「そういえば、アレクシも明後日くらいには帰って来るわよ。一昨日、王国軍の依頼を受けに行ったばかりなの」

「王国軍から?」

 アランは目を見開いた。

 王国軍はあまり依頼を出さないし、出したとしても、それは王都にある黎明の傭兵団の団員を対象にしたものである。王族の避寒地にあるとはいえ、春光の傭兵団は中堅よりも少し下くらいの層だ。何か間違いがあるのではないか。アランは訝しげな表情で、ミレーヌに話を促した。

「何でも、人手が足りてないみたいなのよ。ほら、反乱軍鎮圧の」

「反乱軍……って、あの?」

「あのもどれも無いわよ。反乱軍って言ったら反乱軍よ」

 反乱軍は、二十年以上前から世間を騒がせている集まりだ。噂によれば、最初は貴族の家に嘆願書を括り付けた弓矢を放つ程度の細々とした活動を行うばかりだったらしいが、十五年近く前にセルジュ四世がウェントース皇国に喧嘩を売るようなこと言ったのをきっかけに、王国軍の武器庫の一つを占領した。そこから猛威を奮い始めたと聞いている。アランの実の両親も、おそらくは反乱軍に殺されたのだろう。反乱軍は貴族に関わりのある家や裕福な家を襲って物資や情報を調達し、そこに住んでいる人を口封じのため殺すという話だ。野盗よりも統率が取れ、なかなか尻尾を現さない、国家の転覆を狙う悪党集団──それが反乱軍だった。

「反乱軍の本拠地をいよいよ本気で探すことになったらしいわ。大変よね」

「見つかるかな?」

「無理でしょ。だって何十年も残り続けてるのよ?」──声を低くして、とっておきの怖い話をするように続けた。「もしかしたら、普通の国民の顔をしてその辺に潜んでいるかも」

「やめてよ」

 アランの反応に、ミレーヌは小さく笑った。だがすぐにその笑みは消えてしまう。

「……でもね、反乱軍が暴れる理由も分かるわ」

 内緒よ。

 小さな声で彼女は言う。

「税金は多いし、食材は高い上に少ないし、王様は我儘放題。その周辺の貴族も、私たちのこと人と思ってないじゃない」

「でもアンベール侯爵は……」

「そうね。アンベール侯爵は違う。ここの領民で良かったと心の底から思ってるわ。食料庫を解放してくれたもの。でも、この国は結局王様が一番偉いのよ。一番偉い人が、一番やっちゃいけないことばかりやってるからこうなんだわ」

 ここ数年は王国内で寒冷が続いたことと、セルジュ四世が食料の輸入先であるウェントース皇国に喧嘩を売るようなことを言ったせいで、食料が足りなかった。場所によっては飢え死にする者が多かったと聞く。アンベール侯爵はアプリクスを含む自領地内の飢饉を解消すべく、早期のうちから侯爵家の食料庫を解放した。おかげでアランたち領民は生き永らえたが、次に待っていたのは重い税金だった。アンベール侯爵に納めるものではなく国に納めるもので、職人すらも傭兵団に入団して休み無く働くことを余儀なくされた。そしてその傭兵団への依頼も、一時期はかなり減っていた。件のセルジュ四世の話のせいで、ウェントース皇国側からの依頼が途絶えたからだ。今では大分戻ってきてはいるが、このままセルジュ四世が玉座にあり続ければまた同じ状況になることは想像が容易だった。そしてこのセルジュ四世の周りの貴族も厄介だった。話に聞くところによると、彼らは自領の住民たちを他国に売って金を稼ぎ、その金で王城で賭け事に興じているというのだ。信じられなかったが、どの新聞も異口同音にこれを報じていた。発表された数日のうちにその記事が載った新聞が回収されたこともあって、「あれが本当のことだから貴族たちは圧力をかけた」と人々は怒りを燃やした。

「知ってる?この状況でカフェが流行っている理由」

「知らない」

 だが何となくおかしいとは思っていた。余裕の無い生活を送る人々がほとんどなのに、新しい店と飲み物が流行るのは異常だ。

「利用するのに、身分が関係ないからよ」

「え?っていうことは、貴族もいるの?」

「そうなのよ。だから貴族しか知らないはずの情報も、新聞に出てきちゃうってわけ!記者が絶対にいるからね。それに、コーヒーを一杯頼めばあとは長時間でも居られる。分かる?あそこは食堂じゃなく、情報交換の場なのよ」

 納得と同時に一つの疑問が湧く。

「何で姉ちゃんはそれ知ってるわけ?」

「今日カフェに行った時、店員に聞いたから!」

 それを聞いて、アランは首を傾げた。

「中には入ってないんじゃなかった?」

「それがね、中を覗いてたら店員が出てきて、そこで何してるんだって怒られたから、覗いてるだけでしょうがって怒り返したら喧嘩になっちゃって、そしたら最終的になんか仲良くなっちゃったのよ」

「……姉ちゃんって、そういうところあるよね」

 今度はミレーヌが首を傾げたが、アランは何も説明しなかった。

「まあ、そういう流れで、明日仕方なくカフェに行くことになったわ」

「流行りものに乗るのはムカつくってさっき……」

「仕方なくだって言ってるでしょ!」

 全然そうには聞こえない。アランは肩を竦めた。

 カフェの話はそれで終わりと思われたが、翌日、再びカフェの話が浮上した。

 昼までぐっすり眠ったアランは、家で一人、昼食を作っていた。起きた時には既にミレーヌは居なかったし、彼女が書き置きしないのはいつものことだ。昨日言っていた通り、カフェに行っているのだろう。アレクシはまだ帰って来ていない。

 火打ち石で火を起こし、台所を暖める。台所とは言うが、暖炉と兼ねてある。暖炉の上に鍋を置く場所と作業台があって、鍋の中には山羊乳が注がれていた。キャベツを大雑把にちぎって入れて、あとはただひたすら煮込むだけだ。台所から離れたところに置いてある油の壺を覗く。そろそろ底が見える頃だ。油は神聖なものであるため教会が管理し、決まった日に無償で分けてくれる。油は慎重に扱わなければならないから、いつもアレクシが取りに行っている。さすがに次の油の日には家にいるだろう。

 さて次はパンを切ろうか──とアランが動いた時、昨日よりも強く大きな音を立てて、玄関の扉が開かれた。

「麦水って不味いのね!私、初めて知った!!」

 少女のような風貌を輝かせ、興奮してミレーヌが言った。カフェに行ってコーヒーでも飲んだに違いなかった。

「へぇ。そんなにコーヒーってのは美味しかったの?」

 一つ頷いて尋ねると、ミレーヌは扉を閉めアランの近くまで来た。

「美味しかった!!カフェが流行るのは当然だわ」

 確実に昨日言ったことを忘れて味のことしか頭に無い。彼女は余程コーヒーが美味しく、そのコーヒーとほとんど同じ方法で作られた麦水が不味いと感じたことが衝撃的だったらしい。

「あーあ、麦酒は酔えるからまだ良いけど、麦水はダメね。どうして今まであれを飲めたんだろう?」

「そんなことより姉ちゃん。麦酒飲んでたのバレたら、おばさんたちに色々言われるよ」

 おばさんたちというのは、近所に住む女性たちのことである。麦酒を飲むと顔が赤くなるため、女性はあまり飲んではいけないと昔から言われていた。だがミレーヌには知ったことでは無い。彼女は明るい笑顔で両拳を握った。

「言われたら黙らせればいいのよ」

「……姉ちゃんさあ……そういうところだよ……」

 肩を上げてため息を吐いたアランを、彼女は「そういうところって、どういうところ?」ときょとんとした顔で言った。色んな人と喧嘩をしては、悪びれもせず、むしろ自分が正しいという顔をして、それに折れた相手がミレーヌに譲歩するのを何度も見てきた。本当に凄い人だとアランは思う。自分には出来そうにない。

 ミレーヌはアランに対し首を傾げていたが、鼻をひくりと動かすと、台所の方を見た。

「あら、スープ作ってたの?」

「煮込んでる途中。これからパン切るところ」

「じゃあ私がパン切っちゃうわ」

「そうやって自分の分だけ多くするつもりだろ」

「バレたか」

 ミレーヌが舌を出す。アランは笑って、「だっていつもじゃん」と軽く返した。

 それから夜遅くになって、ようやくアレクシは帰って来た。彼はその辺に荷物や付けていた厚い胸当てや鎖帷子を外すと、椅子にどかりと座った。椅子が重みでみしりと鳴った。

「あー疲れた!もう当分は動かねぇ。絶対動かねぇ」

 ちょうど向かいに座って、解れていた髪紐を直している途中だったアランは、彼の言動にどこか既視感を覚えた。

「おかえり」

「ミレーヌは?」

「寝てる。俺に自分の髪紐を押し付けて」

 持っていた赤い髪紐を見せる。幼い頃から彼女が着けている、やけに高そうな代物だ。ランプの光に照らされて、刺繍に使われた絹が宝石のように煌めいた。もう何度も直しているため、その絹も少ない。どこにでも売っている安い糸が、髪紐の端に通されていた。

「そんなのは昼間やれよ。油が勿体ねぇ」

「次の油の日までは持つよ」

「明後日か?」

「その次の日。それに、姉ちゃんが明日までにやっておいてって言うんだ。姉ちゃんの言うことには逆らえねぇもん、俺」

「どこでそんな力関係がついたんだか」

「弓の時。姉ちゃんの方が先に上手くなったから」

「いや、絶対その前からこうだった。少なくとも、俺のところにミレーヌを連れて来る時には」

「そうだったかな」

「自覚無しかよ」

 赤い耳飾りを揺らしながら、アレクシは固まった首の筋肉を解す。ごきっと音が鳴って、本当に首を痛めないのかと心配になる。

「弓っていうと、あいつが家に来てすぐの頃か。お前らもあの頃に比べてでかくなってよぉ」

「……本当?」

 拗ねたような声音だった。アランはどうしてもアレクシの言葉が信じられなかった。

「本当本当。だってお前、今年で十六だろ。ミレーヌは十八か。そりゃでかくもなる」

「俺たち、全然年相応に見られないんだけど」

 唇を尖らせて言うと、アレクシは笑った。

「俺だって、三十一には見えねぇって言われるわ!昔から男前過ぎてなぁ……」

「あっそ」

 そんなわけない。アレクシは明らかに励ましで言っている。アランにはそれが分かっていた。

「生意気になりやがって」

 大きな手が、アランの髪を下ろした頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。

「やめろよ、うざい!」

「なぁにがうざいだ」

 アランは口では拒絶しつつも、アレクシの手を払うことはしなかった。わざとらしく眉を吊り上げて、アレクシを見ていた。

(あーあ、明日はきっとアレクシも昼過ぎまで眠ってるだろうな。姉ちゃんも仕事かな。俺が家事しなきゃじゃん。めんどくせー)

 ランプの光が優しく二人を照らす。セネテーラ王国の夜はいつだって寒いが、アランが震えることはなかった。

 そして四日後の昼過ぎ。アレクシは油の日のため教会に向かい、ミレーヌはパンを焼きに共同窯へ向かい、アランは次の依頼を見つけるために、春光の傭兵団の本拠地へと向かっていた。今日のアプリクスは普段に比べて暖かい。まさに春の陽気だった。心做しか、町を行く人の顔も明るい気がした。自然とアランの足取りも軽くなる。

「おーいアラン、聞いたぜ?稼いだんならうちの製品買ってけよー」

 硝子店の前を通ると、ちょうど若旦那が店の前で休憩をしているところで、足を止められた。彼はアランの幼い頃からの友人の一人だった。

「どこから聞いたんだよ」

「そりゃお前、傭兵団員からさ。とんでもない額を稼いだって!なあなあ、買ってけよ。新しいコップ作ったからさ」

「硝子のコップって、それ貴族御用達のやつだろ。高いじゃん。買わねぇ」

「けっ。最近はみんなそれだ。お前の稼ぎなら一つくらい買えんだろうが」

「じゃあそういう依頼出しておけよ。受けてやるから」

「そんで報酬金は?」

「コップと同じ値段で!」

「ばーか、誰が出すかそんな依頼!」

 笑った彼に背中を容赦なく叩かれる。アランも笑いながら、三発目で躱した。

「止めて悪かったな。本拠地行くんだろ?」

「そ。稼ぎに行きます」

「いつか俺のとこの買ってくれよな。お前のためにとびきり高いのを取っておいてやるよ」

「待ってろ、五十年後に買いに行くから」

「ははは!そん時俺は転生してるよ!でもま、お前なら全然生きてそう!」

 また背中を叩こうとして来るので、アランはひらりと避けた。

「じゃあ行くわ。またなー」

「おー。ミレーヌさんによろしく言っといてくれよー」

 アランは彼に手を振って、再び本拠地へと足を進めた。ふいに頭を過ぎるのは、先程の友人の言葉である。

(俺なら生きてそう、か。さすがに俺だってそのくらいにはもう死んでるよ)

 そろそろ本拠地というところで、アランはまたしても声を掛けられた。

「アラン、なんだかあんたのこと久しぶりに見たよ」

「あ、おばちゃん!」

 町の大工の奥さんだ。近くに住み、面倒見の良い彼女は、いつもアランたちペリエ家のことを気にかけてくれていた。

「最近はずっと家で家事やってたからさ。その前はずっと仕事でこっちに帰って来れなかったんだ」

「あんたも大変だねぇ。傭兵も良いけど、うちの大工にならないかい?給金は少ないけどさ。あんたがいるだけで、あたしの目も安らぐってもんよ」

「……それってどうなんだ……」

「ははは!むさ苦し過ぎるんだよねぇ、うちの男らは。せめてアレクシさんみたいな顔だったらねぇ。あたしももう少し若くて結婚してなきゃ、アレクシさんとこに押しかけてたんだけど」

「あいつずっと初恋を引き摺ってるから無理だと思うよ」

 アランが言うと、彼女は胸の前で手を組んでうっとりした。

「はーぁ、いいねぇ。そういう男がモテるのさ。しかも強いときた。いいねぇ、守られたいよ。そんで彼が心に少しの傷を背負ってたらなお良し」

「わ、分かんねぇ……」

「あんたに分かられても嫌だよ。アランが恋愛なんて、あたしゃまだ早いと思うもの」

 また容赦なく背中を叩かれる。何だか先程の友人よりも痛い気がしたが、彼女の人柄のせいか避けられなかった。

「そういや聞いたかい?あのブランシェ家の人が、アンベール侯爵に会いに行ってるんだってさ」

「ブランシェ?」

 聞き覚えのある名前にアランは反応した。

「貴族なんてあたしもよく分からないけど、普通の貴族とは違うって噂じゃないか。ブランシェ領だって観光で有名だったけど、もうずっと何故か閉じられてる。こりゃ何かあるよぉ。あたしの勘がそう言ってる」

 得意そうに訳知り顔で言うが、アランはほとんど彼女の話を聞いていなかった。

(姉ちゃんに言ったら……どうなるんだろう)

 ミレーヌは元々ブランシェ家の屋敷に行こうとして場所が分からず、彷徨った果てにペリエ家に来た。ブランシェ家の人間がアンベール領地内にいると知れば、何が何でも会いに行きそうだ。そしてブランシェ家の人間も、彼女のことを知れば一度は会いに来るだろう。ミレーヌの白い髪と黄色の目は目立つ。その特徴の意味を町の人間は知らないが、ブランシェ家の人間ならば必ず──。

「おっと、そろそろ戻らないと。アラン、足を止めさせて悪かったね」

「え、あ、うん。じゃあね、おばちゃん。またおばちゃんのご飯、食べに行くよ」

「そん時はアレクシさんとミレーヌちゃんも連れて来なよ。土産に実家からもらった野菜もつけてあげるからさ。うちの男らは一食抜いたところで構わないだろうし」

 笑いながら戻る彼女に背を向けて、アランは重い足取りで本拠地へと入った。壁に貼られた依頼書へと目を走らせるが、文字が頭の中に留まらない。頭の中は、ずっとミレーヌのことでいっぱいだった。

(姉ちゃんがいなくなる……?)

 もしミレーヌがブランシェ家に戻ったら、彼女は平民のアランのことなど、きっとすぐに忘れてしまう。本来の彼女が貴族側だと理解しているからこそ、アランは不安で仕方がなかった。次第に鼻の奥が痛くなって、結局アランは依頼も受けずに本拠地を出た。辺りを見回して、どこにも白い髪が見えず、さらに心細くなる。

 アランは鼻を啜った。とぼとぼと家を目指す。アランがブランシェ家のことを言わなくても、交友関係の広い彼女のことだ、必ず話を聞くだろう。「私、この家を出るわ!」といつものように明るく言うに違いない。

 その時、後ろから覚えのある声が聞こえてきた。

「アラン!」

 幻聴かと思い、アランは足を止めなかった。

「私を無視するなんていい度胸じゃないの、アラン!」

「ぐぇっ」

 肩に腕を回され、その時に腕が首の後ろに強く当たった。アランの間抜けな声に、「何その声!」と笑う声がする。横を見ると、焼きあがったパンが入った籠を持つ、同じ身長の女性がいる。光を弾く白い髪、黄色の目──ミレーヌだ。彼女はアランの顔を見ると、すぐに楽しそうな表情を一変させた。

「アラン、誰に泣かされたの!?どこの家のやつ!?」

「ち、違──」

「言いなさい!お姉ちゃんが全力でぶっ飛ばしてきて、あんたに頭を下げさせてやるから!ほら!言いなさいッ!」

 獣のように恐ろしい顔に詰め寄られる。唾も飛んで、彼女がどれだけ怒っているかが伝わってきた。アランは首を竦め、恐る恐る口を開いた。

「その……姉ちゃんが……」

「えっ、私!?何かした!?」

 アランは唾を飲み込んだ。

「……姉ちゃんが、い、居なくなっちゃうかもって……」

「私がぁっ!?」

 大きな声で周りの人々の視線を浴びたが、それに構ってる余裕は二人には無かった。

「どうしてそんな話になるのよ!?誰に何を吹き込まれたの!?弓ぶっ放してやる!」

「吹き込まれたっていうか……」

「何!?」

 言いたくなかった。だがアランは気迫に負けてしまった。ミレーヌの顔はこれまで見た中で最も怒っていた。アランは小さな声で絞り出した。

「……ブランシェ家の人が、アンベール領内にいるって」

 ミレーヌの動きが止まる。次第に顔から表情が抜け落ちて、アランの肩から腕が外された。

「ブランシェ家……?」

 ぽつりと、彼女はその名前を零した。

「姉ちゃんがこのこと知ったら、ブランシェ家の人に会いに行くかもしれないって思って……」

「それで何で私がいなくなるのよ」

「姉ちゃん、ブランシェ家に行っちゃうでしょ……?」

「……は、はああああ!?」

 周りの人々はミレーヌが賑やかなのはいつものことなので、もうとっくに二人を見ていなかった。

 ミレーヌは頭を抱えて、「なんで!?」「どうしてそうなるの!?」「あんた何だと思ってんの!?」と喚き散らした。

「ね、姉ちゃん?」

「あんたねぇ、私はあんたの……アラン・ペリエのお姉ちゃんなのよ!?なんで私があんたを置いて記憶がほとんど無い家に行くのよ!?」

「でも元々行くつもりで──」

「いくつの時の話よ!?」

 両肩を痛いくらい掴まれる。

「俺が六歳の頃だから……姉ちゃんが八歳の頃」

「そうよね、八歳の時!私、もう十八になるのよ、分かる!?あんたのお姉ちゃんのミレーヌ・ペリエでいた時の方が断然長いの!」

 肩をがくがくと揺らされながら、アランは大きく目を開き、ミレーヌを見ていた。

「私のことちゃんと信じなさい!この馬鹿弟!今日は一緒に眠るわよ!!」

「は、はぁ!?なんでそうなんの!?俺、もうすぐ十六歳なのに!」

「うるさい!私を信じないのが悪い!ほら、さっさと帰る!」

 ミレーヌに引っ張られるように、アランは家へと急ぐ。目の前では足を動かす度に白い髪がふわりと揺れていた。

 いつも見ていた背中だ。遠くに行かない、ずっと自分を導いてくれるものだ。アランはまた鼻の奥が痛くなったが、もう心細くは無かった。

 翌朝。ミレーヌとアランは食糧の買い出しのため町を歩いていた。アランは肌寒く感じて、フードのついたマントを羽織っていたが、ミレーヌは相変わらず薄着だ。彼女は昔から暑がりなのだ。突如城門の方からざわめきが広がり、二人は足を止めた。ざわめきの間から、馬車が一台駆けてくる。立派な馬車だった。

「ありゃ貴族かい?」

「どこの馬車?」

「そういえば今、侯爵様のところにブランシェ家が……」

 人々の囁き声の中にある言葉を聞いて、アランの肩が揺れる。ミレーヌはそれに気づかず、馬車を注視していた。その目の奥にどんな感情があるのか、アランには分からない。だが、昨日散々言われたので、アランは彼女を信じていた。どこにも行かない、自分の姉であると。

 馬車がアランたちの前を通り過ぎる。アランはホッとしたが、馬の小さな嘶きの後、馬車はゆっくりと停まった。人々のざわめきが一層大きくなった。

「ねぇ、誰か降りて来る!」

 小さな子どもが馬車を指さした。御者が開ける前に、中から急いだように一人の老女が飛び出てきた。細身のドレスを見に纏い、白い髪を後ろできつく纏めている。目は何かを探すように人々の顔の上を滑り、そして一つのところで止まった。ドレスを摘んで、音を立てて老女は走って来た。人々はシンと静まり返るが、皆興奮したように息は早く、目を爛々と輝かせ、道を開けて成り行きを見守っていた。

「あなた、そこのあなた!」

 老女の足が止まったのは、ぽっかりと群衆の穴が空いたミレーヌの前だった。やはりと言うべき他無い。間近で見て、アランは老女の目も黄色いことに気がついた。この老女は、ブランシェ家の人間だ。彼女はミレーヌの顔をじっくりと見ると、息を整え、尋ねた。

「あなた、名前は?」

 さすがのミレーヌも垂れた目を丸くしている。だがアランのことを横目で見ると、いつもの顔に戻る。

「なぜ、知らない方にお答えする必要が?」

 見るからに貴族である老女にそんな返しをするとは思わず、周りは一斉に息を飲んだ。平民が貴族に逆らえば酷い仕打ちが待っている。しかし、老女はそうしなかった。彼女はさらに質問を重ねたのだ。

「エトワールという名前に聞き覚えは?」

「あ……」

 ミレーヌの震えた声が漏れる。アランの知らない名前だったが、ミレーヌにとってそれは大きな意味を持っていた。

「エトワールは私の娘なのです」

「え、あ……嘘……」

 ミレーヌの手が横にいたアランの手を掴む。おそらく無意識だった。彼女の手は震えていた。

「あなたは、ミレーヌ……ミレーヌですよね?」

 必死な声に、ミレーヌはただ一言を返した。

「お祖母様……?」

 小さな声で、拾えたのは近くにいたアランと老女くらいだった。老女は目を潤ませていた。

「ああ……本当にエトワールの娘時代によく似て……その髪紐も、あなたの産まれた日に私が贈ったものよ」

 皺だらけの手がミレーヌを抱き寄せる。だが老女の背中に回る手は無い。ミレーヌはずっとアランの手を握りしめたままだった。それに老女も気付く。ミレーヌを離し、彼女がアランの方を見ようとすると、ミレーヌが動いてアランを背に庇った。

「お会いできて、嬉しかったです。でも、それだけです」

「……何を言っているのですか?」

 老女はミレーヌを見つめる。アランの片手がミレーヌの服の背中を握った。

「十年近く前、エトワールが死に、あなたの行方が知れないと聞いて、私がどれだけ……」

「ええ。ミレーヌ・ガルニエはあの時に行方知らずになったでしょう。でも、私はミレーヌ・ガルニエじゃない」

「ええ。あなたはブランシェ。ガルニエから逃げて来ようとしていたのですから」

「……どっちでも変わりません。私は、どちらでも無いから」

 ミレーヌはゆるく首を振った。アランは服を握る力を強くして、姉の背中を見る。

(姉ちゃんは何を言ってるんだ?)

 アランと同じことを老女も思ったようだった。彼女はミレーヌに、「どういうことなの」と尋ねる。

「あなたは何が言いたいの」

「私に構わないでください。私はここで生きてるただのミレーヌ・ペリエ。変に目立って恥ずかしいったらないわ」

 老女は傷ついた表情をして、ミレーヌを見た。全く同じ色の目が合わさる。

「……どうして?あなたも分かるでしょう。今のこの国において、私たちが最も安全なのは──」

「あなたこそ何を言っているんですか。私はこの町にいる。この町が私の住む場所だもの」

 いつになく静かなミレーヌの声だったが、調子を取り戻して震えが取れ、聞き取りやすいものになる。彼女の言葉を聞いて、町の人々が再びざわめき出す。先程までとは違い、そこにはただ、ミレーヌを応援するものが含まれていた。

「そうよ。あの貴族、何だか知らないけど、ミレーヌはこの町の子よ」

「何、ミレーヌったらどこかの貴族の隠し子だったの?」

「まさか!あの暴れっぷりを知ってそんなこと言えるかよ?」

「どうせ他人の空似さ」

 老女もようやく周りに気づいたのか一瞬口を噤んだ。そしてミレーヌの背に庇われているアランの方へと目を向ける。ミレーヌのおかげでアランの姿はほとんど彼女には見えていなかったが、それでも彼女は口を開いた。

「あなたがミレーヌを引き留めるのね」

「ちょっと、私の弟に変なこと言わないでくれるかしら?この子、赤ちゃんみたいに寂しがり屋で臆病なんだから」

 アランは思わず目の前の背中を抓った。ミレーヌは後ろも見ずにアランの手を叩き落とした。

「とにかく、お引き取りください。どうしてこの町に来たのか分からないけど、ここは王族の避寒地として有名ですから、どうぞ観光を楽しんで」

 ミレーヌはアランのフードを被せると、アランの手を引いて踵を返した。

「それじゃあ!」

 老女は追いかけて来なかった。振り向くと、老女は既に背を向けていて、御者に寄り添われながら馬車に戻るところだった。風が吹いて、老女のドレスの裾を震わせた。

 あの老女もまた、大切な人を亡くした人なのだ。娘は死に、娘の忘れ形見であるミレーヌに拒絶をされた。想像するだけで、アランは酷く悲しくなる。老女に姉を渡すことはできないが、ただ彼女の悲しみに同情した。

(ごめんなさい……)

 心の中で謝って、アランはミレーヌに視線を戻し、彼女の横を歩く。

「姉ちゃん、手を引かなくていいよ。歩けるし」

「まあ!昨日とは大違いね」

 ミレーヌの手が離れても、アランは変わらない表情でいられた。

「良かったの?お祖母さんだったんでしょ?」

「いいわよ、別に。言ったでしょ。私はもうとっくに平民のミレーヌ・ペリエなの。ブランシェ家なんてお貴族様のところに、どうして行けというの?」

 髪をくるくると人差し指に巻き付けて、彼女は「ふんっ」と息を吐いた。

「目をつけられたって構わないわよ。私、この町の人に好かれてるから、必ず助けてくれるもの」

「自信が凄いね、姉ちゃん」

「当然よ。だって、私だもの。私、間違えないし」

 アランは苦笑した。どうやらパンの焼き加減を間違えるのは含まれていないらしい。

「でも目をつけられたって知ったらアレクシがうるさいかしら。昔そんな感じの話した気がするわ」

「したっけ?」

「多分初めて会った時ね。でもいいわ。アレクシのことだもの、もう何も言わないでしょ。うちの子だーって守ってくれるわよ」

 アランはアレクシのことを思い出して、ミレーヌの言葉に頷く。アレクシなら絶対に守ってくれる確信があった。二人で目を合わせて笑った後、ミレーヌがアランの肩に腕を回して引き寄せる。

「あーあ、何だか気分悪いわね。アラン、今日も一緒に眠るわよ」

「えっ、今日も!?」

「そう!あと、新しい髪紐作ってくれる?それとも、もう切ろうかしら、この髪」

「なんでそんな突然──」

「気分よ、気分!」

 そのまま二人の足は家へと向かう。家では、今もアレクシがいびきをかいて眠っているだろう。ミレーヌが玄関の扉を開けようとした時、アランは「ああ!!」と大きな声を上げた。

「姉ちゃん!買い出ししてない!!」

「あらっ!」

 二人の騒ぎで、隣の家から「騒がしい!」と声が聞こえた。二人は謝りながら、慌てて来た道を戻って行った。

 そこからはもう、いつも通りの日常だ──そのはずだった。

 日は何度も沈んでは昇った。季節は夏に変わり、町には祭りの季節がやって来ていた。アランが寝起きの目を擦りながら居間に入ると、家族二人は既に起きていた。ミレーヌは台所に立ち、アレクシは椅子に座っている。

「祭りの準備のせいでカフェ行けないわ〜。面倒くさい。働きも制限されるし」

 皿を拭きながらミレーヌが頬を膨らませた。彼女は家事が無い日は市場で手伝いをしており、そこで金を稼いでいた。

「ミレーヌ、稼いだ分は全部カフェにつぎ込む気か?」

 伸びた髭を短剣で雑に切りながらアレクシが聞いた。

「何か悪い?食料分はちゃんと残してるわよ」

「悪くは無ぇけどよ、カフェっていや、悪い噂があんだろ」

「悪い噂ぁ?知らないわよ、そんなの」

「ほら、反乱軍の隠れ蓑になってるっていう──お、アラン。起きたか」

 アレクシがアランに気づいた。アランは欠伸を噛み殺して、テーブルに近寄った。

「朝から何の話?」

 跳ねた髪を梳くとすぐにまっすぐに戻る。昨夜テーブルに放っていた髪紐を見つけて髪を結んだ。それから椅子に座って、伸びた前髪を払った。

「ミレーヌの散財癖について」

「散財癖とは失礼なっ!というか、反乱軍の隠れ蓑ってどういうこと?どこからそんな話が出てるの?」

 ミレーヌはアレクシに早口で詰め寄った。いつもと違うと感じて、アランはミレーヌを凝視した。

「ただの噂だよ。何だってそんな……まさか、あの噂は本当か?」

「知らないわよ。でも本当だったとして、反乱軍が活動してるのはしょうがないんじゃない?だって、全部王様のせいなのよ!王様が全部悪いの!」

 アランは「ああ、またか」と思った。最近のミレーヌは、今まで以上に政治への不満を口にするようになっていた。たまに過激なことを言うものだから、アレクシに注意を受けたほどだ。誰が聞いているか分からない以上、滅多なことは言わない方が良い。しかし彼女の気持ちは、アランもアレクシも痛いほど分かっていた。

「大きな声出すな。この世には言っても良いことと、言わなくても良いことがあるんだよ。こんな状況でも、王の熱狂支持者は居るんだよ。何かされたらどうする」

 アンベール侯爵の裁量もあってか、アプリクス含むアンベール侯爵領内は圧政の中であっても比較的落ち着いた生活ができていた。また、アプリクスは王族の避寒地として歴史が長いため、王の支持者が多かった。そういったこともあって、皆は王の周りにいる貴族をどうにかすれば良いと考え、王そのものの悪事には目を向けなかった。

「反乱軍が目立てば、その分ああいう奴らはさらに熱狂的になんだよ。治安維持するこっちの身にもなれ」

「それは軍人の仕事じゃない!」

「その軍人でも手が回らんからこっちまで来てんだよ」

 アレクシは髭を切り終えると、短剣を鞘に納めて腰に差し、適当に髪を整えて、赤い耳飾りを着けた。そして立ち上がると、隅に置いていた荷物を持って玄関へと向かう。

「今日仕事だっけ?」

 アランが声を掛ける。アレクシは顔だけ向けた。

「大工の手伝い。やったら野菜を分けてもらえる約束でな」

「あー、おばちゃんとこの」

「夕方には戻るわ」

 アレクシが家の外に消えるのと、ミレーヌが皿を拭き終わるのは同時だった。皿は細かい彫りが施されたもので、特別な時にしか使わないやつだ。祭りの時に使うため、棚の奥から出してきたのだろう。

 ミレーヌは肺の底から深いため息を吐くと、アランの隣に座った。

「あのアレクシが手伝い!お金じゃなくて野菜のために!」

「しょうがないよ。輸入止まったって話だし」

 ついにウェントース皇国から輸入が止められたのは、先週のことである。新たな輸入先を探していると噂はあるが、見つかるのはまだ先だろう。どの国も大国の顔を窺っている。農業のできる地域が限られるセネテーラ王国にとって、かなりの痛手だった。

「あの王様さえ居なかったら……」

 ミレーヌが低い声で呟く。アランは咄嗟に窓が開いていないことを確認した。

「……ねえ、アラン」

「何、姉ちゃん」

 嫌な予感がした。彼女はきっと恐ろしいことを言う。

「私、反乱軍に入ろうかしら」

「止めなよ!」

 アランは間を置かずに叫んだ。

「確かに姉ちゃんは喧嘩じゃ負け無しだろうし、弓も強いけど、でも、反乱軍だなんて。王様だけじゃなくて、王様側の国民を殺すんだよ」

「それが何?国はもっと国民を殺してるわよ」

「野盗を相手にするのとは違うんだよ。分かってよ、姉ちゃん。冗談だって言うなら笑えないよ」

「冗談?私がこんな時に言うと思う?同じ国の人間で、野盗じゃなかったとしても、私たち平民を甚振るようなやつを、それを支持してるやつらも、皆悪党なのよ」

 ミレーヌという人間は、いつだって自信を持っている。自分は間違わないと信じ、一度決めたら意思を変えることは無い。だから、頼みごとはいつもアランが折れてきた。それでも、今回ばかりはミレーヌが折れるべきだとアランは思った。

「だからって、姉ちゃんがやんなくてもいいじゃん。反乱軍って、いっぱいいるんでしょ?最近も凄い色んなことしてるって皆が言ってる。なら今の反乱軍に任せておきなよ」

「私が何かしたいの!見てるだけ?待ってるだけ?そんなのできないわよ!」

「ソレイユは?彼は何て言ってるの?本当に姉ちゃんの言うことに賛成してるの?」

 アランはソレイユに賭けた。ソレイユの言葉にはミレーヌを落ち着かせる効果がある。

 ミレーヌはソレイユの言葉を聞いているのか沈黙したが、次の瞬間には宙を睨んでいた。

「どうしてソレイユまでそんなことを言うの?私は間違ったこと言ってない!ソレイユは、昔、私は間違えないって言ってくれたじゃない!正しいって!なのにどうして!」

 普段、ミレーヌはソレイユに対して怒鳴ったことなど無かった。だが彼女は今初めてソレイユに怒鳴って、椅子を倒して立ち上がった。

「姉ちゃん!」

「私、何か間違ってるかしら?私のどこが間違ってるの!?アラン、あなたはこのままで良いと!?」

「良くないよ!でも、危ないことはするものじゃない!ソレイユが反対しているなら、止めなよ。ソレイユはずっと一緒だったんでしょ?」

「ええ、そうよ。ずっと一緒だった!お母様を置いて逃げた時も、お腹が空いた時も、ご飯のために知らないおじさんの膝の上に乗った時も!私は間違ってないって言ってくれてたの!なのにどうして今になって?」

 アランは言葉を紡げなかった。喉もとまで出かかった言葉は、姉の初めて見た涙で消えてしまった。

「私って間違えるの!?じゃああの時のことも間違ってた!?王様が悪いっていうのも間違え!?アレクシもアランも、町の皆も、明日のご飯のことで頭がいっぱいなのに!!」

 もはや絶叫だった。頭上から降るミレーヌの涙と声で、アランは固まっていた。そんなアランに何を思ったのか、ミレーヌは震える足で玄関へと向かった。

「ね、姉ちゃん!待って、どこ行くの!?」

 アランも立ち上がる。ミレーヌは扉を開けて、振り返らずに言った。

「カフェ!!そこに行けばいるもの!!」

 反乱軍のことを言っているのは明らかだった。ミレーヌは外へと駆け出して行ってしまう。

「待って!姉ちゃんッ!」

 アランも家を飛び出す。鍵のことも近所のことも構っている余裕は無かった。一刻も早く姉を止めなければならない。そうでないと、全てが変わってしまう気がして──そして、カフェへと向かう近道の路地へと、二人は足を踏み入れた。

 今日は晴れで、ソリエール自身である太陽の光は、夏の日差しを世界に向けていたはずだった。しかし路地裏に、その光は差し込まなかった。

「イヤァ、俺たちにも運が回って来るとはなァ」

「手間が省けるなァ」

 ねっとりと耳に纒わりつく嫌な声だった。追いついたアランが見たのは、ミレーヌの前に見知らぬ男たちが五人近く居る光景だった。嫌な笑みを浮かべて、彼らはミレーヌを見ている。その内一人がアランに気づくと、笑みが一気に深くなった。

「おォい、こりゃついてる。最高だ」

 ミレーヌが一歩後退る。

「何……何、あんたら」

 アランは腰に手を回すが、そこにいつもの剣は無い。彼は寝起きだった!

「姉ちゃん!」

「アラン、何で来てるの!」

 振り返ったミレーヌの目には、もう涙は無い。その代わり、怯えが張り付いていた。アランはミレーヌのそばまで走ると、彼女を背の後ろへと庇った。

「どうします?とりあえず依頼通りに?」

「そうすっかァ。よォし、纏めてやっちまおう!」

 指示役が手を叩くと、一斉に彼らは二人に襲いかかって来た。すんでのところで避け、アランはミレーヌを元来た方向へと全力で押しやった。

「アラン!?」

 一人抜け出たミレーヌに、アランは喉を壊す勢いで叫ぶ。

「後で絶対追いつくから!!人呼んで!!」

 横腹を男の拳が掠める。アランは冷や汗を流しながら避けた。正直、あと数秒も持たないだろう。ミレーヌが迷う気配があった。男たちの攻撃を見ながらアランは再び叫んだ。

「お願いだから、姉ちゃん!!」

 足払いを掛けられそうになる。避けた先に壁があってぶつかった。

「絶対、絶対助けるからッ!!」

 ミレーヌが叫んで走って行く音がする。アランは頭を掴まれそうになって、後ろに飛んだ。壁から離れ、逃げる道を模索するが、既に囲まれていた。

(──あれ?)

 そしてアランはあることに気づく。彼らは武器を持っている。しかし、誰一人としてアランにその武器を向けないのだ。向けていれば、一瞬で片がつくだろうに。

(なんで──)

 アランが再び蹴りを避けたその瞬間、背後からそれは聞こえた。

「キャアアアアアッ!!」

 聞いたことも無かったが、誰のものかはすぐに分かった。ミレーヌの悲鳴だ。

「姉ちゃんッ!?」

 何が起こっている。何も分からない。ただ、気を取られている間に攻撃を受けたのは分かった。頭が痛い。足が痛い。腹が痛い。打ち付けた背中が痛い。姉が叫ぶ声がする。何を言っているか分からない。何も分からない。ただ攻撃を耐えることしかできなかった。

「本当に運が良いィ。まさか挟み撃ちできるなんてなァ」

 いつの間にか攻撃は止んでいたが、アランは倒れたまま動けなかった。蹴られたのか殴られたのか分からないが、ずっと呼吸が変だった。上手く息が出来ない。

「もういいっすかねェ?」

「そうだなァ、それでもいいか」

 男たちが頭上で何かを話している。何のことか分からなかった。

「おォ、来た来た。それ、お前がやったのか?上手く出来たじゃねェか」

 何者かが路地の入り口の方から歩いて来たらしい。倒れ付したアランには、子どものように小さな足しか見えなかった。「はっ……はっ……」と息をして、状況を理解しようと目だけを動かす。

「できたてホヤホヤ、ガルニエ公爵も喜ぶぞォ」

「これで依頼の一つは終わりだな。あとはこっちだな」

 男たちの会話は聞こえなかった。ただ動かした目の先に、何かがあった。

 それが何か、最初は見当もつかなかった。半分にされた球のように見えた。赤い何かに塗れた半球。違う。人の頭だ。長い髪が伸びて、誰かに握られているから。その手までアランは見ることはできなかったが、人の頭を詳しく見ることはできた。病的なほど白い肌だった。鼻が無い。潰されていた。目が無い。切り刻まれていた。赤い何かは血だった。人の顔だと分かるまで時間を有した。髪は白かった。血に塗れていても輝いていた。

「…………あ」

 白い髪の、白い肌の人間を、アランは知っている。

「……あ、あ、あああ、あああああ!!」

 アランは踏まれて感覚の無い手で起き上がろうとした。起き上がれず、何度も地面に崩れても起き上がろうとした。

「姉ちゃん!!姉ちゃん!!姉ちゃん!!」

 首から下が無い。頭しか無い。顔は壊されている。それでも、その柔らかな白い髪は、この町で、ミレーヌ以外に有り得なかった。そしてあの悲鳴──あの時に!!

「姉ちゃん!!姉ちゃんッ!!ああああああっ!!」

 涙も鼻水も全て流れていた。地面を強く握ったせいで、爪はどこかへ行った。そんなものどうでも良かった。

 あの無残な生首は、ミレーヌだ。

「おいおい、どうするよ?」

「とりあえず静かにさせましょう。おい坊主、歯ァ食いしばっとけよー」

 男の一人がアランに近づいた。そして、強い衝撃を腹に感じた後、アランの意識はぷつりと途絶えた。


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