第2話 「次にあなたの過去を紐解く」

 幼いアランは宵闇の道を走っていた。空は厚い雲で覆われ、ソリエールの慈悲の光さえ届かない。流れる涙と風のせいで、頬が痛いほど冷たかった。

「誰か……っ!誰か助けてっ!!」

 石畳の上に、ぽつりと涙が落ちた。

 ほんの少し前まで、アランは当たり前の幸せの中にいた。代々仕立て屋を営む家に生まれ、両親と通いの針子たちに囲まれて育ったアランは今日、五歳の誕生日を迎えた。晩御飯には大好物の羊肉のシチューが出て、珍しい野菜のピーマンが入っていた。母と父が、今日何度も聞いたお祝いの言葉をまたくれた。

「アラン、お誕生日おめでとう。ソリエールの光のもとで、あなたが幸福に暮らせますように」

 両親から頬や額にキスをもらっていたその時、家のドアが外から乱暴に叩かれた。今にも打ち破らんとする強さだった。この家には玄関が二つあって、表には店の出入口である玄関が、裏には家族用の玄関となっている。今叩かれているのは、後者だった。

「まさか野盗?こんな、街中に?」

「お前とアランは奥の部屋にいなさい!私が見てくる」

「あなた一人で!?危険よ!野盗なら最悪お金や食糧を渡せば済むわ!でも、あの反乱軍だったら──!?」

 アランを抱き上げて、母が父に言い縋る。しかし父は首を横に振り、棚の横に置いていた剣を手に取る。

「奥へ行け!」

「……すぐに戻るから!」

 父の「何て言った!?」という声を背中に、母はアランを抱き上げて奥の部屋へと飛び込んだ。そこは布を仕舞っている部屋だった。畳んであった布の山をわざと荒らして、その中にアランを隠すと、母は言った。

「いい?アラン。私かお父さんが来るまで、決して顔を出しちゃいけないからね。じゃないと、シチューの後のケーキは無しよ」

「お母さん!」

 子どもながらに嫌な予感を感じていた。

「行かないで、ここにいて。怖いよ!」

 しゃがむ母の袖を必死に掴む。視界は既に涙で歪んでいて、大好きな母の顔がよく見えなかった。

 布部屋の外から、怖い音がする。バリン、ガシャン、ドン。色んな物が壊れる音、何かが倒れる音だ。知らない男たちの笑い声もする。父の声は聞こえない。

 母はアランの小さな手を剥がし、勢い良く立ち上がり、部屋の外へと行ってしまう。

「お母さんっ!!」

 追いかけようとするが、すぐに大きな音が聞こえてきて、怖くなって動けなかった。

 アランは英雄譚が好きだった。セネテーラ王国は過去に色んな英雄がいて、その物語を子守唄代わりに、何度も父が聞かせてくれた。英雄に憧れるのは当然で、将来は仕立て屋ではなく英雄になるのだと言ったのは、夕食前だ。

 英雄なら、こんなところで隠れて泣いていない。アランは、英雄にはなれなかった。

 暗い部屋の中で、布に涙を零す。布に包まれて温かいはずなのに、震えが止まらなかった。

 それから少しして、男たちの笑い声が遠くに行った。もう何も聞こえなかった。母も父も来なかった。嫌な予感は止まらなかった。しゃくりを上げながら、布山から転げ出る。お祝いのケーキなんかいらなかった。

「お母さん、お父さん……っ!」

 布部屋を出ると、廊下が伸びている。一番奥には家族用の玄関があって、そのそばの左手には家族用の食卓を囲む部屋があった。二人がいるのは、その部屋のはずだ。玄関とその部屋のドアは開いていた。部屋のドアの隙間から、薄らと燭台の光が漏れている。そこから初めて嗅ぐ匂いがした。嫌な匂いだった。鉄のようなそれが血の匂いだと知るのは、後になってからだ。

 中途半端に開いたドアに手をかける。

「お母さん……お父さん……?」

 いるよね。そこにいるんだよね……?

 ドアを開き切ると、中の様子が嫌でも目に飛び込んで来た。真っ赤な血と、見るも無残な両親の姿──。

 アランは悲鳴を上げると、一目散に駆け出した。家の外に出て、助けを求める。まだ両親は助かるかもしれない。大人が来たら両親は起きてくれるかもしれない。家に来た人たちをとっ捕まえてくれるかもしれない。だから早く誰かに来て欲しかった。

 しかし夜の街は静かだ。アランの家の音が聞こえていたのだろう、誰もが息を潜めている。アンベール侯爵領地内で最も賑やかなこの街は、今、最も静かな街となっていた。

 誰でもいい。悪くない人なら、大人なら、誰だって!

 アランの願いは、雲の向こうに届いた。

「うわっ」

「うおっ」

 泣きながら走っていると人とぶつかった。成人した男のようで、父よりも大きな男は、アランを訝しげに見ていた。両耳には赤い耳飾りが揺れている。初めて会った男だが、アランはこの人ならば信頼できると幼心に思った。彼が両親を助けてくれる!

「坊主、どうした?親は──」

「っお、お母さんとお父さんっ、血、いっぱい、血が!助けて!」

 男の足に縋り付き、両親の助けを乞うた。最初は訝しげだった男も、「血」という単語ですぐに血相を変えた。彼はアランを小脇に抱えて、ぐるりと辺りを見渡す。

「お前の親はどこだ!?」

「家っ……あっち!」──アランの指さした方向に男は走り出す。「仕立て屋!仕立て屋ラポルトだよ!」

「この辺詳しくねーんだよ!おい、あのでけー家か!?」

 男は玄関のドアが開いている家を指さす。アランの家だ。

「あそこだよ!」

「坊主は隣の家のドア叩いて助けを求めろ!俺が中を見てくるから」

 男はアランを地面に下ろすとそう指示し、玄関から中へと入って行った。アランは置いていかれた不安で再びしゃくりを上げながらも、隣家のドアを叩いたのだった。


「お母さんとお父さんは?」

 男と隣家の住人たちが家から出てきて、首を振っているのを見た瞬間、アランは分かってしまった。

 両親の葬儀は、翌朝すぐに執り行われた。早く葬儀を行い、遺体を灰にしなければ、魂が身体に囚われて転生できないからだ──アランは去年の祖父の葬儀で、そう父に教えてもらった。

 どこのソリエール教会の敷地内にも、六本の石の柱に囲まれた広い穴があり、底に続く階段が緩やかに伸びていた。葬儀が行われる時は、必ずこの穴を使う。祖父の葬儀でも使ったが、その時よりも暗く見えた。アランの目の前で、着飾られた両親が侍者たちによって穴の中に丁寧に置かれた。血を拭き取られ、見開いていた目を優しく閉じられた両親は、ただ眠っているようにしか見えなかった。

 司祭が祈りの言葉を捧げる。アランの後ろで、針子たちが泣いていた。厳かな祈りの言葉が続く中、侍者たちによって、両親にランプ油が注がれる。祈りの言葉が終わると、助祭から司祭へと燭台が渡された。燭台には蝋燭が一本刺さり、火が灯っていた。黒い裾を翻して、司祭は階段を降りて行く。

「汝らの魂を、ソリエールの光が導かんことを──」

 司祭の手により、両親へと火が点けられた。火は炎となり、両親を包み込んで行く。大好きだった二人の姿を、炎が奪おうとする。父の黒い髪が、母の白い肌が、赤に溶けていく。

 司祭は穴から戻って来ると、参列者たちが祈りを捧げているのを見回した。大人たちの中に一人だけ子どものアランがいるのを見て、小さくため息を吐く。アランは祈りの手を組みながらも、周りの大人たちのように目を伏せることもなく、燃えていく両親を見続けていた。形が崩れた両親に、生きている両親の影が重なっていた。

「……アラン、目を瞑りなさい。君のお父さんとお母さんの魂が、身体から離れられなくなってしまうよ」

 司祭が優しく咎めるが、アランは視線を逸らさないまま「でも」と小さく呟いた。

「目を瞑ったら、お母さんとお父さんの顔、忘れちゃうから」

「そんなことはない。瞼の裏にも光は届く。慈悲深きソリエールは、君の中から両親の顔を消しはしない」

「……ほんと?」

「ああ」

 司祭の頷きを見て、アランはようやく目を瞑った。そして心の中でソリエールに頼む。

(ソリエール様、お願いします。お母さんとお父さんの魂を導いてください。……生まれ変わったら、また僕に会えるようにしてください。夢の中だけでも、いいから……)

 昨日流しきったはずの涙が、また溢れてくる。両親にはもう会えないのだ。生まれ変わったら、もう「お母さん」「お父さん」と呼べない。それに気づいた瞬間、アランは息が詰まった。生まれ変わって、また会ったところで──。

 最初は炎の音しか聞こえなかった。だんだんと炎の音に混じって、囁き声が聞こえてきた。それに気づいた途端、アランの意識は急激に祈りから現実へと引き戻された。

「アラン坊ちゃんのこと、どうするんだ?」

「親族はみんな亡くなってたはずよね」

「あんなに幼い子が……」

「あんたら、針子だったんだろ?引き取れないの?」

「この不景気で?しかもあたしたちは仕事場を失ったわけだし……」

 アランの耳をその言葉たちが通り抜けて行くと、両親を失った悲しみを不安が押し流した。

(これからどうなるんだろう。お母さんもお父さんもいない子は、どうなるの?お家には帰れないの?)

 誰もアランに声をかけなかった。炎から出たぬるい風が、頬を撫でるだけだった。

 司祭が会話に気づいて咎めようと口を開いた時、別の人物が先に言葉を発していた。

「子どもの前でぐだぐた言い訳すんな、みっともねぇ」

 人々が呆気に取られる中、その人物はアランの頭をくしゃりと撫でた。

「おい坊主、うち来るか?」

 アランが大きな目で見上げると、昨日の男が、野性的な風貌に似合わないほど優しい笑みを浮かべていた。

「おじさんの家?」

「おじさんとはなんだ。俺はまだ二十一だ」

 何かの縁だと葬儀に参加していた彼のことを、アランはよく知らない。どこに家があるかなど、当然知らなかった。

 男は軽い調子でアランをの肩を小突いた。

「ちょうど孫の顔がどうのこうのって言われるようになったんだ。金ならあるからよ、うち来いよ」

「ちょ、ちょっとお待ちなさいな!」

 針子の一人が止めに入った。アランのことを特に可愛がってくれた、初老の女性だ。

「どこの誰とも知れないあなたのところに、行かせられないわ。それにあなたのような粗暴な人、アラン坊ちゃんに何をするか」

 男は肩を竦めて、「いつもこれだ」と笑った。

「でもよ、そっちは誰も引き取れねぇんだろ?」

「それはそうだけれど……。この教会に入ることもできるわ。何も、昨日知り合ったばかりのあなたが引き取らなくても……」

 針子に視線を向けられて、司祭が一歩前に進み出る。

「確かに教会で引き取ることもできるが、アランの選択次第だ。アラン、君はどうしたい?」

 男のもとへ行くか、教会に入るか。突然選択を迫られて、アランは混乱した。小さな頭で状況を整理しようとするが、上手くいかない。「どうしよう、どうしよう」と考えていると、ふと脳裏を過ぎる記憶があった。

(そうだ……。少し前に、友達が教会は厳しくてお菓子が食べられないって言ってた。子どもでもいっぱい仕事しなくちゃならないって)

 思い出すと、すぐに「教会は嫌だな」という気持ちになる。それならば男のところへ行くかというと、すぐには言い切れない。アランはチラリと男を見た。

(おばさんはこの人のこと嫌がってた。でも……)

 誰もアランに声をかけないまま、アランのことをどうするか話し合っていた時、ただ一人、彼だけが声をかけてくれた。昨日もすぐに走ってくれた。見た目は怖いが、彼は悪い人ではない。何より、彼のそばにいると落ち着くのだ。

「この場で子どもに選択を迫るっていうのもな」

「ならどこで?この子はもう、家が……!」

 声を荒らげる針子を、司祭が窘める。

「よしなさい。アランがいる前で」

「でもねぇ、司祭さん──」

 またアランを置いて話が進む。針子が司祭に何か言っているが、アランはもうそれを聞いていなかった。

 男は胸の前で両腕を組んでいた。嫌なものを見たと言いたげに眉根を寄せている。それからアランを見下ろすと、「すまねぇな」と謝った。

「なにが?おじさん、悪いことしたの?」

「もうちっと俺の言葉が上手けりゃ、こんな長丁場にはならなかったんだ」

「……よく分からないけど、でも……」

 話が終わらない針子と司祭を見た後、再び男を見上げる。

「おじさんは僕を助けてくれたよ。だから……」

 アランは息を吸った。心臓がばくばくと鳴ってうるさかった。

「僕、おじさんのとこに行く」

 その一言が空気を切り裂いた。火の爆ぜる音だけが、空気に吸い込まれていく。

 針子や他の参列者、司祭が一斉にアランを見た。しばしの無音があって、針子がアランに言った。

「名前も知らない人のところに行くというの?」

「あ……」

 言われて初めて、アランは男の名前を知らないことに気づいた。針子はまだ何かを言っていたが、アランの耳には届かなかった。アランは男の手を握って見上げる。

「名前なに?」

 男は無垢な瞳をまっすぐに見て答える。

「アレクシ・ペリエだ」

「僕、アラン・ラポルト」

 アレクシの目が、何かを探すようにアランの目の奥を見た。アランには、アレクシの赤い耳飾りが印象的に見えていた。

(男の人でも耳飾りつけるんだ)

 粗暴そうな彼が、女性が身につけることの多い装飾品をつけているのは意外だった。何か思い入れがあるのだろうか。

「そうか、アラン。じゃあ俺のとこに来るで決定だな」

「うん」

 淀みなく終わった会話に、人々は困惑した。アランの意思は固く、覆そうにない。自分たちも今日を生きていくのに精一杯の中、一人放り出されたアランを引き取ってくれる者がいるのだから、これを覆すのもおかしな話だった。

「これもソリエールの導きだろう」

 司祭の声は穏やかだった。あの針子だけは言いたいことがあるようだったが、他の人々が司祭の言葉を肯定するのを見て、口を閉じた。

 アランの小さな手を、男のカサついた手が握った。父のものとは全く違うものだった。アランは母によく似た形の目を、未だ燃える炎に向ける。そこにはもう、両親の影は無い。灰になるまで焼いて、その後に灰は司祭によって川へと流される。きっと泣かずに見送れるだろうとアランは思った。

 その日のうちに、アランはアレクシに連れられて、生まれ育った街を出た。母の裁縫道具と、父がいつも読んでくれた英雄譚の本を一冊。それらと少しの服を袋に詰めて、アレクシが金を弾ませて用意した馬車に乗り込む。

 ほんのひと月前にも馬車に乗った。その時は両親も一緒だった。侯爵夫妻の布支度を依頼されて、将来に備えてアランも連れて行ってくれたのだ。いい子にしていたからと、帰りにお菓子を買ってもらった。そのお菓子を買った店も、侯爵家の屋敷も遠くに過ぎて行く。生家ももう見えない。馬車は街の石畳から、人の足で均された土の上に車輪を走らせる。外の景色は、街から寂しい森へと変わった。

 アレクシの住むアプリクスという町は、同じアンベール侯爵領内にある暖かな街だった。王族が来ることもあるからそこそこ賑やかなのだとアレクシが教えてくれた。

 アレクシは傭兵をしていて、あの夜にアランの生まれ育った街にいたのも、仕事帰りに宿を探してのことだったという。最近ではウェントース皇国の他国との戦争に傭兵として参加して、他の誰よりも活躍したため、かなりお金を持っているとのことだった。

「別のとこに住む親は、あとは嫁と子どもさえいりゃ文句無しだってよ」

 孫なら妹たちがいるから良いだろうによ──そうアレクシはぶつぶつと言った後、「お前の顔見りゃ、満足するだろ」と笑った。

 アランを引き取ってから数日、アレクシは仕事を休んでいた。慣れない環境に置かれたアランに寄り添うためだ。近所の人々は「あのアレクシが」と驚いて、義父子の様子を見ていた。仕事を休んでいる間、アレクシはアランのために慣れない料理を作ってくれたり、新しい服を見繕ってくれたり、剣を教えてくれたりと、感じていた通りの優しい男だった。

「ねえ、お父さんって呼んだ方がいいの?」

 夕食後、何でもない風を装って疑問を投げかける。ちょうど蝋燭に火を点けようとしていたアレクシは、一拍置いてから答えた。

「好きにしろ」

 夜が迫る家の中、蝋燭に火が灯る。いつどんな時でも、その光は温かい。

「お父さんって呼び方はな、なんだかんだ、特別なもんなんだ」

 呼ばなくたっていい──そうアレクシは言った。

 成長すれば、それがアレクシなりの優しさだと分かる。だが幼いアランには、この数日で縮まった距離が、開いたように感じられた。

「……分かった。じゃあ、アレクシって呼ぶ」

「おう」

 その日、アランはすぐにベッドに潜った。

 それからアレクシは仕事を再開すると、アランを連れ回すようになった。「一人で家に置いておくのはな」ということだ。この国の傭兵は戦場で戦う以外にも、人手の足りていないところの警備や、街を移る商隊の護衛、野盗狩り、依頼があれば何でも行う。そこそこ大きな町には必ず一つは傭兵団があって、このアプリクスにも「春光の傭兵団」があった。アレクシはこの一員で、町の中心部にある本拠地にアランを連れて行き、危険な依頼内容の時は渋々そこに預けて行った。

 リョウエン旅芸団の護衛を終えた数日後。アレクシに引き取られて一年が経過していた。アランはその日、春光の傭兵団の本拠地に預けられた。

「夕方には戻って来る」

「うん」

 アレクシの背中を見送ってから、アランは本拠地の奥に向かった。

 本拠地に入ってすぐの部屋には、依頼の受け付け所があり、壁一面に依頼内容が書かれた羊皮紙が貼られている。傭兵たちはそれを見て、受けたい依頼の羊皮紙を持って受け付け所に行く。誰がどの依頼を受けるのかを確認されてから、依頼主のところにその羊皮紙を持って仕事に向かい、仕事の契約を結ぶ。そのため、セネテーラ王国の平民は識字率が高い。文字を知らなければ契約書を読めないし、契約書に名前も書けない。教師を雇えない平民の子は、親の仕事中に傭兵団の本拠地で文字を習うことが多かった。アランは両親の教育で少しの文字から読めるようになってきたところだった。受け付けの部屋から行くことのできる奥の部屋には、文字を習う学習部屋があった。長くて大きなテーブルが二つ、それらを囲むようにいくつも椅子が置いてある。学習部屋には既に、アランと同い年か、少し大きいくらいの子どもたちが数人集まっていた。その内の一人が、入ってきたアランに気づいて手を振った。

「アラン!この間ぶりだな。旅芸団の護衛について行ったってほんと?」

「お前でそれ聞くのは四人目だよ」

 アランの表情が年相応に柔らかくなる。アランはここで友人を作り、少しずつ町に馴染んでいった。友人たちのそばに座って、アランは彼らと話を始める。

「ちょっと有名な旅芸団だったよな?いいなぁ、踊り子とか可愛い子いただろ?いいないいなー」

「かっこいい人もいたんじゃない?いいなぁ!」

「俺は旅芸団の話より、戦場の話が聞きたいぜ!アレクシさんに連れて行ってもらえねぇの?」

 アランは首を横に振った。

「戦場には連れて行ってもらえてないんだ。まだ子どもだからって」

「でもいつかは連れて行ってもらえるんだ?羨ましいー!俺も傭兵になりたい!」

 友人の一人がそう言うと、他の子どもたちも「いいなー」と口を揃えて言い始めた。

 傭兵は稼ぎが良いので、子どもたちには人気の職業だ。だが子どもの多くは親の仕事を継ぐもので、最初に羨ましいと言った友人は、硝子職人になることが決まっていた。傭兵になるのは、家を継がない長子以下の子どもや、家に反発して出てきた子どもだ。ちなみにアレクシは後者らしい。

 アレクシはアランに傭兵になるように言ったことはない。だがこうして本拠地に連れて来られたり、依頼内容によっては連れ回されたりすると、アランに傭兵になってもらいたいのではないかと思う。仕立て屋としての教育はもう受けられないし、最近では剣を振るうのも楽しい。戦場は怖いが、この間の護衛のような依頼ならやってもいいかなとアランは思うようになっていた。

(もし傭兵になったら、エステラのところからまた依頼が来るかもしれないし……)

 そう考えるとアランの頬は熱くなる。あの護衛の後から、アランはいつもこうだった。彼女のことを思い出すと頬が熱くなって、口の端がむずむずする。彼女の弟のマルが羨ましい。いつもエステラといることができて、彼女に弟として守ってもらえるのだから。

 文字を教えてくれる先生がやって来て授業が始まる。昼前には終わって、友人たちは家へ帰って行く。アレクシが迎えに来るまで帰れないアランは、彼らを見送るついでに空気を吸いに外へ出た。空は曇っていた。

「じゃあなー!」

「また今度ねー!」

 駆けて行く友人たちに、アランは大きく手を振った。

「またねー!」

 角を曲がって姿が見えなくなると、アランは寂しげに手を下ろした。アレクシが迎えに来るまで、まだまだ時間はあった。

 近くのパン屋から、風に乗って美味しそうな匂いが漂って来る。風はアランの鼻を掠めて、路地裏へと匂いを運んで行った。風が止んで、人々が目の前を通り過ぎる。つかの間の静寂の中、腹の音がはっきりと響いた。アランは思わず腹を押さえたが、音は止まらない。どころか、この音はアランの腹から出たものではなかった。

 アランは辺りを見回した。自分のものだと思うほど大きな腹の音を出しているのは誰だろうか。目の前の大通りを行く人々は皆足早で、アランにずっと腹の音を聞かせ続けることは無理だ。

(こんなにお腹空かせてるのは可哀想だ)

 空腹のつらさを知らないわけではない。音の主が気になって、アランは大通りから視線をずらした。パンの匂いに被さるように、腐った果物のような匂いが、本拠地の横に伸びる細い路地から漂っていた。

「うぅぅ〜……もう無理ぃ……」

 路地を覗き込むと、か細い声がした。視線を下に向けると最初に乾いた泥がついた裾が目に入って、思わず一歩後ずさった。しかし腹の音はまだ鳴っていて、意を決して二歩近づく。裾から視線を少し上げると、影の中でぼさついた髪の子どもが膝を抱えて座っているのが分かった。膝に額を押付けているせいで顔は分からないが、その薄汚れた姿は、馬車に轢かれたように見えた。

「お腹空いたぁ……」

 子どもはそのまま横に倒れると、「うー」だの「あー」だの呻いた。長い髪が周りに広がって、影から陽の下へと伸びる。アランの目がハッと見開いた。

(……エステラと、同じだ)

 汚れていても分かる。その浮浪児の髪は、エステラと同じ白い色をしていた。

 その子どもは見るからに浮浪児だった。両親にも浮浪児には近づくなと言われてきた。だがアランはその浮浪児を見捨てることなどできなかった。

 アランは本拠地に急いで入ると、自分の荷物の中からパンを一つ取り出した。昼に食べるようにとアレクシに渡されていたものだ。パンを握ったまま、アランの動きは一度止まった。アレクシも浮浪児に近づくなと言うだろうか。

(ううん、アレクシならきっと言わない。だって僕を引き取ってくれたのは、アレクシだ)

 パンを手に路地まで戻ると、アランは何度か口を開閉させたあと、勇気をだして「ねえ!」と浮浪児に声をかけた。

「お、お腹空いてるなら、これあげる!」

 呻き続けていた浮浪児が口を閉じる。億劫そうに起き上がって、浮浪児はアランを見上げた。長い髪の隙間から、見開かれた黄色い目が見えた。その目の色もエステラと同じだった。色が同じだけで彼女と全く似ていないというのに、エステラに見つめられた時のように熱に浮かされる。その熱に急かされて、アランは躊躇いを忘れて浮浪児の手を取った。

「僕、もうご飯食べたし!」

 爪が折れた手に無理矢理パンを掴ませる。浮浪児はぽかりと口を開いてパンを見た。一段と大きな腹の音が鳴った後、浮浪児は勢い良くパンにかぶりついた。喉に詰まらせて何度も咳き込むが、浮浪児の口は止まらなかった。

 浮浪児はパンを食べ終わると、自分の横の地面を叩いた。黄色の目がにこりと細くなって、アランを見上げる。「座れってこと?」と聞くと浮浪児は頷き、アランは大人しく浮浪児の横に座った。嫌な匂いが鼻をつついて息が止まり、立ち上がって逃げ出したくなった。しかし浮浪児の目がエステラを思い起こさせ、アランの動きを止めた。息を口でしながら、アランは改めて浮浪児を観察した。近くで見ると、浮浪児は女の子のようだった。自分よりも年上のようだ。服自体はどこかのお嬢様のようで、だからこそ、何故こんなにボロボロなのか分からない。脳裏に、両親が殺された夜が過ぎる──この子も、誰かに襲われた?

「パン、ありがとうね」

 か細い声は、エステラとはまた違った柔らかさを持っていた。彼女は垂れ目で、髪は服と同じくボロボロになった髪紐で肩口で結ばれている。髪紐は赤色で、光沢の強い同色の糸で刺繍がされている。見るからに高そうだ。

「君はどうしてここにいるの?」

 気になっていたことを尋ねると、浮浪児は何回か咳をしてから答えた。

「逃げてきたの。お母様と馬車に乗ってたら、野盗に襲われちゃったのよ」──唇を尖らせ、宙を睨む。「ソレイユがいなかったら、私だって危なかったわ!」

「ソレイユ?」

「そう!ほら、ここにいるじゃない」

 アランの反対隣を指さす。そこには誰の影もなかった。アランの目に首を傾げたあと、「ああ」と彼女は頷いた。

「私以外の人には見えないんだって」

「え?」

 思わず漏れた声に、彼女は眉ひとつ動かさなかった。淡々と淀みなく話す。

「私にしか姿が見えないのよ。ソレイユっていう男の子。私と同じ八歳だって言ってた。……おかしいでしょう?あ、今、ソレイユが“よろしく”って言ってるわ」

「えっ、えーと……よろしく……?」

 アランが返すと、彼女は満足気に笑った。彼女はまた、誰もいない隣から声を聞いているのだろうか。

(精霊、ってやつ?英雄譚の中に、精霊との話もあったけど……)

 アランの困惑を遮るように、彼女は手を差し出した。

「私はミレーヌ。ミレーヌ。ブランシェ家よ。八歳!あなたは?」

 汚れた手に、自分の手を伸ばす。握った手はカサカサとしていて、女の子なのにアレクシの手のようだった。

「僕はアラン・ラポ──アラン・ペリエだよ。六歳」

「ペリエ?」──ミレーヌは素っ頓狂な声で言った。「ベルトランの人じゃないの?」

「ベルトラン?」

 両親から聞いたことがあるようなないような苗字だ。そういえば、彼女の苗字のブランシェもどこかで聞いたことがある気がする。

「本当に知らないの?」

 心底不思議そうだった。彼女はアランの両頬を両手でがっしりと掴むと、色んな角度からアランの顔を見た。

「やっぱり青い目!緑じゃない!髪だって黒!」

「な、何か変なの?」

「まさか!そんなわけない!」

 アランの両頬から手を離すと、ミレーヌは胸の前で腕を組んだ。

「ブランシェとベルトラン。知らない?本当に、何一つ?」

「聞いたことあるような気はするけど」

 ミレーヌが一つため息を吐き、アランの肩が跳ねる。何か変なことを言ったのかもしれない。アランは恐る恐る聞いた。

「……有名なの?」

「有名とか、そういうのじゃないわ。ブランシェとベルトランは、貴族の名前よ」

「貴族?──あ!」

 アランの耳の奥で、父の声がした。

『アラン、今日は国の話を聞かせてあげよう』

『えーっ!いつもの英雄の話は?』

『新しい本が手に入ったらね』

 父がいつも寝る前に聞かせてくれた物語の一つに、セネテーラ王国の建国時の話があった。いつもの英雄譚よりも昔の話で、おとぎ話みたいなものだと思っていた。

「セネテーラ王国が作られた時に手伝ってくれた人が、セネテーラを守るためにって連れて来てくれた人たちだ!」

「うーん、ちょっと違う……」

 まあそれでも間違いではないけど。

 ミレーヌは難しい顔をしてぶつぶつと呟いた。

「ブランシェとベルトランは、特例貴族。公爵とか、男爵とか、そういう階級のない貴族よ!この国ができた時から、特別な立場でこの国を見ている、すっごく凄い貴族なんだから!」

「へー。アンベール侯爵様より偉い?」

「偉い偉い!とーっても偉いんだから!」

 つまり、今胸を張っているミレーヌは、そんなに凄いところのお嬢様だったというわけだ。

「じゃあ迎えを呼べばいいのに。こんなにボロボロになって……」

 アランがそう言うと、ミレーヌは肩を落とした。肩から胸へと流れる毛をいじり、瞼を閉じる。

「……そう、したかったんだけどね」

「難しいの?」

「……分からないの。ブランシェのお屋敷までどうやって行けばいいのか。私、赤ちゃんの頃に一度行ったくらいで、今まではガルニエのお屋敷にいたから」

 ガルニエは聞いたことがある。公爵の名前だ。アンベール侯爵領の隣に広大な領地を持っている。

「ブランシェの人で、でもガルニエにいたの?」

 ミレーヌが頷く。

「お父様がガルニエ公爵なの。でも、お母様がもうガルニエには戻っちゃダメだからねって、私と一緒に馬車に乗って、これからブランシェだからねって、それで……野盗がお母様を…………」

 ミレーヌの声はだんだんと小さくなって、ついに顔を両手で覆って黙ってしまった。肩は震えていて、時折鼻を啜る音が聞こえた。

「ミレーヌ……あの、その……ごめ──」

「そうよね!あの野盗ども、絶対に絶対に許さないんだからっ!」

 突然ミレーヌは顔を上げて、誰もいない隣に顔を向けて言った。

「ミレーヌ?」

「あ!ごめんなさい。……ソレイユがね、慰めてくれたの」

 アランの方を向いて、ミレーヌは謝った。アランはミレーヌの肩越しから、誰もいない空間を見る。やはりそこには気配一つ無い。

「あのね、あなたは悪くないから、気を使わないでね」

「う、うん……」

「それで何の話だったかしら?ああ、ブランシェ家の話だったわよね!」

 それから彼女は、やけに早口で続けた。

「ブランシェのお屋敷があるのは、王のチョッカツリョウってところなの。ベルトランもよ」

 王の直轄領という言葉を、この時のアランは知らなかった。後になって、セネテーラ王国における王の直轄領というものは、王国内部にありながら王の命令が届かない場所であり、ブランシェとベルトランの両家が治める土地には王国の法とは別の法があることを知った。

「でね、ブランシェ家とベルトラン家の人には特徴があるの」

 汚れた指が、白い髪を指さす。

「普通、白い髪なんておばあさんおじいさんくらいでしょ?でもね、ブランシェ家の人は生まれた時からこの色」

 次に黄色の目を指さす。

「黄色の目は珍しいけど、探せばいるよね?」

 確かに街中で一、二度は見たことがあるが、ミレーヌやエステラほど明るい黄色ではなかった。

「でも生まれてからずっと白い髪で黄色の目の人は、ブランシェ家の血を引く人だけなの」

 それじゃあエステラは──アランは優しい少女の笑顔を思い出す。ここではない別の国で生まれたという彼女の親が、ブランシェ家の人だったのだろう。それが火事で旅芸団に拾われ、世界を旅しているのは、幼い子どもにも不思議なことのように思えた。

「そしてベルトラン家の血を引くのは……」

 ミレーヌの指が、すっとアランを指さした。

「黒い髪と青い目を持ってるの。黒い髪も青い目も、それぞれ持っている人は多いけど、一緒に持っているのはベルトラン家の人だけよ」

 ベルトラン家──アランは貴族の血を引いている?

 確かにアランは生家のラポルト家で平民としては裕福な生活を送れていたが、それは貴族の血を引いているからではない。代々続く仕立て屋で、アンベール侯爵家から直々に仕事を貰うくらいの名店だったからだ。確かに両親のどちらも青い目ではないが、この黒い髪は父方譲りだと聞いている。それに街の人の誰も、アランを指さしてベルトランなどと言ったこともない。

「黒い髪も青い目も普通じゃないの?」

 アランの声には少し棘があった。自分はラポルトとして生まれたのに、それを否定された気分になったからだ。しかしミレーヌは棘には気づかなかった。首を横に振って、「普通じゃない」と返した。

「でも……お母様も言っていたわ。ベルトラン家の特徴は、貴族の中でも見過ごされやすいって。ブランシェ家の白い髪と黄色の目は目立つからそんなこともないけど」

 そこまで言って、ミレーヌが誰もいない隣に顔を向ける。誰も口を開いていないのに相槌を二度打って、またアランの方へ顔を向ける。眉尻が下がった、しょんぼりとした顔をしていた。

「……ごめんなさい。私もお母様にまだ教えてもらってないことがたくさんなの。……もしかしたら、ベルトランやブランシェじゃなくても、こういう髪と目の子はいるかもしれないわよね。ソレイユがね、分からないことだらけなのに、ああ言うのは良くないって……」

 だんだんと小さくなる声に、アランから棘が抜け去った。

「いいよ、気にしてないもん」

「私……ガルニエにはもう帰っちゃいけないって言われたし、ブランシェのお屋敷もどこにあるか分からないし……。お母様が言ってたベルトランの特徴を持つ子がいたから、もしかしたら、ベルトランのお屋敷を知っていて、ブランシェのお屋敷にも連絡が取れるかもしれないって思って、つい……」

 強気に見えたミレーヌも、野盗に襲われ、命からがら逃げてきた子どもなのだ。先ほどの口ぶりからして、おそらく彼女は母は既に──。

 アランは彼女を助けたくて、どうにかならないか考えた。冷たい壁に背中を預けて、「あっ」と閃く。彼の背中に当たる壁は、本拠地のものだ。

「ねえ、ミレーヌ。ブランシェのお屋敷って、誰も知らないの?ここ、春光の傭兵団の本拠地だから、依頼したらそこまで護衛してくれるかもよ。えーと、アトバライってやつすれば、今お金無くても大丈夫だと思う。アレクシって人なら、凄く強いし優しいから、きっと受けてくれるよ」

 だがミレーヌの表情は浮かないままだった。

「ブランシェのお屋敷も、ベルトランのお屋敷も、普通の人は知らないの」

「貴族のお屋敷なのに?」

「うん」

 アンベール侯爵家の屋敷はとても大きくて、街の人ならどこにあるか誰でも知っていた。領民でなかったとしても、少しの知識があれば屋敷がどの街にあるかは知っているはずである。平民は領地を跨いでの引越しは認められていないが、移動することができるからだ。だが、ミレーヌがすぐに頷いたので、幼いアランは「そういうものなんだ」と彼女の言葉を受け入れた。

 アランはボロボロのミレーヌを見る。彼女にはどこにも行き場が無いのだ。

「じゃあ、ミレーヌはこれからどうするの?」

「……どう、するって。私が教えてほしいくらいだわ……」

 彼女の姿に、少し前の自分の姿が重なった。どうすればいいか分からなくて、独りぽつんと立ち尽くすしかなかった。それを救ってくれたのは、アレクシだった。ミレーヌのことだって救ってくれるかもしれない!

「あのさ、僕も、どうすればいいか分からなかったんだ。お母さんもお父さんも死んじゃって、誰も引き取ってくれなくて、教会にも行きたくなかったし。そしたらね、アレクシが僕を引き取って、アレクシの子どもにしてくれたんだ」

 ミレーヌは、きょとんとしながら瞬きをした。

「だから、どうすればいいのか分からないなら、ミレーヌもアレクシに助けてもらおうよ!アレクシならきっと助けてくれるよ」

「それってつまり……」

 ミレーヌの両手が、素早くアランの右手を掴んだ。彼女は身を乗り出して、アランの鼻に自分の鼻が当たるほど近づく。

「アラン!あなたの家族になれということ?」

 アランは数秒固まった後、ぎこちなく頷いた。

「確かにそういうこと、なのかも……?」

「まあっ!私、弟が欲しかったのよ!お母様のお腹の中にね、弟か妹がいたの。きっと弟だろうって、私、毎日話しかけていたんだから!」

 アランから手を離し、ミレーヌは嬉しそうに笑う。

「弟!私に弟ができたわ!」

 彼女の高く楽しそうな笑い声が路地に反響する。光が差して、ミレーヌはきらきらと光って見えた。泥やボロが目立っていても、彼女はこうして笑えるほど強い人なのだ。飢えて苦しんでいた姿が嘘だったように、彼女は強い力でアランの手を握った。

「アラン、あなたは私の弟よ!」

 彼女は、自分の姉だ。

 乾いた布に水を垂らすように、その事実が胸に染み込む。体から力が抜け、頭がふっと軽くなる。エステラと会った日から口の中で燻っていた言葉が零れた。

「──姉ちゃん」

 ミレーヌの目が喜びで緩む。

「ええ!私があなたの姉よ!これからよろしくね、アラン」

「うんっ、姉ちゃん!」

 アランが破顔すると、ミレーヌは耐えきれなくなったようにアランに抱きついた。驚くアランに、ミレーヌは笑い声を降らせる。

 陽光は優しく二人の子どもを包み込んでいた。


 陽が落ちようとしている頃、アレクシはその足を春光の傭兵団の本拠地へと踏み入れた。いつもこの時間になると、学習部屋にいるのは自分の養子となったアランだけ──のはずだった。今、彼の目の前にはアランとボロ布を纏った幼い少女がいた。二人の手は繋がれていて、距離も近い。アランの目は真っ直ぐにアレクシに向いていた。

「アレクシ、姉ちゃんだよ」

「……はッ!?」

 アレクシの声は大きく、子ども二人は揃って肩を跳ねさせた。彼の驚きを二人は理解しておらず、なぜそんなに驚くのかと顔を見合せて不思議そうにしている。

「なに?どういうことだよ!?聞き間違いか?」

 ミレーヌはアレクシを見上げて、ぺこりとお辞儀をする。手はスカートを持ち、片足は軽く下げている。令嬢の挨拶として完璧なものだった。アレクシの目が丸くなる。

「あなたがアレクシさんね。私、ミレーヌ。アランの姉になったから、よろしくね」

 彼女は人好きのする笑顔を浮かべているが、誰の意見も聞きそうにない気の強さが感じられた。

「よろしくって言われてもよ……おい、アラン!どういうことなんだ!?」

「えっと──」

 アランはミレーヌが姉となった経緯を話した。聞いている途中、アレクシは百面相しており、それを見たミレーヌはクスクスと笑っていた。

「──それでここの人に石鹸を借りて、近くの川で水浴びして、なんとか匂いがマシになったんだ」

「大変だったわよね。川の水って温かくならないのかしら」

「そんなところまで聞いてないんだが……。まあ、とりあえずは分かった」

 近くの椅子にどかりと座って、アレクシは無造作に伸びた髪をかきあげる。髪からぽろりと固まった泥の欠片が落ちた。今日は野盗討伐の依頼だったからか、体のところどころが汚れていた。

「ミレーヌ、お前、貴族なら家付き合いもあんだろ?他の貴族に助けを求めればすぐだろう」

「他の貴族のことは、お母様は何も言わなかった。それに、私八歳よ?社交界に入ってもいないんだから」

「お貴族様の事情は、平民には理解し難いものがあるな」

 アレクシはため息を吐いてしばし考える様子を見せた後、口を開いた。

「……金はまあ、ある。うちに来てもいい」

 アランとミレーヌは揃って喜びの声を上げた。それに一度アレクシから待ったが掛けられる。

「おい、いいか。貴族に目をつけられたら、すぐに追い出すからな」

「えっ!?僕の時と違う!」

 思わず声を上げたアランに、アレクシは「そうだ、違う」と返した。

「アランの時と今のミレーヌじゃあ状況が違うんだ。ミレーヌの父親は生きてるんだろう」

「生きてるでしょうね」

 父親のことだというのに他人事だ。ミレーヌは水浴びの時に結び直した髪紐を触る。心底興味が無いと言うように。

 そういえば──と、アランは思い出す。ミレーヌは母にガルニエの屋敷には帰ってはいけないと言われていた。

(でも、それってなんで?お父さんがいるのに?)

 アランは腕を組んで首を傾げる。その頭を大きな手が乱暴に撫でて、アランは目を丸くした。

「貴族ってのは厄介だ。アランは子どもだからよく分かんねぇだろうが」

 撫でる手に身を任せながらムッとした表情を見せると、アレクシは口角を上げた。それから彼はアランからミレーヌへと視線を移した。

「ま、目をつけられるまではうちの子ってのは変わらん。それでもいいか?」

「ええ。あなたって、見た目じゃ分からないくらい優しいのね。アランが言ってた通りだわ」

 ミレーヌは小生意気に言った。

「あーそうかい。そんじゃ、帰っか」

 椅子をぎしりと鳴らし、アレクシは立ち上がる。彼は本拠地の奥の方にいた何人かの仲間に声を掛けると、幼い二人を連れて外へと出た。右隣をアレクシの手を握ったアランが、左隣をミレーヌが歩く。空は赤く、三人の影を長く遠くへと伸ばしていた。

「アラン、私がお姉ちゃんなんだから、言うことは聞くのよ。弟ってね、そういうものなんだから」

「そうなの?」

「そうなのよー。まずはそうね──」

 ミレーヌがアランに何やら無理難題をふっかける。アランの「えー!」という叫びを聞きながら、アレクシはぽつりと呟いた。

「飯、どうすっかなぁ」


 その日の夕食はパンと、昨日作った豆のスープだった。その時に聞いた話によると、ミレーヌは約二週間彷徨っていたらしく、「温かいご飯だわ!」と大層喜んでいた。ただ、いきなり多く食べ過ぎてしまったようで、今は痛む腹を押さえながら、アランのベッドで唸りながら寝返りを打っている。

 アランは居間の窓辺に、食卓から椅子を運んだ。座ると足が床につかず、彼は足をブラブラ動かしたまま、木製の窓に手をかけた。窓を開ければ、月光が地上を照らし、遠い山の頂に残る雪が輝いているのが見える。ミレーヌの唸り声を聞きながら眠るのは難しい。彼女が静かになるまで、ここにいようと彼は考えた。

 この家はアレクシが故郷から出てきた時に買ったものだそうだ。玄関から中に入るとすぐに食卓と台所のある居間があって、奥の壁には扉が二つ。片方はアレクシの寝室で、もう片方はアラン、そして今はミレーヌの寝室でもある。アレクシが仕事で使う武器や手入れの道具も居間にある。居間に入り込んだ月光が、それらを鈍く光らせた。顔の高さで手を組み、目を瞑る。

(……お母さん、お父さん。僕、姉ちゃんができたよ。二人はもう、生まれ変わった?……赤ちゃんの二人って想像できないや)

 月はソリエールの慈悲の顔で、人々を不安から救ってくれると司祭から話を聞いた覚えがある。だが、アランは夜になるといつも不安が止まらなくなった。

(……ソリエール様は、本当に僕を救ってくれるの?二人は本当に生まれ変わっているの?)

 誰にも聞けないことを心の中に零す。アランの両親はもういない。両親の魂ももしかしたら──アランは急いで首を振った。

(今のは違います!だからどうか、僕を見捨てたりしないでください……。アレクシも姉ちゃんも、友達も、隣の家のおばちゃんやおじちゃんも、みんなみんな、死んだりしませんように……)

 もう二度と、あの大きな火を見たくない。大事な人の変わり果てた姿など見たくなかった。アランの傷は今も尚残ったままなのだ。

 夜の静かな空気を、ギィッと小さな音が崩す。熱心に神に祈るアランの耳にそれは届かなかった。奥の扉を開けて居間に入って来た人物が、窓辺のアランに声をかける。

「眠れねぇのか」

「ッアレクシ……?」

 椅子に座るアランの横に、ランプを手に持つアレクシが立っていた。彼は緩いズボンを履いているだけで、あとは何も身につけてはおらず、髪も寝起きでボサボサだった。

「だってほら、姉ちゃんの声が……」

 そこまで答えて、アランは口を閉じた。いつの間にか、ミレーヌの呻き声は聞こえなくなっていた。

「少し前まではな。俺も何度か起きちまったわ」

「寝ないの?」

「もう少ししたらな。おら、窓閉めるぞ。夜は開けんな。変なやつが来たらどうする」

 アレクシが窓を閉め、鍵をかける。彼の持つランプだけが淡い光を放ち、その手を暗闇に浮かび上がらせていた。夜の道を泣きながら走っていた一年前、あの手に救われたからか、アランは彼の手にいっとうの安心感を抱いていた。

 窓を背後に座り直し、アレクシを見上げる。

「そんなとこにいたんじゃ、風邪引くぞ。ベッドに入れ」

「…………」

「ミレーヌの声が原因じゃないみたいだな」

 アランは少し間を置いて、こくりと頷いた。

「しょうがねぇな。ちょっと待ってろ」

 そう言って、アレクシは一度自分の寝室に戻った。ランプの明かりも届かなくなり、アランは何も見えなくなる。すぐにアレクシが戻って来ると、アランは知らずのうちに詰めていた息を吐き出した。

「ほら」

 頭の上からブランケットを被せられ、アランは「わっ」と小さく驚いた。ブランケットから顔を出すと、ぼんやりとした明かりに照らされながら、アレクシがアランを見ていた。

「それに包まっとけ。風邪引くなよ」

「これ、アレクシの匂いがする」

「臭いってか?」

「ううん、落ち着く」

 今度はアレクシが無言を返した。アランにランプを持たせると、アランの前に食卓から椅子を引っ張って来て、アレクシは向かい合わせに座った。アレクシは椅子の背もたれに肩肘を乗せ、耳たぶを触る。いつも着けている耳飾りはそこには無く、彼は今それに気づいたようだった。

「……お前を見てると」

 ぽつりとアレクシが言葉を零した。

「幼なじみを思い出す」

「幼なじみ?」

「小さい頃から一緒だったやつのことだ。友達……まあ友達か」

 アレクシの友人の話を聞くのは初めてだった。

「二人いてな。一人は男、もう一人は女。一番長く一緒にいたのが女の方だった。俺より一つ歳下の、体の弱い奴でよ」

「名前はなんて言うの?」

 アランが尋ねると、アレクシは絞り出すように苦しげに、噛み締めるように大切に、その名を紡いだ。

「──ルージュ。もう死んで六年になる」

 六年、という年数は今のアランにとって特別なものだった。アランは今、六歳だった。

「僕を見て思い出すのって、僕が六歳だから?」

「それもある。あいつがさっさと生まれ変わっているんなら、今頃六歳なのは間違いない。でも、それだけじゃない」

 アレクシの指は、耳飾りも無いのに耳たぶを掠める。

「あいつと同じ黒い髪か、俺の手をすぐ握るからか、小さな言葉や仕草が似てるからか……自分でも分かんねぇくらい、似てるなと思う」──アレクシは視線を下げた。「すまねぇな、お前とあいつは違うってのに」

 胸もとにブランケットの両端を手繰り寄せて、アランは「別に」と返す。

「ただ、僕を引き取ってくれたのは、そのルージュさんを思い出すっていうのもあるから、なの?」

「…………。いや」

「嘘でしょ」

 それは直感だった。今までアレクシに嘘をつかれたことは、おそらくはない。だが、何故かこの時のアランにはそれが彼の嘘だと分かった。暗に正解を示すように、アレクシが息を飲んだ。

「……はは。やっぱ思い出すわ、あいつのこと」

「やっぱりそうなんだ」

「ああ。そうだ。あの時、ぶつかったお前を見た時、何故かルージュだって思っちまったんだよな」

「じゃあ、あの時ルージュさんだって思わなかったら、僕のこと……」

 アランは口の中に溜まった唾を飲み込んだ。彼にとっては何十秒にも感じられ、周りの空気は、耳が痛いほどに静かだった。

 アレクシから目を逸らして、小さな声で尋ねた。

「僕のこと、引き取らなかった?」

「そんなわけねぇだろ」

 間を置かずにアレクシが答える。彼の目は真っ直ぐにアランを見ていた。それに気づき、アランもアレクシの目を見る。彼の目の形も色も、アランを生まれた時から見守ってくれたものではない。だが、よく似ていると思った。

「あのまま放って置けるほど、俺は賢く生きれねぇんだよ。それに、ほんとに親もうるさかったんだ。孫の顔がーってな」

 仕事が落ち着いたら三人で行くからな──と、アレクシはわざとらしく面倒くさそうに続け、垂れてきた長い前髪をかき上げた。

 細い風が外を駆け抜ける音がした。ブランケットを握り締める。アランは意を決して、彼にずっと聞きたかったことを言葉にした。

「アレクシは、僕にお父さんって呼ばれたくない?」

 アレクシは瞬いた。

「何の話だ?」

「お父さんって呼んだ方がいいのって聞いたら、呼ばなくていいって」

「あー、そういう意味じゃなかったんだが……」

 アレクシの椅子がぎしりと音を立てる。背もたれに背中を預け、彼は「どう言ったもんかな」と呟いた。それをアランは首を傾げて見ていた。

「なんて言うかな。お前のお父さんってのは、一人だけだろ」

「うん。でも……家族だから……その、えっと、呼び方が……」

 何と説明したら良いか分からず、アランはもごもごと口を動かした。アランの拙い言葉でだいたいを察して、アレクシは苦笑する。

「家族だからって、呼び方に拘るな。良いんだよ。俺がお前のことを息子だと思っていたって、お前からの呼び方が今のままでも、全然」

「でも──」

「それにな、お前、俺を父親だと思えるか?」

「え……」

 そう言われて初めて、アランはアレクシのことを父親と思っていないことを自覚した。

 今のアランはアレクシのおかげで生活できている。アランにとって彼は保護者だ。それは幼いながら理解していた。家族だと思っていた。だから「男の家族」の呼び名として「お父さん」を使おうとした。しかし、アランにとっての父親は、あの街で仕立て屋をしていた己の実父以外いなかった。

「……ごめん、なさい」

 謝るアランに、アレクシは笑って「なにが」と言う。その声は決して責めるものではなく、包み込むように優しかった。

「謝る必要なんて無い。あのな、呼び方なんかどうでもいいんだ。家族だって思えてるんならよ──って、あー、小恥ずかしいこと言ってるなぁ」

 ランプの光が小さく揺れた。アレクシが見ると、俯いたアランが小さなランプを両手に抱え、肩を震わせていた。

「……お父さんって思ってなくても、家族でいいの?」

「さっきからそう言ってんだろ。お前って案外、頭がかてぇのな」

 返事のように、「ずっ」と鼻を啜る音が響いた。アランの手の中にあるランプは、その光を揺らし続けている。

(アレクシは僕のことを息子だって思ってくれてるのに、僕だけ……。でも、アレクシはそれでいいって……)

 アレクシの言葉を反芻して、ようやく心の中にすとんと落ちる。アランは袖で滲んでいた涙を拭うと、震えが残る声で言った。

「アレクシは、優しいね」

 その途端、いきなり視界がぶれ、「わっ!?」と驚いた声を上げる。アランはいつの間にかブランケットごとアレクシに抱き上げられていた。ランプを抱きしめて、アランは近い位置にあるアレクシの顔を見て、瞬く。アレクシの表情は、今まで見たことのないものだった。どの感情に当てはまるものなのか、幼いアランには分からない。

「アレクシ?」

 アランが呼ぶと、アレクシの表情は変わってしまう。彼はにやりと笑って、アランに言った。

「今日は俺のとこで寝るか。夜中、またミレーヌがうるさくなるかもしれねぇからな」

 アランの返事を待たず、自分の寝室へと歩き出す。アランは高い視界に新鮮さを味わいながら、「うん」と短く返事をしたのだった。



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