フェリロジカ

@Tsukiharu326

第1話 「まずはあなたを生かすために」

 冬の気配強まる秋の頃。

「我々の勝利だ!!」

 城下の広場に集まった人々の歓声で、地面が震えた。人々の喜びは熱気となり、それは今が夏なのかと錯覚するほどだった。処刑の見届け人が手に持つ生首から血が落ちるたびに、人々の歓声は一段と高まっていった。勝利の証たる生首──前王セルジュ四世は、掲げられるがまま、その濁った目に広場を映した。広場の中心に作った処刑台の光景に目を背けるのは、血に濡れた剣を持つ一人の青年だった。

「前を向きなさい。アラン、君が主役なのよ」

 黄色の目が青年──アランを厳しく見据える。それは彼に姉を思い出させた。アランは血の気の失せた顔で、首を小さく振った。

「生首は苦手なんだ」

 女性は少し目を見開いた。

「傭兵にしては珍しいこと」

 二人の短い会話は、歓声が勝利の歌に変わると同時に終わった。勝利の歌は狂気的なまでに高らかに響き渡り、それを神が聞き届けたように、分厚い雲の隙間から光が射し込んだ。その光に照らされたアランが、国をさらに混乱に陥れるなど、この時の誰も想像していなかっただろう。

 光は祝福していた。──民が一つの王朝を終わらせた、ただ、この時だけを。

 それから九年近くの月日が流れた。あの処刑から十年目となる新年を迎える日となった。大陸の最西端に、山岳地帯の一部を無理矢理平らにしたような不可思議な地形がある。他国に比べ標高の高いそこに何百年も置かれた王国をセネテーラという。そのセネテーラ王国の森──森とは言っても、背丈ほどの低い木と細い針葉樹がまばらに立つばかりだ──を、一台の馬車が走っていた。

(身の程知らずにしては、つまらない幕引きだ)

 馬車の揺れは酷いものへと変わる。乗馬している時ほどではないが、尻と腰を痛めるようなそれに、二人分の座席に横になっていたアランは目を開けた。豪奢な馬車の窓は重たいカーテンに覆われ、中を外には見せず、外に中を覗かせない。だが、一層酷くなった揺れのせいかカーテンはぱたぱたと動き、ちらりと外が見える。景色全てを見ることはできなかったが、馬車と並走している馬と、それに乗る兵士の姿を見ることはできた。

「…………ふん」

 鼻を鳴らし、再び青い目を閉じる。

 一瞬差し込んだ青白い陽光に、今がまだ早朝で、城から出て長い時間が経っていることに気づいても、何の意味もない。夜は明けた。新しい年になり、春の風が吹き、新しい日が始まっていた。人々は今日も生きるのだ。それはアランも同じだ。他の人々と違うことがあるとすれば、それは──。

 突然馬が騒がしく鳴いて、馬車が止まる。その反動でこれまた酷く馬車が揺れ、アランは間抜けな声を上げて座席から転がり落ちた。全身を痛め、顔を顰める。乱れた服装を気にもとめず、アランは窓に近寄り、「何があった」と大声で外へ尋ねた。

「そ、それが……」

 アランの記憶が正しければ、並走していた兵士は六人。窓の外から聞こえた頼りなさげな声に苛立ってドアを開け、外へ顔を出すと、そこには困惑する兵士たちと、馬に乗ったまま肩で息をする長身の青年がいた。身に纏っているものは、セネテーラ王国の国軍将軍の証である紺色の軍服で、貴族階級出身の証である白いマントがつけられている。高い位置で一つに結っている長い金髪が、マント共に揺れていた。彼のことを、アランはぼんやりと知っていた。

「エリエント、だったな」

 アランが呼べば、エリエントはハッと目を開き、そしてくしゃりと表情を歪めた。泣きそうなその顔に、アランは「どうした」と狼狽える。呼吸を整えることなく、エリエントは馬から下り、喉を引き攣らせながら、掠れた声で言った。

「アラン様、お逃げください!どうか、どうかお早く──!」

「……何故?何かあったのか」

 エリエントは息を詰まらせ、唇を噛んだ。酷く苦しげに見え、アランはますます狼狽える。

「この先に待っているのは、処刑です!リシャール様にアラン様を幽閉されるおつもりなどなかったのです!」

 兵士たちから驚愕の声が上がる。中にはエリエントの言うことを否定するものもいたが、アランはただ静かに受け止めた。「まあ、そうだろうな」と呟く。アランは、親友だったリシャールが自分に呆れ果て、見限ったことをよく分かっていた。だが、エリエントはアランの目からその目を逸らさず、馬車へ戻ろうとするアランを止めた。エリエントの明るい青色の虹彩には、ただ一人、主君であったアランの姿しか映っていなかった。

「今日この日より王冠を奪われ、城から追放されようとも、我が主はアラン様のみ。たとえリシャール様に逆らうことになろうとも、私はアラン様に生きていてほしいと思うのです」

 ですからどうかお逃げください。

 そう言ってエリエントは地面に膝を着き、朝露に濡れた雑草と土で軍服を汚した。

「解放の英雄が、そのような死を迎えていいはずがありません!」

 暖かい風が、アランの緩く結んだだけの伸ばし放しの黒髪を揺らした。闇のようなそれが、春の森を背景に視界に入る。ほんの一瞬、春の森が黒い塵が舞う戦場の幻覚へと変わり、アランの脳はひりひりとした痛みを訴えた。ここはもう戦場ではないというのに、それを幻視してしまうのは、エリエントがアランのことを懐かしい呼び名で、今はもう長いこと込められていない感情を込めて呼んだからだ。

「お前はまだ、解放の英雄を尊き存在だと思っているのか?」

 その名に泥を塗り、地に落としたのは、他でもないその英雄自身だというのに。

「当然にございます」

 逸らされることのない目には、強い熱が込められている。アランはその目を戦場で何度も見た覚えがあった。

『アラン。この国を変えるためには、犠牲が必要なのです。分かりますね?』

 過去の亡霊が脳裏で囁く。何を言っても聞かず、己が信じるもののみを信じ、それしか見ぬ恐ろしい目。このエリエントもそうなのだ。あの時、共に時代を駆け抜けたあの人と……。

『その犠牲に、あなたはなれますか』

 あの人は死ねと言った。だが目の前にいる人は生きろと言う。

(こいつは、俺に生きて、それでどうなってほしいんだ?何かの役に立ってほしいとか?……俺が?)

 アランは喉の奥で低く笑うと、改めてエリエントを見た。

「分かった、いいだろう」

 エリエントの表情が輝く。飼い主を見つけた時の犬のようで、ついアランの表情も緩む。

「お前の言葉を信じる。まあ、大人しく幽閉されているのも嫌だったし、こうして考えてみると……」

 言いながらアランの口角が自嘲で上がる。

(俺が死んでも生き続けても、この国はもう何も変わらないさ)

 エリエントがどう思おうと、アランの存在は今やその程度のものなのだ。

「……死ぬのも嫌だからな」

 取ってつけたような言葉だったが、エリエントは喜んだ。

「それならば……!」

「ああ。俺はここから去らせてもらう」

 アランが頷くと、エリエントはアランに一枚のフード付きのマントを手渡した。アランは彼から「これで顔を隠せます」と聞いて受け取り、六人の兵士たちの顔を見やる。彼らは困惑していて、どうすればいいか分からない様子だった。エリエントは貴族であるし、対して彼らはただの新兵なのだからしょうがないだろう。この六人が護送すると出発する直前に知って、手配しただろうリシャールが本当に自分を見放したと感じ、涙を滲ませた昨夜が遠い昔のようだ。今思えば、彼らが新兵で良かったのかもしれない。そうでなければ、今頃必死に止められていただろう。

(ああ、そうだ。久しぶりに傭兵をするのも悪くない)

 そこまで考えて、アランは内心で首を振った。

(……いや、そんなことしてみろ。殺された方がマシな目に遭うだろうな!)

 小さく笑ったアランを、新兵の一人が訝しげに見た。新兵が腰からぶら下げているものを確認し、アランは一言謝る。

「少し蹴るぞ、すまないな」

 その新兵の足を蹴って、その場に転けさせる。その隙に腰から剣を奪い、颯爽と獣道を駆け抜けて行った。アランの名を悲痛に呼ぶ新兵たちの声と、無事を祈るエリエントの声が遠ざかっていく。

 風がアランの後ろへと駆け抜けていく。アランの足が速いためか、あっという間に新兵たちの声は聞こえなくなった。代わりに水の流れる音と匂いがして、アランは辺りを見回しながらその方向へと足を進めた。するとすぐに川へと辿り着いた。試しに掬って水を飲んでみるが、やはり不味くてすぐに吐き出した。昔から、この国の水は飲めたものではない。精々水車を動かしたり、体を洗ったり、下水道の水に使うばかりだ。もちろん、今のアランもわざわざこうして飲むために川へ近づいたわけではなかった。

 アランは先ほど新兵から奪った剣を鞘から抜くと、一度髪をほどいた。そして腰まで伸びたそれを、背中の途中でばっさりと切った。黒髪が水面へと音を立てて落ちる。流れていく髪を、アランは静かに見送った。

(嗚呼、頭ってこんなに軽いんだっけ)

 王冠を置いた時も、同じように思ったものだ。

 その途端、彼は手を早く動かし始めた。

 長く伸びたせいで額の真ん中で分けていた前髪も、目にかからない程度に切る。これでだいぶ雰囲気は変わった。髪をひとつにまとめて結び、無駄に着込んでいた高い上着を脱いで簡素な服装になると、エリエントにもらったマントも羽織り、そのフードを被る。そうすると、成人の十六歳頃に見えなくもない。今年二十六になるアランは顔を歪めた。

(……ま、俺は人間じゃねぇらしいからな……)

 即位した時、肖像画は描かせなかった。記念の貨幣も、金の無駄だと作らせなかった。アランの顔を知る者はそうそう居ない。

 高い上着は川に放る。うんと伸びをしてから、腰に剣を差す。木々の隙間から遠くを見ると、灰色の柔らかな煙がいくつか上がっているのが見えた。あの方角に、間違いなく村がある。アランは鳴りそうな腹を擦ると再び歩き出した。朝露が弾け、光を乱反射する。ほのかに暖かい風が吹いた。

 セネテーラ王国の国境沿いの村が、もうすぐ見えるはずだ。年が明けて春の朝月が始まった今日ならば、広場で料理が無料で振る舞われているはずである。そこで腹ごしらえをして、適当に職でも探すことをアランは決めた。王でも英雄でもない、ただの人間であるアランに必要なのは、食と金の二つだった。

 そして彼は、また動乱の中に身を置くことになる。




 アランが辿り着いた村は、十軒ほどの石造の家が集まった小さなところだった。家々の周りにはまだ緑色の麦畑があって、村全体をボロボロの木柵のような塀が囲んでいた。

 村の中心には相応の広場がある。テーブルが三つ置かれ、その上に食事が並べられていた。硬いパン、蒸した芋、焼いた羊肉、野草のスープ、山羊乳、そして麦酒と麦水。これぞ食料自給率の低いセネテーラ王国にある簡素な村のごくごく一般的な食事である。昔何度も見たそれらに懐かしさを感じて、アランはフードの下で口角を緩めた。

 男たちは麦酒を片手に笑い、女たちは笑いながら片手に食事をしていた。子どもはそんな大人たちの間を行ったり来たりして、会話に入れてもらえないと分かると、子ども同士で遊んだり、大人の気を引くことを口にしている。一人の村娘が、母親に口を尖らせながら話しかけた。

「ねーぇ、あたしもう麦水やだよ。麦酒飲みたい」

「これっ、この子ったら!もう、女の子が麦酒なんてはしたない」

 その会話に引っ張られるように、アランは昔のことを思い出した。

 あれはまだアランが十四、十五歳くらいのことだった。

『麦水って不味いのね!私、初めて知った!!』

 家の扉を力強く開けて、興奮してそう言う少女の姿があった。当時のアランは『へぇ』と一つ頷く。

『そんなにコーヒーってのは美味しかったの?』

『美味しかった!!カフェが流行るのは当然だわ。あーあ、麦酒は酔えるからまだ良いけど、麦水はダメね。どうして今まであれを飲めたんだろう?』

『そんなことより姉ちゃん。麦酒飲んでたのバレたら、おばさんたちに色々言われるよ』

『言われたら黙らせればいいのよ』

『……姉ちゃんさあ……そういうところだよ……』

 肩を上げてため息を吐いたアランを、彼女は『そういうところって、どういうところ?』ときょとんとした顔で聞いてきたのだった。

 あれからもう、十年以上の時が経った。自分の世界はまるきり変わったのに、ほかの人々の世界はそう変わっていない。人々は今も、麦酒を飲んで顔が赤くなるために、女性が麦酒を飲むことをはしたないとしている。

 村娘は頬を膨らませると、母親に言った。

「都会の女の子はみんな大人になったら飲んでるって聞いたもん!あと、コーヒーってやつ。知ってる?コーヒーの方が人気過ぎて、麦水じゃなくて麦コーヒーって呼ばれてるらしいよ」

「まあ、また旅商人から話を聞いたの?みんなって言って、どうせ一人か二人さ。世間話する余裕があるなら、麦挽きを手伝いな」

「あたしには洗濯っていう大事な仕事があるから!」

 村娘はそれを返すと、ほかの子どもたちの遊びに混ざりに向かう。その時にアランの横を通る。見慣れない人の姿に足を止めて振り向き、「誰?」と尋ねた。

「旅の人?」

「おや。いつからそこにいたんだい、あんた」

 村娘の様子を見ていた母親が、アランに近づいた。子どもと違い、大人である彼女はアランを警戒している。アランは胸の前で両手を広げ、手に何も持っていないことを見せる。母親の目はアランの手と、腰に差した剣を行き来した後、アランの顔へと向けられた。

「俺は旅をしているんだが、いい匂いがしてついここに来てしまったんだ。ほら、今日は記念すべき年明けだろう?でもご覧の通り、旅を始めたばかりなのに手持ちが無いのさ。ってことは……分かるだろ?」

 留めとばかりに腹が「くぅぅっ」と切ない音を出す。アランは昨日の夜から何も食べていなかった。その音で、母親は完全に警戒心を解いた表情を見せた。

「年明けに空腹な人を一人放っておくのを、神は許さないさ。ほら、こっちに来な。今年は羊肉がたくさんあるんだよ」

「ありがとう。あなたと村にソリエールの星が瞬くよう」

「あっははは!敬虔過ぎるよ。さてはあんた、都会から来たね」

 彼女に笑われて、アランはフード越しに後頭部を掻く。昔は彼も、彼女のように「敬虔過ぎる!」と笑う立場だった。この十年の間に、自分はこんなところまで変わっていたとは。

「都会以外じゃ、ありがとうだけで事足りるもんさ。さ、こっちだよ。村のものを食べるなら、村長にお許しを貰わなくちゃね」

「母ちゃん、あたし遊んで来るね」

「ハイハイ、行っておいで」

 村娘は走って行き、母親はアランを村長のところまで案内した。

 一番大きなテーブルには、丸々焼かれた羊が肉をほとんど奪われた状態で乗せられ、それを囲むように麦酒やパンが置かれていた。そのテーブルにいた村長だと紹介された男性は、見たところ五十半ばくらいの年齢だろうか。小さな村にしては、かなり長生きだ。村長は洗いざらしでぐちゃぐちゃになった顎髭を撫で、自分の村の人間に紹介されたばかりのアランを見やる。

「旅の人か。商人以外ではめっきり来なくなったものだが……」

 村長の目は、アランの袖から覗く腕輪をチラリと見た。

「こんなご時世だ、どこにも余裕などありはせん。その腕輪をくれると言うのなら、今日はこの村で過ごすといい」

「ありがとうございます。ソリエールの如き心に感謝します」

 村長の周りにいた村人たちは「都会人ってみんなああなのか」「鍬を握らなくなると、みんな聖書を持つようになるのさ」と囁き合って、それは当然アランの耳にも届いた。

(俺だって少し前まではあんたたちと同じだったさ!持ってたのは鍬じゃなくて剣とか弓だけど)

 この十年で口うるさい仲間によってすっかり「これ」に慣らされてしまったから、つい敬虔な信者のような口ぶりになってしまうだけで、今もアランの心の中は変わっていない。

(聖書なんて読んだだけで眠気がくる。神ソリエールは天からただ俺たちを見守るだけで、闇にしたように、俺たちに星を分けてはくれないってことを知っていればそれで十分だ)

 アランは右手につけていた腕輪を外した。誰が見ても分かる高価なものだ。アランが王になった時に、親友であり宰相であるリシャールに「君は嫌だろうけど、王になったならそれ相応のものを身につけなくちゃあならない」と、処刑したばかりの先代王の遺品の中から贈られたものだった。金に困ったら売ろうと思って、上着と一緒に川に流さずにいたのだ。

 腕輪を村長に渡すと、近くにいた村人たちが物珍し気にそれを見る。

「へぇ、こりゃ旅商人に売れば大量の野菜が買えるぜ」

「まさか村長、売らないで家宝にするとか言わないよな?」

「誰が売らずにいるか!……ああ、ほら、旅の人は食事をするといい。夜もここで?」

「そのつもりです」

「分かった」

 村長は頷くと、すぐ隣で食事をしていた幼い孫二人に声をかけた。

「お前たち、この人が今日ここに泊まるから、山羊小屋を綺麗にして来るんだ」

「はーい、おじいちゃん」

「はい、おじいちゃん」

 山羊小屋に向かって彼らは駆け出す。山羊小屋は村の端にあるものの、こうも小さい村だとその姿もよく見えた。当然ながら屋根も壁もあるが、一見して穴が空いているだとか、板が外れているということもなさそうだ。「これは幸先が良いぞ」とアランは心の中で呟いた。山羊臭くなる程度、どこぞの令嬢ではないのだから気にしない。なんなら、血の匂いすら!

 アランは再び村長に礼を言った後、彼に一つ尋ねた。

「この村か周辺で、人を雇ってくれそうなところはありませんか?」

「金が無いって話だったな。お前さん、旅をしているってことだったが、その実、家を出たばかりの放蕩息子なんじゃないか?ん?」

 このご時世で放蕩を許される人間は、大抵が実家が金持ちの者くらいだ。つまり、彼はどうやらアランが金持ちの息子だと思っているようだ。あの腕輪をしていたのだから、そう思われるのも無理はない。だがこの十年、「さすが傭兵上がり。健康的で大変賑やかだ」などと遠回しの嫌味を投げかけられ続けた身であるアランには、金持ちの息子と思われるのすら嫌だった。

(放蕩息子だァ?ふざけるなよ。俺のどこが酒や女に溺れる馬鹿野郎に見えるんだ!)

 村長をはじめ、住人たちは酒が入って浮かれているため、アランが苛立っていることに気づかないようだった。アランは声に棘を含ませながら村長の言葉に応えた。

「その辺りの事情は、人に話せるものではありません。それで、雇ってくれそうなところはあるんでしょうか?」

 村長は顎髭を撫でて考え込む。しばらくの沈黙の後、「うむむ」と唸った。

「この村では無いな。周辺の村でも聞いた覚えがない」

 そこに村人が思い出したように入り込んで来た。

「いいや、確か一つ川を渡った先の村の仕立て屋で、針子が一人辞めたはずだ。東の方に行けばすぐに辿りつくところさ」

(仕立て屋か!ますます幸先が良い!)

 アランの苛立ちは消えたが、この件には問題があった。川を渡った先、という点である。川には橋がかけられているか、舟渡しがいて、どちらを利用するにも金がかかるのだ。アランには今、金が無い。頼みの綱であった腕輪ももう無い。あの上着を持っていけば良かったかと思ったが、あれは生地をたっぷり使っているので王侯貴族のものだとすぐに知られ、そこからアランの正体も知られてしまう可能性があるので、やはりあれは流して正解だった。

「川か……」

 さて、どうするか。考え込むアランに、村人が助け舟を出した。

「細い川だから橋しか無くて舟渡しもいないし、少し遠回りになるけど、橋の防人の見えないところから行けばバレないさ」

「なんだ、考え込んで損した」

「うちのやつらは若い頃はみーんなこの方法であっちまで行ってるんだ。もちろん、村長の若い頃もね」

 二人でちらりと村長を見る。聞こえているだろうに、彼は素知らぬ顔で麦酒を飲んでいた。

「生活の知恵ってやつさ」

「余所者に教えて良かったのか?」

「困るのは俺たちじゃなくて、橋の防人をしてるじいさんだからね」

 片目を瞑って得意気に言う村人に、アランは小さく吹き出した。

 それからアランは満腹近くまで飲み食いした。このご時世としては非常に珍しく、村人たちはアランに食べ物をたくさん分け与えてくれた。どの村人の手足も細く、日頃から多く食べることができていないのは簡単に想像がつく。それなのに分け与えてくれる優しさに、アランは感謝し、「大袈裟だ」と村人たちは笑った。

 日が傾き始めた頃には麦酒すらもなくなり、広場は片付けられ、その手伝い後、アランは用意された山羊小屋に入った。一食でも食べられればそれでいい。どうせそんなに動いていない。寄せ集められた藁の上に布を敷いただけの簡易的なベッドにゴロンと横になって、頭の後ろで両手を組む。右を向けば壁、左を向けばこちらに興味も持たない山羊がいるだけなので、アランは木でできた天井を見上げた。外は夕陽が西の山の向こうに消える頃だった。ちらりと西の方に目を向けて、「今日を光のもとで過ごせたことに感謝します」と祈りの言葉を適当に捧げてから、目を瞑る。

 虫の鳴き声、どこかの家庭で騒ぐ子どもの声、昼からそのまま酔っ払ったままの男たちの声、それに呆れる女たちの声。戦のない、平和な音ばかりである。その中で目を瞑ったままでいると、アランの心はようやく現実に追いついてきた。

(俺は、親友に見放されたんだ……。そりゃそうだ。国を混乱に陥れたんだから。俺たちみんなで殺した先代の王と、俺の、どこが違うっていうんだ……。ああ、やっぱりあのまま馬車に乗って、殺されておくんだった。勝手に生きる希望なんか持たなきゃ良かったんだ)

 暗い感情から逃げるようにアランは藁の上で何度か寝返りを打った。暗い感情はアランを放さない。彼は気を紛らわせようと目を開けた。けれど見るべきものなどどこにも無く、また目を瞑る。目を瞑ると親友の顔、姉と義父の顔が浮かび、革命軍時代に世話になった人々や、その後に世話になった人々の顔が浮かんで、吐き気がしてくる。そしてまた目を開けて、アランは眠くなるまで暇つぶしに藁を編んでいた。どれほどそうしていたのか。しばらくして、ようやくアランは眠りに沈み始めた。意識を手放す寸前、彼の脳裏に過ぎったのは、かつての憤慨する姉の声だった──。

『全部王様のせいなのよ!』

 九年前まで、アランの手の中にはいつも弓矢か剣があった。英雄というものにまだ憧れがあって、もしかしたら自分がなれるかもしれないなどと思っていた。王を──セルジュ・アルノー四世を倒せさえすれば。

 先代王にして、セネテーラ王国アルノー朝の最後の王であったセルジュ四世の治世は、一年通しての寒冷という稀に見ない気象もあって、とんでもなく不安定だった。さらに、彼の部下である貴族や聖職者の一部の高慢さや愚かしさは、口にするのも嫌なほどだ。国民が苦しい生活をしている中、セルジュ四世は、同盟国であった隣国ウェントース皇国にこう言い放ち、同盟にヒビを入れた。

「かつて我が国の都はウェントース皇国にあったが、皇位継承の争いがあって、真に継ぐべき皇位継承権第一位がセネテーラに逃れ、ウェントースに戻るまでの仮の王国を築いた。現在のウェントース皇国ならば、正常な判断も出来よう。正当なる皇位継承者を迎え入れろ」

 食料の輸入先としても国の一大産業である傭兵の仕事先としても依存しきりだったウェントース皇国との関係が危うくなると、国民は我慢の限界を迎えた。以前から地下で活動していた革命軍──王国側は最後まで反乱軍と呼んでいた──が仲間を増やして地上に出てきたのだ。アランもそこに加わった。最初はただの革命軍の一人として。

 革命軍の士気は高く、国民の多くや一部貴族も彼らに味方した。しかし王国軍も烏合の衆ではなく、国を相手に仕事をしてきた国内屈指の傭兵団「黎明の傭兵団」もセルジュ四世直々の依頼によって王国側についていた。さらに教会も中立を謳いながら実質的には王国側についており、どれだけ王国を悪だと思っていたとしても、骨に染み込んだ教会の教えが革命軍と国民の勢いを削いだ。その中で、王国軍の駐屯地襲撃の際に、革命軍を作り、導いてきた軍主が討たれた。革命軍は風前の灯火になったかに思われたが、軍師と彼らを支援してきた貴族のうちの一人であるブランシェ家当主によって、アランが次の軍主に選ばれると、革命軍は再び勢いを取り戻した。

 アランが軍主になるよう手を回した者の一人が、親友のリシャールだった。

 リシャールは王族と縁戚関係にあった家の末っ子で、アランと同い年とは思えぬほど頭が良かった。彼は軍略家としても活躍し、セルジュ四世を処刑した後、国王となったアランを支える宰相となった。公私ともに彼と一緒で、二人で顔を突き合わせればどんなにつまらないことでも楽しくなった。

「アラン陛下。南の離宮を覚えておいでですか」

 リシャールがそう言ったのは、冬の夜月も残り数日の夜の寝室だった。公的な場では彼はアランを陛下と呼んで堅苦しい言葉を使うが、今ここは私的な場だ。訝しげな顔をしつつ、アランは答えた。

「王国屈指のお化け屋敷だろ。知ってるよ。ずっと昔の王様が、イヤイヤ娶った奥さんを入れるために作ったところで、その奥さんの幽霊が夜な夜な歩き回っていて、目が合うと呪われるんだ」

「そこに新年に移っていただきます」

「……お化け屋敷に?」

「出発は年明け前日の夜に。全て議会で決定しております」

「いつだよ?俺はそんな話聞かなかった。議会収集なんていつ……」

 蝋燭一本灯しただけの部屋で、リシャールの表情はよく見えなかった。アランは言葉の途中で口を閉じて、「ああ、俺は間違えていたんだ」と心の中で呟いた。

 親友と思っているのは、今はもうアランだけなのだろう。今のアランは、昔一緒に殺したセルジュ四世と同じ立場になってしまったというわけだ。

 出発のその時まで、アランは寝室で過ごした。外に出る気力が無いわけではなかったが、出たところでどうにもできないと知っていた。大きな寝台の上で手足を伸ばして、ある時は心の中で、ある時は実際に声に出して、ぐだぐだと謝罪を繰り返していた。

「ごめん、姉ちゃん、ごめん。俺はダメだった。姉ちゃんが望んだような国にはできなかった。俺は失敗した。間違えた。ごめん、姉ちゃん」

 そうして出発の時になって、馬車に乗って、今に至るのだ。


 鼻の頭が痒くなって目を開け、鼻をひくりと動かす。目の前を羽虫が飛んで行った。

 いつの間にか眠っていたようだ。右手には昨夜編んでいた藁があって、適当に放り投げるとすぐ横の柵の中に入って、山羊の頭に落ちた。頭を振る山羊に小さく笑って、アランは勢いづけて立ち上がる。服に付いた藁を叩いて落とし、両手を上げてうんと伸びをする。髪を縛り直して外に出ると、あちこちの家の煙突から出た白煙が、朝焼けも消えた空に上っていた。アランは太陽が昇ってくる方角に向かい、手を合わせ、「今日を光のもとで過ごせることに感謝します」と祈りを捧げた。その時、山羊小屋のすぐ横にある家から、一人の女性が出て来た。昨日食事をしながら聞いた話では、村長の息子嫁だったはずだ。彼女はアランに気づくと「おはようございます」と挨拶をする。アランも彼女に同じ言葉を返してから、「ちょうど今から村を出ようと思ってたんだ」と話した。

「朝食は摂りましたか?」

「昨日ももらって、今日ももらうわけにはいかないよ」

「確かにうちの村はそんなに豊かなわけじゃありませんけど、お渡しできる山羊乳くらいはあるんですよ。ちょっと待っていてくださいな」

 アランの反応も見ずに女性は家の中へと戻って行く。貰えるものを貰っておいて損はそれほど無いはずだ。

 少しして、女性は山羊の皮を外袋にした水筒を手に戻って来た。

「まだ温かい山羊乳です。水筒も持って行ってください。使い古しですけど」

「ありがとう。大切に飲むよ」

 山羊の胃袋を加工して作った水筒を右手に持ち、左手を軽く振って、アランはその村を出た。

 昨日村人に教わった通りに東に向けて歩を進める。いくつもの戦場を駆け巡ったり、旅商人たちの護衛をしたり、地方の街で生活をしていたアランにとって、人の足で作られた道は石畳よりも馴染みがあったが、足の裏は既に痛みを訴えていた。

(革命軍が九……いや、今年の秋で十年前になるのか。ってことはセルジュ四世を殺して、俺が城で暮らし始めたのが約九年前。それまでの十六年は何だったんだ!?俺の体はこんなにも軟弱だったか!?)

 アランの怒りなど知る由もなく、鳥は自由に空を飛び、小さな野花は風に揺れた。虫がようやく訪れた春に喜び、花の蜜をせっせと集めている。柔らかな風が二度アランの髪を揺らしたあたりで彼の怒りは消えていった。

 遠目に川が見えて来ると、アランは道を逸れた。くるぶしまで伸びた草を踏み潰し、橋を遠くに見ながら川に近寄る。聞いていた通り、水深は浅い。アランは躊躇無く川に足を入れた。水に足を取られないように注意深く進み、対岸に辿りつく。濡れた靴のまま川を離れ、道に戻ってそう時間が経たないうちに、目的の村についた。

 真上より少しばかり東の位置にいる太陽の光を浴びて、村の中をきょろきょろと見回しながら歩く。昨日の村に比べると、この村は家も多く、宿屋も一軒確認できた。昨日の村人の話が真実ならば、仕立て屋で針子として働けるかもしれない。この村で暮らしていくのならば、そう悪い暮らしにはならないだろう。

 目的の仕立て屋はすぐに見つかった。針と糸の絵が彫られた木の看板を下げた、こじんまりとした店だ。片開きの木窓は開かれて、中から指示を出す女性の声が聞こえていた。

 アランは「よし!」と心の中で気合いを入れると、仕立て屋の扉を叩いた。

 それから時間も経たないうちに、アランは仕立て屋から追い出された。女店主は扉を閉める間際、アランに言った。

「何も知らない素人を雇う余裕は無いんだよッ!」

 バタン!と強く閉められた扉を呆然と見たあと、アランはいきり立って、扉を強く蹴った。

「俺は仕立て屋の一人息子だぞ!?それもアンベール候爵領の仕立て屋だぞ!それを何も知らない素人だって!?」

 アランの脳裏に、幼き日々が浮かび上がった。母は腰から携帯用の仕立て道具たちを下げ、細い手で布の縫い方を教えてくれた。父は高価な片眼鏡をつけ、布の見本表をいつも持ち歩き、布の種類を幼いアランに叩き込んだ。しかし、状況はアランが五歳の頃に一変してしまった。針子たちが各々の家に帰り、一家だけの夕食の席についていた時、強盗が押し入り、両親は殺された。五歳で中断された仕立て屋教育を、二十六歳のアランがそのまま覚えているわけもなく、彼を断った女店主の判断は間違いではないのだが、彼は受け入れられなかった。

「あの……」

 扉の横の窓から、か細い声がアランを止める。声の方を見ると、女店主によく似た少女が、窓枠から顔を上半分だけ出して震えていた。

「お母さんが、ごめんなさい。近頃はお仕事が全然無いから……ご飯も少ないから……。あの……と、扉……壊れちゃうから……」

 アランは扉と少女を交互に見た。彼の頭はすっかり冷えきって、背中に汗がたらりと伝った。母親が雇うのを断った青年が扉を蹴り続けていたら、そりゃあ怖いだろう。腰に剣まで下げていたら尚更だ。自分の考えの無さに泣きそうになりながら、アランは頭を下げた。

「ご、ごめん。怖がらせた俺が言うことでもないんだが、俺は仕事を探してるんだ。仕事のある場所を知らないかな」

「……お仕事……」

 少女はそう呟いたあと、顔を上げてアランを見た。

「あっ!あのね、今ね、旅芸団さんたちが来てるよ」

「旅芸団?」

 アランの心臓が跳ねた。旅芸団という存在は、アランにとって特別なものであった。

「うん。あっちに行って、最後の角を曲がると広場があるの」──少女は村の東の方を指さした。「広場の向こうに山羊の放牧地があって、その近くに馬車があったよ。忙しそうだったから、お仕事あるかも、です……!」

 ぴゃっと顔を引っ込めた少女に、アランは優しい声を心掛け、「ありがとう。行ってみるよ」と返して、教えてもらった場所に向けて歩き出した。

 広場に出ると、そこは広場というよりも物見台のようになっていた。広場の向こうは緩やかな下り坂になっていて、三つほどの山羊小屋と、それに隣接する、木の柵で作られた放牧地がある。それらを囲むように今は緑色の麦畑が広がっていた。山羊小屋のすぐ横、普段は休憩所として使われているだろう空き地に、馬が三頭と、布の屋根がある大きな荷馬車が二台、屋根のない小さな荷馬車が一台停まっていた。旅芸団員が数人、大きな荷馬車に出たり入ったりしているのが確認できた。半ば駆け足で近づくと、団員に指示を出している人間を見つけた。日に焼けた茶色の短髪で、服装は一見貴族のようだが、裾が短かく、動きやすさが重視されていて、裕福な旅商人のようであり、とても旅芸団の人間には見えなかった。彼は近づくアランに気づくと、穏やかに声をかけてきた。

「今日の公演はまだですよ」

 アランを客だと思ったらしい。近くで顔を見ると、顔に脂肪が少なく、頬骨が若干浮き出ていた。歳は三十代後半といったところか。丸々とした目は、声同様に穏やかなものである。

「準備中?」

「はい。昼過ぎから始めますよ……とは言っても、公演が目的ではないようですね」

「実はそうなんです。今、仕事が無くて困っているんですよ」

 客ではないと分かると、男の口調は砕けたものになった。

「仕事かぁ。まあ一人くらいなら雇えるけど──」

「炊事洗濯裁縫も、剣も使えます!」

 これ見よがしに腰に下げた剣を見せる。旅芸団ともなれば、馬車で各国を回ることができる。この国から……己の罪から逃げ出すことになり、自分で自分が許せなくなると分かっていても、アランは生きて逃げたかった。幼い頃、殺される両親を助けられず、背を向けて逃げた先で新たな人生を歩み始めたように、今も逃げてしまえばどうにかなると思う心があった。そんな自分を自覚する度に、アランは思うのだ──自分はやはり、英雄などにはなれないのだと。

「剣も……。これは悩むなぁ……。おーい、シェリン!シェリーン!」

 彼は大きな荷馬車に向かって呼びかけた。すると中から女性が一人出て来る。長い赤髪を高い位置で結び、その髪を一定の間隔で丸い膨らみを持たせている。彼女の髪型は干した玉ねぎのように見えた。快活そうな美女な上、露出が激しい服をしているので、彼女は踊り子だとアランは予想した。

「はいはい。なぁに、ユゴ団長」

(えっ、この人、団長なのか!)

「一人雇うくらいの余裕はあったよね?人手不足なことって何?」

「特に困ってることはないけど、一人雇うくらいの余裕はあったわね。ああ、でも、ベルタさんのためにも裁縫できる人は欲しいんじゃない?」

「最近繕い物が多いもんなぁ」

「そうよぉ、布だって安くないんだし」

 シェリンと呼ばれた彼女はアランを上から下までじっくりと見た。

「まあ、裁縫できなくても、用心棒くらいはもう一人欲しいところよね。一人より二人の方が心強いもの。一応試験でもしておく?剣を持ってても使えないんじゃ、雇い損よ」

「裁縫できるならそれでいいけど……。試験しておこうか」

「それじゃあ、うちの用心棒さんを呼んでくるわね!意地汚く昼寝をしてる最中だったけど」

 二人の話はアランが口を挟む間も無く進んで、シェリンは用心棒をしているという人間を呼びに、大きな荷馬車の中に行ってしまった。それを見届けて、ユゴがアランを振り返る。

「ってことで良いよね?」

「まあ、はい」

「僕としては剣が使えなくても、本当に、裁縫さえ出来てくれればいいから。うちの裁縫担当の仕事が、前より明らかに増えていてね。でも剣が使えたらお得だからさ、今後、剣はうちの用心棒に習いでもしてよ」

「はあ……」

 そう話しているうちに、ドタドタと音を立てて、シェリンに連れられて大きな荷馬車から出てくる男がいた。焦げ茶色の髪を無造作に後ろに流し、短い無精髭を生やした大柄な男だ。腰には剣を下げている。アランはその姿にギョッと目を見開くと、急いで逃げ場所を探した。だが、男の方が動きが速かった。大股で近づくと、急いで踵を返したアランのフードをぐいっと引っ掴んで動きを止めた。おかげで、アランの頭からフードが取れ、その顔が露わになる。

「十年ぶりの親子の再会にそれは無いんじゃねぇか?なあ、アランよ」

 男が両耳につけた赤い耳飾りがきらりと光り、その光がゆっくりと振り返ったアランの目を刺した。

「息子だって!?」──素っ頓狂な声を上げたのはシェリンだった。「九年前に出て行ったっていう、例のバカ息子!?」

「はぁ!?」

 これにまた素っ頓狂な声を上げたのはアランだった。

(九年前に出て行った?っていうか、バカ息子だって!?)

「違うよ。もう年を越したから、十年前と言った方が近いだろうね」

 ユゴがそう言って、「へえ、君がそうだったんだ」とアランの顔をまじまじと見る。

「おーおー、もう十年かよ。時ってのは早いな。家出息子」

「家出ェ!?」

(アレクシのやつ、ついに耄碌しちまったのか!?家出……家出!?俺たちの別れって、そういうやつじゃなかっただろ!!)

 アランのことを息子と呼ぶ男の名前は、アレクシ・ペリエという。昔から傭兵をしている、平民にしては体格の良い男だ。成人を前に装飾加工業を営む実家のある鉱山の町を出て、セネテーラの中で最も温暖な町──とは言うものの、大陸最北の山岳だらけの国であるから、この国での温暖は、他国のそれとは全く違う──アプリクスに住み、そこに本拠を置く傭兵団に入った。彼が傭兵となって数年後、彼はアランに出会い、養子とした。そのさらに後、アランが連れて来た少女も養子にし、それでも問題無く生活を送らせたのだから、その稼ぎの良さが窺える。彼はアランも傭兵団に入れて、多くの武器の扱い方を教えた。親子でありながら師弟関係でもあり、関係は良好ではあったが、それは、九年前に酷い終わりを迎えたはずだった。九年経った今でも、アランの当時の記憶は薄れない。

 九年前、城の一室で、激昂するアレクシはアランの後ろ髪を掴み上げた。それから怒鳴るかと思えば、そんなことはなく。アレクシは唇を戦慄かせながらアランを睨み、放り投げるように乱暴に解放した。

「勝手にしろ」

 いっそ怒鳴りつけてくれた方が気は楽だった。この時、アランは義理とはいえ、実の親よりも長い時を過ごし、師とも慕った彼に見放されたのだ。当然、それ以降アレクシに会うこともなく、長く過ごした故郷アプリクスにも戻ることもなく、暖かな過去を共有する唯一の彼は、アランの世界から消え去ってしまったのだ。

 そんな別れがあったというのに、家出とはどういうことなのか。ぎょっとアレクシを見ているアランをよそ目に、彼はユゴたちと話している。

「こいつの剣の腕なら、俺が保証するぜ。数年は武器を握っていなかっただろうから、鈍ってるかもしれねぇけど、一回実戦に出せばどうにかなるだろ。あとは料理と裁縫と……まあ細々としたやつも出来るぜ、こいつ」

「へーっ、雇い得じゃない!アタシ、ベルタさんが楽になるならそれだけでもぜーんぜん構わないんだけど、他の子の仕事も楽になるならもっと最高よ!雇っちゃいましょーよ、ユゴ団長!」

「アレクシの息子だっていうなら、何も出来なくても雇うさ。ここで雇わないような冷酷な人間になったつもりはないからね」

「さっすがユゴ団長!ベルタさんにも知らせて来よーっと!」

 「きゃはー!」と高い声と両手を上げて、シェリンが喜びを表し、またドタバタと大きな荷馬車に戻って行った。「ベルタさーん!」という声がすぐに聞こえて来る。

「あいつ、大人しくできねぇのか?」

「シェリンのあの賑やかさは美点だよ。ベルタに関わるとさらに賑やかになるのは否定できないけど」

「ベルタの耳も苦労するぜ……」

 ユゴが苦笑で返し、それで二人の会話が終わる。そうなると、話題はようやくアランのもとへ戻ってきた。

「と、まあ、そういうことでだ。アラン、お前これから雑用係な。家にいた頃とあんま変わんねぇよ」

「変わるっての!!っていうか、なんだよ、家出って!!あの時、俺は──」

「おいおい、お前までうるせぇな。昔はもう少し大人しかっただろ。十年で身につけたのは肺活量か?」

 アランは未だ後ろ襟を掴む屈強な腕を全力で殴った。しかし、腕はビクともしない。

「ふっざっけっるっな!!おい!そろそろ離せ!!」

「親兼師匠になんつー口の利き方すんだか」

 ケラケラ笑いながらアレクシが手を離す。ようやく解放されたアランはフーッフーッと警戒する獣さながら肩で息をしていたが、それはユゴの穏やかな声で抑えられた。

「雑用係というか、基本は用心棒と布類の修繕係だね。これからよろしくね、アランくん」

 アランはアレクシからユゴへと身体を向けると、差し出されている手を認識し、こくりと頷いた。

「よ、よろしくお願いします」

 ユゴの手を握ると、彼はにこやかに頷き返し、握手が交わされる。その様子を、アレクシは黙って見ているのだった。


 アランと握手を交わしたユゴが次にしたことは、アランを大きな荷馬車の中にいるベルタと引き会わせることだった。アレクシは「今夜分の薪割りやって来るわ」と、どこかへと行ってしまった。

 大きな荷馬車はやはりこの旅芸団の主要のものであるらしく、窓の無い薄暗い中には、食料や個々人のものが詰め込まれていた。その場所から少し奥に進むと、三段に組まれたベッドが並ぶ、狭く息苦しい空間があった。一般人では狭く低いそこで快適な眠りは到底得られなさそうだった。だがかつて傭兵をしていたアランにとって、ベッドがあるだけマシだった。

(一、二……十二人?別の荷馬車に同じのがあるかもしれないから、正確な人数は分からないけど……少なくともそれくらいの人数の旅芸団か……)

 普通より少し多いくらいだ。旅芸団は十人未満のところがほとんどだった。しかし、アランはかつて、ここよりもさらに多い人数の旅芸団と少しだけ行動を共にしたことがある。三十人近くはいた、かなり名の知れた旅芸団だった。

(……もう二十年近く前だってのに、こんなにも覚えてるもんなんだな。……いや、最後に会ったのは、十二年前か)

 今でも、あの旅芸団にいた少女の顔を思い出せる。彼女は踊り子だった。

 過去が脳裏を過ぎったが、目的の人物のもとへつくと、それも霧散した。

 荷馬車の最奥には、布がまとめて置かれていた。床には薄い絨毯が敷かれ、その上には繕い中である服と、小さなランタン、そして裁縫道具が置かれ、シェリンと一人の女性が座っていた。その女性がベルタであることは容易に分かる。だがこのベルタという女性は、見た目がとても特徴的で、そして異様だった。

 ベルタは視界が遮るのも厭わずに、顔全面を布で覆っていた。南国に多い薄紅色の髪は、全体的に傷みが酷いが、特に毛先は焦げたようだった。手仕事をする女性にしてはかなり珍しい。分厚い服で覆われた身体は娼婦さえ裸足で逃げ出すようなめりはりを持っているが、指先を抜いた手袋をしているくらいの露出しかない。セネテーラが寒い気候だからかと考えるが、他の異様さから、それすらも異様なのではないかと思えてくる。

「ベルタ、シェリンから話は聞いたよね」

 ユゴはわざわざ床に両膝をついて、布で隠れたベルタの目と目線を合わせるようにして、ひどく丁寧にそう声をかけた。ベルタは頷くと、ぼそぼそと声を発した。あまりにも小さすぎるものだから、アランは最初、声を発したのかすら分からなかった。

「そう、あのアレクシの息子だよ。まだ仕事は…………そう。ならちょうどいい」

 ユゴはアランを呼ぶと、柔らかく手のひらでベルタを指した。

「アランくん、彼女がベルタ。うちの修繕係だよ」

「世界一の修繕係よ!修繕係というか、もう修繕師よねっ!」

「シェリン、落ち着いて。──どうやら奇術師の服を修繕し終わっていないみたいだから、アランくん、彼女に見てもらいながらやってみて」

「分かりました。えっと……ベルタさん、アランです。よろしくお願いします」

 アランが手を差し出すと、ベルタの手が握手を交わしてくれた。ベルタはぼそぼそと声を発する。彼女が話す時、あのシェリンですらも静かになる。先ほどよりも顔を近づけたおかげで、アランはようやくベルタが何を言っているのか聞き取ることができた。

「……よろしく、お願いします……。一緒に、頑張りましょうね……」

 喉が引き攣ったような酷く枯れた声で、思わずアランは彼女の唯一の肌の露出である指を見た。荒れたところはあるものの、老婆と呼べるほど老いた指ではなかった。腰も曲がった様子は無いことから、三十代か四十代に入ったばかりのようだ。

(じゃあ今の声は……)

「ちょっと!ベルタさんがせっかくアナタに声をかけてくれたのに、なに黙ってんのよ!返事くらいしなさいよね!」

 シェリンに頭を小突かれて、アランは慌てて「はい!」と返事をした。ユゴは笑って「後はよろしく頼むよ」と言って、まだ何か言いたそうなシェリンを連れて荷馬車から出て行った。ここにはアランとベルタだけが残され、何とも気まずい空気──そう感じているのはおそらくアランだけである──が流れた。

 アランはベルタの前に腰を下ろした。それから繕い中の服を指さした。

「これをやればいいんですか?」

「……ええ。……これを、使って……」

 ベルタは裁縫道具をアランの近くに置いた。

「……ここが、まだ、できていないから……」

 次に服をアランの手に渡してくれる。彼女が指し示した箇所は、大きく裂けていた。まるで剣で切られたような裂け方だ。奇術師のものだというから、演目で剣でも使い、失敗したのだろうか。

「……それと、ここは暗いでしょう、から……これも……」

 ランタンも近くに置くと、裁縫ができるくらいには手もとが明るくなった。

「……さあ、やってみて……」

 話すだけでも体力を使うのか、それを言い終わると、ベルタは「ふーぅっ……」と長めの息を吐いた。アランは頷いて裁縫を始めた。糸を針に通すのに少し手間取ったが、十年前までは家族の繕い物は全てアランがやっていたのだ。仕立て屋としての技能はほぼ失っていたが、この家庭の技術だけはずっと持ち続けていて、少しやればすぐに当時の感覚も戻った。

 無言のままちくちくと縫っていると、やはり気まずいものがある。何か話題は無いものかと、少し縫う手を遅らせながら思う。

「あの、ベルタさん──……」

 そう声をかけて、アランはすぐに口を閉ざした。彼は彼女に尋ねたいことがあったのだが、それが無神経なものであると気づいたのだ。だがベルタは「……どうしたの?」と聞いてくる。アランは視線をあっちこっちと動かし、上手く逃げの言葉が出て来ないことを悟ると、諦めて口を開いた。

「その布と声は……どうして……?」

 ベルタに連られてか、それとも無神経なことを尋ねてしまった罪悪感からか。そのアランの声も小さいものだった。ベルタは一拍置いたあと、ぼそぼそと答えてくれた。

「……昔、火事があって……顔や身体の火傷が酷くて、隠しているの……喉も、その時にやられてしまったのよ……」

 アランの縫う手が止まる。

「……聞いてごめんなさい」

「……気になることがあるなら、聞くのは当然よ……。大丈夫、気にしていないわ……」

 「ふふっ」と柔らかな吐息が顔の布を揺らす。それでもベルタの顔は見えなかった。

「……いい子ね。気にしてくれたのね……」

「いい子って、俺そんな歳じゃないですよ」

 不貞腐れたように言うと、ベルタはまた笑った。

「……ふふっ……何歳なの……?」

「今年で二十六です」

「……えぇっ……!?」

 ベルタは手で口のある辺りを押さえた。

「……十五、六歳じゃ、ないの……!?」

「そんな若く見えるんですね、やっぱり……」

 そんなことは散々理解していたが、毎回凹んでしまう。雰囲気で分かったりしないものか。やはり見た目が重要か。乾いた笑みを浮かべながら遠くを見るアランに、ベルタが慌てる。

「……だ、大丈夫よ……そういう人は、いるものよ……」

「ありがとうございます」

「……そっ、それにしても、二十六歳……?私の娘と、歳が近いわね……」

 ベルタが話題を変えた。

「娘さん?」

「……今年で、二十八歳になるのよ……」

 また柔らかい吐息が顔の布を揺らした。

「二十、八……」

 対して、アランの口からは短く重い息が漏れた。

(姉ちゃんが生きていれば、姉ちゃんだってその歳だった。俺よりも二つ歳上で……)

 生きていれば、今頃は結婚をし、子どもを産み、その子どもも畑仕事ができる程度には大きくなっていただろう。しかし、姉はもういない。大事な家族である彼女の幸せを、見守りたかった。

(あの子も、その歳だったはずだ……)

 耳の奥を、忘れたと思っていた笑い声が過ぎていった。

「……もう、ずっと、会えていないの……」

「えっ?」

 予想だにしなかったベルタの言葉に、アランは知らず下げていた顔を上げた。ベルタの顔の布は、もう揺れてはいなかった。

「……火事の時に、離れ離れになってしまって……でも生きているのは、分かっているのよ……だって私が、ユゴに託して……ユゴが、ちゃんと外に逃がしてくれたんだもの……」

「ユゴ団長に?なら、なんで今も離れ離れなんですか?だって、ユゴ団長とベルタさんは、今一緒にいるじゃないですか」

「……娘を外に逃がしたあと、ユゴは……私を探していたから……外に一人でいた娘は、行方不明になってしまって……。だから……」

 そこでベルタは一度息を吐いた。

「……だから私は、娘を探すために……ユゴと旅芸団となって、各地を回っているのよ……。あの子は……この国に縁がある子だから、もしかしたらって……思っているんだけれど……」

「縁?それってどういう?」

 いつの間にか、アランはベルタの方に身を乗り出していた。

「……本当にただ縁があるだけよ?……あの子は、この国のある貴族の特徴を持っているの……」

 そこでアランの肩がぴくりと跳ねた。

 はっきり言って、貴族だから身体や能力に特別な何かがあるということは無い。せいぜい、一般市民より良いものを食べているから身長が高く、寿命の長い者が多いとか、武を尊ぶ国柄故に武の心得が一般市民よりもあるとか、それくらいだ。家によって、それらが特別変わるようなこともない。だが、必ず例外というものがある。

 この国には他国同様、貴族にも公爵やら伯爵やらと階級があるが、そのどれらにも属さない「特例貴族」というそのままの名で呼ばれる家が二つあった。貴族社会で有名なのであって、貴族とは無縁の一般市民には広く知られていない特徴を、その家は持っていた。

「……白い髪に、黄色の目……」

 やはりそうだ。特例貴族の一つ、ブランシェ家の血が濃い者にのみ許された色彩だ。通常では存在し得ない色を、彼の血は発現させる。信じられないことに、アランはその色を持つ人を数人知っているし、それどころか深い関わりを持っていた。

 アランは動揺を隠して、ベルタに尋ねた。

「娘さんは、ブランシェ家の人なんですか?」

「……先祖のどこかで、その血を引いている人がいる……というだけよ……」

「そっか、縁があるってそういう……」

「……別れた時、あの子はまだ五歳だったけれど……とても聞き分けの良い子でね……誰に拾われても上手く生きていけると思うの……この辺で聞いたことないかしら?……白い髪で、黄色の目で……エステラという名前を」

 酷く枯れた声でも分かるほど、愛おしげに娘の名前を口にした。その名前を口にするたび、彼女の中にかつての思い出が蘇るのだろう。とても温かな声色だった。

 しかし、アランはついに動揺を隠しきれず、「っえ?」と声を上げてしまった。ベルタは瞬時にその動揺の意味を察した。

「……エステラを、知っているの……!?」

(エステラ!?エステラって、ああ、嘘だろ?エステラってあの!?白い髪、黄色の目、それで五歳の時に親と別れた……!?)

「あの子を知っているなら、お願いっ!お願いします……ッ!どうか教えて……あの子は、今どこに……ッ!」

(言えるわけない!だってエステラは!)

「ベルタさーん!!と、あと、その他一名!ご飯だよー!」

 ドタドタドタとうるさく駆けて来る者が一人。大きな荷馬車とはいえ、走れば端から端へとすぐに着いてしまう。やって来たシェリンが見たのは、繕う服を放り出したアランに縋るベルタの姿だった。

「お願いします、あの子は……ッ!」

 普通の人の声量だが、ベルタにとってそれは叫びだった。喉にこれでもかと負担をかけ、中では血が滴り落ちているのではないかと思うほど熱かったが、今の彼女にそれは感じ取れなかった。ただただ、薄布越しに見えるぼんやりとした影の青年に、娘の行方を聞き出すことに無我夢中だった。

「ベルタさんッ、の、喉壊れちゃうよッ!!」

 状況を理解したシェリンは、初めにベルタの心配をし、アランから引き剥がした。普段身体を動かさない中年女性だから何とか引き剥がせたものの、子を思う母の力はかなり強く、シェリンは背中と額にべっとりと汗をかいていた。

「離して、お願いよ、シェリン……ッ!アランさんが、エステラのことを……知っているのッ!」

「落ち着いて、ベルタさん!」──シェリンは怒った顔でアランを見るが、すぐにベルタの方に顔を戻し、その時にはもう怒りは隠されていた。「アランも、ビックリしてるから!」

「でも……ッ」

「それに、アランはもうここの団員だよ?この場限りじゃないって!ゆっくり聞ける時間に聞いた方が絶対いいよ!夜ご飯の後とか!自由時間でしょ?それに、ねぇっ、今はお昼ご飯だって。早くしないと、ユゴ団長とジョージが怒っちゃうよ!そしたら何も聞けないよっ!!」

「……そ、そうね……そう……」

 シェリンの必死の説得で、ベルタもようやく落ち着きを取り戻した。

「……ごめんなさい、アランさん……私……」

「大丈夫、です。気持ちは分かるから……。夜ご飯の後に、話しましょう」

「……ええ。お願いね……」

 ベルタはよろよろと立ち上がり、乱れた服を直すと、そわそわと外へ向かった。それを見送ると、仁王立ちしたシェリンは未だ座ったままのアランを鋭い目付きで見下ろし、恐ろしく低い声で言った。

「…………アンタね、ベルタさんを揶揄ってるんなら、アタシが容赦しないわよ。女でもね、武器さえ持てば男なんかどうとでもできるんだから」

「か、揶揄ったわけじゃない……ただ……」

「なに?……本当にエステラちゃんのこと、知ってるってわけ?」

 声は低いままだったが、目付きはただ鋭いだけではなく、どこか探るようなものに変わった。

「本当の、本当に?二十年以上、ベルタさんはユゴ団長と一緒にエステラちゃんを探してきた。アタシだって知ってからはずっと……。アンタは、知ってるって言うの?」

 アランは口ごもった。すぐにシェリンが「ダン!」と右足を強く床に打ち付け、アランを威嚇する。

「その口が機能している間に言いなさいよ」

 シェリンが床の裁縫道具から針を数本抜き出す。

「今夜の食事係はアタシよ。アンタの食事にこれを入れることは簡単なのよ。お望みなら、今すぐ口に突っ込むわよ」

 シェリンが針を持ち上げる。針先が光り、アランの網膜にその姿を焼きつかせる。口の中に溜まった唾を飲み込む。もう逃げ場は無かった。

「……分かった」

 脅しに屈して、アランは口を開いた。シェリンの眼光は先ほどの比ではなく、針の先のように鋭い。言わなければ、食事を待たなくとも、シェリンは針をアランの喉に突き刺しているだろう。

「……言う。……言うよ!ただ……」

「ただ、なに?」

 アランはシェリンに近くに寄るように言った。シェリンは考えた素振りを見せたが、すぐに床に座り、アランの近くに寄った。

 アランの手は汗だらけだった。今も服を手に持っていたら、汗が染み込んでいただろう。こくりと唾を飲み込んで、自分が悪いわけではないのにも関わらず、自分が罪を犯したような気持ちになって、その罪を告白するような深刻さで、その言葉を口にした。

「エステラは、十二年前に土砂崩れに巻き込まれて、死んでいる」


 夕食後、シェリンとベルタが、アランを大きな荷馬車の奥へと連れて行った。床に置かれたランタンが、場違いなほど暖かい色で周りを照らした。ベルタはそわそわと胸の前で手を組んだり、それを外したりを繰り返し、アランが話すのを待っていた。シェリンがアランの目を見て、「分かってるよね?」とでも言うように目を細める。アランは小さく頷いて、短く息を吸った。

「ベルタさん、俺はエステラと、二回会ったことがあります」

「……二回も……?」

 枯れた声には、喜びと安堵が入り混じっていた。アランは一瞬言葉に詰まって、シェリンを見た。彼女は顎先を前へと出し、アランに話すように促した。

「……あれは、今から二十年近く前──」

 アランはそれから、過去の記憶を手繰り寄せながら、ベルタに優しい話だけを聞かせた。──それ以外のことは、話してはいけないとシェリンと決めていたから。

 アランが五歳から六歳になろうとする頃、アレクシの傭兵の仕事に無理矢理連れて行かれるようになって数ヶ月が経った頃のことである。

 その日の仕事は、ある旅芸団の護衛だった。セネテーラ王国の国境から山賊の多い峠を越えるまでの、日数にしておよそ七日。あまり急いでいるわけではないと、金に余裕のある旅芸団の団長は笑って言っていた。傭兵たちは普段の仕事に比べればやり甲斐の少ない護衛を全うするが、そろそろ六歳になろうという頃のアランは護衛などできるはずもなく、荷馬車の中で歳の近い団員と話をしたり手遊びをするだけだった。その団員が、エステラだった。

 ゆったりと走る荷馬車の一番後ろにある扉を開けて、そこに幼いアランは鞘に包まれた剣を抱きしめながらエステラと隣合って座り、両足をぶらんぶらんと揺らしていた。

「そんな薄着で寒くないの?」

 アランが聞くと、エステラは大きく頷いた。

「まったく寒くないよ」

「エステラはここよりずっと暖かいところから来たのに、凄いね。他の団員さんたちは、あんなに着てるのに」

「みんな寒がりなの!……これを言うと、みんなにあなたが暑がりなのよって、言われちゃうんだけどね」

 エステラはくすくすと笑った。短い白髪は柔らかく、ぴょんぴょんと跳ねていて、彼女が揺れるたび同じように揺れた。緩く細められた目は鮮やかな黄色だ。人の容姿で初めて見た色彩に驚いたのは、合流した朝のことである。あれから時間も流れ、日も傾き始めていた。

「エステラは、ずっと旅芸団にいるの?どんなとこに行ったの?」

「色んなところに行ったよ。ここの隣のウェントース皇国、その隣のフルスラント王国、あと……えっと……忘れちゃった。たくさん行ったから。でもね、私、ずっと旅芸団にいたわけじゃないんだよ」

 エステラは、山の向こうをじっと見つめた。

「アウラルス帝国ってところで生まれて、そこでお母様と暮らしてたから。五歳の時に離れ離れになっちゃったんだけどね……」

 首から下げた、手のひらよりも小さな巾着袋を白い手でぎゅっと握り、それからアランににこりと笑みを見せた。

「この中に、お母様がくれた耳飾りが入ってるの!大きくなったら、母さんがつけていいって。それまでは、こうして大事に持ってるの」

 この旅芸団は一つの家族として組織されていた。団長は「父さん」、副団長は「母さん」、互いを「きょうだい」と呼び合う団員は、血の繋がらない団長夫妻のことをそう呼び慕っていた。それはエステラも例外ではなかった。この一日でアランも何度か団長夫妻と話をしたが、殺された両親とはまた違った温かさを感じる人たちだった。顔立ちは東の方の出身のため、少し独特の雰囲気を持っていたが、そんなことは彼らの人柄には関係がない。ただ、団長夫妻が持っていた赤い目を初めて見た時、恐ろしい怪物に見下ろされたように感じた。赤はどの国でも神秘の意味を持ち、恐怖する理由が無い。怖いと言えば変な子ども扱いされるだろうから、アランは黙っていた。

 エステラは巾着袋から手を離す。

「父さんと母さんたちの生まれた国では、あまり体に傷をつけるようなことはしちゃダメなんだって。耳飾りをつける時も、耳に穴を開けるから、本当はダメなんだって」

「ええっ?穴を開けなきゃ、耳飾りつけられないのに?アレクシだって、穴を開けて耳飾りをつけてるよ」

 アランが義理の父親を例に出すと、エステラは「そうだよねぇ」と頷いた。

「でも、そういうものだよ。国が違うと、いろんなことが違うの!アウラルスでは、子どもと女の人は武器を持ったらダメだけど、他の国ではそんなの関係無かったもん」

「なんで武器を持ったらダメなの!?武器が無いと戦えないよ!」

 素っ頓狂な声に、エステラが真剣な声で返す。

「そうだよねぇ、お外って凄く危ないもん。アランくんも気をつけないとだよ」

「武器が無いなら、エステラは戦わないの?」

「兄さんたちに小さな剣を貸してもらったけど、私は全然ダメ。あっ、よく考えてみたら、アウラルスにいる時、戦わなきゃいけない時なんて無かったなぁ」

 その時、爆発でもしたかのように、子どもの泣き声が荷馬車の奥の方から聞こえてきた。

「あぁっ、マルくんが泣いてる!」

 エステラは反射的に振り返り、荷馬車のずっと奥を窺う。

 この旅芸団の団長夫妻には、生まれて一年近くになる実子がいた。実子の本名は東の響きで覚えづらく発音もしづらいが、あだ名の「マル」だけはアランも覚えていた。

 エステラは約七歳離れたこのマルのことを弟として可愛がっており、今日話していても何回も彼の話題が出た。基本的に日中はマルの世話は副団長がしているようだが、その副団長が食事中の時や外せない仕事がある時は、自分から進んで世話をしているらしい。舌っ足らずに「ねーね」と呼んでくれたことが、ここ最近で一番嬉しかったことなのだという。

 副団長があやしたのだろう。マルの泣き声はすぐに止んで、エステラはほっと胸を撫で下ろした。

「マルくん、泣き虫なんだよねぇ。可愛いでしょ?」

 エステラの朱色の頬がとろけるように緩む。しかしアランには、彼女が最後の言葉が理解できなかった。

「泣き虫って、弱いってことじゃん」

 泣いているうちに、大事なものは全て壊されてしまう。泣いても何も良くならない。この時のアランには言葉にできないが、感覚的にそう思っていた。

 エステラが目を丸くしたのは一瞬のことで、すぐにまた笑顔に変わった。

「そうかもしれないけど、私にとっては凄く可愛いの!守ってあげたくなるんだ」

「マルは男なのに?」

「そんなことに男も女も無いよ。だって下のきょうだいは、上のきょうだいが守るものなんだから。上のきょうだいにとって、下のきょうだいはどんな時でも可愛いものなの」

「でも、でもだってさ」

 この時のアランは、自分でも分からない気持ちに急かされていた。彼は剣を抱える力を強くする。

「マルは、エステラの本当の弟じゃないでしょ?」

 エステラの口がぽかりと開いた。

「……本当の弟だよ?だって、一緒に暮らしているし、母さんも父さんも、そうだって言ってたもの」

「でも、血は繋がってないじゃん」

「……それって、何か変なの?」

 彼女は本当に理解できないようだった。首を傾げて、耳飾りの入った巾着袋を握りしめている。

「もしアランくんが私の弟になっても、私はあなたを守るよ。お姉ちゃんが弟を守るって──ううん、歳上の人が歳下の人を守ることって、そんなに変?」

 おかしなことではない。それを理解する頭が、何故か熱に浮かされていく。その熱を冷ますように、アランは早口で言った。

「まっ、守るって、エステラは剣も使えないんでしょ?」

「剣以外のものを使えばいいんだよ!それに、守るっていっぱい種類があるんだから!父さんが言ってた!」

「種類?じゃあ何があるの?」

「えーと……えーと……。例えば……あ!」──その時、エステラの手がアランの頭の上を掠めた。「虫が来たら追い払ってあげるとか!」

 アランの頭上を、羽虫が飛んで行く。それをアランは目を丸くして見ていた。

「虫に刺されると大変だからねー。これも守るに入るんだよ」

 エステラは「えっへん!」と胸を張る。大人が見れば可愛らしいものではあるが、当時のアランには、誰よりも──家事全般が出来ず、部屋を汚くしてばかりのアレクシよりも、頼もしく見えた。

(いいなぁ。俺も、姉ちゃんが欲しい)

 それが一度目の出会いの話である。仲良くなったのも束の間、傭兵の大人たちは依頼を達成し、アランとエステラは手を振り合うことになった。

 あの出会いから八年近い時が流れ、アランも傭兵として活躍を見せるようになっていた、

 次に出会ったのは、アランが十四歳、エステラが十六歳の時だった。その頃には、アランには血の繋がらない姉がいた。

 アプリクスの教会前の広場へと続く大通りには、屋台と人が溢れ返っていた。その中には、アランたち姉弟の姿もあった。降り注ぐ陽光は今日の祭りを祝福し、あちこちの屋台から焼けた野菜や肉の良い匂いが立ち上っていた。その匂いに抗えず、二人が屋台で買った串刺しになった干し肉を食べながら歩いていると、人波に押され、一人の少女がアランの肩にぶつかってしまった。

「きゃっ!ごめんなさい!」

 長く柔らかな白い髪がふわりと揺れる。顔を上げた少女の目は黄色だった。アランの横にいた姉が、干し肉を喉に詰まらせて咳き込む。アランは少女から目を離せないまま、姉の背を摩る。

「姉ちゃん!大丈夫?」

「っうぇ……大丈夫よ、アラン。ちょっと驚いて……」

 姉の垂れ目が、彼女よりも若干背の低い少女へと向く。姉の驚きも無理も無い。彼女と少女は全く同じ色彩を持っていた。普通では有り得ない色彩を。そしてアランは、姉に出会うより前に、その色彩を持つ人を知っていた。まさかこんなところで会おうとは。心臓がうるさい音を立て始めていた。

 少女はぽかんとした顔で口を開く。

「え?アランって……」

 アランの顔をじっと見た後、彼女は「ああ!」と声を上げ、手を叩いた。

「アランくんだ!」

「……もしかして、エステラ?」

 少女の顔が、花開くように笑みに変わった。あまりにも眩しい笑みを向けられて、アランは気恥ずかしくなった。

「そう!エステラだよ!わぁ、久しぶりだね。大きくなったねぇ」

「それはエステラだって……」

 背や髪も伸びているが、特に変わったのはその肌の色だ。わざわざ日に焼かせたのか、白い髪がよく映える小麦色になっている。あの時大事に持っていた巾着袋はどこにも無く、耳には金色の耳飾りが揺れていた。

「どうしてここに?また仕事で?」

「うん。ここ数年は大陸の西を回ってるんだ。この間はお隣のウェントース皇国だったんだよ」

 あれから時も経ったというのに、彼女の柔らかい人当たりは変わらない。むしろ、あの頃よりも柔らかくなっているように思う。

「護衛の依頼出してた?気づかなかったよ」

「ふふっ。うちも前より大きくなって、用心棒さんが増えたから、最近は依頼出して無いの。でも出してたら、もっと早く会えてたのかもね」

「そうかも──」

「ちょーっとアラン!私っ!お、い、て、け、ぼ、り!なんですけど!?」

 再会に喜ぶ二人の間に入り込んだのは、他の誰でもない、アランの姉だった。腰に手を当て、偉そうにふんぞり返っている。黙っていれば深窓の令嬢のようなのに、言動で全てが台無しになる。

「あー……。エステラ、こっちは俺の姉のミレーヌ。と言っても、血の繋がりは無いから義姉ってことになるのかな」

 姉──ミレーヌは上品な笑みを浮かべる。片手に持つ、肉が荒々しく刺さった串にはそぐわず、ちぐはぐして見えた。

「はじめまして。ミレーヌよ。名前で呼んでね。あなたのことを、エステラと呼んでも?」

 ミレーヌは空いている片手をエステラの方へと出す。エステラも笑みを浮かべながら、その手に自分の手を伸ばし、二人は手を握り合った。

「はじめまして、ミレーヌちゃん。エステラです。名前でどうぞ」

「じゃあ、エステラ。あなた、うちのアランと知り合い?どこで会ったの?」

「私のいる旅芸団の護衛の依頼で、少しの間、護衛をしてもらっていたの」

「旅芸団っ?あなた、旅芸人なの?」

「そうだよ。ここ数年は踊り子」

「踊り子!」

 ミレーヌが驚いた声を上げている横で、アランはエステラの服装を観察していた。エステラの今の服装は、大陸の南西地域風の軽やかな白い布を多く使ったものであり、袖や裾は長く、動くたびに大袈裟に揺れている。よく見る踊り子に比べると膝下と肩くらいしか露出しておらず控えめだが、踊り子と言われれば納得できるものだった。

「遠くからでも踊っているのが目立つように、姉さんたちに教えてもらって、肌を焼いたの。そのおかげか、私の踊りは評判が良いんだよ」

「もしかして、これから踊るの?」

 ミレーヌが尋ねると、エステラは頷いた。

「今は緊張を紛らわせるために人の多いところに来てみただけなの。今でも時々緊張しちゃうんだよね」

 肩をすくめ、おどけたような表情を浮かべる。ミレーヌは何か言いたいことが多くあったようだが、それらを全て飲み込んで「頑張ってね」と返した。

「アランくんとも会えて、ミレーヌちゃんとも知り合えたし、緊張も消えちゃった。教会前の広場でやるから、ぜひ見に来てね」

「うん。絶対見に行く」

 すかさずアランが答える。ミレーヌは意外そうにアランを見た後、「私も」とエステラに言った。

「ありがとう。いつも以上に頑張って踊るよ──」

 そこまで言って、エステラは何か聞こえたのか、唐突に後ろを振り返った。それからすぐに、アランたちにも微かに「姉さーん」と言う幼い声が聞こえた。

「もう時間みたい。私、急いで戻らないと。じゃあね、二人とも!」

 エステラが手を振って来た道を戻って行く。姉弟で手を振り返し、彼女の白い影が人波の向こうに消えるのを見届けた。アランが彼女がいた場所を見つめている間に、ミレーヌは串刺し肉をガツガツと食べ切った。

「食べないの?」

「食べるけど……。姉ちゃん、もう食べ終わったの?」

「アランがぼーっとし過ぎなのよ。早く広場に行かなきゃなのに!ねぇ、いらないんだったら私にちょうだいな」

「食べるって言ったばっかじゃん!」

 姉に串刺し肉を奪われないように、アランも肉にかぶりつく。ただ焼いて塩を振っただけだが、いつもの食事よりも美味しく感じた。

「アランも広場行く?行くでしょう?」

 確信めいた問いに、肉を噛みながら頷く。

「じゃあさっさと行きましょ。踊りを見るって約束したもの」

 肉を飲み込んで、アランは「もちろん」と返した。二人は肉の無くなった串を、周りの人々がするように道の端へと投げ捨てた。一口分にも満たない、肉の欠片がついたそれらを、浮浪者が取って舐める。ミレーヌが眉根を寄せているのに気づいて、アランは「姉ちゃん、どうしたの?」と声をかけた。ミレーヌは「なんでもない」と早口に言い、広場へと向かう足を早めた。

 雪は降らないものの、毎年厳冬のセネテーラ王国において、比較的暖かいアプリクスは王族の避寒地であり、アンベール候爵領の他の町よりも道の整備が行き届いていた。正直なところ、教会の造形と石畳の広場は、侯爵直轄の街よりも立派だ。いつもは子どもらが遊び回る広場に、今は地面から二段高い位置に舞台が作られ、その周りには人だかりができていた。舞台の端には見たこともない楽器を持った四人の人間と、中心には、微動だにせず顔を伏せるエステラがいる。四人は目配せし合うと、異国情緒溢れる曲を奏で始め、エステラがしゃんと顔を上げた。賑やかな音楽は耳から脳へと入り込み、記憶を刺激する。八年前のエステラたち旅芸団の護衛の道すがら、似た音楽を聴いたことがあった。大陸の東の音楽だと言っていたか。当時の踊り子に、エステラと一緒に踊り方を教えてもらった。あの踊りを、エステラは今、舞台の上で踊っていた。それが分かった途端、アランの視界は光の洪水に覆われたように、色が鮮明に明るく映った。周りの歓声も、印象的な音楽も、全てが遠い。手の震えにすら気づかなかった。心が身体から離れて、エステラを間近で見ているような錯覚に陥る。彼女の揺らぐ髪を、空を撫でる指先を、ひらめく袖の動きをひたすらに追う。彼女の動きが止まって初めて、踊りと音楽が終わったことに気づいた。周りの音が耳に戻り、アランは知らず知らずに詰めていた息を吐き出した。

「見入ってたわね~」

 隣から意地悪そうな声がする。ミレーヌがニヤニヤと笑いながらアランを見ていた。

「……なんだよ」

 事実ではあったが恥ずかしく、それを紛らわせるように、アランは無意識に横髪を耳にかけた。まだ冷たさの残る空気が、耳の熱を和らげた。

「いーえー?別にー?」

 ミレーヌは「へーぇ、いやぁ、お姉ちゃん知らなかったなぁ」と呟き、「ぷぷぷっ」と笑いを堪えている。

「姉ちゃん……」

 低い声でアランが呼ぶと、ミレーヌは同じ身長の彼の肩に手を回し、「まあまあ」とわざとらしい柔らかい声で彼を窘めた。

「エステラとまた話せないかしら?アランは昔の知り合いなんだし、交渉なんてすぐできそうじゃない?」

「えっ、まさか、また会う気!?」

「あら!会わない気だったの?久しぶりの再会なのに!それにね、私だって、あの子と話したいことがあるのよ?」

「……変な話じゃないだろうな……」

「私がいつ変な話をしたって言うのよ!私は、変な話なんてしないわよ」

 念を押すようにそう言ってから、ミレーヌは声を潜めた。

「……あの子が私と同じ特徴を持っているのは見ての通りよ」──彼女の顔は真顔に変わる。「……アランの知り合いじゃなくても、気になるのは当然ってものでしょう?」

 アランを黙って姉を見た。白い髪に黄色の目。その意味を知る者は国の上層部くらいだと、この姉に初めて出会った時に聞いている。それまではアランも知らなかった。

「……エステラの生まれは、確かアウラルス帝国だって話だけど……」

「ふぅん?随分と遠いのね。……まあ有り得ない話ではないか」

 ミレーヌがじっとアランを見る。弟の、人波と風でいつの間にか乱れていた前髪をささっと直し、満足気に頷いて、いつもの表情に戻る。

「旅芸団なら荷馬車があるでしょ。探しに行きましょ」

「どこに行くって?」

 成人した低音の声がミレーヌに尋ねる。アランはその人影を見て、「げっ」と声を漏らした。

「だから、旅芸団の──……」

 ミレーヌの口が開いたまま、言葉だけが止まる。口角をひくっと引き攣らせて、彼女はゆっくり振り返った。

「アレクシ!仕事行ってたんじゃないの!?」

「祭りの日には帰るって前から言ってただろ。明日は予定があんだからよ」

 ミレーヌの後ろにいたのは、汚れた服装で腰から剣を二本下げている、平民にしては大柄な男──二人の養父であるアレクシ・ペリエだった。彼は数日がかりの傭兵の仕事を終え、町に帰って来ていたのだ。

 アレクシの言う「予定」が分からず、姉弟は揃って首を傾げた。

(あれ?そういえば、仕事行く前に何か……)

「ああっ!」

 アランが声を上げた。アレクシら仕事に行く前、こう言っていたのだ──『両親がそろそろ孫の顔見たいとさ。ってことで、祭りの次の日は俺の故郷に行くぞ。忘れんなよ?』

「忘れてた!やばい、アレクシの故郷行くの久しぶりだから緊張するって、話してたのに!」

「話したのって、八日も前じゃない!この私ですら忘れるわよ!祭りのことだってあったし!」

「お前らなぁッ!」

「旅の準備しなきゃだわ!アラン、家に干し肉ってあった?パンも焼かなきゃ!こうしちゃいられないわよ!」

「姉ちゃんは干し肉買ってきて!俺はパン作りするから!」

 姉弟の頭の中は、すっかりアレクシの故郷に向かうことで埋めつくされてしまった。慌ただしく走り出した二人は、それからエステラと会うことは二度と無かった。

 そして時は流れ、今。荷馬車の奥。春とはいえ、セネテーラの夜は寒い。指先の震えはその寒さゆえか、真実を全て語ることができなかった罪悪感ゆえか。

 アランは目の前のベルタに、昔話を聞かせ終えた。

「──これが、俺とエステラが会った時の話です。その後彼女がどこに行ったのかは……分からないです」

 視界の隅で、シェリンがアランに向かって、腕で丸を作って見せた。

 ベルタは感情を抑えるように胸の前で両手を組んでいた。彼女は掠れた小さな声で、何度も「ありがとう」と言う。

「エステラは……踊り子になっていたのね……凄い、凄いわ……。きっと今頃は……良い人に見初められて結婚しているのかも……踊り子を続けていても、素敵ね……。ああ、私も見てみたい……あの子の踊りを……っ!」

 ベルタの脳内では、成長したエステラが美しく踊っているのだろう。相槌も打てず、アランは俯いて床の木目を見ることしかできなかった。

(エステラにはもう会えないのに……)

 ソリエール教において、人は皆、死んだらすぐに生まれ変わるとされる。エステラが亡くなったのは十二年前。教えが真実であるならば、エステラだった魂は、ベルタと過ごした以上の時間を別の家族と過ごしているだろう。生まれ変われば、その前の人生の記憶は全て消えてしまう。ベルタがエステラだった魂には会えても、もう二度と、彼女の娘であるエステラには会えないのだ。

「そうだ……あの子のいた、旅芸団の名前は……?もし名前が分かれば……追えるかも……」

 シェリンが首を横に振るのを見てから、アランは答えた。

「それが、昔のことで分からなくて」

 口の中で言葉が消えてしまって、自然な続きが出てこなかった。

「ごめんなさい。……ごめんなさい」

 つんと痛む鼻を啜る。涙はいつ流れてもおかしくなかった。その気配を察したのか、ベルタはアランの名を優しく呼ぶと、労わるように言った。

「そんなに自分を責めないで……私は、あの子が生きていることが分かれば……それで充分だもの……ありがとう、アランくん」

 手が宙を彷徨いながらアランの頭を探す。数秒後、アランの丸い頭を、ベルタの手が撫でていた。

「もう寝る時間ね……アランくんは、アレクシさんと……一緒のところかしら?……お父さんなんだものね?……お父さんと一緒に……いてあげてね。十年ぶりなんでしょう……?」

「……はい」

「ふふっ。……さ、シェリン。私たちも寝ましょう」

「うんっ、ベルタさん!ほら、さっさとアランはアレクシのとこ行きなよー。ねぇねぇベルタさん、寝る前にアタシの今日の話聞いてー!今日はね、朝から──」

 楽しげな二人から離れ、アランは荷馬車を出る。寒さが肺を突き刺した。

(本当にこれで良かったのか?)

 胸の奥で、昼間の会話が蘇る。昼間シェリンには、全てのことを話した──エステラが死んだ時の話を。

 アランがエステラの踊りを見た翌日の夜、エステラのいる旅芸団の荷馬車はひとつ残らず崖下に落ちたという。なぜわざわざ夜に、それも崖の上などという危険な場所を移動していたのか理由は不明だが、このことは大きな話題となった。なぜなら、その旅芸団はリョウエン旅芸団といって、大陸では知らぬものはいないほどの知名度を持っていたからだ。あのリョウエン旅芸団が崖下に落ちて全滅した──あちこちの町で人々が噂した。アランがそれを聞いたのは、ちょうどアレクシの故郷についてのんびりと過ごしていた時だった。一緒に話を聞いたミレーヌは口を手で塞いで、悲鳴を押し殺していた。

 今回初めてセネテーラ王国に来たというシェリンですらリョウエン旅芸団とその結末を知っているのだから、ベルタが知らないはずがない。二十年近く探した娘はとうの昔に死んでいたことを知ったら、あの人は──。

 知らずのうちに下げていた顔を上げる。荷馬車からさほど離れていないところでは、焚き火が行われている。焚き火のそばに腰を下ろしているのはアレクシだ。今夜は彼が見張り番だと夕食時に聞いていた。眠る気にもなれず、アランは明かりに導かれるように、アレクシのそばに向かった。

「おいおい、お前が明日の見張り番だぞ?今夜は寝とけ、新入り」

 幅の広い剣を磨きながら、アレクシはアランの顔を見ずに言う。声は軽く、十年ぶりの再会をしたばかりとはとても思えない。

「眠る気になれないんだ」

「それでも眠れ。眠りは酒よりも人間に必要なもんだからな。目を瞑っていればいつの間にか夢の中だ」

「じゃあアレクシが今夜は寝ろよ。俺が見張り番やる」

 パチリと火の粉が跳ねた。アレクシがアランを見る。火に照らされたアレクシの顔は、この十年ですっかり老けた。声も覚えていたものよりも低く、老いている。もう四十を超えたのだったか。それは人生の折り返しをとうに超えた歳だった。対して、アランは十年経っても変わらず幼い容姿をしていた。

「お前……二十六になったんだったか」

「今年で二十七になる予定だ」

「見えねぇな、全く。威厳ってものがない。お前の周りの奴らは苦労しただろうな」

「……してたよ、たくさん」

 苦労をかけ過ぎて、最終的にはこれだ。一番苦労をかけたのは、やはりリシャールか。彼がいたから、アランが王であっても、セネテーラ王国はこの十年何とか保っていた。今ごろは、アランがいなくなって仕事が楽になると思っているだろう。

(……あいつは、俺のことを殺したくなるくらいには、苦労してたんだよな)

 昨日の朝、エリエントから聞いた言葉が胸を刺す──『この先に待っているのは、処刑です!リシャール様にアラン様を幽閉されるおつもりなどなかったのです!』

 せめて元親友として真実を本人に問いただしたかったが、無理だ。リシャールに会いに行く勇気が無い。かつて無茶をした時のように怒鳴られるのが怖いのではない。リシャールに面と向かって「君を処刑する」と言われたら──その方がずっと怖かった。

「で、逃げ出して来たのか?苦労かけてごめんなさいって?」

「そんなんじゃないけど……」

 どこまで話すべきか分からなかった。十年前までは、アレクシスを相手に、そんなこと考えたことも無かったというのに。

「……アレクシにも、苦労ばかりかけたよな」

「俺にも、なぁ」

 含みのある返しだった。アレクシは荒々しく剣を鞘に戻すと立ち上がって、アランと向き合った。

「お前がやったことでいったい何人の人間が仕事を失ったと思う?」

「それは……」

 アランは何を言うのが正解か分からず、言葉を続けられなかった。

 アレクシの話で思い当たるのは、一つしかなかった。

 アランが玉座についてすぐ、領土拡大のため、隣国に攻め入ったことだった。この国は寒冷の高地という土地柄から慢性的な食糧不足で、他国からの輸入無しでは生きていけない。だから隣国のウェントース皇国の豊かな土壌を手に入れようと思ったのだ。長く続いたアルノー朝を終わらせる革命に火をつけたのは、そのウェントース皇国との関係悪化だったというのに。これを聞きつけたアレクシは、養父の権限を使ってアランの元にやって来ると、アランに止めるように言った──その時には既に、明日には攻め入るという段階で、止めるには遅かった。

「もう決まったんだ。取り消すなんてできない」

「傭兵の俺でも分かるようなことを、お偉いさん方が分からんわけがねぇ。それとも何か?平民のこと国民とも思ってねぇのか」

「そんなことはない!ただ、豊かな土地が手に入れば、もっと良い暮らしになる。飯のために、ウェントースの顔色を伺わなくて良くなるんだ」

「その飯を食うには金がいるだろうがッ!!」

 次の瞬間、アランは後ろ髪を掴み上げられていた。視界が揺れ、初めて養父の恐ろしい顔を見る。痛みに顔を歪めるアランを睨みつけて、アレクシは唇を戦慄かせる。二人の目が長い間合う。アレクシは怒鳴ることなく、放り投げるようにしてアランを解放すると、ただ一言だけ残して去って行った。

「勝手にしろ」

 アランは初めて人に見限られた。もう二度と、アレクシとは会えないのだろうと思った。

 アレクシよりも前に、アランを止めるのは他にも大勢いたが、それらはほとんど革命軍幹部から政治の場に入った者たちだ。古くから政治に関わってきた貴族たちは、むしろアランを支持した。平民から王になってしまったという罪悪感や重い責任から、あの頃は頭が正常ではなかったと、今になってアランは思う。そしてアランは後者の意見を聞き入れて、皇国に攻め入り、結果は三つの村と周辺の土地の占領に成功し、一ヶ月と経たずにセネテーラ王国領にした。セネテーラ王国は初めて広い平地を手に入れたのだ。その代わりに、ウェントース皇国との関係は修復不可能なものとなった。そして土地を得た瞬間、アランは止めてくれた者たちからの信頼を失い始めたのだと、今なら分かる。少なくとも、アレクシはアランの元から去ってしまった。

 村の一つが海に面していたため、元々あった小さな港を使い、ウェントース皇国とは別の国から食糧を輸入した。さらに新たな領土の畑から収穫を行ったので、食糧面では大きな問題は無かった。だが戦で飯を食べていた傭兵たちは、かえって仕事を失ってしまった。

 ウェントース皇国は他国と長い間戦争しており、そこで傭兵として雇ってもらうことで、長らく雇用は安定していた。しかし攻め入った時点でそれは無くなり、多くの失業者が出た。ここ数年は船に乗って遠い国まで傭兵をしに行く人々が増え、それと食糧輸入に伴い港は大きくなったが、傭兵たちの懐はかつてよりも寂しくなってしまった。

(だからアレクシは傭兵を辞めて、この旅芸団で用心棒をしていたんだ……)

 アレクシの後ろに大勢の傭兵たちの影が見えた気がして、アランは肩を縮こまらせた。

 傭兵たちにとって、自分が恨みの対象だとは分かっていた。それはつまり、傭兵だったアレクシにとってもそうなのだと、今ようやく理解した。自分はアレクシは養父だからと無意識に甘えていたのだ。

「おい、アラン」

 名前を呼ばれて、アランの肩が跳ねた。

「正直、お前に言いたいことは山ほどある。それと同じくらい、あの頃の俺にも言いたいことがある。もっと厳しく躾ろだの、無理矢理にでも革命軍から家に連れ帰ろだの。この十年、ずっと後悔しっぱなしだ」

 風に煽られ、火が大きく揺らめく。アランはアレクシのことを目を丸くして見ていた。

(俺のこと、見限ってたんじゃ……?)

 アレクシが口角を上げる。

「アラン、一発殴らせろ。それでチャラだ」

 そう言うやいなや、アレクシはアランの返事を聞かず、拳を奮った。鈍い音がしたとほぼ同時にアランの視界がぶれて、一瞬にして自分が地に伏していることに気づく。腹の中心から痛みが広がり、肺の底から咳が出る。涙と唾液を零しながら、痛みと苦しさに呻く。腹を手で押えて蹲るアランの前にアレクシはしゃがんだ。

「すまねぇなアラン。父の情けってことで加減したつもりだったんだが……俺もまだまだ若いな」

 確かに彼の言う通り、加減はしたのだろう。そうでなければ、今ごろ吐瀉していたし、骨も何本か折れていたはずだ。そもそも腹ではなく、頭を殴られていたかもしれない。アレクシは昔から荒々しいが、優しい男なのだ。そうでなければ、アランを養子になどしなかっただろう。

 アランは顔をゆっくり上げると、小さく笑って見せた。

「もうすぐ、寿命のくせに……若いことあるかよ……」

「俺は四十二だぞ。せいぜいあと二十年は生きる。傭兵を辞めたんでな」

 アレクシは笑ってアランの頭を、幼い頃したように、髪がぐしゃぐしゃになるまで撫でると、「よし」と呟いて、アランを肩に抱え上げた。腹が勢い良くアレクシの肩に当たり、アランはまた呻いた。

「ぅえ……腹痛い……」

「俺じゃなきゃ、お前今ごろ転生させられてるぞ」

「…………」

 それでも良かったかもしれない、などと口に出せば、アレクシは問答無用でまた殴るだろう。アランは無言を返して、寝床へと運んでもらった。

 荷馬車の中、いくつも並んだ三段組のベッドの中から、寝息やいびきが聞こえて来る。アランは一番端の、長らく誰も使っていなかっただろうベッドの上に落とされ、埃が舞った。

「じゃあ俺は見張り番に戻るからな」

「おー……」

 荷馬車から出ていくアレクシを目で見送ると、アランは目を瞑った。横向きになって、痛む腹を両手で抱きしめるような体勢をとる。全くマシにならない。

(明日までに痛みが治まりますように……。頼むぜ、ソリエール。何のために信仰してると思ってんだ。今日を光のもとで過ごせたことに感謝しとくからよ!)

 こんなことを思っていると知れば、かつて革命軍で一緒だった教会の人間にお説教をくらうかもしれない。いや、それよりも──敬虔なソリエール信者だった両親が先に怒るかもしれない。

 アレクシという懐かしい再会があったからか。その日のアランの夢には、多くの懐かしい人影が出て来た。

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