夜明け前

 その週の金曜日、空は一日中、曖昧な灰色をまとっていた。

 雨が降るでもなく、晴れに向かう気配もない。

 ただ湿った雲だけが、校舎の上を低く漂い続けている。


 放課後になっても、その曇り空は色を変えず、

 校舎の窓ガラスには教室の灯りが薄く滲み、

 世界の輪郭がぼやけたまま夜へ向かっていた。


 凌介は、カバンを肩にかけたまま、階段の踊り場で立ち止まっていた。

 校舎の端に位置するその場所は、夕方の風が通り抜ける。

 風は冷たくもなく、暖かくもなかった。

 ただ、何かを予兆するような、落ちつかない温度だけを運んでくる。


 ポケットの中でスマートフォンが震えた。


 〈今日寄り道すんの?〉

 凛太からだった。


 〈帰る〉

 とだけ返した。

 〈そっか。じゃーまた月曜な!〉

 すぐに返ってくる軽いメッセージ。


 その軽さが、今の自分には少しだけ重かった。



 階段の窓から見える中庭は、人の気配がない。

 プールに続くチェーンフェンスだけが風に揺れ、

 ガラス越しの曇天が、地面の水たまりを灰色に染めていた。


 ゆっくりと階段を降りようとしたとき――

 ふと、一階の曲がり角に、人影が見えた。


 高槻玲だった。


 教科書とノートの束を抱え、

 廊下の端の手すりに背中を預けて立っている。

 肩のあたりで揺れる髪が、窓の光を吸い込んで、

 周囲の曖昧さとは違う、はっきりした影をつくっていた。


 彼女は、凌介に気づいていない。

 遠くを見るような視線を、床の一点に落としていた。


 ――また、迷ってる。


 その佇まいは、まるで昨日の続きだった。


 静かな夕方の廊下に、カツンと靴音を響かせながら、

 凌介はゆっくり歩く。


 距離が近づくほど、玲の表情の細かな揺れが見えてくる。

 眉の間に寄った皺、

 指先の微かな震え、

 頬に残る、疲れにも似た淡い陰り。


「……高槻」


 声をかけると、玲がびくりと肩を揺らした。

 そして、ゆっくり顔を上げる。


「あ……志藤くん」


 その声は、昨日より少し弱かった。

 しかし、逃げることなく、ちゃんとこちらを見ていた。


「帰らないのか」


「……帰るつもりだったんだけど、足が止まっちゃって」


「どうして」


「わからない。……たぶん、考えすぎてる」


 玲は、抱えた教科書を胸に押しつけた。

 その圧で紙が少しだけしなり、柔らかい音がした。


「今日のこと、気にしてるのか」


 玲は一瞬だけ視線をそらした。

 ――図星だ。


「気にしてないって言ったら嘘になるけど……。でも、それだけじゃなくて」


「じゃなくて?」


 玲は階段の窓に目を向けた。

 外の曇天が、反射した廊下を灰色に染める。


「今日、私……言い過ぎたのかなって」


「別に、間違ったことは言ってないと思うけど」


「そういう問題じゃないんだよ」


 玲の声は、少しずつ震えを帯びていった。


「私、なんであんなに ‘公平’ とか ‘バランス’ とかにこだわってるんだろうって。帰り道に考えてて……そしたら、なんか、苦しくなっちゃった」


 凌介は、黙って聞くしかなかった。


「ほんとはね。公平かどうかなんて、どうでもよかったんだと思う」


 玲は、抱えていた教科書を少しだけ下ろした。

 そこに隠れていた彼女の胸の奥の影が、ふっと外へこぼれる。


「ただ……」


 言葉の続きを探すように、玲はゆっくり息を吸った。


「ただ、志藤くんと三浦くんが ‘近い’ のが、ちょっと……気になってしまったの」


 その瞬間、廊下の空気が静かに揺れた。

 風が、どこか遠くでドアを鳴らす音がした。


 凌介の喉の奥に、何かがせり上がる。

 驚きでも、拒絶でもない。

 もっと複雑で、名前のつけにくい感情の塊。


「……『気になった』って、どういう意味だ」


「わかんない。自分でも」


 玲は、かすかに笑った。

 泣きそうにも見える笑顔だった。


「嫉妬なのかもしれないし、ただの孤独なのかもしれないし……。そのどっちでもない気もする」


「……」


「でもね、三浦くんって、明るいけど……すごく ‘人に見られることに慣れてる’ でしょ?」


「ああ……まあ、そうだな」


「それって、ときどき怖くない?」


 思いがけない言葉だった。


「……どうしてそう思うんだ」


「だって三浦くん、 ‘見られる側の顔’ と ‘見せてる顔’ が、ちゃんと分かれてるから」


 玲は静かに言葉を続けた。


「明るいときほど、なんか……空白が見える瞬間がある。志藤くん、気づいてた?」


 胸が強く締めつけられる。


 ――気づいていた。

 ずっと。


「……高槻は、すごいな」


「すごくないよ。たぶん私は、 ‘気づくことをやめられないだけ’」


 その言葉は、鏡のようだった。


 玲の “気づいてしまう性質” と、

 凌介の “見えてしまう性質” は、どこかで重なっている。


「志藤くん」


 玲は、一歩だけ近づいた。

 距離が縮まり、廊下の音が遠くなる。


「私ね…… ‘ちゃんと人と関わりたい’ って思ってるのに、怖くてできないの」


「……」


「傷つきたくないし、傷つけたくもない。

 でも、それを避けてるうちに、余計に自分がわからなくなる」


 凌介の胸の奥で、言葉にならない痛みが広がった。

 玲の声が、まるで自分の本音をそのまま読み上げているようで。


「だからね」


 玲は、顔を上げた。

 曇った光の中で、彼女の目だけがまっすぐだった。


「志藤くんが ‘気づく人’ だって知って、なんか……安心したの。

 誰かに気づかれるって、こんなに楽になるんだって、初めて思った」


 ――気づかれることは、痛みだと思っていた。


 しかし玲の言葉は、それを覆していく。


「……でも」


 玲は一度だけ目を伏せた。


「それと同じくらい、怖いとも思った」


 その言葉は、胸にナイフのように刺さった。

 だが、痛みはむしろ優しかった。


「なんで怖いんだ」


「気づいてくれる人って…… ‘離れるとき’ が、一番痛いから」


 静かな廊下に、その言葉が落ちた。


 凌介は息を吸い込み、

 喉の奥からやっと絞り出すように言った。


「……俺は、まだ離れるつもりはない」


 玲の目がわずかに見開かれ、

 その奥に、揺れる小さな光が見えた。


「……ほんと?」


「わかんないことは多いけど、

 でも、今は……離れたくないって思ってる」


 玲はまぶたを閉じて、ふっと息を吐いた。

 その吐息には、安堵と緊張と、少しの期待が混じっていた。


 曇天の空の下、廊下の古い蛍光灯がちかりと明滅した。


 遠くでチャイムが鳴る。

 放課後の時間が終わり、夜の入り口が近づいている。


「……ありがと、志藤くん」


 玲は、教科書を抱え直しながら言った。


「その言葉だけで、今日は十分」


 そう言って少しだけ微笑むと、

 ゆっくりと校舎の出口の方へ歩き始めた。


 背中が遠ざかる。

 その歩幅は以前より、少しだけ軽かった。



 凌介は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。


 曇り空の下、世界はぼんやりと薄暗い。

 しかし自分の胸の内側では、黒ではない何かがゆっくりと灯っていた。


 ――透明であることは、痛い。

 でも、透明のまま誰かと向き合うことは、もっと痛くて、もっと優しい。


 そう気づいた瞬間、

 長いあいだ閉じていた扉の隙間に、

 かすかな光が差し込んだ気がした。


 夜になる前の、いちばん曖昧な時間。

 空の色は定まらず、その分だけ未来の色も定まらない。


 それでも――


 歩き出す足だけは、確かな形を取り始めていた。

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