新しい輪郭
週が明けると、空は嘘みたいに晴れていた。
雲ひとつない青が、校舎の窓に反射してきらきらと光を返す。
冬の名残を含んだ冷たい風が、春の手前の匂いを運びながら通り抜けていった。
校門に向かう途中、凌介は胸の奥に、今までとは違う小さな「重み」のようなものを感じていた。
痛みではない。
苦しさでもない。
ただ、そこに確かに“何かがある”とわかるような、はっきりしない存在感。
――あれは、光だろうか。
それとも影だろうか。
まだ判断はつかない。
だが、自分の輪郭が、少しだけ変わり始めていることだけは、わかった。
「志藤ー!」
いつもの声が聞こえる。
振り返ると、三浦凛太が片手を振りながら走ってくる。
そのテンションは以前と変わらないのに、昨日までと違って見えた。
理由は、自分が変わったからかもしれない。
「よっ。週末どーだった?」
「……普通」
「普通かよ! もっとなんかねーの? ほら、ついに人生変わるイベントが起きました〜とか」
「起きてねぇよ」
軽口を交わしながら校門をくぐる。
だが、凛太が横目でこちらを何度か覗く視線に、微妙な違和感が混じっている。
「なんだよ」
「いや……なんか、お前、雰囲気変わった?」
「変わってない」
「いや変わってる。昨日の夜、同じクラスだったくせに別人になって帰ってきたみたい」
「意味わかんねぇよ」
「わかるって。……なんか、気持ち軽そう」
その一言で、胸が静かに波立った。
「誰かと話した?」
「……高槻と、ちょっと」
凛太の足が、一瞬止まる。
その間はほんの一秒にも満たない。
しかし、誰より敏感に“変化”を感じ取る自分は、その揺れを逃さなかった。
「……そうなんだ」
凛太の声は、いつもより少しだけ低い。
それは嫉妬ではなく、不安に聞こえた。
「別に、何があったわけじゃねぇよ。ちょっと話しただけだから」
「……そっか」
小さく笑う。
その笑みは“わかってるふり”のときの薄い笑顔に近かった。
――凛太にも、壁がある。
いつも誰よりも明るく、誰よりも軽やかに他人に近づく彼が、
本当は、自分の内側の扉を誰にも開けていないことを、
ようやくはっきりと意識する。
「お前、なんかあった?」
凌介がそう聞くと、凛太は「なんもねぇよ」と笑った。
今度の笑いは自然だったが、わずかに力が入っていた。
「ほら、今日のチーム分け、ちゃんとやんぞ。俺、絶対負けねぇからな」
「負けねぇよ」
「いや、負けるだろお前。シュート入んねぇし」
「……言ってろ」
軽いじゃれ合いに戻る。
だが、心の中では、昨日までより複雑な糸がほどけたり絡まったりを繰り返していた。
*
ホームルーム。
球技大会のチームが正式に発表され、教室はまた一つざわつきを取り戻した。
「俺、志藤と敵かー。ま、ちょうどいいな!」
「負けたらジュース奢れよ!」
凛太は、わざとらしいほど大袈裟に挑発してくる。
だがその声の裏に、妙な張りつめが混ざっていた。
――本気で、負けたくないのか。
それとも、何か別の感情の逃げ道として“勝負”を利用しているのか。
考えすぎかもしれない。
しかし“気づく”体質の自分には、その空気がどうしても引っかかった。
黒板の前を離れ、席に戻る途中。
高槻玲が、こちらを見ていた。
視線が合うと、
彼女はほんのわずかに唇を上げた。
笑みと言えるほどの形ではない。
だが、昨日の言葉の続きを伝えるような、控えめなぬくもりがあった。
――また、話そう。
言葉にはしなくても、その意志が伝わってくる気がした。
*
放課後。
グラウンド脇のバスケットゴールの前で、二つのチームが集まる。
放課後の空は青く澄み、
西日に照らされたゴールが長い影を地面に落とす。
「アップするぞー!」
凛太が声を上げると、周囲の空気が変わる。
彼は、どこにいても中心になる。
そこに悪意も自覚もないのに、自然と中心が彼の周りに生まれる。
凌介は、コート脇で軽くストレッチをしていた。
指先から足の先まで、身体の中の空気がゆっくりと整っていく。
「志藤、シュート練習する?」
声の方を見ると、玲が立っていた。
体育館シューズのつま先で地面を軽く蹴りながら、こちらを窺っている。
「……ああ。やる」
「下手なんでしょ?」
「言うなよ」
玲がくすっと笑う。
その笑いは昨日より柔らかかった。
「じゃあ、パス出すから」
彼女がボールを胸に構える。
目が合った瞬間、
胸の奥に温かい光が広がる。
玲のパスは正確で、まっすぐだった。
そのボールを受けるたび、自分の「輪郭」が一本ずつ線を引かれていくような感覚があった。
――見えないと思っていた自分が、誰かに見えている。
透明であろうとしてきた日々が、
その透明さを少しずつ失っていく。
しかし、その変化は痛みだけではなかった。
「志藤ー!」
遠くから凛太の声が飛ぶ。
振り向くと、彼が手を振っている。
「試合形式でやるぞー! ほら、こっち来い!」
玲がボールを抱えたまま、
そっとこちらを見上げる。
「行ってきて」
「お前も来いよ」
「あとで。私は準備運動するから」
玲は軽く手を振り、
その距離に微笑を添えた。
*
試合が始まる。
コートの上には、張りつめた空気と、汗の匂いと、ボールの弾む乾いた音が混ざった。
「志藤、右に!」
「パスいくぞ!」
人の声が飛び交う。
自分の身体が空間に溶け込み、
ボールの軌跡を追うだけで世界が埋め尽くされる。
隙を突いて走ると、
凛太が真横から飛び込んできた。
「おりゃぁぁ!!」
「邪魔すんな!」
「邪魔するに決まってんだろ!」
二人の肩がぶつかる。
しかし痛みよりも先に、
胸の奥に奇妙な“嬉しさ”が湧いた。
――ああ。こういうの、悪くない。
透明とは対極の、ちゃんと「そこにいる感覚」。
誰かとぶつかり、笑い、怒り、動くその実在感。
その感覚を、ずっと避けていた。
傷つくから。
期待されるから。
離れるときに痛くなるから。
だが、今、胸の奥で何かが変わりつつある。
凛太が勢いよくボールを奪う。
走りながら、ちらっとこちらを見る。
その目の奥には、いつもの光ではない何かがあった。
――たぶん、あれは。
言葉にできない感情の影。
羨望か、不安か、期待か。
複雑すぎて判別できないけれど、確かにこちらを向いていた。
その瞬間、
凌介は気づく。
――もう、自分は “透明” ではいられないのだと。
*
練習が終わるころ、空はゆっくりと夕焼けに変わっていた。
橙と薄紫の光が混ざり、
グラウンドの地面に長い影を落とす。
「ふー……疲れた!」
凛太が頭にタオルをかけながら、息を吐いた。
その横顔は子どもみたいに無防備で、
それでいて、どこか大人びた影も落としていた。
「志藤」
「ん」
「今日のお前……なんか強くなってね?」
「そうか?」
「まじでそう。……昨日の話、効いた?」
胸が小さく震える。
昨日――
凛太が自分に向けたあの言葉。
『俺は、お前が “見える方” の人間って知ってて、一緒にいる』
『“見えないふり” しても意味ないんじゃね?』
あの一言は、
自分の輪郭を無理やり浮かび上がらせるような強さを持っていた。
「……どうだろうな」
凌介は、空を見上げた。
夕焼けは、もう夜に飲まれかけている。
橙色の残光が淡い影を残し、それが揺れている。
「ただ……」
ゆっくりと言葉を続ける。
「少しだけ、 ‘見えてもいい’ って思った」
凛太は目を丸くしたあと、
ゆっくりと笑った。
「……そっか」
その笑顔は、強がりでも、作り物でもなかった。
ただ純粋に、安堵と喜びと、少しの寂しさが入り混じった笑顔だった。
「じゃあさ」
凛太が手を差し出す。
「これからも、ちゃんと俺と勝負しろよ。
逃げんなよ?」
その言い方に、胸の奥の痛みがやさしく反応する。
「逃げねぇよ」
凌介は、その手を軽く拳で叩いた。
凛太が、満足そうに笑う。
*
帰り道。
校門の前で、立ち止まる人影があった。
高槻玲だった。
夕方の風に髪を揺らしながら、こちらを見て微笑む。
「頑張ってたね」
「……見てたのか」
「ちょっとだけ」
玲の目は、以前よりずっと柔らかかった。
けれど、その奥にはまだ、解けきっていない不安と迷いが沈んでいる。
「志藤くん」
「ん?」
「今日の君、すごく ‘そこにいる’ 感じがした」
その言葉が、まっすぐ胸に届く。
「……高槻のおかげでもある」
「え?」
「昨日話したから。
なんか、少しだけ変わった気がした」
玲の目がわずかに揺れ、
次の瞬間、ゆっくりと微笑んだ。
「……よかった」
風が二人の間を抜けていく。
透明だった空気に、色が混ざり始めていた。
「じゃあ、また明日」
玲が軽く手を振り、
夕暮れの街へと歩き出す。
その背中は、昨日よりもずっと軽く、
しかし確かな重みを持って揺れていた。
*
校門の前に一人残った凌介は、
空を見上げた。
夜の気配が、ゆっくりと世界を覆っていく。
胸の奥で、確かに何かが変わった。
見えてしまう痛みも、
透明でいる苦しさも、
誰かと向き合う怖さも。
全部抱えたまま、
それでも――
「そこにいる」
と思える自分が、初めてほんの少しだけ好きなった。
その感覚は、
夜明けの手前で芽生える、まだ弱い光のようだった。
そしてその光は、
ゆっくりと、
確かに、自分の輪郭をあたため始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます