自由への扉

HOSHIYUKI

第1話:泣き虫と守護者の出会い

​「いいから酒買ってこい。仕事から帰ってきて飲みたいって言ってるんだ。つべこべ言わず買ってこい」

​ 男の怒鳴り声が、薄暗いアパートの台所に響いた。

 その男の前で、女の声が張り裂けんばかりに叫んでいる。

​「あなたも昼間からやめてちょうだい! 家賃だってなんだって払わなきゃいけないのに、どうして家のお金がお酒ばっかりになるのよ。これじゃ一生懸命働いたって先が見えないじゃない!」

​ 男は、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。

​「やかましい。また殴られたいのか、お前は」

「殴りたいなら殴りなさいよ! 私はケンを育てなければならないの。あなたのわがままばかりに付き合ってられないのよ!」

「てめえ、この野郎。言わせておけば……」

​ 男はそう言うと、怒りに任せてケンの母親を殴り始めた。

​「やめろ! 父ちゃん! 母ちゃんをいじめるな!」

​ 7歳のケンが、父親の足元に掴みかかっていった。涙と怒りにまみれた目つきで。

​「なんだ、ケン。その目つきは。それが父ちゃんに対する目つきなのか?」

​ 男はそう言い、ケンを大きく蹴り上げた。

​「あなたはやめて! ケンには手を出さないで!」

​ 母親は、蹴り飛ばされたケンを庇うように、男の前に背を向け、ケンを匿った。

 次の瞬間、男は母親の髪の毛を掴み、台所の冷たい床を引きずり回し、ケンから引き剥がした。

​ ズドーン ガシャン!

​ テーブルの上の何枚かの皿が床で砕け散った。母親は台所の壁に激しく投げ出される。

 ケンは、絞り出すような雄叫びをあげながら、再び男の足元に掴みかかっていった。

 男は怒りに任せ、ケンの細い首を片手で握り締め、台所の中央で宙吊りにした。

​「いいかケン。ここは俺の家だ。お前に自由なんかないんだよ」

「う……!」

​ ケンの小さな体から、空気が絞り出される。宙に浮いたその小さい足をばたつかせるケン。だがその視線は父親のその顔を外したりはしなかった。

​ 次の瞬間、父親の動きがピタリと止まった。

​ ドス!

​ 背後から、ケンの母親が、包丁を父親の背中めがけて深く刺していた。

 父親は最後の力を振り絞り、ケンを放り出すと近くにあった空き瓶を手に取った。渾身の力で、ケンの母親の頭を叩きつけた。

​ ガン!

​ ケンの母親は、その一撃で頭から血を流し、台所に倒れ込んだ。父親もまた、力尽きて、息を引き取っていった。

​ 静寂と、辺り一面を染める血の赤。

​「母ちゃん! 母ちゃん!」

​ ケンは泣きながら母親にすがり、何度もその体を揺り動かし、起こそうとしたが、母親はピクリとも動かなかった。

​ やがて現場に警察が駆けつけ、パトカーのサイレンが鳴り響く。救急車、慌ただしい人々の足音。パーティーネオンのような光がそこらじゅうを照らし出す。血の海の中で母親から離れようしないケン。

 その後ケンは児童保護施設の職員に抱きかかえられ、その家を後にした。

​ ***

​ 学童保育所のコンクリートの裏壁は夏の日差しを反射していた。

​ ケンはいつもそこで一人、空を見つめていた。その施設には多くの子供たちがいたが、ケンは誰とも話そうとも、仲良くしようともしなかった。ただ、心の中に溜まった怒りと悲しみを、静かに燃やし続けていた。

​ いつものように、いじめっ子たちが3人、ケンのそばにやってきた。

​「お前の父ちゃん、酔っ払い。母ちゃん殴って、あの世行き!」

​ 心のない残酷な言葉。

 ケンはそのたびに、泣きながら、怒りのままに3人を相手に飛びかかっていった。力任せの、無秩序な攻撃。結果はいつも、蹴られ、殴られ、泥にまみれて倒れるだけだった。

​ その光景が繰り返される日々の中、ある日、一人の少年がケンの前に現れた。

 いじめられ、地面にうずくまるケンの前に、その少年は立ちはだかる。

​「お前ら3人で1人と喧嘩なんて、ずいぶんずるいじゃねえか」

​ 少年は強い視線でいじめっ子たちを睨みつけた。

​「弱い者いじめなんかして、何が楽しんだ? ケンに手出しするやつは、俺が許さねえ」

​ その迫力に、いじめっ子たちは顔を見合わせ、逃げるようにその場を去っていった。

 その少年は近くの水道へ向かい、ハンカチを濡らした。ケンの元に戻り、汚れた体を優しく拭いてやる。

 ケンはようやく泣き止み、くしゃくしゃの顔で、

​「ありがとう」

​ と呟いた。

​「俺の名前は、宗治」

​ 宗治は、ケンを座らせたまま、静かに言った。

​「お前さあ、俺見てて思ったんだけど、全然ダメだな」

「何が?」

「ただ力任せに突っ込んでも勝てないよ」

​ 宗治はケンに立ち上がるよう促し、

​「ちょっと立ってみな」

​ と挑発した。

 ケンは言われるがままにかかっていく。宗治はそれをさらりと避けて見せる。ケンは掴もうとするが、宗治は軽くいなし、また避ける。ケンは掴めない苛立ちから、小さく雄叫びを上げながら飛びかかろうとした。

​ ヒョン!

​ 宗治は、ケンの目の前に足を出し、ケンは足を引っ掛け、勢いよく倒れ込んだ。

​「いってー!」

​ ケンは足を押さえた。宗治は言った。

​「殴る時、目をつぶってるでしょ」

「え?」

「怖いからつぶってるんだ。それじゃ当たらないよ」

「うーん……」

「俺はずっと目を開けてる。君がどう動くか、ちゃんと見てるからね」

​ そう言うと、宗治はケンに向かって、起きるように手を差し伸べた。ケンを引っ張り上げ、体についた砂埃を払ってやった。

 ケンは、希望に満ちた瞳で尋ねた。

​「僕、強くなれるかなぁ?」

​ 宗治はケンの顔を覗き込み、笑ってみせた。

​「なれるさ。勝ちたいなら、力だけじゃだめだよ。ちゃんと、頭も使わなきゃ」

​ ケン7歳。宗治9歳。これが二人の運命的な出会いだった。

​ ***

​ 時は流れ、高校時代。

 ケンは横浜中華街の老舗「景珍楼」でアルバイトをしていた。その体格と気性の荒さはすでに有名で、店だけでなく近隣のトラブルを解決する「中華街の非公認用心棒」として恐れられ、また頼られていた。

​ 一方、宗治。彼は柔道に没頭した日々を過ごし、この日は、地元の警察署が主催する「子供柔道教室」のキャンペーンを手伝っていた。

 彼らは別々の道を歩んでいるように見えたが、その魂の根底では、幼い日に結んだ絆で繋がっていた。

夜の空いた時間は赤レンガそばの港の公園で、YouTubeで色々な武術を検索しては見様見真似で組手をしたりして楽しんでいた。


​ ある夕暮れ、中華街のメインストリートに、不穏な爆音が響き渡る。

 2-3台の暴走族のバイクが我が物顔で乗り込んできた。彼らは遊び半分で店先の看板を蹴り、観光客を威嚇する。

​「ここは俺らの庭だ」

​ ケンが店の前に立ちはだかる。数人の暴走族下っ端クラスがケンに襲いかかるが、ケンは瞬く間に彼らを路上に沈める。

​「ちっ、口ほどにもねえ」

高校時代の宗治とケンは中学時代に散々暴れまわり、一躍有名になって以来、喧嘩には飽きていて冷めた目で彼らを見ていた。


​ だが、逃げ帰った彼らは「本当の恐怖」を連れて戻ってくることとなる。

​ 数時間後。重低音が地響きのように中華街を包む。

 逃げた連中が、近隣の支部も含めた総勢20人のメンバーと、彼らを束ねる「総長」を引き連れて戻ってきたのだ。

 20台のバイクと鉄パイプを持った男たちが、中華街の善隣門(メインゲート)の下を完全に埋め尽くす。

​「さっき威勢が良かったのはどいつだ!」

​ 総長の怒号が響く。

​「ケンちゃん、逃げな! 相手が多すぎる!」

​ 近所の店主たちがケンを止めに来る。さすがのケンも、20人という数、そして殺気だった集団を前に、単身での制圧は不可能だと悟る。

​「くそっ……俺一人じゃ、ただの袋叩きだ」

​ ケンは震える手で、スマホから唯一の頼れる男に連絡を入れた。

​「兄貴、助けてくれ。……今度はマジでヤバい」

​ ***

​ 宗治は柔道着姿のままではなく、私服姿で現場に駆けつけた。

 目の前には20人の暴徒。そして、囲まれているケン。

​「遅えよ兄貴!」

「うるさい。状況を見ろ。力任せに突っ込んでまたいつもの通りじゃんか」

​ 宗治は周囲を見渡す。中華街のきらびやかなネオン、色とりどりの提灯、そして路肩にある「消火栓」。

 宗治の脳内で、パズルが組み上がる。

​「ケン、これなら行ける」

「はあ? 20人だぞ?」

​ 宗治は笑みを浮かべた。

​「あの消火栓を使え。あたり一面に水をぶちまけろ」

「水? 火事でもねえのにか?」

「いいからやれ。ただしケン、お前だけは絶対に足を濡らすな。乾いた場所から一歩も出るなよ」

​ ケンは半信半疑ながらも、消火栓のバルブを回し、ホースを暴走族の集団に向けた。

​「うわっ! なんだテメェ!」

「水遊びかよ!」

​ 凄まじい水圧が路面を洗い、バイクのタイヤを濡らし、暴走族たちの足元を水浸しにする。彼らは水を浴びて怯むが、数に物を言わせてジリジリと距離を詰めてくる。

​「兄貴、水浸しにはなったけど、これじゃただのシャワーだぞ!」

​ 宗治は、近くの建物の配線ボックスのそばに立っていた。視線の先には、メインストリートの上を飾る、華やかな電飾のケーブル。

​「ケン、約束を守らせろ」

​ ケンは叫ぶ。「俺が勝ったら、二度とこの街に来ねえと誓え!」

 総長が笑う。「ハッ、20人相手に勝てるなら誓ってやるよ!」

​ その言葉が合図だった。

 宗治は懐からゴム手袋を取り出してはめると、隠し持っていたナイフを取り出した。そして、電飾を支えるロープと被覆を絶妙な角度で切断した。

​ バチバチッ!

​ 切れた電飾ケーブルが、まるで生きた蛇のように、水浸しになった路面へと落下する。

​ 一瞬の閃光。

​「ギャアアアアア!!」

​ 水たまりの最前線にいた十数人の男たちが、一斉に感電し、痙攣して倒れ込む。

 火花がガソリンの漏れたバイクに引火し、数台のバイクに引火し。

 後方のメンバーは、目の前で仲間がバタバタと倒れる異常事態にパニックを起こし、蜘蛛の子を散らすように逃げ出すやつもいた。

​ 中華街のメインストリートは、電気と火の付いたバイクと水のカオスに包まれた。それは喧嘩というレベルを超えた、一種の「火災」だった。

​「な……なんだこれ……」

​ 足を濡らさずに高台にいたケンも、その光景に唖然としていた。

​ ***

​ 立っているのは、運良く水のない場所にいた総長と、ケン、そして宗治だけ。

 部下たちが感電し、バイクが燃える様を見て、総長は腰を抜かしかけていた。

​「て、てめぇら……何をしたんだ……」

「さあな。運が悪かっただけだ」

​ 宗治は無表情で言い放つ。

 ケンは総長に歩み寄る。

​「さあ、総長さんよ。タイマンだ。文句ねえよな?」

​ ケンの一撃が総長の顔面を捉える。すでに戦意を喪失していた総長は、ケンになす術もなく締め上げられた。

​「二度と! このゲートを! くぐるんじゃねえぞ!」

​ 総長は涙目で頷き、這う這うの体で逃げ出した。

​ 暴走族は去った。しかし、残されたのは黒焦げになった道路と、倒れたバイク、そして異様な焦げ臭さ。

​「やったな、兄貴!」

​ ケンは興奮して振り返る。だが、宗治の表情は暗かった。

 周囲を見る。店主たちや観光客が、遠巻きに二人を見ていた。

 その目は「感謝」ではなかった。

​「あの子たち……何をしたの?」

「人間じゃない……最悪」

​ 警察のサイレンが近づいてくる。

 今まで守ってきたはずの人々から向けられる拒絶の視線。二人は悟った。

 自分たちの力は、ここでは「異物」でしかないのだと。

​ ***

​ 警察の手を逃れ、横浜の埠頭で海を見つめる二人。

 ケンがポツリと言う。

​「俺たち、やりすぎたのかな」

​ 宗治は海風に吹かれながら答える。

​「いや。俺たちは間違っていない。ただ、この国が狭すぎるんだ」

「狭い?」

「ああ。俺たちの戦術と、お前の武力。これを日本で使えば犯罪者か獣扱いだ。だが、世界にはこの力が必要とされる場所もある」

「それって……」

傭兵マーセナリーだ。そこなら、俺たちの力は『正義』にも『金』にもなるかもな。誰にも後ろ指をさされず、存分に暴れられる」

​ ケンはニヤリと笑った。

​「いいな、それ。俺たちの自由への扉は、海の向こうにあるってわけか」

「行こうぜ、ケン。俺たちの伝説を作る場所に」

​ 朝日が昇る。

 高校時代のあの日、中華街を雷撃で焼き払った二人の少年は、日本という庭を捨て、果てしない戦場へと旅立つ決意を固めたのだった。

​(第1話 完)

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