第3話 背中の体温
昇降口の薄暗がりを抜け、上履きではなく土足のまま、私は校舎の廊下へと足を踏み入れた。
校庭側から聞こえてくる歓声は、分厚いコンクリートの壁に阻まれ、海底に響く音波のように低く、不鮮明なものに変わっていた。誰もいない廊下は、しんと静まり返っている。北側の窓から差し込む光は青白く、床のPタイルに私の影を頼りなく引き伸ばしていた。コツ、コツ、と硬いローファーの音が、不自然なほど大きく反響する。その音は、私がこの学校の異物であることを主張しているようで、私は無意識に息を潜めた。
目的の場所なんて、本当はどこにもない。分かっている。頭では分かっているのに、私の足は階段へ向かわず、一階の廊下をあてもなく歩き始めていた。まるで迷子になった子供のように、あるいは残り香を嗅ぎつけた野良猫のように、視線だけが忙しなく左右を彷徨う。自動販売機の前のベンチ。中庭に面した渡り廊下の陰。体育館裏へと続く非常扉のあたり。私の目は、無意識のうちに「彼」の姿を探していた。黒鉄航平。もしかしたら、彼はまだそこにいるかもしれない。人混みを嫌う彼のことだ。卒業式の騒ぎを避けて、どこか人のいない場所で時間を潰しているかもしれない。そんな淡く、そしてあまりにも都合の良い期待が、私を突き動かしている。下駄箱を確認すれば、彼が帰ったかどうかはすぐに分かるはずだ。けれど、私はあえて彼の靴箱を見なかった。もしそこに上履きが残されていなかったら。その瞬間に、私の今日という日は終わってしまう。だから私は、彼がいるかもしれないという可能性にすがりつき、亡霊のように校舎を徘徊することを選んだ。
もちろん、どこにも彼の姿はない。ベンチは空っぽで、渡り廊下には埃が舞っているだけだ。すれ違うのは、見知らぬ後輩や、荷物を運ぶ教師だけ。それでも、角を曲がるたびに心臓が跳ねる。「もしや」という期待と、「いるはずがない」という諦めが、振り子のように私の心を削っていく。歩きながら、私の脳裏には、三年間見つめ続けた光景が、まるで目の前にあるかのように鮮烈に蘇っていた。
私の視界は、いつだってその切り立った「崖」によって分断されていた。
教室という四角い箱の中で、窓際から数えて三列目、一番後ろの席。それが私の定位置だった。私の目の前には、黒板でも教卓でもなく、黒鉄航平という巨大な質量が鎮座していた。彼の背中は、私にとって世界の果てであり、同時に世界そのものでもあった。身長百八十センチを超える彼の体躯は、公立高校の粗末な机と椅子には明らかに不釣り合いで、彼はいつも窮屈そうに体を丸めているか、あるいは投げやりに足を通路へ投げ出して座っていた。その岩のように角張った肩幅が、前方で繰り広げられている授業という名の退屈な儀式を、私から完全に隠していた。黒板の文字は見えない。先生が何を喋っているのかも、彼の肩越しにかすかに聞こえるノイズでしかない。けれど、私にはそれが心地よかった。彼という分厚い遮蔽物が、私をクラスの視線から、社会という名の煩わしさから、物理的に守ってくれているような錯覚に陥ることができたからだ。私は授業中、教科書を開くふりをして、飽きもせずに彼の背中を観察し続けた。それは、地図を持たない冒険家が、目の前にそびえる山の稜線を指でなぞるような、静かで熱心な探求の時間だった。彼がそこに存在しているという事実だけで、私の希薄な自意識は辛うじて形を保つことができた。
季節が巡るたびに、彼の背中は異なる表情を見せた。夏の盛り、彼が纏うのは学校指定の白い半袖ワイシャツだ。何度も洗濯を繰り返された生地は、襟元が少し擦り切れて薄くなっていて、その下にある皮膚の質感を生々しく透かしていた。彼がノートを取るために腕を動かすと、肩甲骨が翼のようにごとりと隆起し、シャツの背中にピンと張った緊張した皺を作る。その皺の形、角度、そして布地が擦れる微かな音。私はその一つ一つを網膜に焼き付けた。窓から差し込む強い日差しが彼の首筋を照らし、うっすらと汗の粒子が光るのが見える。汗がシャツに染み込み、白い布が肌色に変わっていく境界線を、私は息を止めて見つめた。風が吹くと、彼の背中からは複雑な匂いがした。スーパーで特売されている安っぽい粉洗剤の人工的な香りと、強い日差しに焼かれたアスファルトのような乾いた匂い。そして、その奥にある、若くて健康な雄の動物が発する、むせ返るような汗の匂い。それらが混じり合った空気の塊が、後ろの席の私へと流れてくる。私はその匂いを吸い込むたびに、肺の奥が痺れるような酩酊感を覚えた。それは決して香水のような芳しいものではない。けれど、私にとってはどんな花よりも鮮烈で、私の生存本能を揺さぶる「命」の匂いだった。冷房の効きが悪い蒸し暑い教室の中で、彼という熱源のそばにいることだけが、私が生きていると実感できる唯一の瞬間だった。
冬になり、衣替えの季節が過ぎると、彼の背中は紺色のニットに覆われた。指定のセーターは分厚く、彼の筋肉の動きを隠してしまう。けれど、私はその変化さえも愛した。ニットの表面には、彼が無造作に扱い続けたせいで無数の毛玉ができている。その毛羽立ちの一つ一つが、彼の生活の痕跡だった。どこかに引っ掛けたのか、少し糸がほつれている右肩の部分。頬杖をつく癖のせいで、薄くテカリ始めている袖口。私はそれらの「傷」を見つけるたびに、彼だけが知る時間を共有しているような、歪んだ親密さを感じていた。冬の朝、冷え切った教室の中で、彼の背中は巨大な蓄熱器のようだった。彼が座っているだけで、その周囲の空気がほんのりと温まる。私は冷たくなった指先を机の下でこっそりと伸ばし、彼には触れないギリギリの距離で、その輻射熱を感じ取ろうとした。あと五センチ。あと三センチ。手を伸ばせば、その紺色の背中に触れられる。その温もりに顔を埋められる。けれど、その数センチの間には、決して越えられない深淵が横たわっていた。触れてはいけない。もし触れてしまえば、この完璧な均衡は崩れ去る。私はただの「後ろの席の女子」から、不気味なストーカーへと転落するだろう。だから私は、彼が放つ体温を空気越しに受け取ることだけで満足しようと自分に言い聞かせた。まるで、焚き火に手をかざして暖を取る凍えた旅人のように。
前の席と後ろの席。それは学校というシステムが定めた、単なる位置関係に過ぎない。半年に一度の席替えがあれば、簡単に引き裂かれてしまう儚い縁だ。けれど、神様が気まぐれに与えてくれたこの配置は、私にとって奇跡であり、運命だった。彼が私の前にいる。彼は私が後ろにいることを知らない。あるいは、気にも留めていない。私がどれだけ熱っぽい視線で彼のうなじを舐めるように見つめていても、彼が振り返らなければ、私は存在しないのと同じだ。この一方通行の構造が、私を倒錯した安息へと導いた。見られる心配のない安全圏から、捕食者を観察し続ける愉悦。彼、黒鉄航平は、教室という戦場における、私だけの強固な「シェルター」だった。
だというのに、今、私の目の前にあるのは、冷たく長く伸びる廊下だけだ。あの温かい壁は、どこにもない。一階の突き当たりにある特別教室棟まで歩き、私はふと足を止めた。防火扉のガラスに映る自分の顔は、青白く、目が血走っていて、まるで何かに憑かれたようだった。
いない。
やっぱり、ここにもいない。
分かっていたはずだ。彼がこんな人気のない場所に一人でいるわけがないと。胸の奥で、黒い感情が渦を巻く。彼は今頃、太陽の下で笑っているのだろうか。それとも、相沢結奈の隣で、あの大きな背中を彼女に向けているのだろうか。私には決して見せなかった表情で、私には決して聞かせなかった声で、彼女と時間を共有しているのだろうか。嫉妬と絶望が、胃の腑からこみ上げてくる。会いたい。一目だけでいい。最後に、彼の姿をこの目に焼き付けたい。でも、もし見つけてしまったら? 彼が誰かと幸せそうにしている姿を見てしまったら? その矛盾に引き裂かれそうになりながら、私は踵を返した。一階にはいない。ならば、二階か。あるいは、私たちが過ごした三階の教室か。まだ探していない場所がある。その事実だけが、今の私を突き動かす燃料だった。私は卒業証書の筒を抱きしめ直し、重たい足取りで階段へと向かった。校舎の奥深く、光の届かない場所へ吸い込まれるように。
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