第2話 透明な3年間


 私の高校生活は、埃と古紙の匂いが染み付いた、琥珀色の時間の中に閉じ込められていた。


 放課後の図書室は、校舎の中で唯一、時間の流れが澱んでいる場所だった。西日が長く伸びて、整然と並んだスチール製の書架の影を床に焼き付けている。空気中を舞う微細な埃が、光の帯の中をゆっくりと旋回し、誰にも触れられることのない本の背表紙に降り積もっていく。私はその光景を、貸出カウンターの内側にある丸椅子に座って、飽きもせずに眺めていた。ここには、教室に充満しているような若者の汗の匂いも、過剰な制汗剤の甘ったるさもない。あるのは、インクと接着剤が緩やかに劣化していく、乾いた静寂だけだった。私はその静寂を肺いっぱいに吸い込み、自分がこの世界の主役ではなく、あくまで背景の一部であることを再確認する。それは、諦めというよりも、一種の安堵に近い感覚だった。


 図書委員の雨宮さん。それが私に与えられた役名であり、それ以上の意味は持たなかった。カウンターの向こう側を通り過ぎる生徒たちは、私を風景の一部として認識し、視線を滑らせていく。彼らの瞳に私の姿が映ることはあっても、記憶というフィルムに焼き付くことはない。私は透明なガラス細工のように、そこに存在しているけれど、誰の意識にも引っかからない。もし私が明日突然消えてしまったとしても、誰も気づかないだろう。せいぜい、図書カードに押されるスタンプの担当者名が変わるだけだ。その軽やかさが、私には心地よかった。誰かに観測されるということは、誰かに評価されるということであり、それは同時に傷つけられる可能性を孕んでいる。だから私は、自分から気配を消し、無色透明な存在になることを選んだのだ。


 教室での私は、さらにその透明度を高めていた。私の席は、教室の最も廊下側、一番後ろの席だった。教師の視線からも、クラスの中心で騒ぐカースト上位のグループからも遠い、吹き溜まりのような場所。私は休み時間になるたびに、読みかけの文庫本を開き、活字の壁を作ることで周囲との接触を遮断した。教室はいつも騒がしい。笑い声、机を引きずる音、誰かが誰かを呼ぶ声。それらはすべて、私とは関係のない世界の環境音(BGM)だった。ガラス一枚隔てた向こう側で、色鮮やかな青春映画が上映されている。私はそれを、観客席の最前列ではなく、映写室の小窓から覗き見ているような気分で過ごしていた。


 相沢結奈を中心とした女子たちの輪は、いつも光に満ちていた。彼女たちが笑うと、空気が華やぎ、教室の温度が一度上がるような気がした。男子生徒たちも、その光に吸い寄せられるように彼女たちの周りに集まる。その光景は眩しく、そして残酷だった。光が強ければ強いほど、私のいる場所の影は濃くなる。けれど、私はその影の中で膝を抱えているのが好きだった。光の中に飛び込んで火傷をするくらいなら、冷たい影の中で凍えている方がずっとマシだと思っていたからだ。


 そんな私の平穏な「透明な生活」に、亀裂が入ったのはいつのことだっただろうか。それは劇的な事件や、運命的な出会いといった類のものではなかった。ただ、私の視界の端に、どうしても無視できない「異物」が映り込み始めたのだ。


 黒鉄航平。私の席の、一つ前の座席。彼は、私が作り上げた「ガラスの壁」のすぐ向こう側にいた。


 彼は、他の男子生徒たちとは違っていた。クラスのムードメーカーたちが放つような、軽薄で明るい色彩を彼からは感じなかった。代わりに彼が纏っていたのは、圧倒的な「質量」と「重力」だった。岩のように角張った広い肩幅。少し猫背気味の姿勢。夏服のワイシャツ越しに透ける、硬そうな背中の筋肉。彼は授業中、退屈そうに頬杖をつき、長い脚を持て余して机の外に投げ出していた。その姿は、教室という狭い箱に無理やり押し込められた大型の野生動物を連想させた。


 私が本から顔を上げるたびに、そこには彼の大きな背中があった。近すぎる距離。手を伸ばせば、そのシャツの皺に触れられるほどの至近距離。彼は無口で、不愛想だった。極度の近眼のせいで目を細める癖があり、それが周囲には睨んでいるように誤解されて、遠巻きにされていた。けれど、後ろの席の私だけは知っていた。授業中にだけかける銀縁の眼鏡の奥にある瞳が、驚くほど澄んだ少年の色をしていることを。窓から入ってきた蜂を、教科書で叩き潰すのではなく、下敷きを使って器用に外へ逃がしていたことを。


 誰も見ていない彼の横顔。誰も知らない彼の優しさ。それを独占しているという密やかな優越感が、私の中で小さな熱を持って燻り始めた。


 透明人間である私は、誰にも気づかれることなく、彼を観察し続けた。彼がシャープペンの芯を折る音。彼が溜息をつくたびに、背中が大きく上下する動き。そして何より、彼が座っている椅子が軋む音。彼が体重を預けるたびに、パイプ椅子は「ギィ、ギィ」と悲鳴のような音を立てた。その音は、彼という人間が確かにそこに存在し、重みを伴って生きているという証拠のように聞こえた。私がどれだけ息を潜めても消せない私の存在の希薄さとは対照的に、彼は音と重みで世界に痕跡を刻みつけていた。


 その「重み」に、私は憧れ、そして焦がれた。私は空気のように軽くて、誰にも触れられない。でも彼は違う。彼は鉄のように重くて、確かな手触りがある。もし私が彼に触れたら、あるいは彼が私に触れたら、私の透明な輪郭にも色がつくのではないか。私が「ここにいる」ということが、証明されるのではないか。そんな妄想が、活字を追うふりをしている私の脳内で、ドロドロと溶け出し、肥大化していった。


 ある日の放課後、彼がふいに振り返ったことがあった。私は反射的に本に目を落とし、心臓が跳ね上がるのを必死に抑えた。彼は何も言わず、私の机の上に消しゴムを置いた。私が授業中に落としたものだ。


「……あ」


 私が小さな声を漏らす前に、彼はもう前を向いていた。それだけの出来事。礼を言う隙さえなかった。けれど、私の机に残されたプラスチックの消しゴムは、彼の指先の体温を微かに残しているようで、私はそれを直視することができなかった。震える指でそれを拾い上げ、握りしめる。冷たい私の掌に、彼の熱がじわりと伝染する。その瞬間、私を取り囲んでいたガラスの壁に、決定的なひび割れが入った。

 

 透明でいられなくなった。私は彼に見られたい。彼に認識されたい。彼の視界の中に、風景としてではなく、意味のある「個体」として映り込みたい。その欲求は、恋と呼ぶにはあまりに粘着質で、信仰と呼ぶにはあまりに肉体的だった。私は図書室のカウンターで、教室の隅で、彼の背中を見つめ続けた。彼のシャツの匂い、彼の喉仏の動き、彼が椅子を軋ませるリズム。そのすべてを収集し、記憶の標本箱にピンで留めていく。それは、誰にも邪魔されない、私だけの孤独で完璧なコレクションだった。


 三年間、私は言葉を交わす代わりに、視線で彼を撫で回していたのだ。その一方的な視姦が、罪深いことだとは知らずに。そして、その視線の先にいる彼が、私のことなど一度も見ていなかったという現実に、気づかないふりをして。


 埃が光の中を舞っている。図書室の時間は止まったままだが、私の内側の時計は、彼に出会ってから狂った速度で回転し続けていた。この「透明な三年間」こそが、私が彼に捧げた、誰にも知られない愛の歴史だった。


 卒業式の日、私はその歴史に幕を下ろすために、再びあの教室へと向かっていた。もはや透明ではいられない。私は血を流す生身の人間として、彼の痕跡と対峙しなければならないのだ。廊下を歩く足音が、記憶の中の静寂を打ち破るように、大きく、強く響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る